第32話 二人の戦争
進軍を開始してからおよそ二ヶ月が経過した。
我々は、東へ、さらに東へと進んでいた。
だが、景色は変わらなかった。
平らな大地が、どこまでも続いていた。起伏がない。丘もなければ、谷もない。ただ、地平線だけが、遠くにある。
空も、変わらなかった。灰色の雲が、低く垂れ込めている。雨は降らない。風だけが、吹いていた。
そして、村があった。
いや、村だった場所が。
焼け落ちた屋根。崩れた井戸。倒れた門。
全てが、同じだった。
どの村も、同じように焼かれ、同じように潰され、同じように捨てられていた。
地図上でヴャジマと記されていた場所に、私たちは到着した。
だが、そこにも何もなかった。
焦げた柱。倒れた鐘楼。灰と煤。
教会の石段に、白骨化した遺体があった。小さな子供だった。その上に、母と思しき者が覆い被さるように倒れていた。
壁際には十を超える遺体が並んでいた。ロープを首に巻いたままの者もいた。
私は、立ち尽くした。
言葉が、出なかった。
「ここもか」
誰かが呟いた。
私たちは、もう何も言わなかった。ただ、焼け跡を見ていた。
その時、馬の蹄の音が聞こえた。
振り返ると、カールが一人でいた。
黒いマント。泥に塗れた外套。
彼は馬を降り、焼けた地面を踏みしめた。躊躇いはなかった。
私たちは、一斉に膝をついた。
カールは、村の中心へ歩いた。遺体を見た。井戸を見た。教会を見た。
そして、立ち止まった。
沈黙が落ちた。
長い、長い沈黙。
「ピョートル」
カールが、呟いた。
「それがお前の答えか」
その声は、低かった。
私は、何のことを言っているのかはわからなかった。
ただ、彼は顔を上げた。
カールは、空を見ていた。灰色の空を。
彼は馬に跨り、その場から去っていく。
その夜、軍議が開かれた。
だが、カールの姿はなかった。
天幕には、親衛隊長と、将軍たちだけがいた。
「陛下の命により、伝える」
親衛隊長が羊皮紙を広げた。
「進軍を加速させる。歩みを止めれば、敗北と同義である」
レーネが、地図を見た。
「じゃが、補給が」
「後方からレーヴェンハウプトが追ってくる。それまでは、現有の物資で凌げ」
「現有の物資は、あと一ヶ月分しかありませんぞ」
「ならば、一ヶ月以内に決戦を強いる」
リューデルの声には、迷いがなかった。
レーネが、口を閉じた。
軍議が終わった。
私たちは、天幕を出た。
「一ヶ月」
アームフェルトが呟いた。
「一ヶ月で、敵を捕まえられるのか」
誰も、答えなかった。
私は、アームフェルトを見た。
彼も、私を見た。
だが、すぐに目を逸らした。
その横顔には、何かがあった。
迷い。それとも、諦め。
「グスタフ」
私が声をかけた。
だが、彼は答えなかった。ただ、歩き去った。
私は、その背中を見た。
遠ざかっていく。
かつて、酒を酌み交わした男の背中。
だが、今は遠かった。
手の届かない場所にいた。
翌日も、また村が焼かれていた。
その次の日も。
そのまた次の日も。
全ての村が、同じだった。
焼け跡。遺体。沈黙。
兵士たちは、もう驚かなかった。ただ、黙って進んだ。
景色は、変わらなかった。
平らな大地。灰色の空。地平線。
どこまで行っても、同じだった。
まるで、この世界には、ここしかないように。
まるで、私たちは、同じ場所を歩き続けているように。
その夜、私はレーネの天幕を訪ねた。
彼は、地図を広げていた。
「入ってもいいか」
私が訊くと、レーネは頷いた。
私は、中に入った。地図を見た。
「どこまで進んだ」
「もうすぐミンスクだ。もう、国境から三百キロじゃ」
レーネの指が、地図を辿った。
「じゃが、敵の姿は見えん。村は全て焼かれておる」
「ピョートルは、どこにいる」
「分からん」
レーネが首を横に振った。
「奴は、姿を見せん。ただ、焼け跡だけを残していく」
沈黙が落ちた。
「レーネ」
私が訊いた。
「ピョートルとは、何者だ」
レーネが、私を見た。
「何者、か」
彼が呟いた。
「わしにも分からんわ。じゃが」
レーネが地図を見た。
「奴は、我々が考える普通の王ではない」
「普通の王ではない?」
「そうじゃ。王とは、民を守るものじゃ。国を守るものじゃ。じゃが、奴は」
レーネの声が、低くなった。
「民を焼き、国を焼く。それが、勝利のためならば。そんな奴が真っ当な王なわけがなかろう」
「それは」
私が呟いた。
「狂気だ」
「いや」
レーネが首を横に振った。
「狂気ではない。これは、理性じゃ」
「理性?」
「そうじゃ。今地図を見ておるが、無造作な焼き尽くしではない。奴は、全てを計算しておる。どの村を焼けば、我々の補給が断たれるか。」
レーネの目が、細くなった。
「これは、冷たい、完璧な理性じゃ。感情も、迷いも、何もない。ただ、勝利のためだけに」
私は、何も言えなかった。
ピョートルという男が、見えた気がした。
いや、見えなかった。
そこにいるのは、人間ではなかった。
何か別の、もっと冷たい、もっと恐ろしいものだった。
「陛下はピョートルという人間を知っている」
私が言った。
レーネが、私を見た。
レーネが地図を畳んだ。
「昔語っていました。まるで因縁があるかのように」
「差し詰め、これは二人の因縁の決着のための戦争か」
アームフェルトがいう。
「そういう側面もあるじゃろうの。でもこれはもれなく、二人の覇王の争いじゃ」
レーネが呟いた。
「カール12世とピョートル1世。北方の覇権を懸けた、二人の王の」
その瞬間、何かが弾けた。
「それで」
私の声が、出た。
「それで、何なんですか」
レーネが、私を見た。
「レイフ?」
「二人の覇王の争い?」
私の拳が、握られた。
「だったら、焼かれた村の人たちは、何なんですか」
「レイフ」
「ロープを首に巻いて死んだ人たちは。母親に覆い被さられて死んだ子供は」
私の声が、震えた。
「あの人たちは、何のために死んだんですか」
「レイフ、落ち着け」
「落ち着けない!」
私は、叫んだ。
「二人の王の争いのために、民が焼かれる。村が潰される。意味なんてないのかよ」
「それが、覇権か」
私の目に、涙が滲んだ。
「私の母も、そうやって死んだ。王たちの争いの中で、ただ、巻き込まれて」
「何のために」
私の声が、掠れた。
「何のために、死ななければならなかったんですか」
沈黙が落ちた。
レーネは、何も言わなかった。
ただ、私を見ていた。
その目には、悲しみがあった。
「レイフ」
彼が、静かに言った。
「お前は今孤児のレイフでは無い。バルト帝国の中核の一人だ。」
その声は、老いていた。
「私情を出すな」
「そんなことは分かってる」
私は吐き捨てるように言った。そしてレーネが、頷いた。
「そうじゃな」
彼が私の肩に手を置いた。
「間違っておるのかも知れない。じゃが、我々は、それでも進まねばならん」
「なぜですか」
「それが、我々の役目じゃからな」
レーネが空を見上げた。
「王に従い、国を守り、戦い抜く。それが、我々に課された道じゃ」
「たとえ、間違っていても?」
「ああ」
レーネが頷いた。
「たとえ、間違っていても」
私は、何も言えなかった。
ただ、拳を握りしめていた。
レーネが、歩き出した。
「休め。明日も、進軍じゃ」
その背中が、遠ざかっていく。
私は、天幕を出た。
外は、静かだった。
風が、吹いていた。冷たい風。
私は、空を見上げた。
灰色の雲が、低く垂れ込めている。
その向こうに、何があるのか。
誰も、知らなかった。
行く先々を飾る緑の木々が、茶色く変わっていた。
秋が迫っている。
冬までに残された時間は、多くない。
だが、敵の姿は、見えなかった。
ただ、焼け跡だけが、続いていた。
どこまでも。
どこまでも。
平らな大地の上を、我々は進んでいた。
景色は変わらず、空は灰色で、地平線だけが遠くにあった。
まるで、この世界には、出口がないように。
まるで、私たちは、罠の中を歩いているように。
そして、その予感は、正しかった。




