第31話 違えた道
進軍を開始してから二ヶ月が経過したある日、我々はミンスクに到着した。
兵士たちの間に、どよめきが広がった。
国境から三百キロ、長い行軍の末に、ようやく辿り着いた。
我々が目指していたロシアの大都市だった。
当初の作戦では、ここで敵主力を捕捉し、決戦を挑むはずだった。
だが、実態は違った。
「ミンスクだ!」
「ついに着いたぞ!」
兵士たちの声が上がった。疲れた顔に、久しぶりに笑みが浮かんでいた。隊列の後方からも歓声が響き、何人かは剣を掲げて喜びを表していた。
「ここで敵を叩く!」
「決戦だ!」
「やっと戦える!」
士気は高かった。彼らは信じていた。敵は逃げ続けている、我々が勝っているのだと。これまで見てきた焼かれた村も、潰された井戸も、全ては敵の恐怖の証だと。ロシア軍は戦うことを恐れ、ただ逃げ回っているだけなのだと。
私は、その声を聞きながら馬を進めた。だが、胸の奥には重いものがあった。
街の輪郭が見えてきた。
城壁があった。いや、城壁があった場所が。
石は崩され、門は焼け落ち、防壁として機能していたはずの構造物が、ただの瓦礫の山と化していた。
「あれが、ミンスクか」
ヘニングが呟いた。その声には、困惑があった。
我々は、門をくぐった。いや、門があった場所を通り抜けた。
そこに広がっていたのは、廃墟だった。
建物という建物が崩されていた。教会の尖塔だけが、奇跡的に残っていたが、その壁には無数の亀裂が走り、いつ崩れてもおかしくない状態だった。鐘は落ち、十字架は折れ、ステンドグラスの破片が石畳に散乱していた。
街の中心にあったはずの市場は、完全に消失していた。石畳は剥がされ、その下の土までもが掘り返されていた。何かを埋めていたのか、それとも何かを掘り出したのか。ただ、そこには巨大な穴だけがあった。
穀倉は骨組みだけを残して焼け落ち、屋根の梁が地面に突き刺さっていた。倉庫の扉は引き剥がされ、中には何もなかった。穀物の一粒も、種の一つも残されていなかった。
井戸という井戸が埋められていた。石を投げ込んでも、水音は聞こえなかった。ただ、鈍い音が響くだけだった。
街路には、荷車の残骸が転がっていた。車輪は外され、荷台は壊され、使える部品は全て持ち去られていた。
私たちは、街の中を歩いた。足音だけが、空虚に響いた。
風が吹くたびに、崩れかけた壁が軋んだ。どこかで瓦礫が崩れる音がした。鳥の鳴き声もない。犬の吠え声もない。
人の気配がない。遺体もない。血の跡すらない。まるで、この街に人が住んでいたことさえ、幻だったかのように。
「なんだよ、これ」
ヘニングが呟いた。
「街が、丸ごと消えてる」
エーリクが、崩れた壁に手を触れた。指先に、煤がついた。
「焼いただけじゃない。壊して、潰して、全部持っていった」
若い兵士が、市場の跡を見つめていた。
「人は、どこに」
「分からねえ」
ヘニングが首を横に振った。
「逃げたのか、連れて行かれたのか」
兵士たちの顔から、笑みが消えた。彼らは、ようやく理解し始めていた。これが何を意味するのかを。
だが、まだ希望を捨ててはいなかった。
「敵は逃げたんだ」
若い兵士が言った。
「だから、こんなことを」
「そうだ。怖くて戦えないから、街を捨てたんだ」
「俺たちが強すぎるから」
「臆病者どもめ」
その言葉に、何人かが頷いた。彼らは、そう信じたかった。そう信じなければ、この光景を説明できなかった。
だが、将校たちの顔は、違った。
レーネは、街の中心に立ち、地図を広げていた。その顔は、青ざめていた。何度も地図と街を見比べ、そのたびに眉をひそめていた。
アームフェルトは、崩れた穀倉を見つめていた。拳を、握りしめていた。その目には、何かがあった。恐怖。それとも、絶望。
私は、レーネの隣に立った。
「これは....最悪じゃな」
私が訊くと、レーネは地図を指差した。
「ミンスクは、我々の作戦の要じゃった」
彼の声は、低かった。
「ここで決戦を挑み、ここで補給を整え、ここを拠点として冬を越す。それが、当初の計画じゃった」
彼の指が、地図上のミンスクを叩いた。
「ここには、大規模な穀倉があったはずじゃ。三万の軍が二ヶ月は越冬できる量の」
「だが」
レーネの指が、焼け落ちた穀倉を指した。
「その全てが、崩れた」
沈黙が落ちた。
「食糧は?」
私が訊いた。
「現地徴発は、不可能じゃ。見ての通り、何もない」
「現有の物資は?」
「あと三週間分じゃ。じゃが」
レーネが私を見た。
「それは、ここで冬営することを前提とした計算じゃ。もし、さらに東へ進むなら」
彼が口を閉じた。
「もし、さらに東へ?」
「二週間じゃ。いや、十日かもしれん」
その言葉が、落ちた。
私は、何も言えなかった。
「レーヴェンハウプトの補給隊は?」
レーネが地図を見た。
「当初の計算では、レーヴェンハウプトの補給は、我々の食糧の三割を賄う予定じゃった。残りは、現地徴発で」
「だが、今は?」
「ほぼ全てじゃ」
レーネの声が、震えた。
「我々の生存の全てが、レーヴェンハウプト一人にかかっておる」
私は、背筋が凍るのを感じた。
アームフェルトが、近づいてきた。
「レーネ」
「何じゃグスタフ」
「兵たちが、訊いてきてる。いつ戦うのか、と」
レーネが、苦笑した。
「戦う相手が、おらんのじゃがな」
「どう答えれば」
「敵を追う、とでも言っておけ。若い野郎達は血の気が多くていかん」
アームフェルトが、頷いた。だが、その顔には納得がなかった。
「グスタフ」
私が声をかけた。
彼が、私を見た。だが、すぐに目を逸らした。
「後で」
それだけ言って、彼は歩き去った。
私は、その背中を見た。何かが、壊れかけている。そんな予感がした。
その夜、将校たちが集められた。
天幕の中で、地図が広げられている。
だが、カールの姿はなかった。
親衛隊長が、立っていた。
「陛下の命により、伝える」
彼が羊皮紙を広げた。
「明朝、東へ進軍する。目標は、スモレンスク」
その言葉に、将校たちがざわめいた。
「スモレンスク?」
「ミンスクから、さらに二百キロじゃぞ」
「補給は?」
「レーヴェンハウプトが、追ってくる」
親衛隊長の声は、冷たかった。
「それを信じるのみ。それが、陛下の命だ。」
沈黙が落ちた。
誰も、何も言わなかった。
ただ、地図を見ていた。
ミンスクから、スモレンスクまで。その間に、何があるのか。
誰も、知らなかった。
だが、おそらく、同じものがあるのだろう。
焼け跡。潰された井戸。消された村。
そして、沈黙。
そんな中でリューデルが、地図を畳み終えた。
「失礼する」
彼が天幕を出ていく。だが、私は彼を追いかけた。
「待ってください」
私の声が、彼を止めた。そしてリューデルが、振り返った。
「何だ」
私は、彼を見た。彼と顔を合わせて二人で会話するのは初めてだった。
だが、聞かずにはいられなかった。
「あなたは——」
声が、震えた。
「疑問に、思わないのですか」
リューデルの目が、わずかに動いた。
「疑問?」
「ミンスクは、廃墟でした」
私は続けた。
「食糧も、水も、何もない。にもかかわらず、さらに東へ進む。昔の陛下なら、誰よりも早く罠だと気づ木、引き返していたと思います。」
私の声が、大きくなった。
「それはお前の希望的観測に過ぎない。陛下の考えていることは、陛下にしか分からん」
リューデルが即答した。
「もし、レーヴェンハウプトが間に合わなければ?」
私の問いに——
リューデルは、動じなかった。
「間に合う」
その声に、迷いはなかった。
「なぜ、そう言い切れる」
その言葉に——
私は、何も言えなかった。
リューデルが、一歩近づいた。
「レイフ将軍」
その声が、低くなった。
「愚問だ」
「陛下が、そう判断された」
リューデルの目が、私を見た。
「ならば、正しい」
その目が——冷たかった。
「それは盲信では無いのですか。
主人が間違った道へ歩もうとするならば、止めるのこそが忠臣なのでは?」
その言葉に彼は少し黙った。
そして舌打ちをしながら言葉をこぼす。
「お前もアームフェルトも、同じようなことを....」
リューデルの目が、わずかに見開かれた。
(アームフェルト....?)
私は疑問に思う。
だが、リューデルは言葉を発さない。
長い、重い沈黙。
やがて、リューデルが口を開いた。
「親衛隊は、刃だ」
彼が自分の剣に手を置いた。
「感情も、疑問も、迷いも——全て捨てる」
「王の意志だけが、我らの正義だ」
その声が、夜に響いた。
「だが、お前は違う」
リューデルが一歩、近づいた。
そして彼は、空を見上げていた。
「レイフ将軍、お前は俺のことなど知らないだろう。だが俺はお前を知っている」
その声は——低かった。
「俺も、孤児の生まれだ」
風が、吹いた。
その言葉に——息を飲んだ。
孤児。
私と、同じ。
この国で、私以外に孤児出身の者がいたとは。
そして、これほどまでの位に上り詰めるとは。
「お前を——」
その声が、低かった。
「ずっと、見てきた」
その目に——何かがあった。
「前線で生き残り、剣を振るい続け、陛下の側近になったお前を」
彼の拳が、握られた。
「だが——」
その声が、震えた。
「お前は、剣になり切れなかった」
リューデルが私を見た。
「陛下は、お前を気にかけておられた」
「だが、お前は——その期待に、応えなかった」
その言葉に——
私は、何も言えなかった。
(この男は——)
胸の奥で、何かが叫んでいた。
(私だ)
何かが違っただけの。
どこかで道を違えた。
もう一人の、私。
「だから——」
リューデルが私を見た。
その目に——
嫉妬があった。
それとも——
羨望があった。
「陛下は、俺を選んだ」
その声が、震えた。
「新たな剣として」
「それが——」
彼の拳が、握られた。
「俺の、全てだ」
沈黙が落ちた。
私は——彼を見ていた。
その目を。
その震える拳を。
そして——
その孤独を。
だが——
私は、その道を歩みたくなかった。
「リューデル」
私は口を開いた。
「あなたは——」
声が、震えた。
「あなたは、陛下の何を知っているのですか」
その問いに——
リューデルの目が、動いた。
「何を?」
「陛下の抱えてきた苦しみを」
私は彼を見た。
「その孤独を」
「その恐れを」
私の声が、大きくなった。
「どれだけ、知っているのですか」
リューデルは——
黙っていた。
やがて——
「知らん」
その声は、低かった。
「そんなものは、知らん」
彼が私を見た。
「お前と違い——」
その声が、震えた。
「陛下は、俺に親しくなどされない」
「ただ、命令を下すだけだ」
「だが——」
リューデルの目が、輝いた。
「それでいい」
その声に——
何かがあった。
狂信。
それとも——
諦念。
「あんな王を、俺は見たことがない」
リューデルが空を見上げた。
「完璧で、冷徹で、誰よりも強い」
「そんな方のためなら——」
その声が、震えた。
「俺は、この命を捨てられる」
「それが——」
彼が私を見た。
「俺の見出した、命の使い方だ」
その声に——
何かがあった。
私はそれを、ただの盲信と呼びたくなかった。
「あなたとは——」
私の声が、震えた。
「相入れない」
頭に浮かぶよりも先に、その言葉が出てきた。
「自惚れるな」
その声に——何かがあった。
「そんなつもりは、元々ない」
彼が背を向けた。
「お前は、お前の道を歩け」
「俺は——」
その声が、遠ざかっていく。
「俺の道を、歩く」
足音が、消えた。
私は一人、残された。
廃墟の中で。
月の光の下で。
風が、吹いていた。
冷たい、夜の風が。
(彼は、私だ)
その言葉が——
まだ、胸に残っていた。
だが——
私は、その道を歩まない。
歩めない。
そして夜が来た。
だが、軍議もなく、やることもないため、気分転換としてミンスクの市内を歩き回ることにした。外では兵士たちが焚き火を囲んでいた。
「明日、どこへ行くんだ?」
「さあな。でも、敵を追うんだろう」
「そうだ。奴ら、逃げてばかりだからな」
「臆病者どもめ」
兵士たちは、笑っていた。
ただ、無邪気に。
何も知らずに。
風が、吹いていた。
冷たい風。
木々の葉が、茶色く変わっていた。
秋が迫っている。
冬までに残された時間は、多くない。
だが、敵の姿は、見えなかった。
ただ、焼け跡だけが、続いていた。
平らな大地の上を、我々は進んでいた。
景色は変わらず、空は灰色で、地平線だけが遠くにあった。
まるで、この世界には、出口がないように。
そして、その予感は、正しかった。




