幕間 もう一人の王
1708年8月
ネヴァ川の河畔は、冷たい風が吹いていた。
ピョートル一世は、地図の前に立っていた。周囲には将軍たちが集まり、誰もが沈黙していた。彼らはリヴォニアの包囲から呼び戻されたばかりで、まだ疲労が顔に残っている。
「カールがロシアへ侵攻を開始した」
ピョートルは地図を指で辿った。
「奴は多分正面対決で俺たちを打ち破るつもりだ。」
「ツァーリ、一体どうするつもりですか」
副官が尋ねた。
「簡単だ。いくら精強になったとはいえ敵と真正面から戦えばお前らはただじゃ済まない」
彼は地図を見下ろした。
「だから俺たちが、奴の進む道を焼き払う」
沈黙が落ちた。
「……焼き払う、とは?」
年老いた将軍が尋ねた。
「村を焼く。井戸を砕く。畑に塩を撒く。カールが通る道のすべてを、焦土に変える」
「ツァーリ!それは——我々の民を犠牲にするということでは」
別の将軍が声を上げた。
「そうだ。ただ、村を焼け。民が抵抗するなら殺すのも仕方ない」
彼は将軍たちを見渡した。
「これは命令だ。」
将軍たちは顔を見合わせた。だが、誰も反論しなかった。
「明日から実行する。国境付近の村々から始めろ。一つ残らず、焼き払え」
ピョートルは地図を指差した。
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イヴァンの村ヴャジマは、いつもと変わらない朝を迎えていた。
畑では農民たちが冬の準備をしていた。種を蒔き、柵を修理し、薪を積む。子供たちが走り回り、老人たちが井戸端で話している。
イヴァンは、自分の畑を見渡した。今年は豊作だった。春には、もっと良い収穫があるだろう。
「父ちゃん、これでいいべか?」
息子のミハイルが、束ねた麦を持ってきた。
「ああ、上出来だべ」
イヴァンは息子の頭を撫でた。
「お前も立派になったもんだ」
「そりゃそうだべ。父ちゃんが教えてくれたんだから」
ミハイルは笑った。
イヴァンは手を止めて、遠くの地平線を見つめた。
あの時のことを、時々思い出す。
ネヴァ川の河畔。新しい都市を作るために、何百人もの農民が動員された。重い石を運び、杭を打ち、土を掘る。過酷な労働だった。
だが——
ピョートルが、共に働いていた。
皇帝自らが、農民たちと同じように汗を流していた。石を運び、土を掘り、時には冗談を言って笑わせてくれた。
「お前たち、これが俺たちの国だ。俺たちの手で、作るんだ」
ピョートルは言った。
イヴァンは、その言葉に感動した。
皇帝が、自分たちと同じ高さにいる。
それは、初めての経験だった。
あの時から、イヴァンはピョートルを慕っていた。
「父ちゃん!」
妻のカーチャの声が聞こえた。振り返ると、彼女が走ってきていた。
「軍隊が来るべ! 村の入り口に!」
「軍隊? 何の用だべ?」
イヴァンは眉をひそめた。
「分かんねえ! だが、たくさんいるべ!」
イヴァンは鍬を置いて、村の入り口へ向かった。他の村人たちも集まってきている。
そして——
彼は息を呑んだ。
ロシア軍の兵士たちが、村を囲んでいた。何百人もいる。武装し、馬に乗り、隊列を組んでいる。
「何の用だべ」
村長が前に出た。
「俺たちは何もしてねえぞ」
兵士たちは、何も答えなかった。ただ、黙って村人たちを見つめている。
「食べ物か? もしそうなら、分け与えるぞ。俺たちはツァーリに仕える民だべ」
村人たちが頷いた。誰かが家からパンを持ってきた。別の者が水を汲んできた。
「さあ、どうぞ」
村長がパンを差し出した。
だが——
兵士の一人が、それを払い落とした。
パンが地面に落ち、泥にまみれる。
「……何を」
村長が呆然とした。
その時、兵士たちが動き出した。
村へ、突入していく。
「待て! 何をするんだべ!」
村長が叫んだ。だが、兵士たちは止まらなかった。家々へ押し入り、家具を外へ放り出し、松明を投げ込む。
炎が上がった。
一軒、また一軒。
村が、燃え始めた。
「止めろ! 止めてくれ!」
村人たちが叫んだ。だが、兵士たちは容赦なかった。井戸に石を投げ込み、畑に塩を撒き、家畜を追い立てる。
イヴァンは、自分の家が燃えるのを見た。
カーチャが泣き叫び、ミハイルが母親にしがみついている。
「畜生!」
イヴァンは兵士に飛びかかった。だが、兵士は彼を突き飛ばした。イヴァンは地面に倒れ、顔を泥にまみれさせた。口の中に土の味が広がる。
「なぜだ! なぜこんなことするんだべ!」
イヴァンは叫んだ。
その時——
「よう! イヴァンじゃないか!」
声が響いた。
兵士たちが、道を開けた。
そして——
ピョートルが、現れた。
満面の笑みを浮かべて。
両手を広げて。
イヴァンは、息を呑んだ。
「ツァーリ様……」
「久しぶりだな! 元気にしてたか?」
ピョートルは近づいてきた。イヴァンは立ち上がった。ピョートルが彼を抱擁する。力強く、背中を叩く。
だが——
その手は、冷たかった。
まるで、氷を押し当てられているような。
イヴァンの背中に、汗が浮かんだ。
「ツァーリ、兵士たちを止めてくれ!」
イヴァンは叫んだ。
「なぜ、こんなことを!」
「ああ、それな」
ピョートルは笑顔のまま、イヴァンから離れた。
「スウェーデン軍が侵攻してきた。
それで、奴らに食料を渡さないために、村を焼いてるんだ」
まるで天気の話でもするかのように、淡々と彼は述べる。
「そんな——」
「ごめんな」
ピョートルは肩を竦めた。その笑顔は、まだ消えていない。
「俺だって辛いんだぜ。お前たちとは一緒に働いたし、良い思い出もある」
彼は燃える家を指差した。
「だが、仕方ねえんだ。帝国のためだ」
イヴァンは、ピョートルの目を見た。
笑っている。
口が、笑っている。
だが——
目が、笑っていない。
「……ツァーリ」
イヴァンの声が震えた。
「俺たち、一緒に汗流しただべ。あんたは俺たちに、国を作るって言っただべ」
「ああ、言った言った」
ピョートルは頷いた。
「だから今、作ってるんだ。俺の帝国を」
「こんなやり方で?」
イヴァンは叫んだ。
「俺たちの村を焼いて、帝国だと?」
ピョートルは、何も言わなかった。
ただ、笑顔のまま、イヴァンを見つめている。
そして——
その笑顔が、消えた。
まるで、灯りを消したように。
一瞬で、顔から表情が消えた。
イヴァンは、息を呑んだ。
そこに立っているのは——
人間だろうか。
「あんた」
イヴァンの声が掠れた。
「あんた、何も感じてねえべ」
ピョートルは、何も言わなかった。
ただ、イヴァンを見つめている。
その目には、何もなかった。
怒りも、悲しみも、迷いも。
何も。
「あんた、狂ってる」
イヴァンは言った。
しばらく、沈黙が続いた。
燃える家の音だけが、聞こえていた。
やがて——
「狂ってなきゃ」
ピョートルは言った。
「帝国なんて、誰も作れねぇよ」
イヴァンは、ピョートルに向かって走り出した。
両手を伸ばして。
喉を掴もうと。
だが——
銃声が響いた。
イヴァンの胸に、赤い花が咲いた。
彼の体が、倒れた。
地面に、血が広がり、土に、赤が染み込んでいく。
「父ちゃん!」
ミハイルの叫び声が聞こえた。
だが、イヴァンはもう、何も聞こえなかった。
ただ、空が見えた。
灰色の空が。
そして——
その空が、暗くなっていった。
ピョートルは、イヴァンの遺体を見下ろした。
しばらく、立ち尽くしていた。
やがて——
「次の村へ行くぞ」
彼は踵を返した。
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村は、燃え続けていた。
ピョートルは馬に乗り、燃える家々を背にして進んでいく。
兵士たちが、その後に続く。
誰も、振り返らなかった。
ただ、前へ。
次の村へ。
そして、その次の村へ。
ピョートルは、地平線を見つめた。
馬が、ゆっくりと進んでいく。
その後ろで、村が崩れ落ちる音が聞こえた。
木材が折れる音。
石壁が砕ける音。
人々の泣き声。
だが、ピョートルは振り返らなかった。
ただ、前を向いた。
冷たい風が、顔を撫でた。
地平線の向こうに、次の村の煙が見える。
馬の足が、土を駆ける音だけが響いていた。




