第30話 灰の大地
雪解けの泥に、馬の蹄が沈んだ。
我々は、ロシアの地を進んでいた。
ベレジナ川を渡ってから、数日が経っていた。全てが順調だった。
我々が道を切り開き、1ヶ月後にレーヴェンハウプト率いる別動隊が、北からの街道を迂回し、兵糧を運ぶ。
行軍は驚くほどに順調だった。
だが、あまりにも静かだった。
敵の姿がない。斥候はどこにもロシア兵を見つけられず、道は空白のように広がっていた。
国境を越えて三日目、使者が到着した。
黒い馬に乗った男。疲労で顔色が悪く、外套は泥に塗れていた。だが、その目は鋭かった。
ステンボックだった。
彼はリヴォニアの防衛を任されていたはずだった。
(なぜ、ここに?)
「ステンボック」
私が声をかけると、彼は馬を降りた。
「レイフ殿。陛下は」
「先頭におられる」
「案内を」
私たちは、カールの天幕へ向かった。だが、カールはそこにいなかった。代わりに、リューデルが立っていた。
「陛下は不在だ」
リューデルが冷たく言った。
「では、伝言を」
ステンボックが一歩前に出た。
「ロシア軍が、リヴォニアの包囲を解きました」
その言葉に、私は息を飲んだ。
「包囲を?」
「はい。我々が国境を越えた瞬間、彼らは撤退しました。驚くほどの速さで」
ステンボックの声には、困惑があった。
「リヴォニアは、もはや安全です。ですが」
彼が言葉を切った。
「これは、罠かもしれません」
「罠?」
「彼らは、我々を誘い込もうとしている。深く、深く。そして」
ステンボックの目が、私を見た。
「何があるかは分かりません。ですが危険です」
リューデルが鼻を鳴らした。
「臆病な推測だな」
「いえ、これは」
「陛下は、進軍を続けられる。それが全てだ」
リューデルが背を向けた。
「では伝言を陛下にお伝えください」
「ああ、罠があろうが陛下の御意志は変わらないと思うがな」
ステンボックは何も言わなかった。ただ、深く息を吐いた。
私たちは、天幕を出た。
「陛下に直接会えないのですか」
私が訊くと、ステンボックは首を横に振った。
「陛下は、もう誰にも会われません。命令は全て、親衛隊長を通じて下される」
その声には、諦めがあった。
「ステンボック」
「はい」
「お前は、何を恐れている」
その問いに、ステンボックは立ち止まった。
「分からないのです」
彼が呟いた。
「ロシア軍が、なぜ撤退したのか。なぜ、戦わないのか」
「逃げているだけでは」
「いいえ」
ステンボックが私を見た。
「彼らは、計画している。何かを。だが、それが何なのか」
彼の声が、途切れた。
「私には、見えません」
沈黙が落ちた。風が、外套を揺らした。
「それはそうと、レイフ殿」
ステンボックが、私の顔を見た。
「見ない間に、目が変わりましたね」
私は静かに笑った。
「色々あってな。前は心配をかけた」
「心配はしていません。ただの観察です」
「そうかよ」
私は笑い、そして言う。
「お前は、これからどうする」
私が訊くと、ステンボックは馬に跨った。
「リヴォニアへ戻ります。攻勢は私の任務ではないので」
彼が手綱を握った。
「くれぐれも、気をつけてください」
それだけを言い残し、彼は馬を進めた。背中が、遠ざかっていく。
私は、その姿を見送った。
その夜、斥候が一人のロシア兵を連れてきた。
国境付近で撃ち倒された男だった。まだ生きていたが、腹に深い傷を負っていた。
「尋問を」
リューデルが命じた。
だが、男はすでに意識が朦朧としていた。ロシア語で何かを呟いている。
「誰か、通訳を」
私が呼びかけると、レーネが前に出た。
「わしが少し分かる」
レーネがロシア兵の前に膝をついた。耳を傾ける。男の唇が、動いた。
「何と言っている」
私が訊くと、レーネは眉をひそめた。
「よう聞き取れん。じゃが」
彼が男に水を与えた。男は数口飲み、再び囁いた。
レーネの顔が、強張った。
「何だ」
「もう昔のロシアではない、と」
その言葉が、天幕に落ちた。
「どういう意味だ」
リューデルが問うた。
「分からん。じゃが」
レーネが男を見た。
「ツァーリが変えた、と。全てを変えた、と」
男の声が、途切れた。そして、動かなくなった。
沈黙が落ちた。
「戯言だ」
リューデルが吐き捨てた。
「死にかけの男の妄言に過ぎん」
だが、レーネの顔は、晴れなかった。
翌日、我々は再び進軍した。
だが、その日から、何かが変わった。
兵士たちの間に、不安が広がり始めた。ロシア軍が見えない。そして、もう昔のロシアではないという言葉。
「なあ、ロシアって、何が変わったんだ?」
ヘニングが私に訊いた。
「分からない」
私は答えた。
「だが、何かが」
その時だった。
前方から、斥候が駆け戻ってきた。
「報告! 村が」
彼の声が、震えていた。
「村が、燃えています!」
村の入り口に差しかかった時、風が変わった。
焦げた匂いだった。
木が、藁が、何かが燃えた後の重い、黒い匂い。
「煙だ....」
誰かが呟いた。
だが、煙は見えなかった。ただ、空気だけが、焦げていた。
私たちは馬を進めた。
そして、見た。
村が、あった。
いや、村だったものが。
屋根は落ち、壁は崩れ、門は倒れていた。全てが、黒かった。炭のように。灰のように。
だが、炎はなかった。
燃え尽きていた。
完全に。
「なんだ、これ」
ヘニングが呟いた。
誰も、答えなかった。
私たちは、馬を降りた。村の中へ、足を踏み入れた。
地面が、まだ温かかった。灰が、靴の下で沈んだ。
最初に気づいたのは、静けさだった。
鳥の声がない。虫の音もない。風だけが、焼け跡を撫でていた。
「人は」
エーリクが訊いた。
「どこにもいない」
斥候の一人が答えた。
「遺体も、ない」
その言葉が、落ちた。
私たちは、村の中心へ進んだ。
井戸があった。
石が組まれ、深く掘られた井戸。だが、その中は、埋まっていた。土と、石と、焼けた木で。
「井戸を、埋めた?」
アームフェルトが呟いた。
「なぜ」
誰も、答えなかった。
穀倉があった。
いや、穀倉の跡があった。壁は崩れ、中は空っぽだった。穀物の匂いも、何もない。ただ、灰だけがあった。
「倉も、空だ」
兵士の一人が言った。
「何もない。穀物も、種も、何も」
畑があった。
だが、そこには、何も育っていなかった。土が、掘り返されていた。深く、深く。そして、何かが撒かれていた。
「これ、塩か?」
若い兵士が、土を掬った。白い粒が、指の間からこぼれ落ちた。
「畑に、塩を?」
その意味を、誰も理解できなかった。
私たちは、立ち尽くした。
村の中心で。
焼け跡の中で。
何も、言えなかった。
「おい」
ヘニングの声が、震えていた。
「これ、戦闘の跡じゃねえぞ」
私は、頷いた。
血がない。武器もない。戦った形跡が、何もない。
「じゃあ、何だ」
エーリクが訊いた。
「これは」
その時、小屋の隅で、何かが動いた。
私たちは、剣を抜いた。
だが、それは、人だった。
年老いた農婦だった。
肌は煤に塗れ、髪は焼け、服はぼろぼろだった。だが、まだ生きていた。
私は、駆け寄った。
「大丈夫か」
老婆は、私を見た。その目には、何もなかった。絶望も、恐怖も、何も。ただ、空っぽだった。
「なぜ、村を」
私が訊くと、老婆の唇が、動いた。
「ツァーリが、言った」
その声は、掠れていた。
「焼けと.... 燃やせと。誰にも、渡すなと」
老婆の手が、私の腕を掴んだ。
「わしらが、何を」
「何をしたというのじゃ」
その手が、力を失った。
老婆は、そのまま、動かなくなった。
私は、その手を離せなかった。
沈黙が、落ちた。
長い、長い沈黙。
そして、
「焦土じゃ」
レーネの声が、聞こえた。
私は、振り返った。
レーネが、立っていた。村の入り口に。顔は青ざめ、拳は握られていた。
「焦土?」
アームフェルトが訊いた。
「そうじゃ」
レーネが、村を見渡した。
「敵に一片の米すら渡さぬために、全てを焼き払う戦術じゃ。畑も、家も、水も」
彼の声が、震えた。
「村も、人も、全てを」
「そんな」
エーリクが呟いた。
「自分の国を、自分で?」
「そうじゃ」
レーネが頷いた。
「太古の昔からある。じゃが」
彼の目が、細くなった。
「これほど徹底的に、これほど冷酷に行える者は」
彼の声が、途切れた。
「ピョートルか」
アームフェルトが、その名を吐いた。
レーネが、頷いた。
「奴は本気じゃ。我々を、この大地そのものと戦わせる気じゃ」
私は、何も言えなかった。
自分の民を、焼く。
その言葉が、頭の中で繰り返された。
自分の民を。
私は、これまで他国の民を殺してきた。村を巻き込み、父親を連行し、若者を射殺した。それが正しいのかと問い続け、罪悪感に苛まれてきた。
だが、それでも、それは敵国の民だった。スウェーデンを守るため、平和のため、そう信じて剣を振るってきた。
だが、これは。
自分の国の民を、自分の手で。
井戸を埋め、穀倉を焼き、畑に塩を撒く。
自分の民に、死ねと命じる。
そんなことが、できるのか。
ピョートルという男は、何者なのか。
私は、老婆の遺体を見た。空っぽな目を。
何をしたというのじゃ、という最後の言葉を。
恐怖が、背筋を這い上がった。
理解できなかった。
人間が、こんなことを。
王が、自分の民に、こんなことを。
「戦争って、こんなんだったか」
若い兵士が、呟いた。
「戦場で戦うんじゃなかったのかよ」
「こんなの」
その声が、震えた。
「ただの、地獄じゃねえか」
その時、馬の蹄の音が、聞こえた。
私たちは、振り返った。
カールだった。
黒いマント。泥に塗れた外套。
彼は、馬を降りた。そして、村を見た。
焼け跡を。
井戸を。
穀倉を。
畑を。
そして、老婆の遺体を。
カールは、動かなかった。
ただ、立っていた。
風が、マントを揺らした。
だが、彼は、何も言わなかった。
私は、その横顔を見た。
何かを探して。
怒り。困惑。悲しみ。何でもいい。
だが、何もなかった。
その顔には、何も映っていなかった。
ただ、冷たさだけがあった。
そして、彼は、口を開いた。
「ピョートル.....」
ただ一言。
カールの拳が、握られた。
それは、問いではなかった。
確認だった。
敵の本質を、今、確かめた。そんな声だった。
数分が、経った。
誰も、何も言わなかった。
そして、カールは、馬に跨った。
「全軍、前進を続けろ」
その声には、迷いがなかった。
「止まるな。前を向け」
それだけを言い残し、カールは、駆け出した。
焼け跡を後にして。
前へ。
東へ。
私たちは、その背中を見た。
遠ざかっていく。
止まることなく。
振り返ることなく。
「行くのか」
ヘニングが呟いた。
「ああ」
私は答えた。
「行くしかない」
私たちは、馬に跨った。
村を後にする。
焼け跡を。
老婆を。
全てを。
だが、その光景は、消えなかった。
目を閉じても、見えた。
黒く焼けた村。
埋められた井戸。
塩を撒かれた畑。
そして、老婆の、空っぽな目。
その夜、野営地で、レーネが地図を広げていた。
私とアームフェルトが、その隣に座った。
「どうした」
私が訊くと、レーネは地図を指差した。
「ここから先、地図に記されている村は、おそらく全て焼かれておるじゃろう」
「全てだと?」
「そうじゃ」
レーネが頷いた。
「ピョートルは、我々の進路上にある全ての村を焼いておる。計画的にな」
アームフェルトが拳を握った。
「畜生」
「じゃが、それだけではない」
レーネが私を見た。
「あのロシア兵の言葉を覚えておるか。もう昔のロシアではない、と」
「ああ」
「あれは、戯言ではないのかもしれん」
レーネの声が、低くなった。
「ピョートルは、この数年で何かを変えた。軍を、国を、何もかもな。じゃが」
彼の指が、地図の空白を指した。
「我々には、それが何なのか分からん。情報が、入ってこんのじゃ」
「情報が?」
「そうじゃ。ロシアは、この数年、我が国と関係を断絶している。商人も、使節も、ほとんど出入りしておらん」
レーネが地図を叩いた。
「つまり、我々は、何も知らずにこの国に踏み込んだのじゃ。敵の姿も、力も、意図も、何一つ分からぬままな」
沈黙が落ちた。
「それは」
私が呟いた。
「未知の地へ、足を踏み入れるのと同じだ」
「そうじゃ」
レーネが頷いた。
「我々は今、暗闇の中を歩いておる」
私は、何も言えなかった。
ただ、地図を見ていた。
空白が、広がっていた。
その先に、何があるのか。
誰も、知らなかった。
そして、我々は気づいた。
もう、後戻りはできない。
我々は、灰の大地を進まなければならないのだと。
なんとも言えない気持ちが、胸の奥に残っていた。




