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第29話 熱狂の渦

今から半年前の夜、カールの天幕に将軍たちが集められた。地図が広げられている。リヴォニアから、モスクワまでの道程。その距離に、誰もが息を飲んだ。

だが、カールの姿はなかった。

天幕の奥、玉座には誰も座っていない。代わりに立っていたのは親衛隊長のリューデルだった。背筋を伸ばし、手には羊皮紙を持っている。


「陛下の命により、伝える」


親衛隊長の声が、静まり返った天幕に響いた。


「この戦は補給が、全てだ」


彼が地図を指差した。カールの言葉を、そのまま読み上げている。


「リヴォニアには、ステンボックを派遣し、ロシアの攻勢からの死守を命じている」


その指が、東へ滑った。


「だが、ここから先は未知の領域だ」


指が止まった。

沈黙が落ちた。将軍たちは顔を見合わせた。誰も、何も言わなかった。


「レーヴェンハウプト」


親衛隊長が彼を見た。


「陛下は、お前に補給部隊の全権を任せられた」


レーヴェンハウプトが、顔を上げた。


「その陛下はどこにいんだ」


「お前には関係のないことだ。ともかく、一万の兵と、数千の荷車を率いろ。準備をこなしておけ」


親衛隊長の声が、低くなった。


「本隊は先行する。お前は補給路を整え、後から追え」


「了解した」


レーヴェンハウプトが頭を下げた。だが、その顔に、いつもの軽さはなかった。

会議が終わった。


将軍たちが外に出る。誰も、何も言わなかった。ただ、重い足音だけが、夜の地面を叩いた。


私は天幕を振り返った。中は、もう暗かった。松明の火が消え、地図だけが残されている。


カールは、来なかった。

いつから、だろう。

軍議に、姿を見せなくなったのは。



その夜、私はカールの天幕の前まで来た。

外套を翻す風の音。松明の揺れる光。だが、中からは何の音もしなかった。

私は立ち尽くした。

入るべきか。声をかけるべきか。

だが、足が動かなかった。

天幕の布が、風に揺れている。その向こうに、カールがいる。だが、遠かった。手を伸ばしても、届かないほど。

私は、踵を返した。


会議が終わり、外に出ると、彼が一人で地図を見ていた。月明かりの下で、何度も何度も、道筋を確認している。


「ハウプト」


私が声をかけた。


「ああ、レイフ」


彼が顔を上げた。


「眠れないのか」


「ああ、ちょっとな」


彼も私の考えていたことを察していたのだろう。彼はその場で笑みを浮かべ、地図を広げた。


「知ってるかレイフさんよ、補給ってのは、地味だが」


彼が私を見た。


「戦で一番大事なんだぜ」


その目に、いつもの軽薄さはなかった。


「剣がどれだけ鋭くても、腹が減ってりゃ振れねえ。馬がどれだけ速くても、餌がなきゃ走れねえ」


彼の拳が、握られた。


「その大任を陛下は俺に任せられた。俺が一番信頼されてるってことだなぁこれは」


私は、笑みを浮かべ、彼の肩に手を置いた。


「分かってるよ。お前が一番責任感があるって。

俺も、みんなもお前を信じてるさ」


ハウプトが、珍しく照れくさそうに、わずかに笑った。


「真面目に答えんなよ、恥ずいだろうが」


そして彼は話題を切り替えた。


「そういやよ、今ロシアがリヴォニアを包囲してるがよ、俺の故郷も、あの辺りなんだ。前に話したろ?」


彼が地図を指差した。


「エストニアの片田舎だ」


「ああ、覚えてる。故郷が不安か?」


「あんな吹けば飛ぶような街、不安にならねぇわけねぇだろ。でもよ」


彼は夜空を見上げる。


「ステンボックがリヴォニアを守ってくれてる。気にくわねぇスカした野郎だが、あいつの実力だけは一流だ。だから、背中任せんだよ」


悪態をつきながらも、芯の強い彼に私は少し笑みを浮かべる。


「なんだかんだ言ってお前は皆を信頼してるんだな」


私は、頷いた。


「ああ、人を信じない奴に自分の背中預けられっかよ」


ハウプトが地図を仕舞った。


「じゃあな、俺は準備に戻る。せいぜいおっ死ぬなよ」


「ああ、お前もな」


そういうと彼が歩き出した。その背中が、いつもより大きく見えた。


その間、スウェーデンは戦争の準備に明け暮れた。ストックホルムの街では、鍛冶屋が昼夜を問わず剣を打ち、織物工場が軍服を縫い続けた。農村からは若者が徴兵され、商人たちは食糧と火薬を運んだ。国の全てが、この戦争のために動いていた。


北では、ステンボックがリヴォニアを守り抜いていた。ロシア軍の侵攻を、何度も跳ね返した。彼の守りは堅固で、敵は一歩も領内に踏み込めなかった。だが、それは時間稼ぎに過ぎなかった。本当の戦いは、これからだった。



そして迎えた八月。



ついに準備が、整った。

かつてない規模の軍団が、ワルシャワ郊外に集結していた。四万の兵。数千の馬。何百もの荷車。その全てが、一つの目的のために集められていた。


ロシアを打ち滅ぼすため。


夜明け前の空は、群青と鉛色の境目で曖昧に揺れていた。野営地には幾千の足音と、鉄のきしむ音が響き渡っている。焚き火の光が兵士たちの顔を赤く染め、馬の嘶きと荷車の軋む音が闇に溶けていった。


私も甲冑を肩にかけ、部隊を巡視していた。だが、その足取りは重かった。胸の奥に、何かが引っかかっていた。不安。それとも、予感。


補給隊の陣では、レーヴェンハウプトが兵士たちを叱咤していた。普段は人懐こい笑みを浮かべる男だが、この時ばかりは顔に一切の隙がなかった。


「馬車は間隔を詰めろ! この雪道じゃ列が伸びたら命取りだ! 粉の樽は急ぎで積め、上に重い箱を置くな!」


兵站の責任者としての彼は、柔和さを完全に捨て、鋭い声で兵を動かしていた。私は少し離れてその姿を見つめながら、思わず苦笑した。あれが補給を預かる者の本当の顔なのだろう。普段はふざけているハウプトも周囲の将兵から一目置かれており、兵たちも彼の熱意に応えるべく必死に動いていた。


しばらくして彼と目が合うと、少しだけ肩の力を抜いたように口元をほころばせた。


「よおレイフ、ったく、面倒な仕事押し付けられると大変だぜ」


彼のあからさまに態度を変える様子は私に自然と微笑みをもたらした。


「ああ、みんなお前を信頼してる。準備は順調か?」


私は軽く彼にそう応じた。


「ったりまえよ」


彼はそう言い、私の背中をポンと叩いた。そして彼は少しの間をおいて口を開いた。


「俺は数ヶ月後にお前ら本隊と合流する。そん時まで少しの間の別れだ。道中でくたばんなよレイフ」


その言葉は冗談めいていたが、瞳の奥には軍人としての光があった。彼は笑いながらも、決して甘い夢を見ているわけではないのだ。


「ああ、お前もな」


やはり私は彼のそういった面が人として好きだった。気づけば私は最近、アームフェルトをグスタフ、レーンスコルドをレーネ、そして彼をハウプトという略称で呼ぶようになっていた。


少し離れた丘の上にはレーネの姿があった。雪の匂いを孕んだ風に外套を翻し、野営地を見渡している。冷たい空気の中でも彼は微動だにせず、瞳には静かな光があった。


「準備の進み具合はどうじゃ?」


私が声をかけると、レーネはわずかに頷いた。


「補給も兵の士気も、今のところ問題はない。しかし」


「しかし?」


「ロシアの大地は、地図の線の通りには歩ませてはくれない。それに、敵が、ピョートルという男がどう出てくるかが分からない」


淡々とした声だが、その裏にある懸念は重かった。彼は誰よりも冷静で、感情を表に出さない。だが、その瞳には未来を憂う色が確かにあった。


「それでも進む。それがわしらカロリアンじゃろ?」


と私が言うと、レーネは小さく頷いた。


「ああ」


彼の言葉は自分自身にも言い聞かせているようだった。私はその背中を見て、彼の冷静さの中にある熱を感じ取った。


アームフェルトの姿を見つけたのは、天幕の近くだった。兵士たちの調練を見守りながらも、その瞳はどこか遠くを見ていた。


「グスタフ」


私が声をかけると、彼は軽く笑って見せた。

かつての酒に溺れていた彼の姿はもうなく、いつも通りの彼だった。


「レイフか。すまんな、少し考え事をしていた」


「明日の進軍のことについてか?」


「ああ、そうだ」


彼の目には一瞬、翳りが走った。私はこの時、彼の抱えているものにもう少し真摯に向き合ってあげるべきだった。後から振り返った時、私はそう思う。


「悪いな、俺もやることがあるんだ。出発する前にお前と話ができてよかった」


「ああ、私もだ」


短い言葉だった。私は彼が何かを抱え込んでいることに薄っすら気づきつつも、深く触れることはなかった。それは私の中の彼への遠慮だったのか、それとも信頼故にかは分からなかった。


夜の冷気が骨まで染みる野営地に、将兵たちが集まっていた。焚き火の光と松明に照らされた顔は皆、緊張と誇り、そして不安を隠せずにいた。



そしてついに、私たちはその日を迎えた。

白い霧が地面から湧き立ち、空を覆っていた。冬の冷気は幾分か和らぎ、吐く息は白く細く漂う。夏の暑さは未だ感じられなかった。

ワルシャワの郊外に四万の兵が集結していた。騎兵が馬を並べ、歩兵が槍を立てる。荷車が軋み、馬が嘶く。これほど大勢の兵が一箇所に集まることは十数年戦場にいた私も初めて見た。

私の周囲には、様々な顔があった。


白髪混じりの古参兵が、槍の柄を握りしめている。ナルヴァを生き延びた男だ。その隣には、頬に産毛の残る少年兵がいた。初陣だろう。震える手で剣の柄を撫でている。


中年の騎兵が、馬の鬣を梳いていた。ポーランド戦を戦い抜いた顔だ。その後ろには、傷痕の残る歩兵がいた。片目を失っている。だが、残った目は、前だけを見ていた。


皆、同じ方向を見ていた。

高台だった。

野営地の北側、わずかに盛り上がった丘。そこに、一人の男が立っていた。

カール十二世。

兵たちがざわめいた。


「陛下だ」


「あれが——」


古参兵が、膝をついた。少年兵も、それに倣った。中年の騎兵が、剣を地面に突き立てた。傷痕の男が、拳を胸に当てた。

次々に、兵たちが跪いた。

波のように、それが広がった。四万の兵が、一斉に頭を垂れた。

私も、跪いた。

だが、顔は上げていた。

カールは、高台に立っていた。

金の髪が、朝の光に輝いている。青いマントが、風に翻る。その姿は、絵画のようだった。いや、違う。それは、もはや人ではなかった。

神だった。


兵たちの間から、声が上がった。


「カール陛下!」


「本物の軍神だ.....」


「祖国の英雄!」


歓声が、波となった。剣が打ち鳴らされ、槍が地面を叩く。四万の喉が、一つの名を叫んだ。

轟音だった。

大地が、震えた。

カールは、動かなかった。

ただ、立っていた。

高台の上で。

遠く。

手の届かない場所で。

私は、彼を見上げた。

久しぶりに見る顔だった。

だが、それは知らない顔だった。恐ろしく冷たく、だが深い炎のような決意を湛えた瞳。勝利を求めるというよりも、勝利に取り憑かれ、自らを捧げきろうとする人間の顔。

歓声が、続いた。

止まらなかった。


そんな中、カールが、手を上げる。

すると一瞬で、静寂が落ちた。

四万の兵が、息を飲んだ。

風の音だけが、聞こえた。

カールの視線が、兵たちを見渡した。

私も、その視線の先にいた。

だが、カールの目は、私を見なかった。

見ているのは、兵たちだった。いや、それさえも違う。彼が見ているのは、もっと遠くだった。地平線の向こう。ロシアの大地。勝利の先。

私は、そこにいなかった。

誰も、いなかった。

カールの瞳には、何も映っていなかった。ただ、炎だけがあった。


「カロリアンたちよ!」


耳を劈くほどの声が、野に響き渡った。


「我らは戦うためにここにいる、北の獅子は東の熊を恐れぬ!」


彼は剣を抜き、天に掲げた。

その姿には威光があった。王冠も玉座もない、ただ剣と意志だけを持つ王。

だが、遠かった。

手の届かない、高みにいた。

神のように。


「ナルヴァを思い出せ!」


その名を聞いたとき、兵の何人かは顔を上げ、鼓動を早めた。数年が経つ今、嘗てのナルヴァの戦いはもはや伝説となっており、新兵にさえその名は知り渡っていた。


「八千で四万を破った、あの夜を!」


カールの声が、響いた。


「何度も言おう! 誰が敵であろうと関係ない、誰も余の歩みを止められぬ!

だから皆よ、愛する者のため、祖国のため.... 余のために戦え!」


その言葉を聞いた瞬間、熱狂の波が陣を駆け抜けた。剣を掲げる者、雄叫びを上げる者。四万の兵の声が、大地を震わせた。

だが、私は、剣を掲げなかった。

その熱狂に身を任せられたらどれほど楽だっただろう。

だが、その熱は私の心を打つことはなかった。


私はただ、群衆の中からカールを見上げていた。

だが彼は、こちらを見なかった。


「進軍だ!」


彼が声を上げた瞬間、大地が震えるような足音が広がった。

そして王は馬首をロシアの大地へと向け、駆け出した。その足取りに迷いはなかった。


私は、その背中を見た。

遠ざかっていく。

追いかけなければ。

だが、足が重かった。


(もう、届かない)


その思いが、胸を締め付けた。


その時、私は視線を感じた。

振り返る。

城の窓。

そこに、一人の人影があった。黒い髪。青いドレス。

ウルリカだ。

彼女は、窓辺に立っていた。動かず、ただ、私たちを見ていた。

いや、違う。カールを、見ていた。

その顔は、遠くて見えない。

だが、その姿勢に、何かがあった。祈り。それとも、諦め。

私は、手を上げた。小さく。彼女に向けて。

ウルリカが、動いた。手を、上げた。

それが、別れの合図だった。


「レイフ!」


ヘニングの声が聞こえた。


「行くぞ!」


私は、彼女から目を離した。そして、馬を駆った。

前へ。東へ。未知へ。


ここまで来たのだ、もう覚悟を決めねばならない。


だから私は振り返らなかった。もし振り返れば、足が止まってしまいそうだった。

窓辺で、ウルリカは立ち尽くしていた。軍が、遠ざかっていく。青と金の旗が、小さくなっていく。兄の姿が、見えなくなっていく。

彼女の手が、胸元を押さえた。唇が、動いた。声にならない、祈りの言葉。


「どうか」


その声は、誰にも届かなかった。


「無事で」


風だけが、窓を撫でていった。

ウルリカは、窓から離れなかった。軍が完全に見えなくなるまで、ずっと、そこに立っていた。

そして、全てが地平線の向こうに消えた時。彼女は、膝をついた。床に。両手で顔を覆い、初めて、声を出した。

泣いた。

誰にも聞こえないように。だが、止められなかった。五年前と、同じように。いや、もっと、深い悲しみで。

もう、戻ってこないのではないか。今度こそ。

その予感が、彼女を打ちのめした。

城の廊下を、足音が遠ざかっていく。侍女たちが、気づいて駆け寄ってくる。だが、ウルリカは、ただ、泣き続けていた。



遠く、地平線の向こうで、軍は、進んでいた。

止まることなく。戻ることなく。ロシアの大地へ。

背後には過去があり、前には未知がある。

それでも進むのは、王のためでも国のためでもなく、私自身の問いへの答えを探すためだったのかもしれない。


そこに待つものが、栄光の頂なのか、あるいは破滅なのか、誰にも分からない。しかし、場を覆う熱狂は我々カロリアンに後ろを振り向くことを許さなかった。


冷えた風が平野を吹き抜けた。針葉樹の森は鈍く揺れ、雪解け水がぬかるみとなって軍靴を重たくする。初夏の今、現在にロシアへ侵攻し、冬が来る前に打ち滅ぼす。

それが大まかな計画であり、これまで無敗であったカロリアンは勝利を疑っていなかった。


陛下は勝利の先にしか目を向けなかった。勝利こそがすべてであり、勝利の後に平和が来ると信じて疑わなかった。

今の彼にとって国は、勝利を飾る舞台でしかなく、誰よりも勝利に固執している孤独な王だった。


だが、私の心はいつもこの国の民、そして彼と共にある。

それは彼の冷徹さとは相容れないかもしれない。

それでも、彼の背中を追いかけることを選んだのは、この国の未来を信じているからだ。



1708年8月。

カールの初陣からおよそ七年が経過したその日、後に歴史に名を残す彼のロシア遠征が始まった。

それは我々だけでなく、スウェーデンの覇権にとって最も重要となる戦いだった。

そして、王と共に歩むその道の先に何が待つのか、私たちはまだ知らない。


第二章 完

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