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第28話 王として

決定は、翌日に下された。

宮殿の大広間に、貴族たちと文官たちが集められた。何十人もの人々が、壇上を見つめている。その中に、私も立っていた。

カールが壇上に上がった。その姿を見た瞬間、広間全体が静まり返った。


「余は、ロシアへ進軍する」


その言葉が、広間に響いた。明瞭な声。迷いのない声。

「異論は認めない。これは、決定だ」

貴族たちが、ざわめいた。小さな声が重なり、不安が広間に満ちていく。


「出征は、三ヶ月後だ。それまでに、全てを整えろ」


カールが広間を見渡した。


「以上だ」


カールが壇上を降りた。そして、広間を出ていった。

残された人々は、しばらく動かなかった。やがて、ざわめきが始まった。小さな声が重なり、不安と困惑が広間を満たしていく。

その声を聞きながら、私は広間を出た。


城は、その日から慌ただしくなった。

廊下を行き交う文官たちの数が増えた。書類を抱え、急ぎ足で歩いている。会議室からは、声が漏れてくる。議論の声、時には怒鳴り声。

兵舎では、訓練が始まっていた。新兵たちが集められ、古参兵が指導している。剣を振る音、行進の足音、命令の声。


補給部門も動き出していた。倉庫から物資が運び出され、馬車に積まれていく。小麦、塩漬け肉、火薬、弾丸。全てが、数ヶ月分必要だった。

私も、その準備に追われた。カールからの命令を受け、将軍たちと協議し、兵の配置を決めていく。朝から晩まで、会議と視察の繰り返しだった。


だが、その慌ただしさの中で、私は時折立ち止まった。窓の外を見る。街が見える。人々が歩いている。商人が荷物を運び、子供たちが遊び、女性たちが井戸で水を汲んでいる。


平和な光景。

だが、その平和は、どれだけ続くのか。

三ヶ月後、何万もの兵が出征する。その多くは、戻ってこないかもしれない。そして、残された人々は、どうなるのか。

答えは、出なかった。ただ、窓の外の光景を見ていた。


ある日の午後、私は城の廊下を歩いていた。

カールへの報告書を持って。石造りの廊下、足音が反響する。窓から差し込む光が、床に模様を作っている。

その時だった。

遠くから、足音が聞こえた。

複数の足音。

カールだ。

彼の足音は、聞き慣れていた。規則的で、速く、迷いがない。

私は、廊下の角で立ち止まった。

カールが、数人の文官を従えて歩いてきた。その顔は、硬かった。眉間に皺が寄り、唇が引き結ばれている。

文官の一人が、何か言った。


「陛下、補給路の件ですが」


「後にしろ」


カールが即答した。


「今は、他に考えることがある」


その声には、苛立ちがあった。文官たちが、黙った。

そして、反対側の廊下から、別の足音が聞こえた。

軽い足音。

女性の足音。

私は、そちらを見た。

黒い髪を編み上げ、青いドレスを着た女性が歩いてきた。背が高い。姿勢が良い。その横顔を見た瞬間、私は息を飲んだ。


ウルリカだった。

五年前、彼女はまだ少女だった。十四歳。兄を慕い、兄の出征に涙を流した少女。

だが、今の彼女は、違った。

十九歳。もう、少女ではなかった。落ち着いた足取り、真っ直ぐな視線、そして凛とした佇まい。

彼女が、カールに気づいた。

足が止まる。

カールも、気づいた。

彼の足も、止まる。

廊下の真ん中で、二人が向き合った。

文官たちが、後ろに下がる。

私は、角に立ったまま、その光景を見ていた。


「兄上」


ウルリカの声が、廊下に響いた。落ち着いた声。だが、その奥に、震えがあった。

カールは、何も言わなかった。ただ、彼女を見ていた。


「お帰りなさいませ」


ウルリカが一礼した。


「五年ぶりです」


カールが、わずかに頷いた。


「ああ」


その声は、素っ気なかった。


「大きくなったな」


「はい」


ウルリカが顔を上げた。


「兄上も」


その声が、震えた。


「変わられました」


カールの目が、わずかに動いた。


「そうか」


沈黙が落ちた。


文官たちは、息を殺している。私も、動けなかった。ただ、二人を見ていた。


「兄上」


ウルリカが一歩、前に出た。


「少し、お話を」


「今は忙しい」


カールが即答した。


「後にしろ」


「分かっております」


ウルリカの声が、強くなった。


「ですが、短くて構いません。今、少しだけ」


カールは、彼女を見ていた。長い間。

その目に、何かがあった。戸惑い。それとも、恐れ。

やがて、彼が口を開いた。


「分かった」


その声は、低かった。


「執務室へ来い」


カールが歩き出した。ウルリカが、その後を追う。

そして私も同席を許可された。


「兄上」


ウルリカが声をかけた。

カールが振り返る。


「座れ」


カールが椅子を示した。


ウルリカが座る。私は、扉の近くに立っていた。


「用件は」


カールが訊いた。その声は、淡々としていた。


「用件、というほどのことでは」


ウルリカが微笑んだ。


「ただ、お顔を見たかっただけです」


カールが、わずかに眉をひそめた。


「五年ぶりに帰還したのです。少しくらい、お話をしてもよいでしょう」


ウルリカの声には、軽さがあった。まるで、昔のような。


カールが、椅子に座った。机を挟んで、二人が向き合う。


「兄上、お疲れではありませんか」


ウルリカが訊いた。


「疲れてなどいない」


カールが即答した。


「そうですか」


ウルリカが頷いた。


「でも、少しお痩せになったように見えます」


「——」


「五年も戦場におられたのですから、当然ですが」


ウルリカの声には、ただの心配があった。説得も、説教も、何もない。ただ、姉妹としての心配。


「気にするな」


カールが言った。


「はい」


沈黙が落ちた。


だが、それは不快な沈黙ではなかった。ただの、静けさ。


「ロシアは、遠いと聞きます」


ウルリカが口を開いた。


「ああ」


「冬も厳しいとか」


「そうだな」


カールが頷いた。


「ですから」


ウルリカが微笑んだ。


「どうか、お体に気をつけて」


その言葉は、ただの心配だった。


姉妹が兄に言う、ごく普通の言葉。


だが——


カールの手が、机の上で握られた。


「気をつけて、か」


その声が、わずかに変わった。


「はい」


ウルリカは、まだ気づいていなかった。


「無理はなさらないでください」


その言葉に——


カールの目が、動いた。


「無理」


その声が、低くなった。


「余が、無理をしている、と?」


ウルリカが、わずかに眉をひそめた。


「いえ、そういう意味では」


「では、何だ」


カールの声が、鋭くなった。


「ただ」


ウルリカが戸惑った様子で言った。


「心配なのです」


その言葉に——


カールが立ち上がった。


椅子が、音を立てた。


「心配」


その声が、震えた。


「なぜ、だ」


ウルリカが、驚いた顔でカールを見た。


「兄上?」


「なぜ、心配する」


カールの声が、大きくなった。


「余は、勝ち続けてきた」


「デンマークで、ナルヴァで、ポーランドで」


その声に、必死さがあった。


「それでも、足りないのか」


「兄上、私は——」


ウルリカが立ち上がった。


「それでも、まだ心配するのか」


カールが一歩、近づいた。


「余が、足りないと言うのか」


「いいえ、そんなことは——」


「ならば、なぜだ」


その声が、叫びに近くなった。


「なぜ、疑う」


「疑ってなどおりません」


ウルリカの声が、震えた。


「ただ、兄上が心配で——」


「心配」


カールが笑った。冷たい笑い。


「それは、余を信じていない、ということだ」


「違います」


ウルリカが一歩、前に出た。


「兄上、落ち着いてください」


「落ち着け、だと」


カールの拳が、震えた。


「余は、王だ」


その声が、部屋に響いた。


「王として、余は判断する」


「王として、余は勝たねばならない」


「そして、王として——」


その声が、震えた。


「疑われてはならない」


「兄上」


ウルリカが、彼の手に触れようとした。


「私は、王としてではなく——」


「王として、だ」


カールが彼女の手を払った。


「余は、それ以外の何者でもない」


「違います」


ウルリカの声が、強くなった。


「あなたは、私にとってこの国の王である前に——」


カールの目が、彼女を射抜いた。


ウルリカが、真っ直ぐ彼を見た。


「一人の兄です」


その言葉が、部屋に落ちた。


「私の、兄なのです」


沈黙。

ウルリカが一歩、前に出た。


「兄上は——」


その瞬間。


カールの手が、動いた。

音が響いた。

乾いた、鋭い音。


ウルリカが、よろめいた。

そして——

床に座り込み、自分の頬を押さえていた。

何が起きたか理解できないかのように。


部屋が、静まり返った。

カールは、自分の手を見ていた。

震える手を。


だが、泣いていなかった。

ただ——

カールを見ていた。


その目に、何かがあった。

悲しみ。

それとも——

絶望。


「陛下!」


私は、二人の間に入った。

カールが、私を見た。その目に、何かがあった。驚き、困惑、そして恐れ。


「ウルリカ様」


私はウルリカに手を差し伸べた。彼女が、その手を取る。立ち上がらせる。

ウルリカの頬が、赤く腫れていた。だが、彼女は泣いていなかった。ただ、カールを見ていた。


「大丈夫ですか、お怪我は」


私は彼女に言った。

ウルリカが、頷いた。そして、部屋を出ていった。扉が閉まる。

残されたのは、私とカール。

カールは、まだ自分の手を見ていた。震える手を。


私は彼を見た。


「陛下、」


理解が、追いつかなかった。

何が、起きたのか。

なぜ、起きたのか。

私の声が、静かに響いた。

カールが、顔を上げた。その目に、混乱があった。


「どういう、おつもりですか」


その問いに——

カールは、答えなかった。

ただ、自分の手を見ていた。


「余は、一体」


その声が、掠れた。

カールが壁に背をつけた。

言葉が、続かなかった。


「兄上」


ウルリカが立ち上がった。


「私が、悪かったのです」


その声に——

私は息を飲んだ。


「ウルリカ様——」


「兄上は、お疲れなのです」


ウルリカがカールに近づいた。


「私が、余計なことを——」


「それは違います」


沈黙が落ちた。


私が今更正義を語るのは、烏滸がましいのかもしれない。

だが私は、

カールに家族を、妹の愛を否定してほしくなかったのかもしれない。


「あなたは何も間違っていません。」


私は言った。


「陛下。ウルリカ様はあなたを思われていただけです。」


カールが、私を見た。


「なぜ、そのようなことを」


カールは、答えなかった。

ただ、窓の方へ歩いた。


「出て行け....」


その声が、低く響いた。


「陛下——」


「二人とも、出て行け!」


カールが窓に手をついた。


「今は——」


その声が、震えた。


「一人に、させてくれ」


ウルリカが、カールに近づこうとした。


「兄上——」


「頼む」


カールの声が、掠れた。


「出て行ってくれ」


その背中が、小さく見えた。

私は、ウルリカを見た。

彼女の目に、涙が滲んでいた。

だが、流れてはいなかった。


「参りましょう」


私は彼女に言った。

ウルリカが、頷いた。

私たちは、部屋を出た。


扉を閉める。

重い音が、廊下に響いた。

廊下に、二人だけが残された。

ウルリカが、壁に寄りかかった。


「ウルリカ様」


私は彼女を見た。


「お怪我は」


「これぐらい大丈夫ですよ」


ウルリカが微笑んだ。

だが、その笑みは——震えていた。


「兄は——」


その声が、掠れた。


「兄は、悪くありません」


私は、何も言わなかった。


「私が、余計なことを言ったから——」


「違います」


私の声が、遮った。


ウルリカが、私を見た。


「あなたは、何も間違っていません」


私は彼女を見た。


「ただ、心配しておられただけです」


ウルリカが、俯いた。


「ですが——」


「陛下が、間違えたのです」


その言葉が——


廊下に落ちた。


ウルリカが、息を飲んだ。


「レイフ殿——」


「ですが」


私は続けた。


「陛下も、混乱しておられます」


カールの顔が、浮かんだ。


あの、困惑に満ちた目。


あの、震える手。


「何が起きたのか、陛下ご自身も——」


言葉を選んだ。


「理解しておられないのかもしれません」


ウルリカが、扉を見た。


その向こうに、カールがいる。


一人で。


沈黙の中で。


「参りましょう」


私は彼女に言った。

ウルリカが、頷いた。

二人で、廊下を歩き出した。

足音が、石畳に響く。


だが——


その音だけが、聞こえていた。


他には、何も。


「兄は」


ウルリカが呟いた。


「兄は、変わってしまったのでしょうか」


その問いに、私は答えられなかった。

ウルリカが、廊下を歩き出した。私も、並んで歩いた。

中庭に出た。雪が残っている。春はまだ来ない。空は灰色で、冷たい風が吹いている。


「五年前」


ウルリカが口を開いた。


「皆さんが出征する前夜も兄は私を見てくれはしませんでした」


その声が、遠くを見ていた。


「ですが、仕方ないと割り切ってました。

兄は、私よりも多くのものを背負って来ましたから。

だから、兄の勝利の知らせが届くたび、私は喜びました」


ウルリカが私を見た。


「ですが」


その目に、涙が滲んでいた。


「同時に、恐れていました。兄が、遠くへ行ってしまうのではないか、と」


「もう、戻ってこないのではないか、と」


その言葉が、風に消えた。

私は、何も言わなかった。ただ、彼女の横に立っていた。


「レイフ殿は」


ウルリカが訊いた。


「ずっと、兄の傍におられたのですね」


「はい」


私は頷いた。


「五年間」


「では」


ウルリカが私を見た。


「兄が、どう変わったのか」


「ご存知ですね」


その問いに、私は答えた。


「陛下は、勝利に囚われています」


ウルリカが息を飲んだ。


「勝ち続けなければ、認められない」


私は続けた。


「そう、思い込んでおられる」


とても抽象的な話だった。

だが、ウルリカは理解したようだった。

そしてその声が、震えた。


「兄は、まだ」


彼女の手が、胸元を押さえた。


「父上に、認められようとしているのですか」


私は、黙って頷いた。

ウルリカが、空を見上げた。灰色の雲が、低く垂れ込めている。


「父上は、もういらっしゃらないのに」


風が吹いた。雪が舞った。冷たい風が、私たちの顔を撫でていく。


「多分それだけではないのでしょう。でも、陛下の心の内は陛下にしかわかりません」


「私には」


ウルリカが呟いた。


「何が、できるのでしょう」


その問いに、私は答えた。


「諦めないことです」


ウルリカが、私を見た。


「諦めない?」


「はい」


私は頷いた。


「陛下は、孤独です」


「誰も信じられず、誰にも心を開けない」


「だが」


私は彼女を見た。


「あなたが、諦めなければ」


「まだ、可能性はあるかもしれません」


ウルリカが、涙を拭った。手の甲で、そっと。


「分かりました」


その声には、決意があった。


「私は、諦めません」


「兄を」


その声が、震えた。


「取り戻すまで」


私は、彼女を見ていた。その横顔に、強さがあった。

五年前、泣いていた少女は、もういなかった。今、ここにいるのは、一人の女性だった。強く、優しく、そして、諦めない女性が。


「レイフ殿」


ウルリカが私を見た。


「ありがとうございます」


「いえ」


私は首を横に振った。


「私は、何も」


「いいえ」


ウルリカが微笑んだ。


「あなたは、兄を止めてくださいました」


「五年前の私は」


その声が、遠くを見ていた。


「ただ、泣くことしかできませんでした」


「だが、今日」


ウルリカが私を見た。


「あなたは、兄の前に立ってくださった」


「それは」


その声が、温かかった。


「とても、勇気のあることです」


私は、何も言えなかった。ただ、彼女を見ていた。

やがて、ウルリカが歩き出した。


「私は、部屋に戻ります」


「はい」


「また」


ウルリカが振り返った。


「お話を、させてください」


「はい」


私は頷いた。


「いつでも」


ウルリカが微笑んだ。そして、去っていった。その背中が、真っ直ぐだった。

私は、中庭に一人残された。

雪が、まだ残っている。春は、まだ来ない。

だが、いつか来る。必ず。

その夜、私は眠れなかった。

天幕に横たわり、天井を見ていた。

カールの顔が、浮かんだ。あの震える手。あの恐れに満ちた目。そして、あの言葉。


「まだ、証明が必要なのか」


彼は、何を証明しようとしているのか。自分が、王に相応しいことを。自分が、強いことを。自分が、父に認められるに値することを。


だが、父はもういない。


だから、勝利で証明するしかない。完璧に。誰も疑えないほどに。

だが、それで本当に、証明できるのか。本当に、認められるのか。


答えは、出なかった。ただ、暗闇の中で、考え続けた。

窓の外では、雪が降り始めていた。静かに。音もなく。全てを、白く覆っていく。

だが、その白さの下に、何があるのか。


血が。涙が。絶望が。

全てが、そこにあった。ただ、見えないだけ。


翌朝、城は再び慌ただしくなった。

文官たちが行き交い、兵士たちが訓練し、補給部門が動き続けている。

ロシア遠征の準備は、着々と進んでいた。

だが、その慌ただしさの中で、私は時折立ち止まった。

カールの顔を思い出しながら。ウルリカの言葉を思い出しながら。

そして、自分が何をすべきなのか、考え続けた。


答えは、まだ出なかった。

だが、一つだけ、確かなことがあった。

もう、見ているだけではいられない。

五年前の私は、ただ見ていた。ウルリカが泣いていても。カールが孤独でも。何もできなかった。


だが、今は違う。

今は、前に立てる。彼らの間に、立てる。

それが、正しいのか。それが、何をもたらすのか。まだ、分からない。

だが、もう後戻りはできなかった。

私は、選んだ。

見ているだけではなく、行動することを。

その先に、何があるのか。それは、まだ分からなかった。


だが、その道を、歩き始めていた。

遠くで、鐘が鳴った。正午を告げる、鐘の音。

その音が、城に響き渡っていた。


そして、私は歩き出した。

次の場所へ。次の瞬間へ。

止まることなく。

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