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第27話 灰色の凱旋

報告が届いたのは、レシチンスキの擁立式から三日後だった。

私はワルシャワの宮殿の廊下を歩いていた。石造りの廊下、足音が反響する。窓の外では雪が降り続けていた。


「レイフ将軍」


振り返ると、伝令の兵士が立っていた。息を切らしている。


「何事だ」


「リヴォニアから、急報です」


その声に、何かがあった。緊張。それとも——恐れ。


「陛下は」


「執務室におられます」


足を速めた。廊下を駆ける。衛兵が扉を開ける。

執務室には、既に何人かの将軍たちが集まっていた。レーネ、レーヴェンハウプト、そして——カール。

カールは窓辺に立ち、地図を見ていた。リヴォニアの地図。その背中が、硬かった。


「陛下」


声をかけた。カールが振り返る。


「レイフ、ちょうど良い。聞け」


カールが地図を指差した。


「ロシアが動いた。ペテルブルクから軍を進め、リヴォニアへ侵攻している」


その言葉に——胸が締まった。


「何時だ」


「一週間前だ。国境の砦が次々と落ちている」


レーネが杖をつきながら地図に近づいた。


「どれほどの兵力ですか」


「報告では、三万」


「三万——」


レーヴェンハウプトが息を飲んだ。


「ナルヴァの時の倍以上だ」


「数だけはな」


カールが肩をすくめた。


「所詮、ロシアだ。人数だけは多いが、烏合の衆に過ぎん」


その言葉に——レーネが眉をひそめた。


「陛下、しかし——」


「ピョートルは油断ならん男だ。だが、余は既に一度奴を破った」


カールが地図を叩いた。


「ナルヴァで、八千で四万を破った。今度も同じことだ」


「ですが——」


レーヴェンハウプトが口を開きかけた。


「ロシアは広大です。田舎で未開な土地、補給も——」


「だからこそだ」


カールが遮った。


「田舎だからこそ、叩きやすい。余は、ストックホルムへ戻る」


その言葉に全員が息を飲んだ。


「戻る、ですか」


「ああ」


カールが私たちを見た。


「五年だ。五年、余は戦場にいた。デンマークを攻め、ナルヴァでロシアを破り、ポーランドを制圧した」


その声に、何かがあった。昂揚。それとも——執着。


「だが、ロシアは再び牙を剥いた。ならば今度こそ、完全に叩き潰す」


「完全に、ですか」


レーヴェンハウプトが聞いた。


「ああ」


カールの目が鋭くなった。


「リヴォニアから追い出すだけでは足りん。モスクワへ進軍する。ピョートルの宮殿を灰にし、二度と立ち上がれぬようにする」


その言葉にレーネが黙った。

レーヴェンハウプトが口を開こうとしたが、結局何も言わなかった。ただ、地図を見ていた。


「異論は認めん」


カールが私たちを見渡した。

誰も、答えなかった。

レーネは俯いていた。


「余は明日、ストックホルムへ発つ。レイフ、お前も同行しろ」


「承知しました」


答えた。だが、声が震えていた。

カールが部屋を出て行った。扉が閉まる。重い音。

残された私たちは、誰も動かなかった。


「——おい」


レーヴェンハウプトが呟いた。


「マジか」


「マジ、じゃな」


レーネが深く息を吐いた。


「モスクワ、か」


「止められなかった」


私が言った。


「誰も、止められなかった」


レーネが杖をついて、窓の方へ歩いた。


「止められんのじゃ、もう」


その背中が、以前よりもっと丸まっているように見えた。



1706年、暮れ


私たちはワルシャワを発った。

カールの親衛隊、それに私を含む数名の将軍たち。馬に乗り、雪の中を北へ向かった。ポーランドの平原を抜け、バルト海沿いを進んだ。港町を経由し、船に乗った。冬の海は荒れていたが、二日で海を渡った。


そして——スウェーデンの土を踏んだ。

およそ五年ぶりの帰還だった。

冬の空は、灰色が重く広がり、厚い雲が垂れ込め、陽光を遮っている。

五年前、私たちが出征した時は秋だった。

街は黄金色に輝いていた。収穫の季節、希望の色。


だが、今は——冬。

全てが、灰色に沈んでいた。


港には、既に人が集まっていた。噂が先に届いていたのだ。カールが帰還する、と。


「陛下だ!」


「大王が戻られた!」


歓声が上がった。人々が駆け寄ってくる。旗を振り、花を投げ、喜びの声を上げている。カールは馬上から、それを見ていた。

だが——

その目が、何も映していなかった。

人々を、見ていなかった。

ただ、前を向いていた。まるで、彼らが存在しないかのように。

港から、ストックホルムへ向かう道が続いていた。その道の両側に、何千もの人々が並んでいた。旗が掲げられ、花が撒かれ、歓声が響いていた。

五年前と、同じだった。


いや——もっと盛大だった。

デンマークを降し、ロシアを破り、ついにポーランドをも制圧した王の帰還。民衆は、それを祝っていた。


「カール陛下、万歳!」


「スウェーデン、万歳!」


その声が、道を満たしていた。

カールは馬を進めた。ゆっくりと、規則的に。その姿は、絵画のようだった。金色の髪が陽光に輝き、青い外套が風になびいている。

民衆が歓声を上げた。

だが、カールは——

見ていなかった。

その目は、遠くを見ていた。次の戦場を。次の敵を。人々の顔を、笑顔を、何一つ見ていなかった。


私は、その後ろを馬で進んでいた。

そして——見ていた。

道の両側に並ぶ、無数の顔を。

老人が、旗を振っていた。笑顔を浮かべ、声を上げている。だが、その目の奥に——何かがあった。疲労。それとも、諦め。

若い女性が、子供を抱いて手を振っていた。だが、その笑顔は硬かった。まるで、作られたような。


そして——

ふと、道の脇に目が留まった。

路地の入口に、一人の女性が立っていた。

黒い服を着ている。喪服だ。

その顔を見た瞬間——息を飲んだ。


泣いていた。

声を殺して。


パレードの音が、まだ聞こえていた。歓声が、笑い声が。だが、ここには届かなかった。

女性は、ハンカチで顔を覆っていた。肩が震えている。

息子を失ったのだろうか。

夫を失ったのだろうか。


戦場で。

私たちが勝った、その戦場で。

足を止めそうになった。だが——止められなかった。馬は進み続けた。パレードは続いた。

女性の姿が、後ろへ消えていった。

胸の奥で、何かが引っかかった。


死など、今まで見慣れていたはずだった。

戦の醜い部分などとっくに知っていたはずだった。

だが、この日は彼女の姿だけが目から離れなかった。


ストックホルムの中心広場に着いた時、民衆の数は数千に膨れ上がっていた。広場全体が人で埋め尽くされ、旗が掲げられ、楽隊が演奏していた。

壇上が設置されていた。五年前と同じ、赤い布が敷かれた壇上。

カールが馬から降りた。

歓声が、さらに大きくなった。


「カール陛下!」


「我らが王!」


その声が、空に響いた。

カールが壇上に上がった。そして——民衆を見下ろした。

その瞬間——

広場全体が、静まり返った。

何千もの人々が、息を飲んでカールを見ていた。


カールは——

何も言わなかった。

ただ、立っていた。

風が吹いた。カールの外套が、なびく。

民衆は、待っていた。王の言葉を。勝利の宣言を。


だが——

カールは、動かなかった。

その目は、民衆を見ていなかった。広場の向こう、城壁の向こう、海の向こうを見ていた。


やがて——

カールが手を上げた。

それだけだった。

言葉はなかった。笑顔もなかった。ただ、手を上げ、そして降ろした。

それが——合図だった。


楽隊が演奏を始めた。兵士たちが行進を始めた。そして民衆は、再び歓声を上げ始めた。

だが——

私には分かった。

あの女性と同じような顔が、群衆の中にもあった。

笑っている。旗を振っている。だが、目の奥に——何かがあった。

広場の端に、一人の兵士が立っていた。


広場の端に、一人の兵士が立っていた。

松葉杖をついている。

左腕が、ない。

肘から先が、切断されている。


彼の軍服は——灰色だった。

かつては青かったのだろう。スウェーデン軍の青。

だが、今は色褪せ、汚れ、灰色になっている。


彼はパレードを見ていた。

その目に、何があったのか。


誇り。

それとも——

後悔。


私は——その視線を感じた。

彼が、私を見ている。


いや、私だけではない。

カールを見ている。

壇上の、王を。


その目に——何かがあった。

問いかけ。

それとも——


訴え。


だが、彼は何も言わなかった。

ただ、立っていた。


その目に、何があったのか。

誇り。

それとも——

後悔。


パレードが終わり、私はカールと共に王宮へ向かった。


馬を降り、石畳の道を歩く。

雪が積もっている。だが、その雪は——もはや白くなかった。

人々に踏まれ、馬車に轢かれ、灰色に濁っている。


五年前、この道を歩いた時のことを思い出した。

秋の終わり。落ち葉が舞い、黄金色の光が差していた。

希望があった。栄光があった。


今——

灰色の雪。

灰色の空。

灰色の街。


勝利したはずなのに。

帰還したはずなのに。


なぜ、こんなにも——灰色なのか。


石造りの門をくぐる。五年ぶりの、王宮。

だが——何も変わっていなかった。

同じ廊下。同じ天井。同じ、冷たい石。


いや、違う。

何かが、変わっていた。


五年前は、まだ希望の色があった。

今は全てが、灰色に見えた。


中に入ると——

何人かの文官たちが待っていた。

その中に、見覚えのある顔があった。

それはアクセルだった。

3代前からスウェーデンに使える老臣。

彼とはカールの即位前からの顔見知りだ。そして直接会うのは5年ぶりだった。


アクセルは後ろにいる私にも気づき、笑みを浮かべた。

私は軽く笑みを浮かべ返した。


そして彼がカールに近づいた。


アクセルの足取りには、弾むような軽さがあった。五年ぶりの再会。少年だった王が、今や大王として帰還した。その喜びが、彼の背中に表れていた。


「陛下」


その声には、喜びがあった。抑えきれないような。


「お帰りなさいませ。五年のうちに陛下も大きゅうなられましたな」


アクセルの顔に笑みがあった。まるで、自分の息子を迎えるような笑み。彼は即位前のカールを知っていた。幼い頃の、あの少年を。


私はカールの後ろに立っていた。その表情は見えない。だが、見えなくても分かった。


だがカールに近いた時、アクセルの笑顔が消えた。


凍りついた。


いや、凍りつくという表現では足りない。まるで、笑顔そのものが砕け散ったかのようだった。


アクセルの目が見開かれた。わずかに、だが確かに。その瞳に何かが映った。驚愕。それとも困惑。いや、もっと別の何か。


彼の喉が動いた。何か言葉を飲み込んだのだろう。唇が開きかけて、また閉じた。


そして、彼の手が震え始めた。


最初は気づかないほど、わずかな震えだった。だが次第に大きくなっていく。持っていた書類が、かすかに音を立てた。


アクセルの顔から血の気が引いていくのが分かった。笑みの名残がまだ顔に残っているのに、その下の表情はまるで別人のようだった。


口が半開きになっている。何か言おうとしているのに、言葉が出てこない。

私は息を飲んだ。アクセルの目を見た。そこに映っていたのは、恐怖だった。


ただの畏怖ではない。戦場への恐れでもない。もっと根源的な、人間が何か理解できないものに直面した時の、あの恐怖。


アクセルが一歩、後ずさった。無意識に、だろう。彼自身も気づいていないかもしれない。だが確かに、彼の足は後ろへ動いた。


カールが口を開いた。


「アクセル」


その声に感情はなかった。再会の喜びも、感謝も、何もなかった。ただ、命令だけがあった。


「短く報告しろ。この五年、本土の状況を」


アクセルの肩が跳ねた。まるで、冷水を浴びせられたかのように。

彼の手が、さらに震えた。書類を落としそうになり、慌てて握り直す。その動作がぎこちなかった。老練な官僚にあるまじき、不器用な動き。


「は、はい」


アクセルの声が掠れていた。喉が締まっているのだろう。彼が書類を取り出そうとするが、手が震えて上手くいかない。一度、二度、ようやく三度目で書類を掴んだ。


その間、カールは何も言わなかった。ただ待っていた。無言の圧力。

アクセルの額に、汗が浮かんでいた。冬の、寒い部屋で。

彼が書類を開く。その手は、まだ震えていた。


私は立ち尽くしていた。何も言えず、何もできず。ただアクセルの背中を見ていた。あの背中に表れた恐怖を、震えを。

文官たちも固まっていた。誰も動かず、誰も声を出さなかった。部屋全体が凍りついたようだった。


アクセルが口を開いた。


「五年間、本土は平穏を保っております。税収も安定し、軍備も」


「軍備は」


カールが遮った。


「どれほど整えられる」


「——陛下?」


「余はロシアへ進軍する。モスクワを灰にする。そのために、どれほどの兵を用意できる」


その言葉に——

部屋が、凍りついた。

文官たちが、顔を見合わせた。

アクセルが——カールを見た。


「陛下、それは——」


「答えろ」


カールの声が、部屋を震わせた。

アクセルが——息を飲んだ。


「三万、いや、動員すれば四万は——」


「足りん」


カールが首を横に振った。


「六万だ。六万の兵を、半年以内に用意しろ」


「六万——」

アクセルの声が、震えた。


「陛下、それは本土の全戦力に等しい数です。もし、他国が——」


「他国など、恐れるに足らん」


カールが言った。


「デンマークは講和した。ポーランドは制圧した。残るはロシアだけだ」


「ですが——」


「ロシアは田舎だ」


カールが地図を指差した。


「広いだけの、未開の土地。兵は多いが、訓練されていない。武器も旧式だ」


その言葉に——

部屋の奥から、声が響いた。


「陛下」


部屋の奥から、声が響いた。


「陛下」


一人の若い男が歩いてきた。

三十代半ば。黒い髪を後ろで束ね、鋭い目をしている。


宰相オクセンシェルナだった。


若くしてスウェーデン国内の最高権力者の一人に成り上がった男。貴族の出ではない。平民から、実力だけで這い上がってきた。


その切れ味が——彼の武器だった。


誰も彼を好いてはいない。


だが、誰もが彼を恐れている。


その舌鋒が。その洞察が。


そして——


その、恐れを知らない態度が。


カールが——立ち止まった。


「オクセンシェルナか」


その声に、わずかな緊張があった。


この男だけは——違った。


他の文官たちのように、ただ従うだけではない。


「お帰りなさいませ、陛下」


オクセンシェルナが一礼した。


だが、その礼は——浅かった。


形だけの。


最低限の。


それ以上でも、それ以下でもない礼。


「ロシア遠征の件、お聞きしました」


「異論か」


カールの声が、低くなった。


「いいえ」


オクセンシェルナが首を横に振った。


「異論はございません。ただ——忠告です」


「忠告?」


「陛下は、ロシアを田舎だと仰いました」


オクセンシェルナが地図に近づいた。


「確かに、五年前はそうでした。ナルヴァで陛下が破ったロシア軍は、烏合の衆でした」


その指が、地図の上を滑った。


「ですが——あなた様は知らないかもしれない。ですが、ロシアはこの五年で変わった」


カールが眉をひそめた。


「何がだ」


「全てが、です」


オクセンシェルナの声が、部屋に響いた。


「ピョートルは、ナルヴァの敗北から学びました。西欧から技術者を招き、軍を再編成しました。西欧式の訓練、新しい武器、規律ある部隊——」


その言葉に——

カールの目が、鋭くなった。


「そして」


オクセンシェルナが続けた。


「陛下がポーランドで五年を費やされている間、ピョートルは国内を掌握しました。貴族たちを抑え、改革を推し進め、ペテルブルクという新都まで建設しました」


「——」


「かつてのロシアではありません。もはや、田舎の未開国ではない」


オクセンシェルナがカールを見た。


「陛下、視点が狭まりすぎてはおりませんか」


その言葉が——

部屋に落ちた。

重い響き。

カールは——

何も言わなかった。

ただ、オクセンシェルナを見ていた。

その目に、何かがあった。

怒り。

それとも——


「オクセンシェルナ」


カールの声が、低くなった。


「余が、視点が狭いと?」


「はい」


彼の飄々とした態度にその場にいた文官が皆凍る。だが、言っていることは何も間違っていないため、誰も指摘することができない。


「灯台下暗し」


オクセンシェルナが、わずかに笑った。


「東洋の諺の一つですが、ご存知で?」


その問いかけには——皮肉があった。

まるで、子供に問うような。

カールの目が鋭くなった。


「当たり前だ」


「では、意味もご理解で?」


オクセンシェルナが一歩前に出た。


「遠くを照らす灯台の、足元は暗い——」


その指が、地図の上を滑った。


「陛下は、モスクワを見ておられる。遠く、遠く——」


指が、バルト海を指した。


「だが、足元を見ておられない。ここを。リヴォニアを。そして——」


指が、スウェーデン本土を指した。


「ここを」


部屋が静まり返った。

文官たちは、息を飲んでいた。

誰もこんな風に、カールに話しかける者はいなかった。


だが、オクセンシェルナは動じなかった。

その目に、恐れはなかった。

ただ——冷徹な観察があった。


「ロシアです」


彼が地図を指差した。

その指が、モスクワを指した。


「このままでは必ず、近い未来に足元から崩れます。そう断言しましょう」


部屋が——静まり返った。

文官たちは、息を飲んでいた。

アクセルは、俯いていた。


そして私は——

カールを見ていた。

カールの拳が——震めていた。

わずかに。

だが、確かに。


そしてオクセンシェルナが、わずかに笑った。

その笑みには——挑発があった。

まるで、カールに——


「反論してみろ」


と言っているような。

カールの拳が——震めた。


怒り。

それとも——


「オクセンシェルナ」


カールの声が、低くなった。


「お前は——余が、負けると言うのか」


「いいえ」


オクセンシェルナだけが——カールを動揺させた。


他の文官たちは、ただ従った。

だが、この男は違った。

正面から、ぶつかってきた。


「余は、生まれてから今に至るまで負けることなく勝ち続けた。デンマークを降し、ナルヴァでロシアを破り、ポーランドを制圧した」


カールの声が、部屋を満たした。


「それが——視点が狭い、と言うのか」


「はい」


オクセンシェルナが——即答した。


迷いなく。

恐れなく。


その一言が部屋を凍りつかせた。


「黙れ」


その声が、部屋を震わせた。

だがオクセンシェルナは、黙らなかった。


「陛下」


彼が一歩前に出た。


「私は、陛下に従います」


「ならば——」


「ですが」


オクセンシェルナが遮った。


「従うことと、盲従することは——違います」


その言葉が——


カールの動きを止めた。


「私は、陛下が間違っていると思います」


「——」


「ロシア遠征は、失敗します」


オクセンシェルナの声が、はっきりと響いた。


「そう——予言しましょう」


部屋が静まり返った。

誰も、息をしていなかった。

カールは——


ただ、オクセンシェルナを見ていた。

その目に何かがあった。


怒り。


それとも——


恐れ。


若い宰相の、その確信に満ちた声に。


やがて——


「出て行け」


カールの声が、低く響いた。


「陛下——」


「出て行けと言っている」


カールが、オクセンシェルナに背を向けた。


「余は、勝つ」


その声には——


迷いがなかった。


だが——


どこか、必死さがあった。


自分に言い聞かせるような。


オクセンシェルナは——


ただ、カールを見ていた。


その目に、何かがあった。


憐れみ。


それとも——


悲しみ。


やがて——


「承知しました」


オクセンシェルナが深々と一礼した。


「お好きになさいませ、陛下」


その言葉には——


皮肉があった。

それとも、諦めがあったのか。

ともかく、オクセンシェルナが部屋を出て行った。


扉が閉まる。

重い音。


「余は、勝つ」


その声に——

迷いがなかった。

疑いがなかった。

ただ——

確信だけがあった。


「解散しろ、もう用事は済んだ」


そう言って、部屋を出て行った。

扉が閉まる。重い音。

残された部屋に、沈黙が落ちた。


だが、その直後、誰も動くことはできなかった。

その場にいた私も、ただ立ち尽くしていた。


胸の奥で、何かが引っかかった。

オクセンシェルナの言葉が、蘇る。


「視点が狭まりすぎている」


「足元から崩れる」


「失敗する」


それはカールだけのことではなかった。

私たちも——


目の前の勝利に、目を奪われていた。


遠くが、見えていなかった。

ロシアが、変わっていたことを。

そして——

この戦争が、どこへ向かっているのかを。



私が廊下に出ると——

オクセンシェルナが、壁に寄りかかっていた。


「オクセンシェルナ殿」


「レイフ将軍」


彼が私を見た。その目に、何かがあった。興味。それとも——観察。


「初めまして、ですな」


「はい」


「噂は聞いておりますよ。陛下の側近の剣豪の方だと」


オクセンシェルナが、わずかに笑った。


「先ほどは、大変な場面をご覧になりましたな」


「——はい。あんな大胆な発言、さすがですね。」


「どう思われました?」


その問いに——

答えられなかった。

オクセンシェルナが肩をすくめた。


「まあ、答えにくいでしょうな」


彼が廊下を歩き始めた。私も、並んで歩いた。


「オクセンシェルナ殿」


「はい」


「あなたは——」


言葉を選んだ。


「ロシア遠征が、失敗すると?」


「成るようになりますよ」


オクセンシェルナが、あっさりと言った。


「——成るように?」


「はい」


彼が頷いた。


「勝つか、負けるか。それは——やってみなければ分かりません」


その飄々とした態度に——


「それでも、国を預かる宰相ですか」


私が言った。

オクセンシェルナが——立ち止まった。

振り返る。

その目に——何かがあった。


「だからこそ、ですよ」


「——?」


「国を預かるからこそ——分かるのです」


オクセンシェルナが、わずかに笑った。


「止められぬものは、止められぬ」


「陛下は、行かれる。何を言っても、行かれる」


その声には——諦めがあった。


「ならば——成るようにしかなりません」


「それが——」


彼が歩き出した。


「宰相の、仕事です」


その背中が、遠ざかっていく。

だが——

数歩進んで、オクセンシェルナが振り返った。


「レイフ将軍」


「はい」


「あなた、面白い」


その言葉に——

眉をひそめた。


「面白い?」


「はい」


オクセンシェルナが笑った。


「正直で、誠実で——そして、迷っている」


「——」


「あなたのこと、嫌いではありません」


彼が手を上げた。


「では、また」


そう言って——

オクセンシェルナが去っていった。


足音が、廊下に響き渡り、消えた。


そして私は一人、残された。


成るようになる。

その言葉が頭の中で、反響していた。

止められぬものは、止められぬ。


それが宰相の、答えか。



その夜、私は一人で城壁に立っていた。

ストックホルムの街が、眼下に広がっていた。

家々から、灯りが見える。

煙突から、煙が立ち上っている。

人々の、生活がある。

五年前、私はここに立っていた。

あの時、カールは言った。


「余の歩む道は、余に歯向かうものすべてを焼き尽くす」


あの時は——

その言葉に、希望があった。

強さがあった。

栄光があった。


だが、今——

その言葉は、違う意味を持っていた。

焼き尽くす。

全てを。

敵も、味方も、民も。

風が吹いた。冷たい風が、顔を切るように吹き抜けていく。


「レイフ殿」


声が聞こえた。


振り返ると、アクセルが立っていた。


「アクセル殿」


「失礼、邪魔をしたか」


「いや」


首を横に振った。

アクセルが、城壁に寄りかかった。


「五年ぶりに、陛下にお会いした」


その声が、震えていた。


「だが、一体.... 私が見ない間に陛下に何があった」


「——」


「あんな全てを燃やし尽くすような、破滅的な目。見たことがない。再開した時、儂は陛下に初めて」


アクセルが空を見上げた。


「——恐ろしい、と感じた」


その言葉が、風に消えた。


「私がついていながら、申し訳ありません。」


二人とも、黙った。

ただ、街を見ていた。

灯りが、ゆらめいている。


「レイフ殿」


「ああ」


「あなたは今の陛下をどうしたい」


その問いに——

答えられなかった。


どうしたい?


そのような質問は初めてだった。


「——すみません、私にはまだ分からないみたいです」


それだけが、答えだった。

アクセルが、深く息を吐いた。


「そうか」


彼が城壁を離れた。


「失礼した。夜分遅くにすまんの、また出征前に話にでもいくわい」


「はい、おやすみなさい」


アクセルが去っていった。足音が、遠ざかっていく。

私は——

一人、残された。

城壁の上で。

冷たい風の中で。

ストックホルムの街を見下ろしながら。

五年だ。

五年、戦い続けた。

勝ち続けた。

だが——

これが、勝利なのか。

路地裏で泣く母親。

片腕を失った兵士。

そして——

民を見ない、王。


「私たちは——」


声が、風に消えた。


「俺たちは、どこへ向かっているんだろうな」


答えは、なかった。

ただ、風が吹いていた。

冷たい、冬の風が。

そして——

遠くで、鐘が鳴った。

夜を告げる、鐘の音。

その音が——

街に響き渡っていた。

いつまでも。

止まることなく。

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