第26話 成し得た勝利
遠征軍が戻ってきたのは、二月の終わりだった。
雪はまだ降り続け、ワルシャワの街を白く染めていた。私は城壁の上に立ち、その帰還を見ていた。
旗が見えた。
青と黄色の、スウェーデンの旗。
風になびいている。
そして、隊列が続いていた。何百、何千もの兵士たちが、規則的に行進していた。勝利の後の帰還。だが——
何かが、違った。
カール直属の親衛隊だけどこか他と雰囲気が違った。
兵士たちの間から、いつもなら聞こえてくる勝利の歌が無かった。戦場から戻る時、彼らは必ず凱歌を歌った。だが今は、ただ黙々と、雪の中を歩いている。
まるで葬列のような、そんな雰囲気を感じた。
胸の奥に何かが広がるのを感じた。不安。それとも——恐れ。
フロウシュタットで何かあったのか。
使者は言った。大勝利だと。完璧な采配だと。だが、その使者の顔は暗かった。勝利を告げる者の顔ではなかった。
城壁を降りた。
街へ向かう。
そして見知った顔に出会った。
レーネだ。
白髪の老将軍が、馬から降りるところだった。近づいた。
「レーネ」
彼が振り返った。その顔に、笑みが浮かぶ。
「レイフ!」
レーネが私の肩を叩いた。
「お主と会うのも1年ぶりぐらいか。報告を聞いたか、儂らの大勝利じゃ」
「ああ」
レーネが年甲斐もなく無邪気にピースサインを浮かべる。
それはとても軍の最高指揮官の一人とは思えない笑顔だった。
「アウグストは逃げた。完璧な勝利じゃった」
レーネの声には、安堵があった。だが——その目の奥に、何かがあった。疲労。それだけではない。もっと深い、何か。
「お前は、無事じゃったか?噂は聞いとるぞ、倒れたんじゃったか?」
「ああ、でももう大丈夫だ。ありがとう。」
「それならいいわい。」
レーネが微笑む。
「わしも、もう歳でな。こういう遠征は、骨に堪える」
「そろそろ引退どきじゃないんですか」
「ばか言え!儂もまだ終われんわい」
私の冗談にレーネが笑いながら返し、歩き出した。その背中が、以前より丸まっているように見えた。
また別の顔を探した。
レーヴェンハウプトが、兵士たちに指示を出していた。
「おい、そっちじゃねえ。補給車は西門だ」
「分かってますよ」
「分かってねえから言ってんだ」
彼が肩をすくめる。彼もいつもの調子だった。
「ハウプト」
「おお、レイフ」
彼が振り返った。
「お前無事だったか」
「ああ。お前こそ」
「ワルシャワは平穏だったよ」
レーヴェンハウプトが眼帯の下の傷跡を撫でた。
「羨ましいな。俺たちは寒い中、ずっと行軍してた」
「だが、勝ったんだろう」
「ああ」
彼が頷いた。
「勝ったぜ。いつものようにな」
その言葉に、何か別の意味が含まれているような気がした。
そして私は聞いた。
「レーヴェンハウプト」
「あ?何だ」
「フロウシュタットで、何かあったのか?」
「——どういうことだ?」
彼が怪訝な顔を浮かべる。
「いや、唯気になっただけだ」
そういうろレーヴェンハウプトは呆れた顔を浮かべる。
「何言ってんだ。ただの戦だ。敵がいて、俺たちがいて、陛下が采配を振るって——いつもの筋書きだ。満足か?」
その声もその悪態もいつもと変わらなかった。本当に何も無かったのか?
その疑念がまだ心を渦巻いている。
「そうか、すまない邪魔をした。」
「おう、またな」
そうしてレーヴェンハウプトが歩き去っていく。
(何を疑っていたんだ、私は)
使者の暗い顔。
兵士たちの沈黙。
それは——ただの疲労だったのか。
長い遠征の後の、当然の疲れ。
レーネもレーヴェンハウプトも、いつも通りだった。
何も変わっていない。
何も、隠していない。
(考えすぎだ)
胸の不安が、ほとんど消えかけていた。
周囲を見回す。
兵士たちが、荷を降ろしている。
将校たちが、指示を出している。
みな、いつも通りの光景。
だが——
一人だけ、いない。
「すまない」
近くにいた将校に訊いた。
「アームフェルトは?」
「アームフェルト将軍は宿舎に戻られました」
「もう?」
「はい。軍が到着する前に、一人で」
その言葉に——
胸の奥で、何かが引っかかった。
一人で。
軍が到着する前に。
アームフェルトが。
あの生真面目な、規律を重んじる男が。
部隊を置いて、先に戻る?
「いつ戻られた?」
「一時間ほど前かと」
一時間前。
それは——軍の先頭が街に入る前だ。
(なぜ)
周囲を見る。
レーネは、兵士たちと話している。
レーヴェンハウプトは、補給の指示を出している。
二人とも、部隊と共にいる。
だが、アームフェルトだけが——
違和感が、再び膨らみ始めた。
さっき消えかけていた不安が、今度はもっと鋭く。
(何かが、おかしい)
レーネとレーヴェンハウプトは、いつも通りだった。
だが——
アームフェルトは、違う。
彼だけが、逃げるように去った。
部隊を置いて。
仲間を置いて。
(彼に、何があった)
足が、動き始めていた。
宿舎へ向かって。
使者の暗い顔が、蘇る。
兵士たちの沈黙が、蘇る。
そして——
アームフェルトの不在が。
確信が、胸に広がった。
レーネとレーヴェンハウプトは、知らないのかもしれない。
あるいは——見ていないのかもしれない。
だが、アームフェルトは——
彼は、見た。
何かを。
足を速めた。
雪の中を、急いで。
彼の宿舎は石造りの建物だった。かつては貴族の館だったものを、将軍たちの宿舎としていた。階段を上り、アームフェルトの部屋の前に立った。
扉をノックする。
返事がない。
もう一度、ノックする。
「入れ」
声が聞こえた。
だが、それはアームフェルトの声ではなかった。誰か別人の、壊れた声だった。
扉を開けた。
部屋は暗かった。
窓のカーテンが閉められ、光が入らない。薄暗い中で、一つの人影が見えた。アームフェルトが、椅子に座っていた。
机の上に、酒瓶が並んでいる。
空の瓶が、五本。
六本目を、彼は握っていた。
「グスタフ.... 」
呼びかけた。
アームフェルトが顔を上げた。
その目を見た瞬間——
息が止まった。
虚ろだった。
何も映っていなかった。
かつて正義を信じていた、鋼鉄の男の目が。
「レイフか」
彼が呟いた。
「何の用だ」
その声には、力がなかった。まるで魂が抜けたような。
「何があった.....?」
私は恐る恐る聞く。このような彼を見るのは初めてだった。
部屋に入り、扉を閉めた。椅子を引いて、彼の向かいに座った。
アームフェルトは酒を飲んでいた。瓶を口に運び、飲み、また机に置く。その動作が機械的だった。
その時に気がついた。
私の勘は間違っていなかったのだと。
「一体フロウシュタットで、何があった」
私は机に手をつき、彼に訊いた。
アームフェルトは——
何も答えなかった。
ただ、酒を飲んだ。
「グスタフ!」
身を乗り出した。
彼が私を見た。その目に、何かがあった。痛み。それとも——絶望。
「お前、一体何を見た。遠征前に私に言った言葉を忘れたか?」
その問いに——
アームフェルトの拳が、震えた。瓶を握る手が、小刻みに震えている。
「信念を忘れるな、か」
彼の声が、掠れた。まるで何かを嘲笑うかのように。
「思い出したく無かったよ」
彼の拳が、机を叩いた。
「俺は何もできなかった」
何かが、あった。
何か、取り返しのつかないことが。
フロウシュタットで。
その事実だけが私の頭を蝕む。
(一体何が....)
「グスタフ」
彼の肩に手を置いた。
「何があった?言ってくれ」
「言えない」
アームフェルトが——
私を見た。
その目に、涙が滲んでいた。
「レイフ」
彼が呟いた。
「俺は——」
言葉が、続かなかった。
ただ、涙が流れた。
声を出さずに。
鋼鉄の男が。
正義を信じた男が。
初めて。
何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
彼の肩に手を置いたまま。
時間が過ぎた。
窓の外では、雪が降り続けていた。
やがて、アームフェルトが顔を上げた。
「すまない」
彼が呟いた。その言葉は私以外にもこの場にいない誰かに言っているように思えた。
アームフェルトはそれ以上何も言わなかった。
ただ、酒瓶を見ていた。
呆然と。
「レイフ」
「ああ」
「お前は——」
彼の声が、震えた。
「お前は、まだ陛下を信じているか」
その問いが——
胸に突き刺さった。
信じているか。
カールを。
あの少年王を。
それがどういう意図だったのかは分からない。
だが、私は答えられなかった。
今までなら何も疑わない質問だったはずなのに。
そしてアームフェルトが、小さく笑った。
「そうか」
彼が呟いた。
「お前も、か」
何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
二人とも、答えを持たないまま。
翌日、カールに報告することになっていた。
ワルシャワでの治安維持の状況を。
王宮へ向かった。石造りの廊下を歩く。足音が反響する。衛兵が敬礼する。
執務室の扉の前に立つ。
深呼吸をする。
そして、ノックした。
「入れ」
カールの声が聞こえる。
扉を開ける。
室内には、カールが一人で立っていた。窓辺で、街を見下ろしている。その背中が、以前より細く見えた。
「レイフ」
彼が振り返る。
その目を見た瞬間、息を飲んだ。
氷のような蒼い双眸。
以前よりも、もっと透明で。
だが——
その奥に、何かがあった。
疲労。
それとも——
何か、別のもの。
「報告しろ」
カールが机に向かった。
「はい」
書類を取り出した。
「ワルシャワの治安は、安定しております」
「数字は」
「先月は十五件の武器押収、八名の連行、そして2名の処刑です。」
その数字を聞いて——
カールの手が、止まった。
「二名?」
「はい」
「前月は?」
「——五十三名です」
カールが顔を上げた。
「異様な減り方だ」
「はい」
「なぜだ」
喉が、締まった。
「レイフ」
カールの声が、低くなった。
「何があった」
彼を見た。
その透明な目を。
「罪の軽重により、対応を変えております」
「対応を変えた?」
「はい」
答えた。
「武器を隠し持つのみの者は、収監に留めています」
「収監?」
カールの目が、鋭くなった。
「余の命令は、射殺だったはずだが」
「はい」
頷いた。
「ですが、ワルシャワの治安の全権を陛下は私に委ねられました」
カールが立ち上がった。
「レイフ」
カールが私に近づいた。
「お前は、余の命令に背いたのか」
その言葉が——
部屋に落ちた。
重い響き。
彼を見た。
「はい」
その言葉が、口から出た。不思議とその言葉を発するのは苦痛では無かった。
カールの目が——
わずかに見開かれた。
「何?」
「陛下の命令に、背きました」
彼を見た。
「ですが、私はこれが正しいと思いました。処分なら受け入れます。」
「正しい、だと?」
カールの声が、震えた。
「お前、自分で何が善で、何が悪かを決められる気でいるのか?」
「——いえ」
首を横に振った。
「お前はいつから逆らうようになった。いつから自我を持った?」
カールの声が、部屋を震わせた。
カールが、窓の方へ歩く。
背を向けたまま、口を開いた。
「レイフ」
その声は、低かった。
私は何も言えなかった。
カールが私の前に立った。
「次はない」
その声は、刃のようだった。
「分かったか」
「はい」
「お前は余の剣だ」
また、その言葉。
「剣は持ち主を選べない、そして刃こぼれすれば捨てられる——」
カールの目が、私を射抜いた。
「忘れるな」
その言葉が——
胸に突き刺さった。
頭を下げた。
「承知しました」
だが、心の中で——
何かが、叫んでいた。
「下がれ」
カールが背を向けた。
一礼して、部屋を出た。
廊下に一人。
壁に手をつく。
息が、苦しかった。
折れる。
その言葉が、まだ耳に残っていた。
私は、捨てられるのか。
それとも——
答えが、出なかった。
その夜、私は眠れなかった。
天幕に横たわり、天井を見ていた。
カールの言葉が、頭の中で反響していた。
「次はない」
「刃こぼれすれば捨てられる」
私は起き上が理、窓の外を見る。
月が出ていた。
白く、鋭い月。
その光が、雪を照らしていた。
気分を紛らわせるために私は外に出た。
城の中庭を歩く。
雪が降っていた。
足跡が、雪に残る。
その時だった。
たまたま、声が聞こえてきた。
「アームフェルト将軍」
それはステンボックの声だった。
足を止めた。
柱の陰に身を隠す。
中庭の向こうに、二人の人影が見えた。
ステンボックと、アームフェルト。
「こんな夜分に何の用だステンボック」
アームフェルトの声が、低い。まだアルコールが残っているようだった。
「失礼、あなたを見に参りました」
ステンボックが言った。
「俺をか?」
「はい。皆様のいる前でする話ではないと思い。では、本題に入りますが、」
「あなた、このままだと破綻しますよ。」
ステンボックの声が、静かになった。
その言葉に——
アームフェルトの体が、わずかに震えた。
「どういうつもりだ」
アームフェルトの声が、震えながら疑問を投げうつ。
「幼い頃から私には見えるのですよ。嘘で塗り固められた人の顔が」
ステンボックの顔はいつも通り無表情だった。だが、その顔がいつになく恐ろしく見えた。
「普段のあなたは『それらの人種』とは無縁の人間のはずです。
なのに、なぜ今、そんなに酷い顔をしているのか」
その場に沈黙が落ちる。
「俺は....」
ステンボックが手を上げた。
「どうやら思わぬ来客がいたようです」
二人が振り返り、物陰に隠れていた私を見る。
「レイフ殿、人が悪いですよ」
ステンボックが私を見た。その目に、驚きはなかった。まるで、私がここにいることを知っていたかのように。
「すまない。たまたま通りかかっただけで盗み聞きするつもりはなかった。」
私は弁明し、二人に近づいた。
雪の中を、歩いて。
アームフェルトが私を見た。
「レイフ——」
「グスタフ」
彼の前に立った。
「お前に何があったのかは知らない。だが、お前は一人じゃない。私たちがいる」
三人の間に、静けさが落ちた。
雪が降っている。
風が吹いている。
その中で——
立っていた。
やがて、アームフェルトが口を開いた。
「俺は——」
彼の声が、震えた。
「何も、止められなかった」
その言葉に——
ステンボックが眉をひそめた。
「何を止められなかったのです?」
アームフェルトは——
答えなかった。
ただ、俯いていた。
ステンボックが聞く。
「話せないのですか」
アームフェルトは何も答えない。ただ全てを抱え込むかのように。
「箝口令ですか」
「——」
アームフェルトの無言が、答えだった。
ステンボックが深く息を吐いた。
「承知しました」
彼が空を見上げた。
「陛下の、御命令ですか」
「——」
「ならば、我々は何も訊きません」
ステンボックがそう言い、私に視線を寄せる。
お前も何か知らないのか?そう目で言っているようだった。
私はただ首を横に振った。
そうして沈黙が落ち、雪の中で時間が過ぎた。
やがて、ステンボックが口を開いた。
「数日後、レシチンスキ殿の擁立式があります」
「ああ」
私は頷いた。
「アウグストが廃位され、レシチンスキという方がが新王として擁立される」
「だが、彼は完全な傀儡でしょう。明日をもってポーランドは、完全に陛下の手に落ちる」
ステンボックの声に、重みがあった。
「五年です。五年かけて、ここまで参りました」
彼が私を見た。
その問いに——
答えられなかった。
勝利。
カールは、我々は勝ち続けた。
ナルヴァで。
リガで。
ワルシャワで。
フロウシュタットで。
全て、勝った。
だが——
「これが——」
声が、震えた。
「これが、私たちの望んだ勝利なのか」
その問いが、雪の中に消えた。
ステンボックは——
すぐには答えなかった。
ただ、空を見ていた。
アームフェルトも、黙っていた。
俯いたまま。
長い沈黙。
「望もうが、望むまいが」
「これが、あなた方が命を投げ打った結果です」
その言葉が——
雪の中に落ちた。
三人とも、何も言わなかった。
風が吹いた。
雪が舞った。
ただ——
静けさだけがあった。
冬の夜の、静けさ。
三人の間に、静けさが落ちた。
その静けさの中で——
ただ、やるせない気持ちだけが胸の中に溢れていく。
数日後、擁立式の日が来た。
広場に、民衆が集められていた。何千もの人々が、整然と並んでいた。
老人、若者、女性、子供、皆が静かに立っていた。
スウェーデンの兵士たちが、周囲を固めている。
私は壇上の後方、赤い幕の影に立っていた。将軍たちの控えの場所。
そこから、全てが見えた。
レシチンスキの背中、壇上の光景、そして——観客席の、顔。
壇上には階段が設置され、赤い布が敷かれていた。その上に玉座が置かれている。金色の装飾が施された、ポーランド王の玉座。
そして鐘が鳴った。正午を告げる、重い鐘の音。
その音に合わせて、行列が始まった。
まず、旗手たちが来た。ポーランドの旗を掲げている。白と赤の旗が、風になびいている。スウェーデンの旗ではなく、ポーランドの旗。その選択に、意図があった。
次に、貴族たちが続いた。豪華な衣装を纏い、整然と歩いている。その顔に、笑みがあった。だが、その笑みは硬かった。まるで、描かれたような。
そして——カールが現れた。
金色の髪が、陽光に輝いている。青い外套を纏い、剣を腰に下げている。その姿は、絵画のようだった。民衆が息を飲んだ。だが、歓声は上がらなかった。ただ、黙っていた。
カールは壇上に上がったが、中央には立たなかった。端に、控えめに。まるで、ただの来賓のように。だが、その存在が——全てを支配していた。
その後ろから、もう一人の男が現れた。スタニスワフ・レシチンスキ。四十代半ばの、痩せた男。金色の衣装を纏い、冠を持つ従者を従えている。彼が、壇上に上がった。
そして最後に司祭が前に出た。白い法衣を纏い、聖書を手にしている。祝福の言葉を述べ始めた。
「神の御加護のもと、新たな王がここに立つ」
「ポーランドに、平和と秩序をもたらす王が」
その言葉が、続いた。従者が冠を運んできた。金色の、重厚な冠。宝石が埋め込まれ、陽光を反射している。
レシチンスキが——それを手に取った。
自ら、取った。誰からも授けられることなく。彼は両手でそれを持ち上げ、ゆっくりと自分の頭に載せた。その動作は、練習されたものだった。滑らかで、迷いがなかった。
「これより、余が王である」
レシチンスキの声が、広場に響いた。震えていた。だが、はっきりと響いた。彼は民衆を見下ろした。その目に、何かがあった。決意。それとも——必死さ。
沈黙が落ちた。長い、重い沈黙。
やがて——拍手が起きた。
最初は、小さな音だった。だが、すぐに広がった。広場全体から、何千もの手が叩かれる音が響き始めた。波のように、広がっていく。大きな音、途切れない音。
私は、観客席を見ていた。
無数の顔。老人、若者、女性、子供。皆、拍手をしていた。笑顔を浮かべていた。祝福の言葉を口にしていた。
だが——その目を見た。
ある老人が、規則的に手を叩いていた。機械的に。
だが、目は——何も映していなかった。
空虚だった。まるで、どこか遠くを見ているような。
若い女性が、隣の子供に微笑みかけていた。子供の手を取り、一緒に拍手をさせている。だが、その微笑みの下に——何かがあった。
こわばりが。
その目の奥に、恐怖が見えた。一瞬だけ、だが確かに。
子供が、旗を振っていた。ポーランドの旗を。白と赤の旗を。その動きは——教えられた通りの動き。ぎこちなく、だが懸命に。まるで、正解を求めているような。
拍手は、続いた。いつまでも。誰も、止めなかった。
その音が——広場を満たしていた。
大きな音。
途切れない音。
だが——
私たちはこの瞬間を望み戦った。
デンマークを攻め落とし、ナルヴァでロシア軍を打ち倒してから五年。
この瞬間のために仲間が、部下が命を失い、死んでいった。
だが、私は不思議とその瞬間は感じなかった。
勝利の熱を。栄光の喜びを。
それは、冬だからかもしれない。だが、心も身体も暖かさを感じることはなかった。
レシチンスキが、手を上げた。民衆に応えるように。その手は、震えていた。わずかに、だが確かに。彼は笑顔を作った。だが、その笑顔は——カールを見ていた。一瞬だけ。確認するように。
カールは、動かなかった。壇上の端に立ったまま、ただ前を見ていた。表情は、変わらなかった。だが、その存在が——全てを語っていた。
拍手は、まだ続いていた。
広場全体から。何千もの手から。
その音が——私の耳に響いていた。
だが、心には届かなかった。
ただただ底の見えない冷たさだけがその場にはあった。




