第25話 覆水盆に返らず
これは、私が知らなかった物語である。
その日、私はワルシャワにいた。街の治安維持にあたり、カールの命令に背き続けていた。武器を隠し持つ者を釈放し、罪のない者を見逃し、自分の意志で判断を下していた。
だが、二百キロ離れたフロウシュタットで何が起きていたのか、私は知らなかった。
勝利の知らせは届いた。
大勝利、完璧な勝利、神の如き采配。
だが、その後に何があったのか。
それを私が知ったのは、ずっと後のことだった。
箝口令が敷かれ、その真実を誰も語ることを許されなかった。
兵士も、将軍も、誰も。
だが、一人の男が、やがて私に語った。
それは戦争が終わり、全てが灰になった後のことだった。
彼は酒に酔い、涙を流しながら、あの日のことを語った。
カール・グスタフ・アームフェルト。
鋼鉄の男と呼ばれた、正義の人。
彼が見たものを。
彼が聞いたものを。
彼が、止められなかったものを。
これは、その物語である。
私は、そこにいなかった。
だが、語らねばならない。
あの日、フロウシュタットで。
何が、失われたのかを。
1706年、2月。
フロウシュタットの平原
霧が晴れた。
朝日が戦場を照らし、その光が無数の死体を浮かび上がらせた。
ポーランド・ザクセン連合軍の死体が、雪の上に散乱していた。
だが、スウェーデン軍の死者は少なかった。
それはまさに、圧倒的な勝利だった。
わずか数時間の戦闘で、アウグスト二世率いる二万の軍を打ち破った。カール十二世の采配は完璧だった。夜明け前の奇襲、敵の混乱、そして容赦ない追撃。
戦場に、スウェーデンの旗が立った。
青と黄色の旗が、風になびいている。
兵士たちが歓声を上げた。
「勝利だ!」
「また勝った!」
「陛下万歳!」
声が重なり、歓喜の渦が戦場を満たした。兵士たちが互いの肩を抱き合い、剣を掲げ、泣き笑いしていた。
「これで何連勝だ!」
「数えきれねえよ!」
「陛下は無敵だ!」
「軍神そのものだ!」
その言葉が、何度も繰り返された。
軍神。
もはや、カール十二世は人間ではなかった。兵士たちの目には、彼は神として映っていた。負けることのない、完璧な、遠い存在として。
丘の上に、レーネとレーヴェンハウプトが立っていた。
二人とも馬から降り、戦場を見下ろしていた。
「完璧な勝利じゃな」
レーネが呟いた。その声には、疲労と安堵が混じっていた。
「ああ」
レーヴェンハウプトが頷いた。
「陛下の采配は、もはや芸術だ」
「芸術、か」
レーネが苦笑した。
「わしには、ただ恐ろしいだけじゃがな」
レーヴェンハウプトが彼を見た。
「何が?」
「あの方の完璧さが」
レーネが遠くを見た。そこには、カールが立っていた。馬に乗り、剣を掲げ、兵士たちの歓声に応えている。その姿は、まるで絵画のようだった。
「人間は、間違える」
レーネが呟いた。
「だが、あの方は間違えん」
「それは良いことじゃねぇか」
「そうじゃろうか」
レーネがレーヴェンハウプトを見た。
「私にはそれが少し、異様に思えてな」
彼は言葉を継がなかった。
レーヴェンハウプトが肩を叩いた。
「考えすぎだ、レーネ」
彼が笑った。
「勝ったんだ。それでいいじゃないか」
「そうじゃな」
レーネも笑った。だが、その笑みは弱かった。
「早く帰還して、祝勝の酒だ」
レーヴェンハウプトが馬に乗った。
「ああ」
レーネも馬に乗ろうとした時、ふと気づいた。
「アームフェルトが、まだ戻っておらん」
「あいつか」
レーヴェンハウプトが首を振った。
「どうせ真面目に戦後処理でもしてるんだろ」
「そうじゃろうな」
レーネが頷いた。
「あやつは、そういう男じゃ」
「俺たちは先に帰るぞ」
「ああ、あやつの分も、いい酒を取っておいてやろう」
二人は笑った。
そして、馬を走らせた。
戦場を離れ、街道へ向かっていく。
彼らの背中が、だんだん小さくなっていった。
だが、彼らは知らなかった。
アームフェルトが、これから何を見るのかを。
何を聞くのかを。
何を、背負わされるのかを。
戦場の反対側では、捕虜の収容が行われていた。
そこには、途方もない数の兵士がいた。
数千。
いや――
もっとだ。
六千、七千、八千。
スウェーデンの兵士たちが、その数に圧倒されていた。
「こんなに――」
「多すぎる――」
捕虜たちは、武器を捨て、手を上げていた。制服を脱がされ、ただの服を着せられていた。もはや兵士ではなく、ただの人間として。
スウェーデンの兵士たちが、彼らを列に並べていった。
「手を後ろに」
「縄で縛るぞ」
捕虜たちが従った。両手を後ろに回し、縄で縛られた。抵抗する者はいなかった。
ある若い捕虜が、隣の仲間に囁いた。
「アウグスト様は――」
「逃げられたそうだ」
「俺たちを置いて?」
「ああ」
若い捕虜の顔が、歪んだ。
「なら、俺たちは――」
「捕虜になっても、いずれ解放される」
年上の捕虜が言った。
「そうだな」
二人は安堵の息を吐いた。
周囲の捕虜たちも、同じように安堵していた。
負けた。
だが、生きている。
それだけで、十分だった。
スウェーデンの兵士たちは、捕虜の数を数えていた。
「まだ増えるぞ――」
「こんなに多いのか――」
一人の下士官が、副官に報告した。
「八千を超えました」
「八千?」
副官が驚いた。
「我が軍は.... 5千しかいないんだぞ....」
「はい」
「捕虜の方が、ほぼ同数ということか」
「はい」
沈黙が落ちた。
副官が、遠くの丘を見た。
そこに、カールの天幕がある。
「陛下に、報告しなければ」
「はい」
だが、副官は動かなかった。
何かを恐れているようだった。
正午を過ぎた頃、カールが天幕に戻った。
将軍たちが集まっていた。だが、その数は少なかった。レーネもレーヴェンハウプトも、既に帰還の途についていた。残っているのは、親衛隊の指揮官たちだけだった。
カールが地図の前に立った。
「報告しろ」
一人の将校が前に出た。
「捕虜は――」
彼の声が、わずかに震えた。
「八千を超えます」
その数字が、天幕に落ちた。
沈黙が広がった。
カールが、ゆっくりと振り返った。
「八千?」
「はい」
「我が軍は」
「既に帰還したレーネ、レーヴェンハウプト両軍を除けば5千です」
「アームフェルトはどうした」
「近くの村に用事があると、言われていました」
カールが黙った。
彼の目が、何かを計算していた。
「そうか....」
「彼らを呼び戻しますか?今のままでは危険で――」
「捕虜の武器は?」
カールは彼の言葉を遮る。まるで聞こえないかのように、自分しか存在していないかのように。
「――全て没収しました」
「制服は?」
「脱がせました」
「縛ったか」
「全員、手を後ろで縛っています」
カールが頷いた。
「よくやった」
彼は地図を見た。そこには、ポーランド全土が描かれていた。赤い印が、無数についている。制圧した都市、戦場、街道。
「これで、ポーランドは余の手に落ちた」
カールの声は、平坦だった。勝利の喜びも、安堵もなかった。ただ、事実を述べるだけの声だった。
「アウグストは?」
「逃走しました。ザクセンへ向かったと思われます」
「追え」
「しかし、陛下。冬の街道は――」
「追えと言っている」
カールの声が、低くなった。
将校が頭を下げた。
「はっ」
カールは窓の外を見た。そこには、捕虜たちが座り込んでいるのが見えた。八千の人間が、雪の上で震えていた。
沈黙が落ちた。
長い、重い沈黙。
やがて、カールが口を開いた。
「捕虜を、森へ連れて行け」
その言葉に、将校たちが顔を見合わせた。
「森へ、ですか」
「ああ」
カールは振り返った。
「そこで解放する、と伝えろ」
「はっ」
将校が頭を下げた。
だが、その目には疑問があった。
なぜ、森なのか。
なぜ、ここで解放しないのか。
だが、誰も問わなかった。
カールの命令は、絶対だった。
午後、捕虜たちは森へ連行された。
雪が降り始めていた。冷たい雪が、顔に当たる。
捕虜たちは列を成して歩いた。スウェーデンの兵士たちが、その両側を固めていた。
ある捕虜が、隣の仲間に囁いた。
「どこへ連れて行かれるんだ」
「分からない」
「解放してくれるんだろうか」
「そうだといいが」
不安が、列の中を流れていった。
だが、抵抗する者はいなかった。武器はなく、疲れ果てていた。ただ、従うしかなかった。
森は深かった。
木々が密集し、枝が雪を支えていた。足音が、雪を踏む音だけが響いていた。
やがて、開けた場所に出た。
広い空間。周囲を木々に囲まれた、天然の円形劇場のような場所だった。
「ここで止まれ」
スウェーデンの兵士が命令した。
捕虜たちが立ち止まる。
「座れ」
捕虜たちが雪の上に座り込んだ。疲労が、全身を支配していた。ある者は目を閉じ、ある者は仲間と小声で話し、ある者はただ呆然としていた。
スウェーデンの兵士たちは、彼らを囲むように配置された。
静寂が落ちた。
風が吹き、雪が舞った。
時間が過ぎた。
だが、何も起きなかった。
捕虜たちは、ただ待っていた。
解放を。丘の上に、天幕が張られていた。
カールが、その中にいた。
一人で。
彼は椅子に座り、何かを見ていた。
小さな本。
革装丁の、薄い本。
詩集だった。
カールの指が、そのページをめくった。ゆっくりと、一枚ずつ。
その本には、余白に文字が書き込まれていた。
別の筆跡で。丁寧な、だが力強い文字。
レイフの文字だった。
カールが初めて王位についた時、レイフが贈った詩集。
カールは、それを肌身離さず持っていた。
彼の指が、ある一節で止まった。
「強き者は剣を振るう。だが、最も強き者は剣を置く」
その余白に、レイフの文字があった。
「陛下、いつかこの意味が分かる日が来ることを願っています」
カールは、その文字を見つめていた。
長い間。
やがて、彼は本を閉じた。
そして、胸元に仕舞い込んだ。
立ち上がった。
天幕の外に出た。
雪が降っていた。
カールは、森の方を見た。
そこに、数千の捕虜がいる。
彼の敵。
彼の勝利の証。だが――
彼の手が、胸元に触れた。
詩集が、そこにある。
レイフの言葉が、そこにある。だが――
カールは、その手を下ろした。
そして、親衛隊長を呼んだ。
「捕虜を――」
カールの声が、止まった。
風が吹いた。
雪が、顔に当たった。
カールは、目を閉じた。
一瞬だけ。
そして、目を開けた。
その目には、何もなかった。
「全て殺せ」
その言葉が、ポツリと冷たく落ちた。
親衛隊長が天幕を出た時、彼の顔は青ざめていた。
他の将校たちが、彼を見た。
「どうした」
「陛下が――」
親衛隊長の声が震えていた。
「陛下が、何と」
「全て――」
彼は、その言葉を言えなかった。
だが、将校たちは理解した。
沈黙が落ちた。
誰も、何も言わなかった。
やがて、一人が口を開いた。
「命令、なのか」
「ああ」
「八千人だぞ.... 」
「だが――」
「陛下は、俺たちを信頼してくださっている」
親衛隊長が彼らを見た。
「だからこの任務を、俺たちに託されたんだ」
その言葉に、将校たちが顔を見合わせた。
「俺たちだけに?」
「ああ。レーネ様も、レーヴェンハウプト様も知らない」
親衛隊長が拳を握った。
「陛下は、俺たちなら耐えられると信じてくださっている」
沈黙が落ちた。
「陛下の判断は――」
一人が呟いた。
「これまで、いつも正しかった」
「ああ」
別の者が頷いた。
「ナルヴァも、リガも、ワルシャワも」
「全て、陛下の判断が正しかった」
「ならば――」
彼らは、互いを見た。
そして――
ゆっくりと自分を説得するかのように頷いた。
「部隊を集めろ」
そんな彼らを見て親衛隊長が歩き出した。
親衛隊長が歩き出した。
「部隊を集めろ」
森の中で、捕虜たちはまだ待っていた。
だが、雰囲気が変わり始めていた。
スウェーデンの兵士たちが、銃を構え始めたのだ。
ある捕虜が、それに気づいた。
「おい――」
「何だ」
「あいつら、銃を――」
その瞬間、命令が下った。
「構え」
スウェーデンの兵士たちが、一斉に銃を構えた。
捕虜たちが、理解した。
「まさか――」
「やめろっ!」
誰かが叫んだ。
だが、遅かった。
「撃て」
最初の銃声が響いたのは、午後二時だった。
森の外では、鳥たちが飛び立った。数百羽の黒い影が、木々から舞い上がり、空へ消えていった。銃声は規則的に響き、やがて重なり、やがて途切れなくなった。
ある若い兵士が、銃を構えながら震えていた。指が、引き金にかからない。
目の前に、捕虜が膝をついていた。
まだ少年だった。
十代半ばだろうか。
泥にまみれた顔で、兵士を見上げていた。
その唇が動いた。
何か言っている。
聞き取れない。
祈りか。
母の名か。
「早くしろ!」
背後から、下士官の怒声が飛んだ。
兵士は歯を食いしばった。
銃を握り直した。
そして――
引き金を引いた。
少年の体が、後ろに倒れた。
血が、雪を赤く染めた。
兵士は動けなくなった。
ただ、その場に立ち尽くしていた。
「次だ! 次を撃て!」
だが、兵士の手は動かなかった。
時間が経った。
銃声は止まらなかった。
兵士たちの中に、異変が起き始めていた。
ある者が、銃を放り出した。
「もう無理だ――」
「拾え!」
下士官が怒鳴った。
「拾って撃て!」
「できない――」
兵士が膝をついた。
「俺には、できない――」
下士官が、その兵士を殴った。
「軍神の命令だぞ!」
だが、兵士は立ち上がらなかった。
ただ、雪の上で嘔吐していた。
やがて、銃声が止んだ。
森は、静まり返っていた。
風が吹き、雪が舞った。
それ以外の音は、何もなかった。
兵士たちは、その場に立ち尽くしていた。
銃を握ったまま。
動けなかった。
ある者は、座り込んでいた。
ある者は、木に寄りかかっていた。
ある者は、嘔吐していた。
誰も、何も言わなかった。
言葉が、出なかった。
だが――
数人の兵士の顔には奇妙な笑みが浮かんでいた。
その笑みが何を意味するのか。
誰も、知ろうとしなかった。
そんな時だった。
森の外から、馬蹄の音が聞こえた。
誰かが来る。
兵士たちが顔を上げた。
馬が、森の入り口に現れた。
その上に、一人の男が乗っていた。
金髪、筋肉質、鋼のような目。
カール・グスタフ・アームフェルト。
なぜ彼がここに。
誰もがそう思っただろう。
アームフェルトは、馬を降りた。
そして、歩き始めた。
森の中へ。
血の匂いが、鼻を突いた。
足元に、何かがあった。
見下ろすと――
死体だった。
アームフェルトの足が止まった。
前を見た。
そこには――
地獄があった。
死体の山。
血の川。
雪は、もう白くなかった。
全てが、赤黒く染まっていた。
「何が――」
アームフェルトの声が、震えた。
「ここで何が、起きた――」
彼は、前に進んだ。
死体を避けながら。
だが、避けきれなかった。
足が、死体を踏んだ。
柔らかい感触。
アームフェルトが立ち止まった。
見下ろした。
若い男の死体だった。
目を開いたまま、空を見ていた。
アームフェルトは――
何も言えなかった。
ただ、その場に立ち尽くしていた。
やがて、彼は一人の兵士を見つけた。
スウェーデンの兵士。
木に寄りかかり、座り込んでいた。
アームフェルトが近づいた。
「おい」
兵士が顔を上げた。
その目は、虚ろだった。
「これは、何だ....!」
アームフェルトが怒声を上げる。
「答えろ!これは何だ」
兵士は――
何も答えなかった。
ただ、アームフェルトを見ていた。
「誰が命じた」
アームフェルトの声が、大きくなった。
「誰が、こんなことを――」
「陛下です」
別の声が聞こえた。
アームフェルトが振り返った。
そこには親衛隊長が立っていた。
三十代半ばの黒い髪に鋭い目。
トルステン・リューデルという男だった。
「陛下の、御命令です」
その言葉が――
アームフェルトの動きを止めた。
「陛下が――」
「はい」
リューデルが頭を下げた。
「我々は、ただ従っただけです」
アームフェルトは――
何も言えなかった。
彼の拳が、震えていた。
「リューデル」
アームフェルトの声が、低くなった。
「お前は、これを止めようとしなかったのか」
リューデルが顔を上げた。
その目には、何の迷いもなかった。
「陛下の、御命令です」
「命令だから、従った?」
アームフェルトの声が、大きくなった。
「八千の捕虜だぞ。降伏した者たちだ」
リューデルは――
静かに答えた。
「我々は、陛下の剣です」
「剣は、持ち主に従うもの」
アームフェルトは――
その言葉を聞いて、何かが切れた。
「何阿呆なこと言ってる....」
彼の声が、森に響いた。
「主が道を誤った際に――」
アームフェルトが一歩、前に出た。
「正すのが、臣下の役目だ!
ただ黙って追従するのは正義ではない!」
沈黙が落ちた。
風が吹き、雪が舞った。
やがて――
リューデルが口を開いた。
「陛下は、誤りません」
アームフェルトは――
何も言えなかった。
彼の拳が、震えていた。
「お前じゃ話にならない....」
やがて、彼は歩き出した。
丘の上へ。
天幕へ。
アームフェルトが天幕の扉を開けた時、その音は荒々しかった。
「陛下ッ!!」
カールが振り返った。
その目は、冷たかった。
「アームフェルトか」
「あれは――」
アームフェルトの声が震えていた。
「あれは、降伏し、武器を捨て、命乞いをした者たちでした。」
アームフェルトが一歩、前に出た。
「そんなことは知っている」
カールの声は、平坦だった。
「ならば、なぜ!?」
アームフェルトの怒声が、昂る。
「なぜ、あのようなことを...!?」
カールは、彼を見た。
「奴らは敵だ」
「彼らは降伏したはずです」
「今は、な」
カールが窓の外を見た。
「だが、解放すれば、また剣を取る」
「それは、分かりません」
「いや、分かる」
カールが振り返った。
「余は、可能性を許さない」
「可能性――」
アームフェルトが拳を握った。
「それは、ただの恐れではないでしょうか」
カールの目が、わずかに動いた。
「お前は何を言っている」
「陛下は、恐れておられる」
アームフェルトが彼を見た。
「負けることを」
「黙れ」
「勝ち続けなければならないという重圧が――」
「黙れと言っている」
カールの声が、天幕を震わせた。
沈黙が落ちた。
二人が、向き合っていた。
風が、天幕の布を揺らしていた。
「陛下」
アームフェルトが、静かに言った。
「これは、もう戦ではありません。ただの虐殺です」
その言葉が、カールの何かを刺激した。
「虐殺、か」
カールが一歩、近づいた。
「では聞くが、アームフェルト」
彼の声が、低くなった。
「余が情けをかけて、もし味方の兵が一人でも死んだなら、余はどうすればいい」
「それは――」
「その墓に、何と詫びればいい」
カールの声が、震えた。
「余は――」
彼の手が、握られた。
「余は、王だ」
その声は、若かった。
まだ二十歳の、少年の声だった。
「余が判断を誤れば、何千もの兵が死ぬ」
「陛下――」
「余には、間違える資格がない」
カールが拳を握りしめた。
「だから――」
彼の声が、途切れた。
「だから、完璧でなければならない」
アームフェルトは――
その姿を見ていた。
拳を握りしめ、震えている少年王を。
だが――
彼の中で、何かが切れた。
「完璧?」
アームフェルトの声が、変わった。
「八千の捕虜を殺すことが――」
彼の声が、いつになく大きくなった。
「完璧なのですか!」
カールが、わずかに後ずさった。
「既に降伏した者を、縄で縛られた者を殺すことが――」
アームフェルトが一歩、前に出た。
「勝利なのですか!」
「お前は――」
「答えてください!」
アームフェルトの声が、天幕を震わせた。
「それが、王のすることですか!それが、完璧なのですか!」
カールは――
何も答えなかった。
「陛下は、勝ち続けなければならないと仰った」
アームフェルトの声が、震えた。
「ですが、それは答えになっていません」
「私が問うているのは――」
彼の拳が、握られた。
「降伏した者を殺したことです。勝ち続ける必要があるかどうか、ではありません」
沈黙が落ちた。
「論点を――」
アームフェルトの声が、低くなった。
「すり替えないでください」
その言葉に――
カールの何かが、崩れた。
「お前は――」
今まで不動と思えたカールの声が震えた。
「余が――」
カールが拳を強く握る。。
「余がいなければ――」
「5倍ものロシア軍に、ナルヴァで誰が勝った!?」
「冬のリガの包囲を誰が解けた!?」
「ポーランドを下せたのも全部――」
カールの声が、大きくなった。
「全て、余がいたからだ!余がいたから、ここまで来た。余が命じ、余が率いた」
その声は、もはや叫びだった。
「だから、スウェーデンはここまで来たんだ!」
「だから、皆が勝利を謳歌してる!」
カールの拳が、机を叩いた。
「余が――」
「余がいたから!」
「余が、勝ち続けたから!」
その声は――
悲鳴に近かった。
カールが窓の外を見た。
「だから、余は――」
彼の声が、震えた。
「勝ち続けなければならない」
「負ければ――」
その声が、低くなった。
「全てが、崩れる」
「全てが――」
カールが振り返った。
「だから、止まれない」
「勝ち続けるしか――」
彼の拳が、震えていた。
「ないんだ」
沈黙が落ちた。
アームフェルトは――
その姿を見ていた。
拳を握りしめ、震えている少年を。
王冠の重さに押し潰されている、一人の若者を。
そして――
その瞬間に理解してしまった。
分かり合うことはできない。
そして、この虐殺はもう止められない、と。
アームフェルトの怒りが――
静かに、消えていった。
「……そうですか」
その声は、静かだった。
カールが顔を上げた。
「陛下」
アームフェルトが、静かに言った。
「あなたは――」
彼の声が、震えた。
「何から、逃げておられるのですか」
カールの目が、鋭くなった。
「敗北からですか、それとも――」
アームフェルトが彼を見た。
「自分自身からですか」
カールの手が、剣の柄を握った。
「陛下は、人間です」
アームフェルトの声が、心なしか優しくなった。
「王である前に、人間です。間違えることも、迷うこともできます」
アームフェルトが、静かに言った。
「ですが――」
彼の声が、途切れた。
「無辜の民を殺す者は」
沈黙。
「もはや、王ではありません」
その言葉が――
カールを貫いた。
彼の目が、わずかに見開かれた。
だが、すぐに閉じられた。
「出て行け」
カールの声が、冷たくなった。
「陛下――」
「出て行けと言っている」
カールが背を向けた。
「これは――」
彼の声が、震えた。
「命令だ」
アームフェルトは――
その背中を見ていた。
長い間。
やがて――
彼は敬礼さえせずその場から去っていった。
外では、雪が降り続けていた。
アームフェルトは、その雪の中に立っていた。
ただ、立っていた。
拳を握りしめて。
何も言わずに。
処刑が終わった後も、森は静かだった。
兵士たちは、死体の処理を命じられた。
だが、誰も動かなかった。
動けなかった。
親衛隊長が、彼らを見回った。
「動け」
誰も動かない。
「命令だ。動け」
一人の兵士が、立ち上がった。
だが、すぐに膝をついた。
嘔吐した。
「もう――」
その兵士が呟いた。
「もう、無理です――」
親衛隊長は――
何も言えなかった。
彼自身も、限界だった。
やがて、彼は命令を変更した。
「いい。ここを離れろ」
「野営地に戻れ。今日のことは何も口外するな。」
兵士たちが、ゆっくりと立ち上がった。
そして、森を出ていった。
誰も、振り返らなかった。
日が暮れた。
カールは、一人で丘の上に立っていた。
森を見下ろしていた。
そこには、死体が残されていた。
雪が、それを覆い始めていた。
白い雪が。
カールの手が、胸元に伸びた。
何かを取り出した。
詩集。
レイフが贈った、詩集。
カールは、それを開いた。
風が、ページをめくった。
ある一節で、止まった。
「強き者は剣を振るう。だが、最も強き者は剣を置く」
カールは、その言葉を読んだ。
何度も。
だが――
理解できなかった。
剣を置く。
それは、敗北ではないのか。
弱さではないのか。
カールは、詩集を閉じた。
そして――
胸に仕舞い込んだ。
彼は、空を見上げた。
雪が降っていた。
冷たい雪が、顔に当たった。
カールは――
何も感じなかった。
ただ、冷たさだけがあった。
雪道を帰るアームフェルトの顔は苦しみに満ちていた。
彼の拳には爪が食い込み、肉を裂いていた。
だが、彼は気づいていなかった。
痛みを、感じていなかった。
ただ――
無力さと、行き場のない怒りだけが彼の心を満たしていた。
夜になった。
野営地に、兵士たちが戻ってきた。
だが、誰も話さなかった。
焚き火を囲んでも、沈黙していた。
ある兵士が、酒を飲んでいた。
一人で。
大量に。
だが、酔わなかった。
ただ、飲み続けた。
別の兵士が、震えていた。
毛布に包まっても、震えが止まらなかった。
また別の兵士が、泣いていた。
声を出さずに。
ただ、涙を流していた。
誰も、慰めなかった。
慰める言葉が、なかった。
深夜、カールが天幕に戻った。
机の上に、地図が広げられていた。
カールは、それを見た。
ポーランド。
ザクセン。
ロシア。
全てが、そこにあった。
カールの指が、地図の上を動いた。
次の戦場を探している。
次の勝利を。
だが――
彼の手が、止まった。
詩集が、胸元にある。
その重みを、感じた。
カールは――
その手を下ろした。
そして、地図に戻った。
次の戦いを。
翌朝、軍は出発した。
森を後にした。
そこには、無数の死体が残されていた。
雪が、それを覆っていた。
白い雪が。
だが、その下には――
血が、凍っていた。
出発する前、カールが命令を下した。
全軍を集めた。
そして、言った。
「このことは、一切口外するな」
その声は、冷たかった。
兵士たちが、頭を下げた。
誰も、何も言わなかった。
だが――
その目には、何かがあった。
恐怖。
それとも――
罪悪感。
カールは、それを見なかった。
ただ、馬に乗った。
そして、前を向いた。
「出発する」
軍が動き始めた。
だが――
その行進は、重かった。
勝利の後なのに。
誰も、歌わなかった。
誰も、笑わなかった。
ただ、黙々と歩いた。
アームフェルトは、最後尾にいた。
彼は、何度も振り返った。
森を見た。
そこに、何があるのかを知っている。
だが――
彼は、何もできなかった。
箝口令が敷かれた。
誰にも話せない。
レーネにも。
レーヴェンハウプトにも。
レイフにも。
誰にも。
アームフェルトは――
孤独だった。
ただ一人で、あの光景を背負わなければならなかった。
彼の手が、剣の柄を握った。
だが――
何もできなかった。
剣を抜くことも。
叫ぶことも。
何も。
彼は、ただ歩いた。
軍と共に。
ワルシャワでは、勝利の知らせだけが届いた。
「フロウシュタットで大勝利」
「アウグスト軍を完全撃破」
「陛下は無傷で凱旋される」
人々が歓喜した。
祝勝の鐘が鳴らされた。
だが――
レイフは、不安を感じていた。
使者の顔が、暗かったからだ。
勝利の知らせを伝える者の顔ではなかった。
「何があったのですか」
レイフが訊いた。
「いえ――」
使者が目を逸らした。
「何も」
だが、その目は嘘を語っていた。
レイフは――
それ以上問わなかった。
問えなかった。
数日後、軍が戻ってきた。
レイフは、城壁の上でそれを見ていた。
旗が見える。
兵士たちが行進している。
だが――
何かが、違った。
勝利の後なのに。
歌がない。
歓声がない。
ただ、沈黙していた。
レイフの胸に、不安が広がった。
夜、アームフェルトが戻ってきた。
レイフは、彼を訪ねた。
部屋の扉をノックした。
「入れ」
中に入ると、アームフェルトが一人で座っていた。
酒瓶が、テーブルにあった。
既に半分、空になっていた。
その夜、レイフは眠れなかった。
窓の外を見ていた。
月が出ていた。
冷たい、白い月。
その光が、雪を照らしていた。
レイフは――
何かを感じていた。
何かが、変わった。
カールが。
いや――
世界が。
だが、それが何なのか。
まだ、分からなかった。
遠く、フロウシュタットの森では。
雪が降り続けていた。
八千の死体を覆う、白い雪が。
だが――
その下には、血が凍っていた。
赤黒い血が。
それは、春になっても解けなかった。
夏になっても、消えなかった。
ただ、そこにあり続けた。
証として。
この日、失われたのは数え切れない命だけでは無い。
そしてそれは、降り積もる雪に埋もれていき、次第に見えなくなった。
まるでそこには初めから何も無かったかのように。




