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第23話 血塗れた手

朝日が目に差し込む。

だが、私にはそれが朝だと分からなかった。

天幕の布地を通して、光が差し込んでいる。白く、眩しい光。だが、それが何なのか、私には理解できなかった。


太陽。

朝日。

夜明け。

言葉は知っている。

だが、頭が理解しようとしなかった。

私は横たわったまま、その光を見ていた。


ただ、見ていた。

何も考えず、何も感じず。

そんな時、足音が近づいてきて天幕の入り口が開く。


「レイフ」


ヘニングの声だった。


「朝食を持ってたぞ」


彼が木の皿を置く音が聞こえた。パンと、チーズと、干し肉。昨日と同じものだ。

いや、昨日だったか。

それとも、もっと前か。

時間が、分からなかった。


「レイフ」


ヘニングが私の傍に膝をついた。


「食べてくれ」


私はその皿を見た。

だが、それが何なのか分からなかった。

食べ物。

その言葉は知っている。

だが、意味が分からなかった。

なぜ、それを口に入れなければならないのか。

なぜ、生きていなければならないのか。

答えが、出なかった。

ヘニングは何も言わなかった。

ただ、そこに座っていた。

しばらくして、彼が立ち上がった。


「また後で来る。だから今は休んでいてくれ」


その時の彼は、普段のヘニングからは考えられないほどに静かだった。

その目には微かな哀愁もあった気がした。

そんなことを考えているうちに、足音が遠ざかっていった。


私は再び、天井を見た。

布地が風に揺れている。

その動きを、ただ見ていた。


どれくらい時間が経ったのか分からなかった。

天幕の外で、声が聞こえた。

ヘニングと、エーリクだ。


「どうだ」


「食べてません」


「昨日も?」


「昨日も、その前も」


沈黙があった。


「無茶してたんじゃねぇかよやっぱり——」


ヘニングがそういい、沈黙が落ちた。


「俺たちに何かできることはありますかね」


エーリクが聞く。


「分からねぇ」


ヘニングの声が、重かった。


「ただ待つしかねぇよ。あいつが、また立てるまで」


足音が遠ざかっていった。

私は——彼らの言葉を聞いていた。

だが、何も感じなかった。


立てない。


それは事実だった。

立とうとすれば、足が震える。

一歩も踏み出せない。

体が、拒否していた。

もう、前に進むことを。


夜が来た。

天幕の中が暗くなり、外から焚き火の光が漏れてきた。

誰かが天幕に入ってきた。

ヘニングではない。足音が違う。


「隊長」


エーリクだった。


「水を持ってきました」


彼が私の傍に水筒を置いた。


「飲んでください」


私は動かなかった。

エーリクは何も言わず、しばらくそこに座っていた。


「隊長」


彼が呟いた。


「僕、怖いです」


その言葉に、私の目が動いた。


「隊長が、このまま——」


エーリクの声が震えていた。


「このまま、消えてしまうんじゃないかって」


私は——彼を見た。

若い彼の目には薄らと涙が滲んでいた。


「隊長がいなくなったら、僕たちは——」


彼は言葉を継げなかった。

私は何も言えなかった。

ただ、彼を見ていた。

やがて、エーリクは立ち上がった。


「また、明日来ます」


彼が出ていった後、私は天井を見た。

消える。

その言葉が、頭の中で反響した。

私は、もう消えているのではないか。

体はある。

心臓は動いている。

だが——

私は、もういない。


何日が経ったのか、分からなかった。

ヘニングとエーリクが交代で来た。

食事を持ってくる。

水を置いていく。

だが、私は何も口にしなかった。


そんな中、一人の使者が私の元へ来た。

軍服ではない、正装を纏ったその男は私の天幕へと入ってきた。

そして口を開いた。


「レイフ殿、明日陛下が来られます」


その言葉に、私の体が硬直した。

カール。

その名前が、何かを呼び起こした。

恐怖。

それとも——

分からなかった。


「早朝にお会いになってください。陛下は忙しいので時間は取らせないようにしてください」


彼は他人行儀にそうとだけ言い残し、私の天幕を後にした。


一人残された私の手は微かに震えていた。


カール12世


彼と向き合うことをこの瞬間、初めて怖く思えた。



気づけば朝が来た。

今度は、それが朝だと分かった。

光が、朝日だと分かった。

わずかに、だが確かに。

天幕の外で、足音が止まった。

一つだけ。

誰かが、入り口の前に立っている。

扉が開いた。

逆光で、影だけが見えた。

細い影。だが、その影は大きく見えた。

その形で、私は悟った。

カールだ。


「立て」


短い命令。

氷のように冷たい声。

私は——動けなかった。


「立てと言っている」


私の手が、わずかに震えた。

だが、立てなかった。

体が、拒否していた。

カールは何も言わなかった。

ただ、私を見下ろしていた。

沈黙が続いた。


どれくらいの時間だったか。

一分か、それとも十分か。

やがて、カールが口を開いた。


「先日報告を受けた」


彼の声は、至って平坦だった。


「お前が戦場で倒れたと、そして食事を取っていないと」


私は何も答えなかった。

カールが一歩、近づいた。


「トルンから戻って、五日が経った」


五日。

それだけの時間だったのか。


「その間、お前は横たわったままだと」


カールの足が止まった。

私の傍に。


「レイフ」


その名前を呼ぶ声は、冷たかった。


「お前は、壊れたのか」

私は——何も答えられなかった。

壊れた。

その言葉が、正しかった。


「お前がいない間、こちらでも動きがあってな、ポーランドの残存兵力を結集したアウグストが迫るとの報告が来た。」


カールが言った。


「だから、一ヶ月後にアウグストと決戦する」


その言葉に、私の目が動いた。


「フロウシュタットの地で余は全軍を動員し、奴等を完全に粉砕する。」


カールは窓の外を見ながら言う。

私は返事をすることもできず、ただ聞くしかなかった。

ただ、淡々と。


「だが、お前は来るな」


その言葉が、何を意味するのか、すぐには理解できなかった。

来るな。

つまり——


「お前は休め。」


カールが私を見下ろした。

その蒼い瞳に、何があるのか。

失望。

それとも——

分からなかった。


「壊れた剣は、振るえない。さっさと元のお前に戻れ」


その言葉が、決定的だった。


元のお前


彼は私の何を知っているのだろう。

知ろうとしてくれたことはあっただろうか。

剣としてでない、レイフ・エークマンとしての私のことを。


私は——その背中を見ていた。

金色の髪。

細い肩。

だが、その背中は揺るがなかった。

何も言えなかった。

ただ、一つの確信があった。

私たちは——

もう、同じ道を歩いていない。


「陛下」


私は呟いた。

その声は、掠れていた。


「承知しました」


それだけだった。

カールは何も言わず、振り返らずに、天幕を出ていった。

そんな彼の背中を私は見ることしかできなかった。


そして、私は一人残された。

どこにもぶつけることのできない気持ちが胸を渦巻く。


その夜、天幕の布地が微かに風に揺れていた。



次の日の朝、私は起き上がった。

体が震え、足に力が入らなかったが、それでも立った。医官が慌てて駆け寄ってきたが、私は手で制した。行かなければならない場所があった。会わなければならない人がいた。


トルンまでの道は長く、何度も倒れそうになった。だが止まらなかった。足を一歩ずつ前に出し続けた。街が見えてきた時、焼け跡がまだ残っているのが目に入った。黒く焦げた壁、崩れた家々。その中を人々が歩き、復興が始まっていた。


救護施設は街の中心にあった。白いテントが並び、その中から呻き声が聞こえてくる。私は入り口に立ち、しばらく動けなかった。ここに彼女がいる。エルサが。十年ぶりに、私は逃げずに彼女と向き合おうとしていた。


扉を開けると、薄暗い室内に負傷者が横たわり、医官たちが動き回っていた。その奥に、白い服を着た彼女の姿が見えた。包帯を巻いている。その背中を見た瞬間、私の足が止まった。


「レイフ」


彼女が振り返り、金色の髪が揺れた。


「来たのね」


その声は、十年前と変わらなかった。私は何も言えず、ただ頷くことしかできなかった。エルサが私に近づいてきて、その目が私の顔を見た。頬を、目を、額を。


「座って」


彼女はそうとだけいい、私は座った。膝が折れるように。エルサも向かいに座り、しばらく沈黙があった。だが、それは重くなかった。


「元気だった?」


エルサが口を開いた。


「元気に見えるか」


「見れば分かるわ。でも、聞きたかったの」


彼女が微笑む。


「私は元気よ。ここで働いている。戦災孤児が増えているの。毎日のように新しい子供たちが来るわ」


エルサの声が静かになる。


「戦うたびに」


その言葉が、胸に刺さった。


「すまない」


「謝らないで。一人の責任じゃないわ」


彼女が首を横に振る。


「でも、辛いのよ。子供たちの顔を見るたびに、昔の自分を思い出す。私たちも、あんな風だった。怯えて、誰も信じられなくて、ただ生き延びることだけを考えていた」


エルサが窓の外を見る。


「だから、この仕事を続けているの。せめて、彼らには温かい場所を与えたいから」


その横顔を見ていると、十年前のことを思い出した。宮廷で共に育った日々。共に語った夢。人を救いたいという、純粋な願い。


「エルサ」


私は口を開いた。


「お前は、変わらないな」


「変わらない?」


「ああ。十年前と同じだ。まだ、人を救おうとしている」


エルサが私を見た。


「あなたは?」


その問いに、私は答えられなかった。


「レイフ、あなたは変わった。目が、昔と違う。何も映っていない」


私は自分の手を見た。節くれだった指。剣だこ。古い傷跡。そして、見えない血。幾重にも、幾重にも重なった血。


「エルサ」


声が震えた。


「俺の手を見てくれ」


私は両手を差し出した。テーブルの上に置かれた、その手を。


「この手が、何をしてきたか分かるか」


エルサが黙って見ている。


「人を殺してきた。何人殺したか、もう数えられない。剣を振るうたびに、血が飛び散った。温かい血が、手に、顔に、服に」


私の手が震え始めた。


「最初の男の顔を覚えている。若かった。二十歳にもなっていなかっただろう。喉を斬った時、彼は俺を見ていた。何か言おうとしていた。母、だろうか。神、だろうか。声にならなかった」


エルサが息を飲む音が聞こえた。


「その後も、何人も殺した。顔を覚えている者もいる。覚えていない者もいる。でも、全員の血が、この手についている」


私は拳を握った。


「村を焼いた。家々が燃え上がるのを見た。中に人がいた。悲鳴が聞こえた。でも、止めなかった。命令だったから。秩序のためだったから」


声が掠れる。


「罪のない者を連行した。父親が引きずられていくのを、子供が泣きながら追いかけていた。その子供の顔が、今も目に焼き付いている」


私は顔を覆った。


「十年前、初めて人を殺した時、俺は思った。もう、お前には触れられないと。この手は汚れていると。だから、距離を置いた。前線に行き続けた。お前から逃げた」


手のひらを見る。何も見えない。だが、そこにあるのが分かる。


「だが、あれから十年。俺はもっと多くの血を流してきた。最初の血の上に、また血が重なった。その上に、また血が。何層にも、何層にも」


私の手が激しく震え始めた。


「もう、洗っても落ちない。どれだけ水で洗っても、擦っても、血の匂いが消えない。夜、眠ろうとすると、手が熱い。血で燃えているような気がする」


私はエルサを見た。


「全身が血に塗れている。髪も、顔も、服も、心も。全部、血の色に染まっている。もう、元の色が何だったか思い出せない」


息が苦しくなる。


「そんな人間が、お前のような、まだ人を救おうとしている人間と、同じ場所にいていいはずがない。俺が触れれば、お前も汚れる。俺が話せば、お前の耳も汚れる。俺が――」


「レイフ」


エルサが私の言葉を遮った。


「あなたは、なぜそうしてきたの?」


「命令に従ってきた」


私は答えた。


「カール陛下の命令に」


「それだけ?」


エルサの声に、優しさと厳しさが混じっていた。


「違うでしょう?あなたは、平和を求めていたはずよ。十年前、言っていたわ。もう戦争を終わらせたい、二度と母のような犠牲者を出したくないって」


「ああ、言った」


「なら、それは嘘だったの?」


「違う」


私は首を横に振った。


「本気だった。今でも、そう思っている」


「なら」


エルサが身を乗り出した。


「あなたが剣を振るってきたのは、その平和のためじゃないの?カール陛下が、圧倒的な強さで秩序を築くと言った。あなたは、それが戦争を終わらせる道だと信じたんでしょう?」


その言葉に、私は何も答えられなかった。そうだ。そう信じていた。カールなら、平和をもたらせると。


「間違っていたかもしれない。もっと良い道があったかもしれない」


エルサが続ける。


「でも、あなたは平和を諦めていなかった。ただ、方法を間違えただけ」


「エルサ、だが俺は」


「血に塗れている。そうね」


彼女が認めた。


「でも、それはあなたが戦ってきた証でもある。間違った戦いだったかもしれない。でも、あなたは何かのために戦ってきた」


「それは、正当化にならない」


私は言った。


「俺が殺した人たちは、戻ってこない。焼いた村も、元には戻らない」


「ええ、戻ってこないわ。」


エルサが静かに言った。


「でも、レイフ。あなたはまだ生きている。まだ、選ぶことができる」


「何を選ぶ」


私は呟いた。


「こんな、血に塗れた人間に、何が選べる」


「変わることができる」


エルサの声が強くなった。


「このまま剣を振るい続けるのか。それとも、別の道を歩むのか。あなたは、まだ選べる」


私は彼女の目を見た。その目には、諦めがなかった。

まだ、私を信じている。だが――


「エルサ、俺は」


私は自分の手を見た。


「この手で、お前に触れることなんて.... できない。」


沈黙が落ちた。

エルサが立ち上がり、私の横に来た。そして、ゆっくりとテーブルの上に手を置いた。私の手の、すぐ隣に。


「レイフ」


彼女の声が、優しかった。


「手を出して」


私は首を横に振った。


「できない。お前を汚したくない」


「レイフ」


エルサが繰り返した。


「手を出して」


私の手が震えた。出せなかった。怖かった。彼女に触れることが。彼女を汚すことが。


「レイフ、いいから」


エルサが言った。

私は、震える手を差し出した。ゆっくりと、ゆっくりと。テーブルの上に置かれた、血に塗れた手を。

エルサが、その手を取った。

温かかった。

柔らかかった。

そして、強く握られた。


「見て」


エルサが言った。


「私の手は、汚れていない」


私は彼女の手を見た。白く、小さな手。私の血だらけの手を、しっかりと握っている。


「血に塗れていても」


エルサが私の目を見た。


「人の手を握ることはできるわ」


その言葉が、胸の奥まで届いた。


「あなたの手が、どれだけ血に染まっていても。それでも、握る手はある。ここにある」


私の目から、何かが溢れた。涙だった。止まらなかった。


「エルサ」


声が震えた。


「俺は」


言葉にならなかった。ただ、涙が流れ続けた。エルサは私の手を握り続けた。離さなかった。温かく、優しく。

どれくらいの時間が経ったのか、分からなかった。涙が止まり、私はやっと顔を上げた。


「ありがとう」


それだけが、言えた。

エルサが微笑んだ。


「どういたしまして」


彼女は私の手を離さなかった。まだ、握ったままだった。

沈黙が落ちた。だが、それは温かかった。


「レイフ」


しばらくして、エルサが口を開いた。


「正直に言うわ」


私は彼女を見た。


「私、あなたと全部置いて逃げたい」


その言葉に、私は息を飲んだ。


「十年前と同じように。王も、戦争も、全部置いて。どこか遠くへ、二人で」


エルサの目が、私を見つめていた。


「そこで、静かに暮らす。人を救いながら。戦いのない場所で」


その未来が、一瞬、見えた。エルサと、どこかの小さな村で。戦いのない、血のない、穏やかな日々。


「エルサ」


私は呟いた。


「俺も、そうしたい」


彼女の目が見開かれた。


「本当に?」


「ああ」


私は頷いた。


「お前と、どこかへ行きたい。この血だらけの手を洗って、剣を捨てて、ただ人を救いながら生きたい」


エルサの手が、私の手を強く握った。


「なら」


「だが」


私は言った。


「できない」


エルサの顔が曇った。


「なぜ?」


「俺は陛下を、見届けなければならない」


私は窓の外を見た。


「彼がどこへ行くのかが、見たいんだ。」


「あなたは、まだあの王に縛られているの?」


「ああ、縛られている」


私は認めた。


「でも、それだけじゃない」


私はエルサを見た。


「彼は、孤独なんだ」


「孤独?」


「ああ」


私は頷いた。


「陛下は、誰も信じていない。神も、教会も、貴族も。王であろうとするあまりに」


私は拳を握った。


「でも、俺は思ってしまうんだ。彼の心の奥底で、泣いている少年のカールがまだいるんじゃないかって。」


「だから、見捨てられないの?」


「ああ」


私は答えた。


「放っておけない。彼が一人で、あの道を歩いていくのを、ただ見ているわけにはいかない」


エルサが私の手を離した。


「そう」


彼女が呟いた。


「それが、あなたの選択なのね」


「ああ」


私は立ち上がった。


「エルサ、すまない。十年前と同じように、また俺はお前から逃げようとしていた」


「逃げようとしていた?」


「ああ。カールのことを理由にして、お前と向き合わないでいた」


私は彼女を見た。


「でも、もう逃げない。お前からも、カールからも」


エルサが立ち上がった。


「逃げない?」


「ああ」


私は頷いた。


「カールの元へ戻る。彼を見届ける。そして、いつか――」


私はエルサの手を取った。今度は、自分から。


「いつか、戦いが終わったら。その時は、お前の元へ戻ってくる」


エルサの目に、涙が滲んだ。


「約束できる?」


「約束する」


私は答えた。


「必ず、戻ってくる」


エルサが微笑んだ。涙を流しながら。


「やっぱり、あなた変わったわね」


その言葉がどのような意図で言われたのかは分からなかった。だが、前みたいに彼女の言葉が心に痞えることはなかった。


エルサが私の手を握った。


「それは、とてもいいことよ」


その言葉が、胸に響いた。


「ありがとう、エルサ」


彼女が微笑んだ。


「また、来て」


「ああ、必ず」


私は扉に向かった。だが、振り返った。


「エルサ、待っていてくれるか」


「いつまでも」


彼女が答えた。


「たとえ、何年かかっても」


私は外に出た。救護施設の外は、夕暮れだった。太陽が西に沈もうとしていた。オレンジ色の光が、街を照らしている。


私は歩き出した。野営地へ向かって。

一歩、また一歩。

カールは、一ヶ月後に戦う。私は、そこにいない。

だが、見届けなければならない。

彼が、どこへ行くのか。その先に、何があるのか。


そして、いつか、

戦いが終わったら.....

今度こそ、逃げずに。

風が吹いている。冷たく、鋭い風だ。

だが、その風の中を、私は歩き続けた。一歩ずつ、確かに。


私の手の血は拭えない。

奪った命への取り返しはつかない。

だが、それでもまだ、人の手を握ることはできる。


誰であろうと、まだ手が届く。


私はそう考え、歩みを続けた。






あのとき、ナルヴァの敗戦を嘲り、余裕の笑みを浮かべていたアウグスト2世は、今や疲れ果て、ただの亡命者に過ぎなかった。


ワルシャワの玉座は遠く、彼の支配は風前の灯火となり、スウェーデン軍の進撃は容赦なくポーランド全土を覆い尽くしていった。幾度となく繰り返された戦いの果てに、彼はもはや自国に留まることは叶わず、重い足取りでモスクワへと逃げ込むほかなかった。


灰色の冬の空が重く垂れこめる中、荒涼としたモスクワの街角で、彼は身を寄せ合う民衆の視線を浴びながら、しぼり出すように言葉を漏らした。


「我が身も国も、いかに儚きものか…」


その時、彼の前に現れたのは、あのピョートル一世だった。ロシアの王は笑みを浮かべ、冷たく言った。


「ハハ、よく来たな、アウグスト。フレデリクを嘲笑っていたお前はもこんなザマか?」


アウグストは顔を伏せ、無言でただうなずいた。


「お前がどれほど笑おうと、私の敗北は甘んじて受ける。しかし、この敗北は終わりではない。まだ希望は…」


ピョートルは肩をすくめて嘲笑した。


「希望?そんな楽観的なものはねぇよ。あの若き獅子が全土を駆け巡ったんだ。お前が逃げ込んだここも、もはや安全じゃない。俺もあいつに散々にしてやられてるしな

ーーあの獅子を仕留めるには文字通り全てを賭す必要があるみたいだな」


モスクワの冷たい風が、かつての王を叩きつけるように吹きつける。彼の後ろ姿は、かつての威厳のかけらもなく、ただ哀れな亡命者のそれだった。

ピョートルの冷笑は、冬の寒さよりも凍てついていた。



フロウシュタットでのアウグストを打ち破り、スタニスワフを統治者として君臨させど、ポーランドが我らに支配されることはなかった。ポーランド全土でゲリラの襲撃は日に日に増えていき、スウェーデンの支配は大きく揺らいでいた。


私は引き続きその鎮圧の総指揮を任され、前線を駆ける日々を送っていた。いつしか、陛下の側に仕える時間も減り、馬上で過ごす夜が増えていた。それだけでなく、レーネ達と会う機会も少なくなってしまっていた。


雨は一昼夜降り続き、森はぬかるみと血の匂いを孕んだ泥の海と化していた。

私は重い鎧を濡らしたまま、朽ちた木の根に膝をつく。夜襲を仕掛けた我々は激しい抵抗に遭い、息を潜める兵たちの気配が森の闇に散らばっていた。

その気配が私に微かな頭痛をもたらしていた。いやそれだけではなかっただろう。

湿った落ち葉を踏む音に混じって、自問が胸を叩いた。幾度も剣を振るううちに、自分が守っているものが何なのか、次第に見えなくなっていた。


その夜、部下の一人が駆け寄ってきた。


「レイフ殿! 森の東端で味方の部隊が奇襲を受け、壊滅しました!」


「……奴らはただの農民じゃないな」


地図の上に手を置き、私は深く息をついた。おそらく、元ザクセン軍の残党や傭兵が混じっているのだろう。

単なる蜂起ではない。土地そのものが、我々を拒んでいるのだ。


「部隊を三手に分け、迂回して包囲する。包囲した後、私が交渉に入る」


「交渉……か?」と、傍らのヘニングが眉をひそめた。


「隊長、まさか殺さずに済ませる気か?」


「王命は“鎮圧”だ。“虐殺”ではない」


言いながらも、自分の言葉がどこか空虚に響いていた。


包囲の輪はじわじわと狭まっていった。

「発砲は許すが、先に声をかけろ」

誰に向けた命令か、自分でも分からなかった。ただ繰り返さずにはいられなかった。


その時だった。斥候が駆け戻り、息を荒げて叫ぶ。

「隊長! 奴ら、女や子供を盾にしています!」


胸の奥で何かが崩れる音がした。

「火は使うな。民家に踏み込むな。戦う意思を見せた者だけを狙え」

そう命じたが、敵も味方も、誰が戦士で誰が民か――境はもはや溶けていた。


「奴ら、女や子供を盾にしている!」

前線から戻った斥候が叫ぶと、レイフは苦い表情を浮かべた。民を巻き込む戦法。それはゲリラというより、戦そのものの崩壊を意味していた。


「火を使うな。…民家に踏み込むな。目標は戦える者だけだ」


彼は部下に命じたが、ゲリラはもはや戦士と農民の区別なく、村全体に紛れていた。誰が敵で誰が民か、それすら曖昧になっていく。


その時、銃声が森の向こうから響いた。続けて叫び声。レイフは馬を走らせ、部下と共にその音のする方へと駆けた。


焼け落ちた家屋の残骸の前で、数人の兵がうずくまって負傷者を囲んでいた。

その中に、私は見覚えのある姿を見つけた。


「……エルサ?」


泥にまみれた衣服、乱れた髪。その背を覆うように抱えた背負い袋から包帯を取り出す仕草まで、私の記憶に焼き付いていた。


ふと顔を上げた彼女と目が合った。


「レイフ……」


あの声を聞いた瞬間、戦場の喧騒も、焦げた空気の匂いも遠のき、胸の奥だけが強く痛んだ。


エルサ・ノールストレム。

私がまだ若く、ただ生きることに必死だった頃に出会った看護婦。前線で瀕死の傷を負った私を救い、そして――いつしか、ただの看護婦ではなくなった人だ。


だが、剣を取り、王の側近として名を連ねるうちに会うことも減った。そしてその想いも、宮廷の石壁の奥にしまい込んできた。


「なぜこんなところに……まだ看護婦を続けていたんだな」


「ええ。それが私の仕事だもの」

小さく笑みを見せながらも、目は笑っていなかった。

「この村に病が広がっていたの。薬を届けに来たの。でも……着いたときには、もう焼けていたわ」


彼女の視線の先には、崩れた家の隙間に横たわる小さな体。

老いた者、母親、そして子供――ただ生きていただけの者たち。


「これが……あなたが目指した勝利なの?」


喉の奥が詰まり、声にならなかった。

言い訳も、抗弁も、剣と同じくらいに重かった。


「……命令だった。ゲリラの掃討と抵抗の鎮圧……だが……俺にももう分からないんだ。何が正義で、どこからが虐殺なのか」


エルサは負傷兵の手を握り、俯いたまま囁いた。

「あなたは昔、人を救いたいと言っていたわよね。あの想いを、本当に忘れてしまったの?」


胸の奥にしまい込んだ言葉が、彼女の声でこじ開けられる。

私は幼い頃、何も守れなかった自分を思い出していた。


「俺はもう、あの頃の俺じゃない。剣を振り、多くを殺した。でも……もう一度だけでも、あのときの気持ちを取り戻したいんだ」


「だったら、今ここからよ」


立ち上がったエルサは、煤で汚れた顔で私を真っ直ぐに見た。

戦場の只中にいながら、その瞳だけは澄んでいた。


夜風が煤と血の匂いを運ぶ中、私は部下たちに言った。


「これ以上の追撃はやめろ。生き延びた者には手を出すな。火を絶やせ。女や子供には水と食糧を分け与えろ」


兵たちは驚き、しばし沈黙したが、やがて誰も逆らわず動き出した。

その瞬間だけ、私の声は「将軍の声」ではなく、昔の私自身の声であった気がした。


数日後、本陣に戻った私は戦況報告の紙を前に、しばらく筆を止めた。

結局、エルサの名は書かなかった。ただ報告の末尾に、こう記した。


「民の抵抗は徐々に鎮まりつつあり、協力の兆しも見える。火と剣のみでは国は治まらぬ。」


それは王の命令に逆らう、小さな一文だった。

だが確かに、私自身が選んだ言葉だった。


私の心の奥に、痛みと共に芽吹いた小さな火――

それはかつてエルサが信じてくれた、昔の私がまだ生きている証だった。

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