第21話 トルンの荒夜
春が来た。雪解けの水がヴィスワ川を満たし、街道は泥の海と化していた。三月の終わり、南部の村から戻る途中で伝令とすれ違った。馬が泥を跳ね、伝令の顔には焦りが滲んでいた。
「レイフ隊長、緊急召集です」
封蝋を割る。カールの署名。文面は三行。
『全将軍へ告ぐ。ワルシャワへ即刻参集せよ。遅延許さず』
私は報告書を伝令に押し付け、馬首を北へ向けた。副官が慌てて追いかけてくる。
「隊長、部隊は」
「ついて来い。休憩なしだ」
街道は混乱していた。荷車が列を成し、農民たちが子供を抱いて走っている。老人が杖をつき、女が家財を背負い、誰もが同じ方向へ逃げていた。私たちとは逆の方向、南へ。
馬を進めると、一人の男が道を塞いだ。
「兵隊さん、頼む。俺たちを守ってくれ」
私は馬を止めなかった。男が避ける。背後で何か叫んでいたが、聞こえなかった。
村を通過する度に、同じ光景が繰り返された。逃げる人々、捨てられた荷車、燃える家。ある村では教会の鐘が鳴り続けていた。警告か、それとも祈りか。
馬を走らせるうちにあることに気がついた。
ポーランドの各都市の至る場所に、見慣れない白いテントが点在していた。
だがそれよりも今はワルシャワに向かうことが優先だ。
そうして私は部下を率いた行軍を続けた。
三日目、ワルシャワの城門が見えた時、太陽は既に西に傾いていた。門には通常の三倍の兵が配置されており、入城する者を一人一人調べていた。
「レイフ将軍」
衛兵が敬礼した。
「お待ちしておりました。すぐに執務室へ」
城内は慌ただしかった。使者が廊下を走り、書記官が書類を抱えて駆け回り、将校たちが小声で話し合っている。その全てに、緊張が張り詰めていた。
執務室の扉の前で、私は一度深呼吸をした。手が冷たかった。扉を開ける。
室内には既に数名が集まっていた。レーネが窓際に立ち、地図を見ている。白髪が増えていた。レーヴェンハウプトは椅子に座り、眼帯の下の顔に疲労が刻まれている。アームフェルトは壁に寄りかかり、腕を組んで目を閉じていた。
そして、ステンボックがいた。黒い外套を着て、机の前に立っている。
「レイフ」
レーネが私に気づいた。その声は低く、いつもの穏やかさがなかった。
私は部屋に入った。三人が振り返る。
その瞬間、空気が変わった。
レーヴェンハウプトの目が見開かれ、すぐに逸れた。アームフェルトが腕を解き、一歩前に出かけて止まった。レーネの口が開きかけて、閉じた。
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
「どうした」
私は訊ねた。誰も答えなかった。三人は視線を交わし、何かを確認するように頷き合った。言葉が出ない。
ステンボックが一歩前に出た。彼だけが私から目を逸らさなかった。だが、その目に興味はなかった。ただ、事実を述べるような冷たさがあった。
「変わりましたね」
「何がだ?」
「顔ですよ」
ステンボックは私を一瞥した。
「目が死んでいる。」
彼は地図に視線を戻した。まるで天気の話でもするかのように。
「まあ、よろしいのでは。任務には支障ないでしょう」
その無関心さが、刃のように鋭かった。
何か言い返そうとした時、扉が開いた。カールが入ってきた。私たちは一斉に頭を下げた。
「揃ったな」
カールは机に向かい、地図を広げた。その動作は速く、苛立ちが滲んでいた。地図には赤い印が無数についていた。北部、東部、南部、西部。ポーランド全土が赤く染まっている。
「各地で大規模な蜂起が起きている」
カールの指が地図を叩いた。その音が部屋に響く。
「北部では補給隊が全滅した。東部では守備隊が包囲されている。南部では街道が寸断された。西部では村々が一斉に武器を取った」
「規模は」
レーネが訊いた。
「正確には分からん。だが、少なくとも一万。おそらくはその倍だ」
その数字に、部屋の空気が重くなった。
「これは組織的な反乱だ。誰かが裏で糸を引いている。おそらくアウグストの残党、あるいはロシアだ」
使者が駆け込んできた。
「陛下、東部から報告です」
カールが報告書を受け取り、目を通した。その顔が強張る。
「トルンへ向かう補給船三隻が襲撃された。全て沈没。積荷は奪われ、乗組員は全員殺された」
カールの拳が机を叩いた。地図が跳ねる。
「余を舐めている」
その声は静かだったが、その静けさこそが恐ろしかった。
「各自、担当地域へ向かえ。レーネは南部。レーヴェンハウプトは東部。アームフェルトは西部。ステンボックはワルシャワに残り防衛を」
「はっ」
「レイフ」
カールが私を見た。その蒼い瞳に、冷たい炎があった。
「お前は北部のトルンへ向かえ」
「はい」
「トルンは港だ。補給の要だ。あそこを失えば北部全体が崩壊する」
「承知しました」
「そして」
カールの声が一段と低くなった。
「今回は捜索ではない。敵を見つけ次第、殺せ」
その言葉が、部屋に落ちた。
「武器を持つ者は全員敵だ。匿う者も敵だ。疑わしい者も敵だ」
カールは私たちを見回した。
「容赦するな。恐れを与えろ。」
「陛下」
レーネが一歩前に出た。
「それは」
「異論か、レーネ」
カールの声が鋭くなった。
「いえ」
レーネは下がった。その顔に諦めが浮かんでいた。
「他には」
誰も何も言わなかった。
「ならば、明日の夜明けに出発だ。準備しろ」
私たちは頭を下げた。
部屋を出ると、廊下でレーヴェんハウプトが私の腕を掴んだ。
「レイフ」
「何だ」
「お前」
彼の茶色の瞳が私を見た。その目に、心配と恐れがあった。
「本当に大丈夫なのか」
「大丈夫だ」
「嘘をつくな」
レーヴェンハウプトの声が低くなった。
「お前の目を見れば分かる」
私は彼の手を振り払った。
「私のことなどいいだろう、今は任務に集中する時だ」
「おいレイフ!」
私は歩き出した。レーヴェンハウプトが何か言いかけたが、もう聞こえなかった。
翌朝、夜明け前に出発した。五百の兵、ヘニング、エーリク、副官たち。馬に揺られながら北へ向かう。
街道は前日より悪化していた。逃げる人々が増え、荷車が道を塞ぎ、進軍は遅々として進まなかった。
「道を開けろ!」
副官が叫ぶ。だが人々は動かなかった。恐怖で動けないのか、それとも絶望で動く気力がないのか。
「強行突破しろ」
私は命じた。兵士たちが馬を進める。人々が悲鳴を上げて道を開ける。ある老人が転んだ。若い女が助け起こそうとしたが、間に合わず、荷車の下敷きになった。
私は振り返らなかった。
ヘニングが私の隣に馬を並べた。だが何も言わなかった。以前なら、何か訊いてきたはずだ。老人のことを、女のことを。だが今は、ただ黙って前を見ている。
その沈黙が、重かった。
四日目、トルンに着いた。
港町だった。ヴィスワ川が街を二分し、石橋が両岸を結んでいる。船が停泊しているが、その多くが傾き、燃えた跡があった。街は静まり返っている。だが、その静けさは平和ではなかった。恐怖の静けさだった。
城門で守備隊長が出迎えた。若い男だったが、顔には深い疲労が刻まれていた。
「レイフ将軍、お待ちしておりました」
「状況を報告しろ」
「パルチザンが街の外に潜んでいます。昨夜も襲撃がありました。兵士五名が殺され、倉庫が焼かれました」
「規模は」
「百名以上かと。ですが正確には」
「街の中には」
守備隊長の顔が曇った。
「協力者がいると思われます。門を閉めていても、情報が漏れます」
私は街を見回した。石造りの建物が密集し、路地が迷路のように入り組んでいる。屋根の上、窓の陰、どこからでも狙えるし、どこにでも隠れられる。
「街を封鎖しろ。出入りを全て止める。家々を調べろ。武器を持つ者、疑わしい者、全員連行しろ」
「はっ」
「そして」
私は守備隊長を見た。
「陛下の命令だ。殺せ」
守備隊長の顔が青ざめた。
「殺す、ですか」
「そうだ。武器を持つ者は全員敵だ。容赦するな」
「し、しかし、民間人は」
「陛下の命令だ」
私は馬を進めた。
掃討は即座に始まった。
部隊を三つに分け、街の北、東、南から同時に内側へ進む。各部隊が家々に突入し、地下室を探し、屋根裏を調べる。
最初の抵抗は、街の北側で起きた。
狭い路地で、突然屋根から矢が降ってきた。風を切る音。兵士の一人が喉を貫かれて倒れた。血が石畳に広がる。もう一人が肩に矢を受けて悲鳴を上げた。
副官が叫んだ。屋根の上に人影が見えた。三人、弓を構えている。
「撃て」
銃声が路地に響いた。硝煙が立ち上る。火薬の匂いが鼻を突く。一人が屋根から落ち、石畳に叩きつけられた。鈍い音。残りの二人が逃げる。
「追え」
兵士たちが建物に突入する。階段を駆け上がる音、叫び声、そして銃声。やがて静かになった。
「制圧しました」
副官が報告に来た。
「敵は」
「三名、全員射殺しました」
「そうか」
私は倒れた兵士を見た。喉から血が流れ、目は開いたままだった。まだ二十歳にもなっていないだろう。
何も感じなかった。
「進むぞ、まだ何も終わってない」
次の抵抗は、広場で起きた。
十数名のパルチザンが建物の影から飛び出し、槍と斧を振りかざして突撃してきた。訓練された動きではなかった。農民だろう。だが、その目には絶望と憎しみがあった。
「構えろ」
兵士たちが銃を構える。
「撃て」
一斉射撃。硝煙が広場を覆った。煙が晴れると、倒れた人々が見えた。動かない者、まだ動いている者。呻き声が聞こえた。
「生存者を確認しろ」
兵士たちが近づく。一人の男がまだ息があった。腹に弾を受け、血を流している。
「助けて」
男が手を伸ばした。
「頼む」
私は馬を降りた。男に近づく。その顔を見た。若かった。二十代半ばか。頬に傷があり、手は土で汚れている。農民の手だった。
「なぜ武器を取った」
「生きる、ため」
男が咳き込んだ。血が口から流れる。鉄の匂い。
「お前たちが、来るからだ」
「我々は秩序を求めている」
「秩序」
男が笑った。だが、その笑いには絶望があった。
「これが、秩序か」
男の手が力なく落ちた。息が止まる。
私は立ち上がった。広場には、十三の遺体が転がっていた。
何も感じなかった。
「次へ進め」
だがその瞬間、建物の窓から銃声が響いた。私の隣にいた兵士が倒れた。
「狙撃だ!」
兵士たちが散開する。私は馬に飛び乗った。
「建物を包囲しろ」
兵士たちが動く。だが窓から次々と銃声が響き、二人、三人と倒れていく。
「突入しろ」
扉が破られる。中から悲鳴と銃声。やがて静かになった。
「隊長」
副官が出てきた。その顔は青ざめている。
「中に、女と子供がいました」
「それで」
「全員、死んでいます」
私は建物に入った。
一階には、五体の遺体があった。男が二人、銃を持っている。そして、女が一人、子供が二人。女は子供を庇うように倒れていた。子供は小さかった。五歳と七歳くらいか。血が床を覆っていた。壁にも飛び散っている。
私は遺体を見た。
何かが、胸の奥で動いた。
だが、もう深く考えることはなかった。
これは戦争だ。
彼らが武器を持った。
彼らが撃ってきた。
だから....
「行くぞ」
「はっ」
私は建物を出た。
夕方になった。街の半分を制圧したが、抵抗は続いていた。兵士の損害は二十名を超えていた。
「隊長」
副官が報告に来た。
「街の西、教会の近くに救護団体がいるとのことです」
「救護?」
「はい。戦災孤児や負傷者を保護しているそうです」
救護団体。その言葉が、何かを呼び起こした。だが、それが何なのか分からなかった。
「放っておけ。任務に集中しろ」
「はっ」
夜になった。街は暗く、静まり返っていた。だが、その静けさは不気味だった。どこかで火が燃え、煙が空を覆っている。焦げた木の匂いが風に乗ってくる。
野営地に戻ると、ヘニングとエーリクが焚き火の前に座っていた。私もその傍に座った。
誰も何も言わなかった。火だけが、パチパチと音を立てている。
「今日、何人死んだ」
ヘニングが小さく呟いた。
「二十三名だ」
「そうか」
沈黙が落ちた。
「隊長」
エーリクが私を見た。その目に何かがあった。
「今日、建物の中で、子供が死んでいました」
「見た」
「あれは」
エーリクの声が震えた。
「あれは、仕方なかったんですか」
私は火を見た。
「ああ」
「本当に?」
私は答えなかった。
ヘニングが立ち上がった。
「酒の気分じゃねぇ。休ませてもらう」
それだけ言って、天幕に向かった。エーリクも続いた。
私は一人、残った。
火を見ていた。炎が揺れている。
そうして私は立ち上がった。天幕に戻ろうとした時、背後で声がした。
「隊長」
振り返ると、副官が立っていた。
「何だ」
「明日の予定ですが」
「街の残り半分を制圧する。同じやり方だ」
「はい」
副官が去った後、私は空を見上げた。月が出ていた。冷たい、白い月が。
翌日、掃討は続いた。
だが、抵抗は激しくなっていた。パルチザンたちは学習していた。屋根の上から、路地の陰から、窓から。あらゆる場所から攻撃してくる。
街の東側で、一つの建物が激しく抵抗した。二階の窓から銃撃が続き、近づく兵士が次々と倒れた。
「燃やせ」
私は命じた。
「しかし、中に民間人が」
「燃やせと言っている」
兵士たちが松明を投げ込んだ。建物が燃え始めた。中から悲鳴が聞こえた。やがて、扉が開き、人々が飛び出してきた。
「撃つな。捕らえろ」
兵士たちが人々を取り押さえる。男が五人、女が三人、子供が二人。
「武器を持っていたのは」
「この五人です」
副官が男たちを指した。
「処刑しろ」
「はっ」
「他の者は連行しろ」
女たちが泣き叫んでいた。子供が母親にしがみついていた。
私はそれを見ていた。
何も感じなかった。
いや、違う。
何かを感じていた。
だが、それが何なのか分からなかった。
昼過ぎ、川沿いの道で戦闘があった。パルチザンの一団が橋を占拠し、渡ろうとする兵士を狙撃していた。
「迂回して背後から攻めろ」
部隊を二手に分けた。正面から陽動し、別働隊が背後から襲う。
作戦は成功した。パルチザンたちは挟撃され、半数が倒れた。残りが逃げる。
「追え」
兵士たちが追いかける。私も馬を走らせた。
路地を抜け、広場を横切り、また路地へ。逃げる人影が見えた。三人、いや四人。武器は見えない。だが、さっき橋にいた者たちだ。
「止まれ」
私は叫んだ。だが彼らは走り続けた。
兵士たちが弓を構えた。
「撃て」
矢が放たれた。一人が倒れた。残りの三人はさらに走る。
私は馬を降りた。銃を取った。
照準を合わせる。
一番後ろを走る人影。その背中が、視界に入った。
若い男だった。髪は短く、服は粗末だった。走り方が不格好で、時々よろめいた。私は引き金に指をかけた。
その瞬間、男が振り返った。
顔が見えた。
それは若い男だった。髪は短く、茶色い。
私は引き金を引いた。
銃声。反動が肩を打つ。硝煙が視界を覆う。
煙が晴れると、男が倒れていた。
私は銃を下ろした。
歩いて近づく。男は仰向けに倒れていた。胸に弾が当たっていたが彼はまだ息があった。口が動いた。何か言おうとしている。だが声は出なかった。
その時、残りの三人のうち一人が路地の奥へ逃げ込むのが見えた。白いテントの建物。救護施設だ。
「隊長、どうします?」
副官が指示を仰ぐ。
「私が一人で追う。お前は別を当たれ」
私は走り出した。
建物の扉が開いている。私は中に入った。
薄暗い廊下。消毒液の匂い。そして——呻き声。
私は銃を構えた。廊下を進む。部屋の扉が半開きになっている。
中を覗く。
負傷者が横たわっていた。包帯を巻かれた者、松葉杖にすがる者、子供を抱く母親。
そして——
白い服を着た女が、一人の男の傷を手当てしていた。
さっき逃げ込んだ男だ。
私は銃口を向けた。
「動くな」
女が顔を上げた。
その瞬間、世界が止まった。
心臓が跳ねた。
呼吸が止まった。
見覚えがあった。
いや、見覚えなどという言葉では足りなかった。
刻まれていた。
魂に、刻まれていた。
私は一歩、踏み出した。
足が、勝手に動いた。
女が振り返った。
その顔を見て、私は立ち止まった。
エルサだった。
エルサ・ノールストレム。
二十年前、戦場で出会った看護婦。瀕死の私を救い、共に夜を過ごし、同じ夢を語った女。
彼女も私を見て、立ち止まった。その目が見開かれた。
「レイフ?」
その声も、顔も何一つ変わっていなかった。
私と別れたあの日から、何も。




