第20話 麻痺
ポーランドで迎える初めての秋が来た。
クラクフの街に冷たい風が吹き始め、木々の葉が黄色く染まっていった。私は城の執務室に立ち、カールの前で報告書を差し出していた。
「南部の街道を確保しました。ゲリラの活動は依然として続いていますが、補給路への脅威は減っています」
カールは報告書を受け取ったが、目を通さなかった。机の隅に置く。その机には書類が山のように積まれていた。税の徴収記録、貴族からの陳情書、各地からの報告。全て未整理のまま、散乱している。
カールは窓の外を見ていた。
「貴族どもは、まだ税を納めない」
カールの声は低かった。
「口では従うと言いながら、裏では金を隠している」
窓の外にはクラクフの街が広がっている。占領から一年が経った。だが街の空気は冷たいままだった。
「昨日、また会議があった」
カールが机の上の書類を見た。
「三時間、彼らの言い訳を聞いた。収穫が悪い、民が困窮している、時間が必要だ、と」
カールの指が書類を叩いた。一度、二度、三度。
「全て、時間の無駄だ」
「陛下」
「余がナルヴァで四万のロシア軍を破るのに、何時間かかった?」
私は答えた。
「三時間です」
「三時間だ」
カールが私を見た。その蒼い瞳に、苛立ちがあった。
「だが、一人の貴族を従わせるのに、三時間の会議が必要だ。十人いれば、三十時間だ」
カールは書類を手に取った。そして、それを床に投げ捨てた。
「戦えば、勝てる。剣を交えれば、決着がつく。だが——」
カールは窓の外を見た。
「言葉は、遅い」
私は何も言えなかった。
「——お前の部隊は、順調か」
「はい」
「ならばいい」
カールは再び窓の外を見た。
「下がれ」
私は頭を下げて部屋を出た。廊下で、私は立ち止まった。カールの苛立ち。あの短気さ。一年前、ワルシャワに入城した時、カールは冷静だった。だが今、その冷静さの下に、何か焦りのようなものがある。
私は廊下を歩いた。考える時間はない。次の任務が待っている。
野営地に戻ると、ヘニングが焚き火の前に座っていた。
「隊長」
「ああ」
私は火の傍に座った。温もりがあった。
「陛下は?」
「忙しいようだった」
「そりゃそうだ」
ヘニングは火に枝を投げ込んだ。
「戦うより、統治の方が疲れるんだろうな」
エーリクが酒を持ってきた。
「隊長、どうぞ」
「ありがとう」
私は酒を飲んだ。温かく、少し甘い。
「隊長」
ヘニングが私を見た。
「最近、また村の巡回が増えてるな」
「ああ」
「捜索ばかりだ。何を探してるんだ、俺たちは」
私は火を見た。
「ゲリラだ」
「ゲリラ、ゲリラ、ゲリラ」
ヘニングが呟いた。
「もう、誰がゲリラで誰がそうじゃないのか、分からなくなってきたぜ」
エーリクが小さく頷いた。
「僕も、です」
私は二人を見た。この小さな輪の中に、まだ温もりがあった。だが、何か薄くなっている気がした。
翌日、私たちは南部の村へ再び捜索へと向かった。村に入ると、人々が家から出てきた。恐怖の目で私たちを見ている。もう何度目だろうか。同じ光景を、何度見てきたか。
「全員、広場に集まれ」
副官が叫ぶ。人々がゆっくりと集まってくる。老人が杖をつき、女が子供の手を引き、若い男たちが肩を丸めている。
私は馬上から見ていた。
「家を調べろ」
兵士たちが家々に入っていく。扉が開かれ、家具が動かされる音が聞こえる。鶏が驚いて鳴く。誰かが何か言いかけて、すぐに黙る。
私は広場の人々を見ていた。三十人ほどだろうか。その中に、一人の少女がいた。十歳くらいか。母親の服の裾を握って、私を見ている。
その光景を見て昔の記憶が、一瞬、浮かんだ。
(いや)
私は目を逸らした。
(考えるな)
「隊長」
兵士が戻ってきた。
「武器が見つかりました」
一人の男が連行されてきた。中年の男で、顔は日に焼けている。
「お前がゲリラか」
私は聞いた。
「違う....」
男が叫んだ。
「それは猟のための銃だ! 熊を撃つための!」
猟のため。そう言う者は多い。だが、その銃で兵士が撃たれる。
「連行しろ」
私は短く言った。男が暴れたが、兵士たちが押さえ込んだ。
「待ってくれ! 信じてくれ! 家族がいるんだ!」
男の声が遠ざかっていく。広場の人々が、沈黙の中で立っている。少女が母親の服を強く握った。
私は馬を進めた。
次の村でも、その次の村でも、同じことを繰り返した。
捜索、尋問、連行。毎日、毎日、毎日。
ある村で、武器は見つからなかった。だが村人の態度が悪かった。誰も目を合わせず、質問にも答えない。
「この村は協力的ではない」
私は副官に報告書を書かせた。
「警戒対象とする」
それだけで、この村は監視下に置かれる。次に何かあれば、連行される者が出る。
私は——それを命じた。
躊躇なく。
(平和のためだ)
私は自分に言い聞かせた。
(秩序のため....陛下のため....)
夜、天幕の中で報告書を書いていた。羽根ペンを動かす。文字が並ぶ。村の名前、捜索結果、連行者の数。全て簡潔に、軍務に情を挟むわけには行かない。
もはや手は震えていなかった。
そのような日々を繰り返すうちに秋は深まっていった。
葉が散り、木々が裸になっていく。風は冷たくなり、朝には霜が降りるようになった。
ある日、カールから召集があった。城の執務室に入ると、カールは立っていた。窓の外を見ている。
「レイフ、見ろ」
カールが窓の外を指した。
「あの街を」
私は窓に近づいた。クラクフの街が広がっている。人々が動き、煙が上がり、川が流れている。
「一年前、余はこの街を征服した」
カールの声が、低く響いた。
「戦闘は三日で終わった。だが——」
カールが私を見た。
「一年経っても、まだ従わない者がいる」
「陛下」
「なぜだと思う、レイフ」
私は答えられなかった。
「彼らは、余を恐れていないからだ」
カールは窓の外を見た。
「戦場では、余は勝つ。だが、街では——それを使えない。」
カールの声が、苛立ちを帯びていた。
「陛下」
「強さとは何だ、レイフ」
カールが私を見た。
「戦場で勝つことか? 違う」
カールは一歩近づいた。
「強さとは、従わせることだ。迷わず、疑わず、ただ従わせることだ」
その蒼い瞳が、私を捉える。
「そのためには——恐れが必要だ」
「恐れ、ですか」
「ああ」
カールは窓の外を見た。
カールの指が窓枠を叩いた。
「一つの村に恐れを与えれば、十の村が従う。十の村が従えば、百の村で血を流さずに済む」
「陛下....」
この時には私はもはや疑うことを諦めていた。
後日、
「この街は、ゲリラの拠点だ」
私は馬上から宣言した。
「よって、この村は敵対村と認定する」
「違う!」
一人の老人が前に出た。白髪で、背中が曲がっている。
「それは、自衛のためだ! 村を守るための!」
「自衛のために、これだけの武器が必要か」
「必要だ!」
老人が叫んだ。
「お前たちが来るからだ! 毎日、毎日、村を荒らして! 若者を連れて行って!」
老人の声が震えていた。
「俺たちは、ただ生きたいだけだ! それの何が悪い!」
私は——老人を見ていた。
(何が悪い?)
その問いが、胸に響いた。
(何も悪くない)
(彼らは、ただ生きたいだけだ)
だが——
(いや)
私は目を閉じた。
(考えるな)
(これは、任務だ)
私は目を開けた。
「全員、三日間拘束する」
「なぜだ!」
老人が叫んだ。
「なぜ、俺たちが!」
「ゲリラを匿った責任だ」
私の声は、冷たく響いた。
「そして——」
私は村を見回した。
「陛下が到着するまで、ここで待機する」
村人たちが、絶望の目で私を見た。
だが——
不思議と前ほど胸は痛くなかった。
三日後、カールが到着した。
五百の兵を率いて、村を包囲した。レーネ、レーヴェンハウプト、アームフェルトも共に来た。
私はカールに報告した。
「村を封鎖しました。武器庫も発見しました」
カールは報告書を受け取った。
「よくやった」
カールは村を見た。その蒼い瞳に、何の感情もなかった。
「広場に集めろ」
「はっ」
村人たちが再び広場に集められた。三日間の拘束で、皆疲れ果てていた。子供たちは泣き、女たちは呆然とし、老人たちは座り込んでいた。
カールが馬を進めた。広場の中央に立つ。
「余がスウェーデン王だ。簡潔に答えよ、誰がゲリラだ」
沈黙が続いた。
「答えろ」
カールの声が響く。だが、誰も答えなかった。
「答えなければ、全員を共謀者とみなす」
その言葉に、村人たちがざわめいた。
「俺だ」
一人の男が前に出た。若い男だった。私が三日前に連行した、あの十名のうちの一人だ。
「他には」
「俺たちだ」
残りの九名も前に出た。全員が、若かった。二十代から三十代だろう。
「なぜ蜂起した」
カールが聞いた。
「お前たちが、村を焼いたからだ」
男が叫んだ。
「お前たちが、俺たちの家族を殺したからだ! 畑を荒らし、家を壊し、若者を連れ去った!」
カールは何も答えなかった。ただ、男たちを見ていた。
「——余は、秩序を求めている」
カールの声が、冷たく落ちた。
「だが、お前たちは秩序を乱した」
「秩序だと?」
男が笑った。だが、その笑いには絶望があった。
「人の国を占領しておいて秩序だ?お前らの秩序が、俺たちの地獄だ!」
だがカールは表情を変えなかった。
「こやつらを処刑しろ」
その言葉が、何の躊躇もなく出てきた。
「陛下」
レーネが一歩前に出た。
「住民は」
「他の者は一週間拘束する」
カールは村人たちを見た。
「ゲリラを匿った責任だ」
「陛下、それは——」
レーネが言いかけた。
「恐れは秩序を生む、レーネ」
カールが彼を見た。
「一つの村に恐れを与えれば、十の村が従う。十の村が従えば、百の村で血を流さずに済む」
「ですが——」
「これは慈悲だ。効率的な、慈悲だ」
その言葉に、レーネは黙った。
アームフェルトが一歩前に出た。
「陛下」
「何だ」
「彼らは——ただ、生きようとしただけではないでしょうか」
カールがアームフェルトを見た。
「生きようとした?」
「はい」
「ならば、余の兵を殺す必要があったのか」
アームフェルトは答えられなかった。
「生きるためなら、他者を殺してもいいのか」
カールの声が、冷たく響いた。
「それは、強さでも秩序ではない。言い訳に過ぎない」
カールは村人たちに背を向け、去っていった。
アームフェルトは——床を見ていた。拳を握りしめて、何も言わなかった。
処刑は広場で行われた。
十名の男が縛られ、絞首台に立たされた。村人たちが、それを見ている。泣いている者、怒りを押し殺している者、ただ呆然としている者。
私は——それを見ていた。
その頃にはクルツェニの村を思い出すこともなかった。母のことを思い出すこともなかった。ただ、任務として、日常の一部として見ていた。
綱が引かれた。十の体が落ちた。
村人たちから、低い呻き声が聞こえた。ある女が膝をつき、両手で顔を覆った。老人が天を仰ぎ、何かを呟いている。祈りか、それとも呪いか。
だが、もう反抗する者はいなかった。恐れが、広場を覆っていた。
カールが馬を進めた。
「この村を覚えておけ!」
カールの声が、広場に響いた。
「服従すれば安寧が、反抗すれば、死が待っていることを!」
村人たちが、頭を垂れた。全員が、地面を見ている。もう、誰もカールを見ようとしなかった。
夜、野営地でカールが将軍たちを集めた。
天幕の中、地図が広げられている。カールがその上に手を置いた。
「次はここだ」
カールが地図の別の地点を指した。
「ここも、ゲリラの拠点と報告されている」
「陛下....」
アームフェルトが言った。
「確証は」
「報告がある」
「それだけで——」
「それだけで十分だ」
カールがアームフェルトを見た。その蒼い瞳が、彼を射抜く。
「お前は、正義を信じているのだろう」
「はい」
「ならば、信じろ。余の判断を」
アームフェルトは黙った。その顔に、何かがあった。疲労、それとも——諦め。
「異論は?」
カールが私たちを見た。誰も何も言わなかった。
「ないなら、従え」
カールは地図に戻った。
私はカールの横顔を見ていた。一年前、ワルシャワで初めて会議に出た時、カールは地図を見ながら、時折将軍たちの意見を求めた。だが今は違う。命令するだけだ。
「レイフ、お前が先行しろ。明日の朝だ」
「はっ」
「他の者は、余と共に後続で向かう」
カールは地図を畳んだ。
「以上だ。下がれ」
私たちは頭を下げた。天幕を出ると、夜の冷たい空気が肌を刺した。
アームフェルトが私の隣に来た。
「レイフ」
「ああ」
「今日の——あれを見て、何も思わなかったか」
私は彼を見た。
「任務だ」
「任務、か」
アームフェルトは空を見上げた。
「俺は——分からなくなってきた」
「何が」
「何が正しいのか」
彼は私を見た。
「陛下の判断は——本当に正しいんだろうか」
その声には、確信がなかった。
「正しい」
私は答えた。
「陛下は、秩序を求めておられる」
「秩序——」
アームフェルトが呟いた。
「ああ、そうだな。秩序だ」
彼は何か言いかけたが、やがて黙った。
「お前も変わったなレイフ.... まあ無理はするなよ」
それだけ言って、彼は去っていった。
変わった、と言われ私は初めて気づいた。
自分の行いに。
私は夜空を見上げた。月が出ていた。冷たい、白い月が。
(無理はするな、か.....)
その言葉だけが胸に残ったが、私は自分の天幕に戻った。
翌日、私は部隊を率いて次の村へ向かった。
村は大きく、百軒ほどの家があった。畑が広がり、ヴィスワ川の支流が流れている。
「囲め」
私は命じた。兵士たちが村を包囲していく。
「突入しろ」
だが——この村では、抵抗があった。
数名のゲリラが弓を放ち、兵士の一人が倒れた。
「制圧しろ」
兵士たちが突入する。戦闘が始まった。矢が飛び交い、悲鳴が上がる。
だが戦闘は短く終わった。ゲリラは五名、全員が捕らえられた。
私は村を見回した。戦闘の中で、一軒の家が燃えていた。藁葺き屋根から炎が上がり、黒い煙が立ち昇っている。
風が吹いていた。炎が隣の家に飛び火し、そこからまた別の家へ。
「消火を続けろ」
「はっ」
だが、火は止まらなかった。三軒、四軒と燃えていく。
その時、カールが到着した。
五百の兵を率いて、村の外に陣を敷く。私は報告に向かった。
「村を制圧しました。ゲリラは五名、捕らえました」
カールは村を見た。燃えている家々を。その顔に、何の感情もなかった。
「火が広がっています。消火を続けていますが——」
「消すな」
その言葉に、私は息を飲んだ。
「陛下?」
「村を焼き尽くせ」
カールの声が、冷たく響いた。
「陛下、しかし——」
「火は既に広がっている。消すのに時間がかかる」
カールが私を見た。
「ならば、全て焼け。その方が速い」
「ですが、住民は——」
「避難させろ。だが、村は焼く」
カールは村を見た。
「これも、見せしめだ」
私は——何も言えなかった。
「異論は?」
「いえ」
私は頭を下げた。
「承知しました」
アームフェルトが馬を進めてきた。
「陛下」
「何だ」
「村を焼くのは——」
「ゲリラを匿い、兵士を襲った村だ。報いを受けるべきだ」
「ですが、住民たちは——」
「住民は避難させる」
カールの声が、一段と低くなった。
「だが、村は焼く。次の者たちへの警告だ」
「陛下」
アームフェルトの声が震えていた。
「これは——正しいことなのでしょうか」
カールがアームフェルトを見た。
「お前は、まだ正しさを問うのか」
「はい」
カールは村を見た。
「余を信じろ。これこそが余の築く秩序だ」
カールは馬を進めた。
「命令に従え」
その言葉はいつにも増して強いものだった。
そしてカールは戻っていった。
そして私は疑いを持つことなく、火を放つ命令を部下に下した。
住民たちが家から引きずり出される。子供を抱いた女、老人を支える若者、何が起きているのか分からず呆然としている人々。
「なぜだ!」
一人の男が叫んだ。
「なぜ、村を焼く!」
「ゲリラを匿った罪だ」
私は答えた。
「俺たちは匿っていない! あいつらが勝手に——」
「結果は同じだ」
私の声は、冷たかった。
「お前たちの村から、兵士が襲われた」
「それは——」
「避難しろ。さもなくば、巻き込まれる」
男は何も言えなくなった。
住民たちが広場に集められた。その背後で、村が燃え始めた。一軒、また一軒と。炎が広がり、煙が空を覆っていく。
女が泣いていた。
「家が——私たちの家が——」
老人が膝をついた。
「もう、何もない——」
子供たちが泣き叫んでいた。母親がそれを抱きしめて、自分も泣いている。
私はそれを見ていた。
馬上から、ただ見ていた。
炎が空を焦がしていく。黒い煙が立ち昇り、太陽を隠す。村が、消えていく。
(これは——)
何かが、胸の奥で呻いた。
この光景は.....
(これは——)
だが、私はそれを無視した。
心の中で無理やりのようにかき消した。
そして私は自分に言い聞かせた。
(これは正しい)
夜、野営地に戻った。
カールは一人、天幕に入っていった。誰も呼ばなかった。
私たちは——焚き火を囲んだ。
だが誰も何も言わなかった。火だけが、音を立てていた。
「これで——」
アームフェルトが小さく呟いた。
「いいのか」
誰も答えなかった。
レーネが酒を飲んでいた。いつもより速く、何度も。その手が、わずかに震えていた。レーヴェンハウプトが火を見ていた。その目に、暗いものがあった。
彼がふと呟いた。
「——俺たちが陛下を疑うわけにいかねぇだろ」
アームフェルトが立ち上がった。
「少し休む」
それだけ言って、天幕に向かった。その背中が、丸まっていた。
レーネも立ち上がった。
「わしも休むとするか」
レーヴェンハウプトも無言で立ち上がった。
私は——一人、残った。
火を見ていた。
炎が揺れている。
村を焼いた炎と、同じ色だ。
(これで、いいのか)
その問いが、浮かんだ。
(これで——)
だが、私は答えを出さなかった。
私は立ち上がった。天幕に戻ろうとした時、背後から声がした。
「隊長」
振り返ると、ヘニングが立っていた。
「お前、まだ起きていたのか」
「ああ」
ヘニングが火の傍に来た。
「眠れなくてな」
「そうか」
私も座り直した。
沈黙があった。
「隊長。今日の——あれを見て、何も思わなかったか」
私は火を見た。
「任務だ」
「任務——」
ヘニングは私を見た。
「本当に、それだけか」
「それだけだ」
「そうか」
ヘニングは火に枝を投げ込んだ。
「俺は——思ったよ」
「何を」
「あの村の人たち、何も悪いことしてないんじゃないか、って」
「——ゲリラを匿っただろう....」
「匿ったんじゃなくて、匿わされたんだろ」
ヘニングが私を見た。
「ゲリラが勝手に村に入ってきて、勝手に武器を置いて、勝手に襲撃した。村の人たちは、止められなかっただけだ」
「結果は同じだ」
「結果?」
ヘニングの声が、少し高くなった。
「結果が同じなら、何をしてもいいのかよ」
私は彼を見た。
「秩序のためには、必要だ」
「秩序——」
ヘニングは火を見た。
「陛下が言ってた。恐れは秩序を生む、って」
「ああ」
「でも、それって——」
ヘニングが私を見た。
「それって、本当に秩序なのか?」
私は答えられなかった。
「恐れで従わせるのは——ただの、支配じゃないのか」
「——ヘニング」
私は彼の目を見た。
「お前は、何が言いたい」
「はっきり言うぜ。俺は今の陛下の方針に賛同できねぇ。」
彼ははっきりとそうとだけ言った。沈黙が落ち、火の粉だけがパチパチと響く。
「隊長、あんた——まだ感じてるか?」
その問いに、私は息を飲んだ。
「——何を言っている?」
ヘニングは火を見た。
「最近のあんたを見てると、何も感じてないように見える」
「感じている」
「本当に?」
私は黙った。
「村が燃えるのを見て、何も感じなかったのか」
「感じた」
「嘘だ」
ヘニングが私を見た。
「あんたの目、何も映ってなかった」
私は——何も言えなかった。
「隊長」
ヘニングの声が、小さくなった。
「俺、怖いんだ」
「何が」
「あんたが、変わっていくのが」
ヘニングは火を見た。
「前のあんたは俺たちと一緒だった。間違えて、悩んで、震えて。だから、俺たちも一緒に立てた。でもよ、」
「今は、なんか違う気がすんだ」
ヘニングが私を見た。
「あんたはもう震えないし悩まない。ただ——命令するだけだ」
私は——何も答えられなかった。
「エーリクも、同じこと言ってた」
「エーリクが?」
「ああ。隊長が、怖くなってきたって」
ヘニングは立ち上がった。
「俺たちは、あんたの部下だ。だからどこでもついていく、」
ヘニングが私を見下ろした。
「でもよ、思っちまうんだ。いつか、あんたは俺たちを置いていくんじゃないか、って——そう思うんだ」
彼の目にはいつもの剛毅さがなかった。ただ、子犬を哀れみ、心配するかのような目が私を見ていた。
「まあいいんだ、話せてよかったぜ。あんたも早く寝ろよ」
そうとだけ言うと彼は天幕に向かって歩いていった。
私は——一人、残った。
火を見ていた。
私は立ち上がり天幕に戻った。横になり、目を閉じた。
だが、眠れなかった。
様々な顔が浮かんでくる。村で見た子供たち。連行された男たち。射殺された若者。処刑された十名。燃える村で泣く女たち。
そして——
母の顔。
(いや)
私は目を開けた。
(考えるな)
(母は、もういない)
(あれは、過去だ)
(私は、前を向かなければならない)
私は自分に言い聞かせた。
(弱さは、許されない)
(感じることは、弱さだ)
(だから——)
(感じてはいけない)
私は再び目を閉じた。
だが、母の顔が消えなかった。
優しい顔。温かい手。最後に見た、苦しそうな顔。
(なぜ)
(なぜ、今——)
私は目を開けた。天幕の天井を見た。月明かりが、わずかに差し込んでいる。
外に出た。
月が出ていた。冷たい、白い月が。
私は——それを見上げた。
(これが、剣なのか)
その問いが、浮かんだ。
(何も感じず、ただ振るわれるだけ)
(ならば——)
(私は、剣になったのか)
月が、答えなかった。
ただ、冷たく光っていた。
数ヶ月が過ぎ、夏が来た。一年半が経っていた。
任務は続いた。村の巡回、ゲリラの捜索、時に連行、時に処刑。
カールは各地を巡り、反乱を鎮圧していった。恐れは、確かに広がった。村々は従順になり、税は集まり始め、ゲリラの活動は減っていった。
だが——
秩序は、冷たかった。
人々は従ったが、心は従わなかった。目は冷たく、声は小さく、全てが沈黙していた。
ある朝、鏡を見た。
頬が痩け、目の下に深い隈があった。そして——髪に、白いものが混じっていた。
一本だけだが、確かに白い。
私は——鏡に映る自分を見た。
この顔は、誰だ。
答えは、出なかった。
その日、久しぶりにカールから直接の召集があった。クラクフの城へ戻ると、執務室でカールが待っていた。
「レイフ、座れ」
珍しく、カールが椅子を勧めた。私は座った。
カールは窓の外を見ていた。
「余がワルシャワへ入城してから一年半だ」
カールが私を見た。
「お前は、変わったな」
「変わった、でしょうか」
「ああ」
カールは私を見つめた。私は自身の見た目を心配されるかと思った。そこまで酷い顔になったのかと少し驚いていた。
だが——
カールの声が、低くなった。
「今のお前は、余の剣として完璧だ」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「陛下....」
私は立ち上がった。部屋を出る時にカールを見た。
だが、彼は窓の外を見ていた。
完璧な剣
その言葉が、胸に突き刺さった。
私は部屋を出た。
廊下で、私は壁に寄りかかった。
(完璧な剣.... それが、私なのか)
答えは、出なかった。
私は廊下を歩いた。窓の外を見ると、クラクフの街が広がっている。秩序が取り戻された街。だが、その秩序は冷たく、人々は沈黙し、全てが凍りついている。
(これが——)
(これが、私が望んだものか)
私は歩き続けた。
誰もいない廊下を。
次の任務へ。
そうして秋が再び来た。
ポーランドで迎える二度目の秋だった。葉が黄色く染まり、風が冷たくなっていった。
任務地の変化と占領地の拡大により、アームフェルト達とも数ヶ月ほど会っていなかった。
野営地で、ヘニングとエーリクが部下達と火を囲んでいた。私はその傍に座った。
ヘニングが酒を差し出した。私は受け取った。口をつけると——味が、しなかった。
「隊長」
エーリクが私を見た。
「僕たちは——何をしているんでしょう」
「任務..... それだけだ」
「それだけ、ですか」
エーリクが私を見た。
「本当に?」
私は——答えられなかった。
沈黙が落ちた。
火だけが、燃えていた。
「隊長」
ヘニングが火を見た。
「俺たち、まだ——一緒に立ってるよな」
「ああ」
「本当に?」
私は——彼を見た。
その目に、何かがあった。
悲しみ、それとも——諦め?
「ああ」
私は答えた。
だが——
その言葉は、嘘のように聞こえた。
私たちは、もう一緒に立っていなかった。
私は一人だった。
火を見ていた。
温もりがあるはずなのに、何も感じなかった。
ヘニングとエーリクがいるはずなのに、一人に感じた。
(私は——)
(どこにいるのか)
その問いが、浮かんだ。
だが——
答えは、出なかった。
夜が更けていった。
火が小さくなり、やがて消えた。
私は一人、天幕に戻った。
横になり、目を閉じた。
一人の時間に何かを考えることがもうなくなっていた。
ただ飯を食べ、任務をこなし、就寝する。
だが、今日はなぜか寝れなかった。
窓の外で、秋風が吹いていた。
木々を揺らし、葉を散らし、冬を運んでくる風。
私は——その音を聞いていた。
ただ、聞いていた。
何も感じず。
何も考えず。
ただ——
聞いていた。
これが、剣なのか。
何も感じず、ただ振るわれるだけ。
ならば——
私は、剣になった。
完璧な剣に。
月が、窓の外で光っていた。
冷たく、白く。
私はそれを見た。
そして——
目を閉じた。
暗闇の中で、私は一人だった。
誰もいない。
何も感じない。
ただ——
冷たさだけがあった。
それが、私の全てだった。
私は——何も言えなかった。
冬が来た。
雪が降り始め、街道が白く染まった。行軍は遅くなり、兵士たちは寒さに震えていた。だが任務は続いた。
村での捜索は、以前より厳しくなった。武器が見つからなくても、疑わしい者は連行した。協力的でなければ、村全体を監視下に置いた。
ある村で、若い男が逃げようとした。
「止まれ!」
兵士が叫んだが、男は走り続けた。
「撃て」
私は命じた。
弓が放たれ、男が倒れた。広場で、女が悲鳴を上げた。
「あの子を! 息子を!」
女が駆け寄ろうとしたが、兵士が止めた。私は馬を進め、倒れた男を見た。背中に矢が刺さっている。まだ息があった。
「なぜ逃げた」
男が私を見上げた。その目に、恐怖と憎しみがあった。
「お前たちが——」
男の声が途切れた。息が止まる。
私は何も感じなかった。
「連行するはずだった者が逃亡を図り、射殺した」
副官に報告書を書かせた。
「村には警告を与える」
それだけだった。
野営地で、ヘニングが私の天幕に来た。
「隊長」
「何だ」
「あの村の——」
「逃亡を図った。だから撃った」
私は報告書を書き続けた。
「それだけだ」
「でも——」
「任務を遂行しただけだ、ヘニング」
私は彼を見た。
「お前も分かっているだろう。逃げる者は、何かを隠している」
ヘニングは黙っていた。
「これが戦争だ」
私は再び報告書に目を落とした。
「感情に流されてはいけない」
ヘニングはしばらく立っていたが、やがて出ていった。
私は羽根ペンを置いた。手は震えていなかった。
(これが正しい)
私は自分に言い聞かせた。
(弱さは迷いを生む。迷いは失敗を生む。だから、感じてはいけない)
雪は降り続けた。
別の村で、家の捜索をしている時、ある兵士が奥の部屋から出てきた。
「隊長、これを」
それは小さな木彫りの人形だった。粗雑な作りで、顔の造形もはっきりしない。
(母が、作ってくれた)
その記憶が、一瞬、浮かんだ。
(いや)
私は目を閉じた。
(考えるな)
「どこにあった」
「子供部屋です」
私は人形を受け取った。軽い。だが、手に馴染む形をしている。誰かが、この人形を大切にしていた。
(考えるな)
私は人形を兵士に返した。
「元の場所に戻せ」
兵士が戸惑った顔をした。
「はい?」
「戻せと言っている」
「了解しました」
兵士が人形を持って戻っていった。私は広場に立つ人々を見た。その中に、小さな女の子がいた。母親の服の裾を握っている。
(あれは、私ではない)
私は自分に言い聞かせた。
(あの子と、私は違う。私は、選ばれた、先王に拾われ、カール陛下に仕えている)
(だから、あの子たちとは、違う)
私は馬を進めた。
冬の間、村での任務は続いた。捜索、尋問、連行。そして時に、射殺。
野営地で、エーリクが火を見ていた。その顔に、疲労があった。
エーリクが火を見ていた。その顔に、疲労があった。
「僕たちは——」
彼が小さく言った。
「何をしているんでしょう」
ヘニングはただ黙っていた。彼は最近、昔と比べて静かになった気がした。
私はぎこちなくなり、立ち上がった。
「休もう。明日も、任務がある」
私は天幕に戻り、床へ着いた。
だが心の奥底で、何かが呻いていた。
小さく、弱々しく。
私はそれを無視した。




