第2話 自己戴冠
翌朝、王宮の一角にある小さな部屋へ呼ばれた。
昨夜のことが、まだ現実感を持たない。
あの塔での出来事が。
死のうとした私を、少年王が止めたことが。
扉を開ける。
カールが立っている。
正装している。深紅のビロードに金糸の刺繍、肩には白い毛皮のマント。
十五歳の少年とは思えない。
いや、もはや少年ではない。
王だ。
「レイフ」
「はい、陛下」
「お前も余の戴冠式に同席しろ」
短い命令だ。
だが、その言葉に込められた意味を理解する。
昨夜の塔での出来事を経て、この王は私を自分の道具として確保したのだ。
「光栄に存じます」
「光栄?」
カールが振り返る。
その瞳に、昨夜と同じ冷たい光が宿っている。
「勘違いするな。お前が特別な訳ではない」
頭を下げる。
不思議なことに、屈辱は感じない。
胸に何かが湧く。
好奇心だ。
この少年は、どこまで行くのか。
大聖堂に入る。
人で溢れている。
大貴族、高位聖職者、外国の使節団。スウェーデン王国の全ての権力者が、ここにいる。
華やかな衣装。
宝石。
燭台の光を受けて、煌めいている。
私は指定された席に着く。
この場に知り合いはいない。
周囲の会話に耳を傾ける。
「摂政の設置は確実だろうな」
「リブナー男爵が実権を握るという噂だ」
「いや、大蔵卿のオクセンシェルナが有力だ」
嫌悪感が込み上げる。
まだ戴冠もしていない王を、既に傀儡として扱っている。
拳が、わずかに震える。
その時、前の席の男が声を上げた。
「貴族連中は王を何だと思っているのだ」
濃い青と黄色の制服。
派手だ。
それはカロリアンと呼ばれる集団だった。
この国の軍の中枢を占める精鋭達。
「十五歳だからといって、あまりに侮辱的だ」
「だが現実問題として」
別の男が反論する。文官だろう。
「陛下はまだお若い。経験も知識も不足している。摂政の補佐は必要だろう」
カロリアンの男が立ち上がりかける。
だが、すぐに座り直す。
歯噛みしている。
分かる。
貴族たちの力は強大だ。若い我々が逆らえるものではない。
沈黙を保つしかない。
だが――
「補佐と操り人形は違う」
気づけば、私が口を挟んでいた。
彼らが振り返る。
視線が刺さる。
戦争孤児出身の私が、こうした政治的議論に参加することは殆どない。
一瞬の沈黙。
カロリアンの男が、背を向けたまま喋り始める。
「名前は知らないが、全くあなたの言う通りだ」
彼が振り返る。
仰々しい制服からは想像できないほど端正な顔立ち。
色白い。
茶色の瞳が、真っ直ぐに私を見る。
「失礼を承知の上でお聞きしたい」
彼は手を差し出す。
握手を求めている。
「あなたの名前は?」
「いえ、名乗るほどの者では――」
鐘の音が響く。
式の開始を告げる音だ。
ざわめきが静まる。
全ての視線が入口に向けられる。
あの少年が現れる。
一歩、聖堂に足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
氷のような緊張感が走る。
貴族たちのざわめきが完全に止む。
カールは一歩一歩、祭壇に向かって歩く。
その足音だけが、静寂の中に響く。
石畳を叩く音。
規則的で、揺るぎない。
彼の瞳は真っ直ぐ前を見据える。誰にも視線を向けない。
まるで、この場にいる全ての人間など存在しないかのように。
息を飲む。
昨夜見た彼の姿とは、また違う。
これが、真の王の威厳というものなのか。
式が進行する。
聖書朗読、祈祷、聖別。
伝統的な儀式の一つ一つが、厳かに執り行われる。
だが私は、カールの表情を注視する。
彼の顔には、一切の感情が浮かんでいない。
石像のような無表情。
そして遂に、戴冠の瞬間が訪れる。
大司教が王冠を手に取り、カールに向かって一歩を踏み出す。
金と宝石で装飾された冠が、燭台の光を受けて輝く。
「全能なる神の御名において――」
「待て」
カールの声が、大聖堂に響く。
司教の動きが止まる。
会衆がざわめく。
カールは一歩前に出る。
そして、司教の手から王冠を受け取る。
「殿下、何を――」
司教の困惑を無視して、カールは王冠を高く掲げる。
光が冠に反射する。
眩い。
「余は誰からも王位を受けない」
カールの声が、聖堂の隅々まで響く。
冷たく、しかし絶対的な確信に満ちた声だ。
「神からも、教会からも、貴族からも」
彼は一度、会衆を見回す。
その瞳に、炎が宿っている。
「余の王位は余自身が選び取るものだ」
そして彼は――
自らの頭に王冠を戴く。
自己戴冠。
息を飲む音が、あちこちから聞こえる。
会衆は呆然としている。
司教は口を開けたまま立ち尽くし、貴族たちは互いに顔を見合わせている。
歴史上、前例のない行為だ。
だがカールは、全く動じていない。
王冠を戴いた彼は、一歩前に進み出る。
「余はカール十二世。スウェーデン王国の王だ」
彼の声に、迷いは微塵もない。
「余は誰にも頼らず、誰の操り人形にもならない」
ざわめきが広がる。
明らかに摂政評議会を否定する発言だ。
貴族たちの顔に、困惑と怒りが浮かぶ。
「この国を、余の意志のみで統治する」
カールは祭壇から会衆を見渡す。
その瞳に宿る炎のような意志。
多くの者が息を飲む。
「余が求めるのは、強さのみだ」
彼の声が、一段と大きくなる。
「この国を強くし、敵を打ち倒し、ヨーロッパの頂点に立つ」
彼は剣を抜く。
刀身が光を反射する。
「それが余の使命であり、余の意志だ」
カールは剣を天に掲げる。
「余に従う者には栄光を。逆らう者には――」
彼は一度、言葉を切る。
「鉄を」
その言葉が、会衆の心を強烈に揺さぶる。
最初に声を上げたのは、若い軍人たちだ。
前の席のカロリアンが立ち上がり、拳を高く掲げる。
「カール十二世、万歳!」
その声に続いて、若い廷臣たちが次々と立ち上がる。
私も気づけば立ち上がり、声を上げている。
「万歳!万歳!」
会衆の前半分は熱狂に包まれる。
これまでの因習に縛られない、新しい王の誕生を歓迎する声が響く。
一方で、貴族たちの多くは険しい表情を浮かべている。
自分たちの権力基盤が脅かされることを悟ったのだ。
だが、この熱狂の中では、公然と反対を表明することはできない。
私はあの時、確信した。
この少年王は、間違いなく歴史に名を残す。
善き王として記憶されるか、悪しき王として語り継がれるか。
それは分からない。
だが、確実に言えることがある。
カール十二世は、ただの王ではない。
彼の強さへの執着は、この国を頂点に押し上げるかもしれない。
あるいは、破滅へと導くかもしれない。
しかし、どちらであったとしても――
それは間違いなく歴史の転換点となるだろう。
式が終わり、カールが退場する。
その後ろ姿を見送りながら、私は心の中で誓った。
この王と共に歩もう。
栄光の時も、破滅の時も。
最後の瞬間まで。
だが、その時の私はまだ知らなかった。
この誓いが、どれほど重いものになるのか。
そして――
どれほど多くのものを、私から奪っていくのか。
式の後、私は大聖堂の外に出た。
冬の空気が、肺を刺す。
冷たく、澄んでいる。
「あなた」
声がする。
振り返ると、あのカロリアンが立っている。
「先ほどは失礼した。名を聞きそびれてしまった」
「レイフ・エークマンです」
「レイフ・エークマン」
彼は名を繰り返す。
「良い名だ。私はカール・グスタフ・アームフェルト」
彼は再び手を差し出す。
今度は握手を交わす。
彼の手は、大きく、温かい。
「あなたの言葉は正しかった」
アームフェルトが言う。
「補佐と操り人形は違う。だが、貴族たちはそれを理解していない」
「いえ、理解しているのでしょう」
私は言う。
「だからこそ、操り人形にしようとしているのです」
アームフェルトが笑う。
初めて見る笑顔だ。
「あなたは面白い人だ、エークマン殿」
彼は周囲を見回す。
「これから、大変な時代になるだろう」
「ええ」
「だが」
アームフェルトの目に、何かが宿る。
「だからこそ、我々のような者が必要なのだ」
「我々のような者?」
「正しいことを信じる者たちだ」
彼は真っ直ぐに私を見る。
「あなたは、陛下を信じているか?」
その問いに、私は即答できない。
信じているか。
あの少年王を。
「分かりません」
正直に答える。
「ただ、見届けたいのです」
「見届けたい?」
「ええ。彼がどこまで行くのか」
アームフェルトが頷く。
「それで十分だ」
彼は大聖堂を見上げる。
「信じることと、見届けることは違う」
「だが、どちらも必要なのだ」
彼の言葉の意味が、その時は分からなかった。
だが後に――
私はその言葉の重さを、嫌というほど思い知ることになる。
「また会おう、レイフ」
アームフェルトは歩き出す。
その背中を見送る。
真っ直ぐな背中だ。
正しいことを信じる者の背中。
私は空を見上げる。
灰色の空。
雪が降り始める。
冷たい粉雪が、頬に触れる。
そして、私は歩き出す。
この日、新しい時代が始まる。
カール十二世の時代が。
そして――
私の、長い旅が。
風が吹いている。
冷たく、鋭い風だ。
だが、その風の中に――
何か熱いものが混じっている気がした。
それが何なのか、あの時の私には分からなかった。
だが今、老いた私には分かる。
それは――
炎だった。
あの王が放つ、炎だった。
そして私は、その炎に惹かれていくのだ。
抗い難く。
運命のように。




