第18話 静謐の破れ
夜、鐘が鳴った。
夜警の鐘だが、いつもより多く、速く、激しく鳴り響いた。私は窓に駆け寄ると、街の一角で炎が上がっているのが見えた。赤い炎と黒い煙、そして遠くから悲鳴が聞こえてくる。
「どこだ?」とレーネが聞いた。
「倉庫地区だ」と私は答えた。
四人で馬に跨り、門を抜けた。街路を駆ける間、暗闇の中で松明の光だけが道を照らしていた。建物の窓から人々が顔を出し、私たちを見ている。恐怖の目と疑いの目が交差していた。
倉庫地区に近づくにつれ、煙の匂いが濃くなってきた。焦げた木材と何か甘ったるい匂いが混じっている。血の匂いだ。
詰所の前で馬を降りた。扉が開いており、中から何も聞こえてこない。静寂だけがそこにあった。レーネが杖をつきながら慎重に先に入り、私たちも続いた。
最初に見えたのは血だった。床に広がり、壁を伝い、天井にまで飛び散っている。黒く乾いた血と、まだ赤い血が混じり合っていた。
「外だ」とレーヴェンハウプトが言った。
裏口が開いており、そこから月光が差し込んでいる。外に出ると広場があり、そこに何かが見えた。
最初は影かと思った。木の幹に何かが寄りかかっているように見える。だが近づいて月光がそれを照らした時、私は息を飲んだ。人だった。五人の兵士が木に縛り付けられ、吊るされている。
私は足を進めた。草を踏む音だけが聞こえる中、最初の一人の顔が見えた。若い兵士で、二十歳くらいだろうか。目は開いたまま空を見ており、口が膨らんでいる。よく見ると石が詰められており、喉の奥まで押し込まれて顎が不自然に開いていた。
次の遺体には胸に我が軍の紋章がある。焼け焦げているがまだ青い色が残っていた。手首から先がなく、地面に落ちた五本の指が月光を受けて白く光っている。残りの三人も同じ状態だった。目を開いたまま、口に石を詰められ、手足を裂かれている。
「名前は分かるか」とレーネが副官に聞いた。
副官が報告書を開く。手が震えていた。
「エリク・ラーション、十九歳。ダーラナ出身」
私は最初の遺体を見た。十九歳、私より若い。
「ヨハン・ベリストローム、二十二歳。ウプサラ出身」
「ニルス・エクルンド、二十歳。ストックホルム出身」
副官の声が続く。名前、年齢、故郷。それぞれに人生があり、家族がいた。だが今は、もうない。
アームフェルトが一歩前に出て遺体を見つめていた。長い間黙っていたが、その横顔に表情はなく、ただ顎の筋肉が動いていた。歯を食いしばっているのだ。レーヴェンハウプトが地面に唾を吐き、「畜生め」と怒りを込めた声で呟いた。レーネは黙って遺体を見ていたが、杖を握る手が白くなっている。
私は遺体から目を離せなかった。開いたままの目、詰められた石、裂かれた手足を見ているうちに、ふと記憶が蘇ってきた。煙が空を覆っていた。母の手が私の手を握っていた。
「レイフ、逃げなさい」
母の声が聞こえる。家が崩れる音、炎が迫る音。
「レイフ!」
母が私を突き飛ばした。そして振り返った時、家が燃えていて、母の姿はもう見えなかった。
「レイフ!」
アームフェルトの声が私を現実に引き戻した。
「大丈夫か」
「ああ、大丈夫だ」
私は深く息を吸った。手が震えていたので、拳を握りしめてそれを止めようとした。
「陛下に報告しなければ」とレーネが言い、「すぐに」と私も答えた。
私たちは詰所を出た。背後で風が吹き、遺体が揺れて木が軋む音がした。
カールの執務室にはまだ明かりが灯っていた。窓から蝋燭の光が漏れている。扉を叩くと中から声がした。
「入れ」
扉を開けると、カールは地図を見ていた。窓を背にして立ち、月光が金髪を照らしている。
「陛下」
レーネが報告書を差し出した。
「夜警の詰所が襲撃されました。兵士五名、全員が殺害されています」
カールは報告書を受け取り、目を通す。その表情は動かない。
「全員、磔にされていました」とレーネが続けた。
「口に石を詰められ、手足を裂かれていました」
カールは報告書を置き、窓の外を見た。街の灯りが暗闇の中で小さく揺れている。長い沈黙があり、その横顔に一瞬だけ何かが過ぎった。疲労か、それとも別の何かか。だがそれもすぐに消えた。
「犯人を探せ」
その声は低く静かだったが、その静けさには何か冷たいものがあった。
「どのように、陛下」とレーヴェンハウプトが聞いた。
「村ごとに調べろ。疑わしい者は全員連行しろ」
「陛下」
レーネが一歩前に出た。
「それでは民の反発が大きくなるかと存じます」
カールはレーネを見た。
「余の兵を殺した。報いを受けるべきだ」
「ですが、無実の者も巻き込まれる可能性が」
「火には、火を」
その言葉が部屋に落ちた。重く、冷たく。レーネは何も言わず、ただ頭を下げた。アームフェルトが小さく息を吐いたのを私だけが気づいた。彼は床を見つめて唇を噛んでいたが、やがて顔を上げて表情を消した。
「異論は?」
カールが私たちを見たが、誰も何も言わなかった。
「ならば、実行しろ。明朝、全軍で村々を調べる」
「はっ」
私たちは頭を下げた。
「下がれ」
執務室を出ると、廊下に重い空気が流れていた。誰も何も言わず、ただ足音だけが石畳に響いた。
階段を降りる途中、アームフェルトが立ち止まった。
「これで、いいのか」
その声は小さく、独り言のようだった。
レーヴェンハウプトが振り返る。
「何?」
「いや」
アームフェルトは首を振った。
「何でもない」
「仲間が殺されたんだ」とレーヴェンハウプトが言った。
「やり返すしかねえだろ」
アームフェルトは何も答えず、ただ歩き出した。レーネが私の隣に来て、「お前は、どう思う」と低い声で聞いてきた。
「分かりません」
「そうか」
レーネは杖をつきながら階段を降りていく。
「分からない時は、従うしかない」
私は何も言えなかった。喉に何かが詰まっており、言葉が出てこない。
中庭に出ると夜風が頬を撫でた。冷たい風だった。
「明日、早い」とレーヴェンハウプトが言った。
「休もう」
それぞれが自分の部屋に向かった。私は一人、中庭に残って空を見上げた。月が出ており、雲に隠れたりまた現れたりしている。昨夜、この中庭で笑っていた。アームフェルトが故郷の話をし、レーヴェンハウプトが軽口を叩き、レーネが酒を注いでいた。温もりがあった。だが今夜は、冷たかった。
私は部屋に戻った。
翌朝、私たちは村へ向かった。ワルシャワの東、十キロの場所に麦畑が広がり、森が見え、小さな村が点在していた。
部隊は三つに分かれた。レーネが北、レーヴェンハウプトが南、私とアームフェルトが中央を受け持つことになった。
村に入ると人々が家から出てきた。老人、女、子供たちが現れ、畑にいた男たちも私たちを見て作業の手を止めた。恐怖が顔に広がっていく。
「全員、広場に集まれ」
副官が叫ぶと、人々はゆっくりと広場に集まってきた。子供が母親の手を握り、老人が杖をつき、若い女が赤子を抱いている。誰も何も言わず、ただ私たちを見ていた。
「昨夜、王国軍の詰所が襲撃された」と副官が読み上げた。「犯人を知る者は、名乗り出ろ」
誰も何も言わなかった。
「もう一度聞く。犯人を知る者は名乗り出ろ」
沈黙が続いた。
「知らねえよ」
一人の男が吐き捨てるように言った。中年の男で、顔は日に焼け、手には土がついている。
「俺たちは何も知らねえ」
副官が男に近づいた。
「昨夜、どこにいた」
「家だ」
「証人は」
「妻だ」
副官は妻を見たが、女は頷いたものの、その目が泳いでいた。
「連行しろ」
副官が命じると、兵士たちが男に近づいた。
「待ってください!」
女が叫んだ。
「夫は何もしてないです!」
「調べればわかる」
兵士が男の腕を掴んだ。男が抵抗すると兵士が殴り、男が地面に倒れた。女が泣き叫び、子供が泣いた。
私はその光景を見ていたが、動けなかった。声も出なかった。
別の家では老人が「息子は何もしていない」と繰り返していた。
兵士は聞かず、息子を連行すると、老人は地面に座り込んで動かなくなった。
また別の家では妻が兵士に縋りつき泣きながら許しを懇願していた。
だが兵士は振り払い、夫を連れて行った。
さらに別の家では誰もおらず、扉だけが開いていた。
中を覗くと食事の途中で、まだ温かい粥がテーブルに残されている。
ある家の前で、少年が立っていた。十歳くらいだろうか。兵士が父親を連行していく。
「父さん!」
少年が走り出すと、兵士が突き飛ばして少年が倒れた。泣きながらも、それでも父親の名を呼んでいる。
私は足が止まった。その少年の顔が、私の顔に重なった。十歳の私の、母を失ったあの日の顔に。
「父さん!」
少年の声が耳に刺さった。私は一歩踏み出したが、何をすればいいのか分からなかった。
「レイフ」
アームフェルトの声が私を止めた。振り返ると、彼が私を見ていた。その顔に表情はなく、ただ首を横に振っている。
私は立ち止まり、少年の泣き声を背中に聞きながらその場を離れた。
次の家で、アームフェルトが馬を止めた。兵士が男を連行していた。
「待て」
アームフェルトの声が響くと、兵士が振り返った。
「その男に、証拠はあるのか」
「いえ、しかし疑わしい様子が」
「証拠がないなら、一度話を聞いてからだ」
アームフェルトの声は冷静だったが、どこか硬かった。だが別の将校が駆けてきた。
「アームフェルト将軍、陛下の命令です。疑わしい者は全員連行せよと」
アームフェルトは黙った。長い沈黙があり、彼は男を見て、それから将校を見た。
「分かった。連行しろ」
その声は小さかった。男が連行され、妻が泣き、子供が叫んだ。アームフェルトは馬を進めたが、その背中がどこか重く見えた。
夕方、報告が入った。別の村で犯人が見つかったという。三人の男が武器を隠し持ち、血のついた服を着ていた。抵抗したが、捕らえられたらしい。
私たちはその村へ向かった。村の中心に三人が縛られていた。一人は四十代くらいの男で、顔には深い皺が刻まれている。もう一人は三十代で右腕に古い傷跡があり、最後の一人は若く二十代前半に見えた。全員、顔は日に焼け、手には豆ができ、服はボロボロだった。農民だが、その目には憎しみがあった。
「なぜやった」
尋問する将校が聞いた。
四十代の男が顔を上げた。
「お前たちが村を焼いたからだ」
その声は低く静かだったが、憎しみが滲んでいた。
「俺の妻を殺したからだ」
「俺の息子を殺したからだ」
傷跡のある男が続けた。
「だからお前たちも死ね」
若い男が叫ぶと、将校が殴った。若い男が倒れたが、その目はまだ憎しみに燃えていた。
私は馬から降りて農民に近づき、彼らを見た。彼らも私を見ている。四十代の男の目には憎しみだけではなく悲しみがあり、傷跡のある男の目には絶望があり、若い男の目にはまだ消えない怒りがあった。
私は口を開きかけたが、何も言えなかった。何を言えばいい? 謝罪か、弁明か。
「レイフ」
レーネの声が聞こえた。
「行くぞ」
私は農民から目を離して馬に戻った。背後で農民の一人が何か叫んだ。ポーランド語で、意味は分からなかったが、その声の悲しみは分かった。
ワルシャワに戻ったのは夜だった。街は静かで灯りが少なかった。宮殿に入ると疲労が一気に襲ってきて、私は自分の部屋に向かった。
廊下でアームフェルトとすれ違った。
「レイフ」
「ああ」
彼は疲れ果てていたが、それを見せようとしなかった。背筋を伸ばし、顎を引いている。いつもの実直な姿勢だ。
だが私は、もう黙っていられなかった。
「これで、よかったのだろうか」
その言葉が、口から零れた。
アームフェルトが足を止めた。振り返り、私を見る。
「何?」
「村で、あれだけの人間を連行した。証拠もなく」
私は床を見た。
「本当に犯人を見つけるためだったのか。それとも——」
「レイフ」
アームフェルトの声が、私を遮った。
「陛下の命令だ」
その声は静かだったが、硬かった。
「陛下は間違えない。俺たちは正義のために戦っている。陛下もそうだ」
彼は私の肩に手を置いた。
「お前が疑うのは分かる——」
言葉が止まった。だがすぐに首を振る。
「だが俺達が陛下を信じなかったら、部下にまで不信感が広がる。」
その手が、わずかに震えていた。
私は何も答えられなかった。
「休もう」
アームフェルトは手を離し、歩き出した。
「明日も、任務がある」
彼の背中は真っ直ぐだった。だがその足取りが、どこか重く見えた。
私も自分の部屋に向かった。喉に、苦いものが残っていた。
窓から街が見える。静かな街、冷たい街。遠くで誰かが泣いている声がした。連行された男たちの家族だろうか。
私は窓を閉めたが、声はまだ聞こえた。
私は部屋の中央に立ち、胸に手を当てた。
昨夜、アームフェルトが言った。「お前は強い。理由なく立っている」
強い?
私は村で、何をした?
少年が泣くのを見た。
父親が連行されるのを見た。
老人が地面に座り込むのを見た。
妻が兵士に縋りつくのを見た。
ただ、見ていた。
剣を抜くこともせず、声を上げることもせず、命令を止めることもせず。
見ていただけだ。
いや、違う。
私は部隊を率いていた。兵士たちに命令を下していた。連行に加担していた。
見ているだけではない。
私は、その一部だった。
母が死んだ時も、私は見ていた。
炎の中に消えていく母を、ただ見ていた。
先王が死んだ時も、私は何もできなかった。
ただ、そばにいただけだった。
そして今日も——
私は床に座り込んだ。
両手で顔を覆った。
少年の顔が浮かんだ。泣きながら父親の名を呼ぶ、あの顔が。
あれは、十歳の私だった。
母の名を呼んでいた、あの日の私だった。
だが今日、私は——
あの少年に何をした?
何もしなかった。
いや。
私は兵士たちを率いて、あの村にいた。
命令を実行していた。
それは、何もしなかったことにはならない。
私は——
加担していた。
その事実が、胸に重くのしかかった。
深夜、報告のために執務室を訪れた。カールは地図を見ており、蝋燭の光が彼の横顔を照らしている。
「レイフ」
「はい」
「犯人は捕まったか」
「はい。三名です」
私は報告書を置いた。
「処刑しろ」
その言葉は何の躊躇もなく出てきた。
「――はい」
カールが顔を上げて私を見た。私は報告書を見つめていた。カールの目を見られなかった。いつもならまっすぐ見返すのに、今夜はできなかった。
「レイフ」
「はい」
その声に私は顔を上げた。カールが私を見ている。その蒼い瞳が私を捉えている。私は目を逸らした。一瞬だけだが、カールはそれに気づいた。沈黙が続き、蝋燭だけが揺れていた。
「民は?」
カールが聞いた。
「静かです。ただ、見ていました」
「恐れている目か」
「はい」
「ならば、それでいい」
カールは地図に戻った。
「恐れは秩序を生む」
私は何も言わなかった。胸の奥で何かが軋んだ。
「下がれ」
「はい」
私は頭を下げて扉に向かった。手が扉の把手に触れた時、カールが言った。
「レイフ」
振り返ると、カールは地図を見たまま言った。
「お前は余を信じているか」
その問いに私は息を飲んだ。昨夜、アームフェルトが、レーヴェンハウプトが、レーネが笑っていた。温もりがあった。だが今、ここには冷たさしかない。
「信じています」
その言葉は本当だった。だが何かが違っていた。何が違うのか分からなかった。
カールは振り返り、その目が私を見た。
「お前は余の剣だ」
「はい」
「それを忘れるな」
その言葉が胸に重く落ちた。
「剣は持ち主を選ばない」
私は頷いた。言葉が出なかった。
「下がれ」
私は頭を下げて部屋を出た。廊下で私は立ち止まった。
余の剣
その言葉が耳に残った。
剣は疑わない、迷わない、ただ振るわれるだけだ。私はそれでいいのか?
これからも傍観者として生きていけばいいのか?
胸に手を当てた。心臓が速く打っていた。なぜだ? なぜ目を逸らした? なぜ王の目を見られなかった?
私は自分の部屋に戻って窓を開けた。夜風が顔を撫でる。街の灯りが暗闇の中で揺れていた。小さく、弱々しく。遠くで誰かが泣いていた。
私は窓を閉めたが、声は消えなかった。耳に残り、胸に残った。私は床に座って頭を抱えた。少年の顔、農民の目、アームフェルトの言葉、カールの目、全てが渦を巻いていた。
そして気づいた。昨夜の温もりはもうなかった。中庭は、暗く、静かだった。




