第15話 驟雨
1701年の春は遅かった。雪解けの泥が馬の腹まで跳ね、街道は水たまりだらけだった。だが兵士たちは笑っていた。ナルヴァの勝利が、まだ胸に残っていたからだ。
我々が最初に向かったのは、バルト帝国の東端リヴォニアの地だった。バルト海に面するこの地は、三ヶ月にわたりポーランド、デンマーク、ロシアの三国軍に包囲されていた。
スウェーデン総督ダールベルイが籠城を続けていたが、補給は途絶え、城壁は砲撃で崩れ始めているとのことだった。
「ダールベルイを救う」
カールの命令に従い、私たちは馬を走らせた。
四月の初め、我々はリヴォニアの城壁が見える丘に到着した。風が冷たく、麦畑はまだ緑も浅かった。城の周囲には三国の陣営が広がり、煙が上がっていた。
「敵の数は?」
カールが聞いた。
「およそ一万五千、陛下」
レーネが答えた。
「我ら先鋒隊は八千です」
カールは地図を見た。長い間。やがて指を走らせた。
「ここから北へ迂回する。夜明けに攻撃を開始する。正面から敵陣を突く」
「陛下」
レーヴェンハウプトが一歩前に出た。
「数で劣ります。包囲を解くだけなら、別の方法も」
「いや」
カールは地図を見たまま言った。
「敵を、打ち破る」
その声は静かだった。だが、確かな自信に満ち溢れていた。
夜明け前、我々は動いた。
霧が濃く、視界は十歩先も見えなかった。だがそれが幸いした。我々は音を立てずに森を抜け、敵陣の北側に到着した。
霧の向こうに、敵の陣営が見えた。
焚き火、天幕、歩哨。
カールが剣を掲げ、それを合図に我々は突撃した。
そのようにして霧の中から、突如八千の騎兵が現れた。
敵が気づいた時には、遅かった。陣営が混乱に陥り、兵士たちが武器を探し、馬が逃げ、指揮官が叫んだ。
敵からしたら悪夢のようだっただろう。
我々は陣営を突き抜けた。カールが先頭にいた。その背中を追い、兵士たちが続いた。
敵陣は崩壊し、デンマーク軍が最初に逃げた。次にロシア軍。最後にポーランド軍。太陽が昇る頃には、三国軍は撤退していた。
そのようにしてリヴォニアは、一夜にして解放され、城門が開いた。
ダールベルイが出てきた。中年の将であり、頬は痩せていたが、目は輝いていた。
「陛下」
ダールベルイは膝をついた。
「我らを、救ってくださいました」
カールは馬から降りた。
「立て、ダールベルイ」
カールはダールベルイの肩に手を置いた。
「お前は、よく耐えた」
「陛下のお陰です」
カールは何も言わなかった。ただ、城を見た。城壁は崩れ、門は焼け、中庭には死体が積まれていた。数ヶ月の包囲の跡。
「祝宴を開かせてください」
ダールベルイが言った。
「陛下のご武運を祝い、解放を喜び」
「いや」
カールは首を振った。
「戦争は、まだ終わっていない」
ダールベルイは驚いた顔をした。
「ですが、敵は祖国から撤退しました」
「撤退しただけだ」
カールは地図を取り出した。ポーランドを指した。
「アウグストは、まだワルシャワにいる」
その目が、鋭くなった。
「奴を倒さなければ、この戦いに意味はない」
ダールベルイは何も言えなかった。
「補給を整えろ」
カールはダールベルイを見た。
「我々は、明日ポーランドへ向かう」
その夜、リヴォニアの城内で軍議が開かれた。ダールベルイが用意した質素な食事が並び、将軍たちが集まったが祝宴の雰囲気はなかった。
「ポーランドへ侵攻する」
カールが地図を広げた。
「国境を突破し、ワルシャワを目指す」
将軍たちが地図を見た。
「陛下」
レーネが言った。
「リヴォニアの守備は?」
「ダールベルイに任せる」
カールは答えた。
「我々は、ポーランドへ」
「国境の守備隊はどうします。みすみす見逃してくれるとは思いませんが」
レーヴェンハウプトが聞いた。
「奇襲で迅速に突破する」
カールは地図上の国境線を指でなぞった。
「デンマークの時と同じようにだ」
カールは演説をするかのように声を大きくした。
「今止まれば、敵に時を与えることになる。それは飢える虎達を殺さず放っておくようなものだ」
その声に、迷いはなかった。
「だからこそ、奴らが手出しできない間に打ち破る」
カールは地図を見た。ワルシャワを。
「ポーランドを降せば、ロシアは孤立する。奴らが手出しできない間にポーランドを下せば、ピョートルは大陸に閉じ込められ、身動きが取れなくなる」
将軍たちは沈黙した。やがてレーネが頷いた。
「承知しました、陛下」
他の将軍たちも頷いた。カールは地図を巻いた。
「明朝出発する。準備を整えろ」
その夜、私は城壁の上に立っていた。
風が冷たく、遠くで焚き火の光が揺れていた。
我々の野営地だ。兵士たちが休んでいる。
だが明日、また戦いが始まる。私は拳を握った。リヴォニアは解放された。三国軍は撤退した。だが、カールは止まらない。あの若さで、大国を手玉に取っている。将軍を従えている。その一部でいられるだけで満足だった。
翌朝、我々はリヴォニアを発った。ダールベルイが城門で見送った。
「ご武運を、陛下」
カールは手を挙げた。それだけだった。我々は南へ向かった。ポーランドとの国境へ。馬蹄が泥を跳ね上げ、旗が風に鳴った。
「一年以内にワルシャワを目指す。そしてアウグストの王位を奪う」
その命令は至って簡潔だった。
カロリアンの士気は高かった。これまで常勝無敗。向かうところ敵なし。
正に天を衝く勢いであり、私も其の熱に乗せられていた。
「王が前にいる限り、我らも前に進む」
誰かが言い、周囲の兵たちが頷いた。だが私の胸の奥では、何かが重く沈んでいた。この地は広かった。果てしなく。そして、静かだった。
国境に到着したのは、三日後だった。川が国境線を成していた。浅く、狭い川。だがその向こう岸に、ポーランドの守備隊が布陣していた。
「数は?」
カールが聞いた。
「五百ほど、陛下」
レーネが答えた。
「我らは八千です」
カールは川を見た。
「突破する」
その声は簡潔だった。我々は正面から川を渡った。守備隊が矢を放ち、銃を撃った。だが我々の数が圧倒的だった。守備隊は数刻で崩壊し、兵士たちが逃げた。川を渡り終えた時、私の馬の足元に一人の兵士が倒れていた。
若い顔のポーランド兵だった。
胸に矢が刺さり、目を開いたまま死んでいた。
私は馬を進め振り返らなかった。
そうして我々はポーランド領内に入った。春の平原が広がり、麦畑が風に揺れていた。だが村々は静かだった。人の姿がない。
「なぜ誰もいない?」
若い兵士が問うた。
「逃げたんだろうな」
レーヴェンハウプトが軽く答えた。
「俺たち『客』が来ると知って」
兵士は何も言わなかった。私は平原を見渡した。静かだった。だが、その静けさは少し重かった。
ポーランド国境部付近の小村に到着したのは、どしゃ降りの夜だった。
わずかな家々が点在するその村で、我々は野営を張った。雨が天幕を叩き、馬がいななき、兵士たちが濡れた外套を絞っていた。
だが、村の人々は逃げていた。
老人も子供も、背に荷をくくりつけて村を捨てるように歩き出していた。薪の束を抱えたまま、振り返ることなく去っていく女の姿があった。
「なぜ逃げる?」
若い兵士が問うた。
男は吐き捨てるように答えた。
「あんたら侵略者は俺たちの家を焼く。だったら、何もかも持たずに逃げるほうがマシだ」
兵士は何も言えなかった。
私はその光景を馬上から見ていた。雨が顔を打った。
その夜、私は火の前に座っていた。
濡れた外套が肩に貼り付き、手のひらを火にかざしたが、温まらなかった。
村人の言葉が、頭から離れなかった。
侵略者。
私は火を見つめた。炎が揺れていた。
遠くで、カールが立っていた。一人で。雨の中で。馬の手綱を握ったまま、遠くの闇を見つめていた。
私は立ち上がった。
だが——
足が止まった。
あの背中には、近づけない何かがあった。
私は立ち尽くした。雨が降り続けた。やがて私は火のそばに戻り、座った。
兵士たちが笑っている声が、遠くで聞こえた。
翌朝、国境守備隊との戦争が始まった。
デュナ川付近。丘陵地帯の手前に、敵軍が布陣していた。ポーランド軍。アウグストが慌てて繰り出してきた軍勢。我らの兵力は数において劣っていたが、カールは奇襲を命じた。
「レイフ」
カールの声が低かった。私は馬を寄せた。
「お前の部隊は北から迂回し、敵の横腹を突け」
千人もの人間を指揮するのは初めてだった。手が震えた。
「はっ」
私の声は落ち着いていた。だが、馬の手綱を握る手のひらが、汗で濡れていた。
我々は夜明け前に出発した。森を抜け、沼地を越え、濡れた麦畑をひた走った。兵士たちが後ろを走る。
足音。息遣い。馬のいななき。
今まで体の一部のように感じていた全てが新鮮に感じる。
やがて敵の後方が見えた。
私は地図を確認した。この位置、この角度。補給隊を叩き、騎兵隊の側面を突く。完璧な配置だった。
「突撃!」
私は剣を掲げ、兵士たちが応えた。轟音のような足音。
そして——
その時、視界の端に何かが映った。
(あ......)
丘の向こう。
麦畑の先。
灰色の屋根が、いくつも見えた。
村だ。
地図には、なかった。
いや——見ていなかった。
敵陣だけを見て、地形だけを見て、勝利への道筋だけを——
「突撃ィッ!」
部下の兵士たちの声が響く。
村はもう目の前でもう、止まれない。
千の騎兵が駆ける。
大地が震える。
私の命令で。
私の判断で。
我々は敵陣に突入した。鋼がぶつかり合う音。悲鳴。怒号。血飛沫が頬を打った。補給隊を蹴散らし、騎兵を分断し、弓兵の列に斬り込んだ。
ポーランド軍が潰走する。
カールの正面部隊が突進した。
戦は——
勝った。
だが——
私は馬を止めた。
村があった。
クルツェニ。
納屋の屋根が崩れ、黒い煙が立ち上っていた。壁に矢が刺さり、門が倒れ、井戸の周りに血が流れていた。
家畜が倒れている。
鶏が羽をばたつかせたまま、動かなくなっていた。
畑が踏み荒らされ、柵が折れ、車輪が外れた荷車が横倒しになっていた。
人々が逃げていた。
老人が孫の手を引き、女が赤子を抱え、男が杖をついて走っていた。振り返ることもなく、ただ逃げていた。
そして——
路地の奥で。
少女が、座り込んでいた。
五つか、六つくらいだろうか。
ぼろぼろの服を着て、裸足で。
その膝の上に、女の頭が乗っていた。
母親だろう。
動かなかった。
少女は——
泣いていた。
声も出さず。
ただ、涙を流しながら。
母の髪を撫でていた。
私は——
私は馬から降りた。
足が、震えた。
喉が、詰まった。
焦げた木の匂いが鼻を突いた。
血の匂い、土の匂い。
そして——
その匂いが——
何かを呼び起こした。
かつての記憶を。
煙。
空を覆う煙。
手。
母の手が、私の手を握っていた。
「レイフ」
母の声。
「逃げなさい」
家が崩れる音。
炎が迫る音。
「レイフ!」
母が私を突き飛ばした。
そして——
「レイフ将軍!」
若い兵士の声が、私を現実に引き戻した。
私は——
息をした。
深く。
何度も。
目の前では少女が泣いていた。
倒れた母の手を握ったまま。
何も言わず。
ただ、泣いていた。
私は——
私は、その場に立ち尽くしていた。
そこに若い兵士が報告に来ていた。
「民家に被害が。負傷者も」
私は声を絞り出した。
「負傷者の搬送を優先しろ。子供を見つけたら、軍医に預けろ」
「はっ」
それ以上、指示を出せなかった。
兵士は頭を下げ、去った。
私は一人、立ち尽くしていた。
少女の泣き声が、耳に残った。
その夜、野営地に戻った私を、レーヴェンハウプトが待っていた。
「レイフ」
彼の声は、いつもの軽さがなかった。
「お前の部隊だけ合流が遅れたな。村で手でも止めたか」
私は何も答えなかった。
「おい、レイフ」
レーヴェンハウプトが一歩近づいた。
「お前、ずっと従軍してきたんだろ?こんな光景も見てきたはずだろうが。」
「......」
「戦場ってのはそういうもんだ。綺麗事じゃ済まねえ。お前だって分かってるはずだろ」
私は——
私は拳を握った。
「見てきた」
声が、かすれた。
「見てきた、けど——」
「けど、何だ」
「自分の、指揮で」
私は顔を上げた。
「自分の判断で、あれが起きたのは——初めてだ」
レーヴェンハウプトが黙った。
「地図に、村は載ってなかった。いや——見ていなかった。敵陣だけ見て、勝利だけ見て——」
私は震える手を、見た。
「この手で、命じた」
風が吹いた。
焚き火が揺れた。
レーヴェンハウプトは、長い間何も言わなかった。
やがて——
「......ああそうか」
彼は低く言った。
「わりぃな。見た目通り心も繊細な奴なんだなお前も。」
私は彼を見た。
その目に、軽蔑はなかった。
ただ——
何かが、あった。
「レイフ、俺はな」
レーヴェンハウプトは空を見上げた。
「もう、何度も見てきた。村が燃えるのを。子供が泣くのを。そして——慣れちまった」
彼は笑わなかった。
「それが、怖いんだよ」
私は——
何も言えなかった。
「だからその感覚は大事にしとけ」
私は意外だった。
彼のことだから私の不甲斐なさを叱咤でもするのかと思った。
そうして私の天幕を出る時、レーヴェンハウプトは私の肩を叩いた。
「だが、将軍ってのはな——それでも、進まなきゃならねえんだ。公私は混ぜんなよ」
彼は去っていった。
私は一人、残された。
その夜、王の天幕で軍議が行われた。
カールは地図を見ていた。蝋燭の光が彼の横顔を照らしていた。
「レイフ」
「はい」
私は報告書を差し出した。カールは目を通した。簡単に。
「よくやった。お前の機動が勝因だ。さすがだ」
その声は静かだった。
私は——
私は、口を開いた。
「村が、巻き込まれました」
カールは報告書を置いた。地図を見た。
天幕に雨が打ちつけていた。
「避けられたか」
「......分かりません」
カールの指が、地図上のワルシャワを指した。
「——戦争に犠牲はつきものだ。深く考えるな」
カールのその言葉は私を慰めるためのものだったのだろう。だが、私はその言葉を素直に受け入れることができなかった。
やりようのない気持ちが心の奥底で湧くのを感じた。
「諸将は準備を急げ、我々は3ヶ月以内に要衝クルツィクを目指し陥落させる。ここを落とせばワルシャワへの足掛かりとなる」
軍議で村のことは、もう話題に上らなかった。
まるで道端に落ちていた石を蹴ってしまったのを一瞥だけして雑談に戻る子供達。
そのような感覚でただ淡々と目的遂行のための話が進んでいく。
私はそれをただ諾々と聞いていた。
会議が終わると、カールは私を天幕に残し言った。
「——我々は正義のために戦っている。祖国を守るため、戦争を仕掛けてきた相手を叩き潰す。その目的を忘れるな」
カールは振り向いた。その目が、私を見た。
「何か、言いたいことはあるか」
私は——
私は首を振った。
喉に何かが詰まっていた。言葉が、声が、出てこなかった。
母の手。
焼けた家。
泣く少女。
それらが頭の中で渦を巻いていた。
だが私は——
私は、将軍だった。
一人の孤児でも、名もなき兵士でも無い。
「......いえ何も」
声がかすれた。
カールは何も言わなかった。天幕に雨が打ちつける音だけが、残った。
私は頭を下げ、天幕を出た。
夜の野営地。兵たちは濡れた外套を乾かしながら、火の前で酒を回し合っていた。疲労と勝利が入り混じった空気。レーネ、アームフェルト、レーヴェンハウプトが笑っている。仲間たちの温もりが、そこにある。
私は火のそばで、一人酒を煽った。
自分の昔からのお気に入りの酒だ。
だが——
味がしなかった。
ふと視線を上げると、カールが一人、丘の上に立っていた。マントが風に揺れていた。その背中が、遠かった。
私は——
私は杯を置いた。
立ち上がった。
だが——
足は動かなかった。
火が揺れていた。遠くで、カールが一人立っていた。
私は座り直した。
杯を、また手に取った。
レーヴェンハウプトが笑っている。
アームフェルトが話している。
レーネが酒を注いでいる。
この温もりの中に私はいる。
だが——
どうしようもなく胸が、痛んだ。
私は——
私は、酒を飲んだ。
味は、しなかった。




