第13話 継戦
第二部「炎の道」
雪は止まなかった。
ナルヴァから一週間が過ぎても、白い死が我らの野営地を覆い続けていた。勝利の興奮は既に凍てつき、残ったのは現実の重さだけだった。
カールは司令部の天幕で地図を見つめていた。蝋燭の光が彼の横顔を照らす。その表情は石のように動かない。東へ延びる一本の線――モスクワへの道を、彼は見つめ続けていた。
「陛下」
私が声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。その瞳には、まだあの夜の炎が宿っていた。戦いへの渇望が。
「レイフ、お前はどう思う?」
彼は地図上のモスクワに指を置いた。
「このまま東へ向かうべきか」
私は答えに窮した。天幕の外では、兵たちが凍えながら焚き火を囲んでいる。馬は既に何頭も死んだ。補給線は雪に埋もれ、弾薬は湿気て使い物にならない。
「将軍達は――」
「もうすでに聞いた」
カールの声は低く、鋭かった。
「だが、今を逃せばピョートルに時を与えることになる。あの男は必ず立ち直る。」
私は彼の横顔を見つめた。そこには、まだ十八歳の少年の面影があった。だが、その眼差しは遥か先を見据えていた。
「だからこそ、奴らが手出しできない間に外堀から埋めていく。デンマークは無力化した、ポーランドも降せばロシアは大陸に閉じ込められて身動きが取れやしない」
「陛下……」
その瞬間、天幕の入り口が開いた。
軍部の上層部たちが揃って入ってきた。
彼らはカールの直属部隊、カロリアンの面々だ。
欧州でも最高峰を誇る精鋭中の精鋭で、帝国の子供は皆子供の頃は憧れたことだろう。
無論、私もそんな一人だった。
その中でも一際目立つ三人がいた。
1人は巨漢の老将、1人はダンディに髭を生やした男、そして筋骨隆々とした体に見合わぬ色白な男。
その後ろには、他の将軍たちも続いた。
だが彼らの存在感は別格だった。
中央の男が両手を合掌してカールに言葉を述べる。
「陛下、軍議の時間です」
カールは静かに頷いた。
そうして始まった軍議は嵐のようだった。
「陛下、これ以上の東進は無謀です」
「補給が続きません」
「冬のロシアは軍の墓場です」
将軍達は口々にいかに無謀かを説得しようと試みる。
「我らは北の民だ。寒さを恐れる南の軟弱者ではない」
カールの声が会議を制した。将軍たちは口をつぐむ。
だが、アームフェルトは引き下がらなかった。
「陛下の勇気に疑いはありません。しかし、勇気だけでは冬将軍には勝てません。我らの兵は既に限界です、一度体制を立て直さねばみすみす死ぬだけです。」
天幕に重い沈黙が落ちた。
カールは長い間、誰の顔も見なかった。ただ地図を見つめ続けていた。
やがて、彼は口を開いた。
「……侵攻はしない」
将軍たちは安堵の息をついた。だが、私だけが気づいていた。王の拳が、白く握りしめられていることを。
「しかし」
カールの声が再び響いた。
「戦争はまだ終わらない。矛先を変えるだけだ」
彼の指が南へ滑った。ポーランドを指している。
「一度ストックホルムに帰還した後、踵を返してアウグストを叩く。そして、ロシアの盟友をことごとく潰す。ーー解散だ。スウェーデンに帰るぞ。」
会議が終わった後、私は王と二人きりになった。
雪がさらに激しく降っていた。天幕の壁に当たる音が、太鼓のように響く。
「後悔しておられますか?」
私は思い切って尋ねた。
カールは振り返らずに答えた。
「後悔?何を?」
「東進を諦めたことを」
彼は長い間黙っていた。そして、ついに振り返った時、その顔には見たことのない表情があった。
「レイフ、お前は王になったことがあるか?」
「ーーもちろんありません」
そう言うと、カールは一瞬だけ無邪気に笑った。
「ふっ 当たり前だ。
ーー王とは、常に選択を迫られる存在だ。だから余は間違わない。だから臣下も余を信じ、命を預ける。」
彼の言動にはいつものように圧倒的な自信が溢れていた。しかし、誰もが知っていた。その自信は自惚れでもなんでもない。紛れもなく実力の伴ったものだと言うことを。そして彼は再び地図に向き直った。
「余は止まらない。どれだけ苛烈な道であろうと、炎の中を歩む道であろうと」
私は背筋に寒いものを感じた。それは天幕の隙間から入る風のせいではなかった。
「ーー炎の道、ですか?」
「そうだ」
カールは静かに言った。
「余の歩む道は、余に歯向かうものすべてを焼き尽くす。」
そう言った彼の目の奥にはそこが見えない野心が溢れていた。
そして気づいた。
私は彼の持つ本質的な「炎」に惹かれていると言うことに。
先王の温かな炎を失い、凍えていた当時の私にとってカールの天をつかんばかりの炎はさぞ魅力的に映ったのだろう。
だから今も私は彼の炎に身を投じることで生を感じている。
きっとそうだ。
その夜、私は眠れなかった。
王の言葉が頭から離れなかった。炎の道。それは何を意味するのか。
天幕の外で、衛兵が足音を立てて巡回している。時折、馬のいななきが聞こえる。そして遠くで、狼の遠吠えが響いた。
私は毛布をかぶり直した。だが寒さは骨の奥まで染みていた。
それは外の寒さではない。内側から湧き上がる、得体の知れない不安だった。
【──ロシア ネヴァ川付近】
霧立ち込めるネヴァ川の湿地。
ピョートル自身が立ち上げた新たな都市の建築計画に彼自身も携わっていた。指揮としてではなく、現地で。
ピョートルは泥に足を取られながら、鍬を深く振るっていた。癖だった。考えをまとめるとき、彼はいつも手を動かす。
彼のすぐ隣で、粗末な外套の農民が慣れぬ手つきで畝を整えていた。
ピョートルはふと手を止め、その男を見やった。
「おい、イヴァン!そこ、浅すぎるぞ、水が溜まる!」
「は、はい、陛下……!」
驚きと緊張のあまり、農民の手が止まる。だがピョートルは笑って肩を叩いた。
「力むんじゃねぇよ。俺も最初はそうだった。オランダの造船所でケツが泥に埋まって、笑われたもんさ」
イヴァンというその男は、ようやく息を吐いて微笑みを返す。
だが、その背中を見つめる皇帝の眼差しはどこか遠い。
「なあ、イヴァン。お前の村、どこにある?」
「ヴャジマの北です。森の奥に……小さな村ですが、おら達みんな真面目で、冬を越せるよう祈ってます」
ピョートルは「そうか、きっと越せるさ!」とだけ答え、再び鍬を振った。
「ーー陛下はなんでおら達みたいな農民と作業するだべか。失礼かもしれないですが、もっといい仕事がある気がして....」
「ばかっ!イヴァンおめぇ失礼だべさ!陛下、ご無礼をすみません.....」
一瞬場の空気が凍った。しかし、ピョートルはあっけらかんとした顔をしており、手を止めずに作業を続けていた。農民達が唖然とする中、彼は振り返り、笑いながら言った。
「気にすんなってんだ、この場で働く俺は今はただの農夫だ。ーーそんなことに頭使うぐらいならさっさと手ぇ動かせ!」
ピョートルは熱気あふれる声でそう叫ぶ。そして一瞬、徐々に農民達の間で笑いが広がる。ネヴァ川の付近は雪が降り積もりながらもどこか暖かかった。
【ポーランド、ドレスデン王宮】
アウグスト2世は重厚な玉座に腰を沈め、宮殿の暖炉から立ち上る煙の淡い香りを嗅ぎながら、手元に届けられた書状をゆっくりと開いた。そこには、ナルヴァの戦いでのスウェーデン軍の勝利、ピョートル率いるロシア軍の惨敗が記されていた。
そしてそれに呼応するようにポーランド軍はリヴォニアの包囲を解き、表面上での友好的な態度を見せていた。
彼は絹のローブの袖口に指を這わせ、眉をひそめるどころか、むしろ笑みを浮かべていた。周囲の侍臣たちが緊迫した面持ちで報告を続けるなか、アウグストは冷ややかな声で言った。
「ふん、ピョートルの間抜けめ。兵力の四倍もの差をひっくり返されたなど、まったくもって、笑止千万の出来事よ。」
彼は袖を軽くはたきながら、玉座の背もたれに体を預けた。深く息を吐くと、その口調はより一層傲慢に変わる。
「これでこそ我らが主導権を握れるというものだ。抜け駆けして首都を攻められさっさと降伏したフレデリクも、阿呆なピョートルもその若さゆえに手痛い失敗ばかりだな。」
彼は居並ぶ同盟国の使節たちに向け、声を張った。
「この敗戦は、我らにとっての好機だ。ザクセン軍が南方から圧力をかければ、若き王も慌てふためくだろう。奴は過剰に自信を持ちすぎている。」
玉座の背に寄りかかりながら、アウグストは酒杯を手に取り、重々しく掲げた。
「神に感謝する。勝者はしばしば己の力を過信し、慢心の罠に陥るものだ。奴はいずれ勝手に自滅する。」
侍臣たちの間に緊張感が漂う中、アウグストの瞳は冷たく光っていた。彼の心には、敗れたロシアも、戦いに勝利した若きカールも、すべては己が支配するゲームの駒でしかなかった。
「放っておけ、奴は所詮若造。こちらから手出しをせねば奴らも何もするまい」
そう言うとアウグストは片手に残っていたワインを一気に平らげ、机に叩きつけた。その残響だけが宮廷の中を響き渡った。




