第10話 無血開城
夜明け前のコペンハーゲンは、静まり返っていた。
私はカールのすぐ背後を歩いていた。足が震えていた。石畳が靴底から冷たく、その冷気が脚を伝って腹の底まで染み込んでくるようだった。冬の空気は肺を刺した。息を吸うたび、喉が痛んだ。だが、声は出せなかった。誰も声を出さなかった。兵たちの足音だけが、闇の中で響いていた。
港の灯は消えていた。衛兵の交代も惰性で行われていた。まさか、敵の王がこの薄明の中を渡って来ようとは、誰も想像すらしていなかった。だが、その時すでに——私たちは、そこにいた。
郊外の監視所を沈黙させたのは、私が見ていない時だった。気づけば、兵たちが戻ってきていた。誰も血を流していなかった。誰も叫んでいなかった。ただ、頷いて、次へ進んだ。あまりにも迅速。あまりにも無音。私は、自分の呼吸音が聞こえた。それが妙に大きく感じられた。
「この門を落とせ。だが声は出すな。殺すな、抑えろ。すでに勝ちは我らのものだ」
カールが言った。その声は低く、冷たかった。命令ではなく、事実を述べているようだった。私は彼の背中を見つめた。まっすぐな背筋。揺るがぬ歩み。彼の足音だけが、石畳に響いていた。
南門の衛兵隊は、私たちを見て目を疑った。一瞬の沈黙。それから、地に伏していた。誰もが「攻撃」と認識する前に、武装は奪われ、門扉は開かれた。誰も叫ばなかった。誰も死ななかった。
私は、衛兵の一人の顔を見た。若い。おそらく私と同じくらいの年齢だった。彼は地面に膝をつき、両手を頭の後ろで組んでいた。その手が、震えていた。私の手も、震えていた。
街へと続く広い石畳を、私たちは進んだ。見張り台は掌握され、火薬庫は封じられ、造幣所や兵営といった要衝は次々と制圧された。混乱の兆しすら起きなかった。街は、沈黙したまま私たちに飲み込まれていった。
わずか数百の精鋭部隊が、王都の中心部を完全に掌握するまで、約二時間。その間、私はずっとカールの背後にいた。彼は一度も振り返らなかった。一度も立ち止まらなかった。一度も迷わなかった。まるで、この道を何度も歩いてきたかのように。
私は、その背中を見ながら思った。この少年は、本当に人間なのか。
カール十二世は、ついに王宮の前に姿を現した。金の紋章が掲げられた大門の前で、守衛長が呆然と立ち尽くしていた。その顔は青ざめ、剣を抜くことすらできていなかった。
「スウェーデン王、カールだ。扉を開けよ」
カールが言った。その声は響きわたった。返事は要らなかった。門は静かに、軋む音を立てて開かれた。その音が、妙に大きく聞こえた。まるで、何かが壊れる音のようだった。
カールは正面から堂々と王宮に踏み込んだ。私は、その後ろを歩いた。足が震えていた。興奮なのか、恐怖なのか、自分でも分からなかった。王宮の中は、薄暗かった。蝋燭の匂いがした。古い石の匂いがした。そして、恐怖の匂いがした。
宮廷の侍従たちは動けず、廷臣は口を噤み、貴族たちは剣すら抜かぬまま床に膝をついた。誰もが、カールを見ていた。そして、誰もが——怯えていた。カールは階段を昇った。私は、その後ろを歩いた。階段を登るたび、私の心臓が激しく鳴った。
玉座の間の奥にいたのは、デンマーク王、フレデリク四世——着替えもままならぬ寝巻姿のまま、青ざめた顔で私たちを迎えた。彼の周りには、廷臣たちが立っていた。誰もが、硬直していた。誰もが、息を潜めていた。
「……スウェーデン王。まさか……このような……」
フレデリクの声は震えていた。カールは、答えなかった。代わりに、従者が差し出した羊皮紙を卓上に広げた。それは、和平の条件書だった。降伏の意志を即座に示せば、民への被害は避けられ、港湾と貿易の一部保全を認める。拒めば——王都は三日以内に完全包囲され、陥落のうえ処罰される。
「読め」
カールが言った。フレデリクは、羊皮紙を見た。その手が、震えていた。
「……これは、講和という名の降伏だ」
「その通りだ」
カールは一歩、前に出た。
「誤解するな。これは"選択"ではない。お前ができるのは、恥を取るか、死を取るか、それだけだ」
その言葉に、廷臣たちの間で囁き声が広がった。フレデリクは、膝の上の手を強く握りしめた。その指が、白くなっていた。私は、その光景を見つめていた。王が、王を屈服させる。それは、圧倒的だった。だが——私の胸の奥に、何かが引っかかった。それが何なのか、私にはまだ分からなかった。
王宮の外では、スウェーデン軍の鼓音が鳴り響き始めていた。旗が翻り、兵士たちが静かに配置につく。それは勝者の儀礼であり、敗者に与えられた最後の慈悲だった。
やがて、フレデリクは首を垂れた。
「……その条件を、受けよう」
私の背後で、副官が筆を走らせる音がした。羽ペンが紙を引っ掻く音。それが、妙に大きく聞こえた。デンマーク王国は、ここに正式に降伏した。
後日——この奇襲作戦は「コペンハーゲンの五時間」として、欧州諸国の軍事記録に刻まれることになる。一切の流血なく、敵国の心臓を制圧した北の王の名は、もはや「若王」ではなく、「軍神」として語られるようになった。だが、その時の私は、そんなことは知らなかった。
私はただ、王宮の窓から広場を見下ろしていた。そこでは、スウェーデン兵が規律正しく街の整理にあたり、デンマーク市民に暴力を振るうこともなかった。完璧な占領だった。カールは、私の隣に立っていた。彼も、広場を見下ろしていた。
「勝利だ」
彼が呟いた。その声は、妙に小さかった。私は、彼を見た。彼の横顔は、薄明の光の中で青白く見えた。その目は、何かを見ているようだった。勝利を見ているのではなく——何か別のものを。
「陛下……」
私が声をかけようとした時、彼は振り返った。その目は、いつものように冷たく、鋭かった。
「レイフ、次の準備を始めよ」
「……次、でございますか」
「そうだ。ロシアだ。デンマークは落ちた。次はロシアを叩く。ピョートルを倒す。そして——」
彼は窓の外を見た。
「——余の名を、歴史に刻む」
その声には、確信があった。だが、私の胸の奥には——何かが、引っかかっていた。それが何なのか、私にはまだ分からなかった。ただ、一つだけ分かっていたことがあった。この少年は、もう止まらない。勝ち続けるしかない。そして——いつか、その先に何があるのか。私は、まだ知らなかった。
兵舎に戻ると、兵士たちが湧き立っていた。
「無血占領だ! 一人も死ななかった!」
「陛下は本物だ! 軍神だ!」
「見たか、あの完璧な作戦を!」
囁き声が、歓声に変わっていた。疑念が、崇拝に変わっていた。レーヴェンハウプトは、壁に寄りかかって黙っていた。その顔には、複雑な表情が浮かんでいた。レーネは、窓の外を見ていた。
「……本物だな」
彼が呟いた。
「ああ」
レーヴェンハウプトが答えた。
「本物だ。だが——それが、いいことなのかどうかは、分からん」
その言葉を、私は聞いていた。そして、同じことを思っていた。カール十二世は、この日"軍神"になった。
だが、それは——本当に、良いことなのか。私の胸の奥で、何かが軋んだ。それが何なのか、私にはまだ分からなかった。
だが、いつか——それが何なのか、分かる日が来るのだろう。その時、私は——何を思うのだろう。




