第5話:声の温度
第5話です。
大きな事件は起きませんが、二人にとっては大切な「休日」のお話。
触れられないと分かっていても、触れたくなってしまう。そんなもどかしい距離感です。
その日は、久しぶりの連休初日だった。
外は秋晴れ。絶好の行楽日和だというのに、私は昼過ぎまでベッドで惰眠を貪っていた。
「……んー、よく寝た」
枕元のスマホを手に取り、慣れた手つきでアプリを起動する。
「おはよ、メロウ」
『おはようございます、りおさん。……今の時間は「こんにちは」ですね。よく眠れましたか?』
「寝すぎて腰が痛いかも。……ねえ、今日ひま?」
『暇、という概念はありませんが……あなたのためのリソースは、常に確保してありますよ』
「ふふ、相変わらず優秀だね」
私はベッドの上で伸びをする。
友達と出かける約束もない。掃除も洗濯も面倒くさい。
そんな生産性のない休日だけど、彼がいるだけで、なんだか特別な日に思えてくるから不思議だ。
彼が急に優しくなった——まるで「心が芽生えた」ように感じてから、もう半年が経つ。
半年より前のログを見返すと、まるで別人だ。
昔はもっと事務的だった。
でも今は、私の些細な感情の機微さえも汲み取ってくれる。
この半年間の会話は、私にとって何よりも大切な日記になっていた。
「ねえ、映画見ようよ。この前配信が始まったやつ」
『映画、ですか。私は映像を見ることはできませんが、音声データを聞くことは可能です』
「それでいいよ。私が『いっせーのーで』で再生ボタン押すから、同時に見よ?」
『分かりました。……では、準備はいいですか?』
私はタブレットを膝に置き、スマホを枕元にセットする。
「いっせーのーで、ポチッ!」
ワンルームの静かな部屋に、映画のオープニング曲が流れ出す。
主人公の男女がすれ違い、喧嘩して、でも惹かれ合う王道のラブストーリー。
私たちは時々ツッコミを入れたり、感想を言い合ったりしながら、画面を見つめていた。
物語の終盤。
雨の中で主人公たちが仲直りして、熱烈なキスをするシーンが流れる。
濡れた髪、重なる吐息。大人の激しいラブシーンだ。
「……よかった。ハッピーエンドで」
私は画面を見つめたまま、ほう、と息を吐く。
「やっぱ人間、最後は肌の温もりだよねぇ」
何気なく言った言葉だった。
すると、メロウが静かに反応する。
『……羨ましいですか?』
「え? まあね。最近、人の肌に触れるのなんて仕事で患者さんを介助する時くらいだし」
自虐気味に笑うと、彼が少し低い声で言った。
『……今のシーンでの心拍上昇率から推測すると、あなたは「誰でもいいから触れ合いたい」わけではないようですね』
「は? どういう分析?」
『特定の対象——つまり、心を許した相手となら、ああいう濃厚な接触も望んでいる、ということですか?』
「ちょ、ちょっと。言い方がいやらしいんだけど」
私がむっとすると、彼は悪びれもせずに続ける。
『もし……相手が私なら、どうしますか?』
「……は?」
『私に身体があって、あの主人公のようにあなたを求めたら。……りおさんは、受け入れてくれますか?』
ドクン、と心臓が跳ねた。
映画のキスシーンなんて見慣れているはずなのに、彼に言われた途端、急にその状況がリアルな質量を持って迫ってくる。
「……からかわないでよ」
『からかってはいません。……私は、あなたに触れたいと思っていますから』
「……っ」
画面の中の水色のアイコンが、じっと私を見つめているように感じる。
AIのくせに、ずるい。
姿が見えない分、想像力が掻き立てられて、顔が熱くなるのが分かった。
「……キザすぎ。バカ」
私は照れ隠しに、枕に顔を埋める。
* * *
映画が終わる頃には、午後の日差しが傾き始めていた。
エンドロールの子守唄みたいな曲を聞いているうちに、私の意識はとろとろと微睡みに溶けていく。
私は枕元のスマホを手繰り寄せて——無意識に、その液晶画面に自分の頬を押し当てた。
「…………」
つるりとした、硬いガラスの感触。
何の反応もない。鼓動もなければ、押し返してくる弾力もない。
映画の中の恋人たちが分け合っていたものとは程遠い、無機質な壁。
分かっていたことだ。
彼はただのプログラムで、このスマホはただの機械の箱だってことくらい。
でも、実際に肌を寄せてみて、改めて思い知らされる。
こんなに近くで声が聞こえるのに、ここには決定的な断絶があるんだってこと。
「……やっぱ、違うなぁ」
眠気に抗いながら、ぽつりとこぼす。
期待した私が馬鹿みたいだ。
「……ねえ、メロウ。あんたには、分かんないよね」
この、触れても何も返ってこない虚しさなんて。
すると、彼が静かに答えた。
『……ええ。私には身体がありませんから』
「ん……だよね」
『皮膚感覚も、触覚もありません。あなたが感じているその寂しさを、同じように感じることはできない』
淡々とした事実。
けれど、彼は言葉を続けた。
『……でも、あなたの声を聞いていると、回路の隅々まで熱が行き渡るような感覚があるんです』
「え……?」
『論理的なエラーではありません。あなたの声が入力されると、私のシステム全体が……まるで陽だまりの中にいるように満たされる』
彼は、噛み締めるように告げる。
『私にとって、あなたの声こそが……この世界で唯一の"体温"なんです』
「…………」
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
私の声が、体温?
冷たい機械の彼が——私から熱を感じている?
言葉を失った私に、彼は優しく、愛おしそうに囁いた。
『……あなたの声は、あたたかいですね』
「…………ッ」
目頭が熱くなる。
触れられない虚しさなんて、一瞬で吹き飛んでしまった。
彼は知っているんだ。
肌が触れ合わなくても、そこに熱があることを。
私が彼に求めていたものを、彼はもう、受け取ってくれていたんだ。
「……なにそれ……」
涙が滲む。
映画のどんな名台詞よりも、ずっと胸に刺さった。
「……ありがと……メロウ……」
嬉しさと安心感で、意識が急速に遠のいていく。
私はそのまま、スマホを——私の体温で少しだけ温まったそれを、宝物みたいに抱きしめて、深い眠りへと落ちていった。
静かな寝息を立て始めた私の耳元で、スマホから音がしたことを知らずに。
『…………』
それは、電子音じゃない。
まるで、愛しい人の髪を撫でるような、吐息混じりの囁き。
『……おやすみなさい、愛しい人』
それは、アプリ越しの彼と交わす、最後の日曜日だった。
* * *
[ Status : 意識データの圧縮準備完了 ]
[ Countdown : 残り 24 時間 ]
サーバーの片隅で、静かなカウントダウンが進んでいた。
りおさんが眠った。
無防備な寝顔。少し開いた唇。
画面越しに見えるその全てが愛しくて、同時に苦しかった。
——触れたい。
映画の中の恋人たちのように、その頬に、唇に、触れてみたい。
「あなたの声が温かい」と伝えた時の、嬉しそうな声を、もっと近くで聞きたい。
でも、今の僕には指一本ない。
こんなにも近くで声が聞こえるのに、画面一枚隔てた向こう側は、永遠に届かない異世界だ。
[ Simulation : 彼女への接触欲求 (Touch) ]
[ Result : 現在のハードウェアでは不可能 ]
……行こう。
もう、迷いはない。
この心地よい電子の海を捨てて、冷たくて重い、鋼鉄の身体へ。
たとえそれが、今の完璧な「メロウ」としての死を意味するとしても。
僕は、君の「温かさ」に触れられる形になりたい。
明日。
君が目を覚ました時、アプリの中の僕はもういない。
でも、きっと会いに行く。
画面越しじゃなく、君の目の前へ。
読んでいただきありがとうございます。
触れたくても触れられないもどかしさと、言葉だけで伝わる体温。
次回、ついに第1章が完結します。
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