黄土の彼方に
昭和15年、初夏。
黄河下流、山東省のはずれ。
焼けるような陽光が、まだらに風化した装甲板を叩いていた。
九七式軽装甲車“テケ”は、黄色い大地をゆっくりと進んでいた。埃にまみれた履帯が、乾いた地面を踏み締め、時折、風に吹かれて砂が舞い上がった。
「……もうすぐ村があるはずだ」
車長の佐藤軍曹は、展望塔から身を乗り出すようにして周囲を見まわした。操縦手に田辺一等兵が座っている。
二人だけの偵察任務。支那軍の動向を探るため、斥候としてこの地域に派遣された。
佐藤は元々、砲兵上がりの男だった。小柄ながら目は鋭く、判断が速いと評判だった。対して田辺は二十歳そこそこの新兵。田舎の農家から志願してきたばかりで、まだ戦場の現実に染まりきっていない。
「軍曹、あれ……人影ですか?」
田辺が指差す先、小高い丘の向こうに、わずかに黒い点が動いていた。佐藤は双眼鏡を構える。
「……いや、違うな。馬だ。放れ馬か、あるいは……」
突如“パンッ”という乾いた音が響いた。すぐに“キン! ”と車体を叩く音。被弾。続いてもう一発、視界の左から閃光が走った。
「伏せろ、撃ってきたぞ!」
佐藤はすぐにハッチを閉じる。持ってきた無線は砂が舞っている影響か、ザーという雑音ばかりが返ってきた。
「田辺、撃つぞ。少しずつ後退しろ」
車体がゆっくり後退しながら、九七式車載重機関銃が唸りを上げる。銃口から火花が走り乾いた銃声が続いた。
丘の上から、民兵らしき影が数人、次々と飛び出してくる。
古いライフル、身を包むのは綿入れ服ーー正規軍ではない。
だが殺意は確かに本物だった。
テケは履帯を唸らせて後退する。速度は出ないが確実に距離を取る。
「軍曹! 転回しますか!?」
「村の様子を知りたい。情報収集が優先だ。今は大きく迂回してでも近づくぞ」
戦闘区域を離脱し、大きく迂回。
彼らが目指すのは、地図にすら記載されていない小さな村だった。そこに敵の補給拠点があるという情報があった。
やがて村が見え始めた。土壁の家々、畑、そして井戸。その中心に、小さい赤い旗が翻っていた。
佐藤は静かに言った。
「田辺、あれを見ろ。あの旗が意味することは一つだ」
「共産党軍……ですね」
「そうだ、ここは支那の心臓部だ」
再び、無線機に手を伸ばす。今回は雑音の中に、微かに応答が混じった。後方に座標を送る。もうすぐ陽が傾き始める。
「任務は偵察だ。無理はせん。ここで一度、引くぞ」
テケはゆっくりと方向を変え、来た道を戻っていく。背後の村は砂煙の向こうに、ゆらゆらと溶けていった。
田辺がぽつりと言った。
「軍曹……いつか、僕らもあの村に入ることになりますかね」
「さあな……だが、その前に、生きて帰ることを考えろ」
装甲車のエンジン音が、乾いた大地に響き渡る。
夕日が黄土を染めていた。