嘘つきな令嬢が皇子様に溺愛されるまで
くすくすと、誰もが私を指差し笑っている
私は嘘つきです。自他共に認める嘘つき。
初めて家族以外に嘘をついたのは七歳のとき。お母様が私を置いて愛人と出奔してしまって、誰もが私とお父様を指差して笑ったから。お母様はすぐに帰ってくるわって嘘をついたの。
男と出て行ったとか、捨てられたとか、そんな心無いことを言われるたびに私は「お母様はもう帰って来た」って言った。それが「お忙しいの」になって「体調を崩してしまった」ことになり、デビューを迎えるころには「亡くなった」わ。もちろん、母は領地で家族だけに送られることを望んだから葬儀には誰も呼ばなかった。
あの子は嘘つきだからと言われるたびに嘘じゃないもの、と叫んで次の嘘をつくの。東方の国で流行る香水も持ってるし、食事のときには毎日音楽家を呼ぶし、隣国の姫君とも交流があるの。本当よ、本当なの。だって私が嘘つきならお母様に捨てられたことになるじゃない。
だからね、いつかこんな日が来るとわかっていました。
「リュシエンヌ。君との婚約は続けられないよ。もう、僕まで笑われるのはうんざりだ」
でもあなたも一緒に私を笑っていたじゃない、とは言えません。
バルタザール様がそうおっしゃるのは無理からぬこと。彼の腕に素直そうなお嬢さんが控えめに手を添えるのだって当然のことです。
でもね、あなたが陰で私を指して「子どもの頃に戻れるのなら絶対に婚約なんかしなかったのに」と言わないでいてくれたら。思っても心にとどめていてくれたなら、「照れているだけよ」と苦し紛れに笑って無様を晒すことなんてなかったのよ。
私は鎧のごとくごてごてと飾ったドレスのスカートを左手でぎゅっと握りしめ、右手に持った武器のような扇を広げて口元を隠しました。
「こ、こちらから申し上げる手間が省けてよかったわ!」
「おい、リュシエンヌ……」
私がキッと睨みつけるとバルタザール様は呆れ果てたように大きな溜め息をつきます。そう、あなたはこれが嘘だとわかっているのよね。いえ、バルタザール様に限らずみんなわかってるのです。
だけど、私はもう真実を語れない。素直にごめんなさいと、婚約を破棄したくないと言って縋ることはできないのです。だって一度周囲に射かけた嘘という矢は、ことごとく拾われてこちらに向けられているから。一度でも一瞬でも隙を見せればあの矢が飛んでくる。
――婚約してほしいと言ったのはバルタザール様だったはずでは?
――毎日愛を囁かれてうざったいとおっしゃってたのに。
そんな風に私を嘲笑する声がそこかしこから聞こえてきます。唇を噛んだ私に向けて、誰かが野次を飛ばしました。
「まさか婚約を解消したいほど素敵な殿方でも?」
瞬間、会場中の誰もが笑い出しました。きっと笑っていなかったのは私だけ。お父様はすっかり社交を嫌ってしまってここにはいないし、バルタザール様でさえ平静を装う口元が震えていたもの。
ここで答えるべきは、私を消すための嘘よ。ずっと考えていたの。もしこの婚約がダメになったら、私は領地に引きこもって誰にも会わず生きていこうって。私自身を病気にして、療養するのよ。もう誰にも嘘をつかなくていい場所に行くの。
だから、さあ言って。「違う」って。「体調を崩したから」って。いいえ、それだけでは婚約解消には足りないわ。そうね、「不治の病を患った」がいい。
パチンと音を立てて扇を閉じるといくらか静かになりました。みんな私がどんなことを言いだすのかと期待に満ちた目で見ている中、すーっと息を吸います。
「そうよ、そろそろ来るんじゃないかしら」
なんで!
口をついて出たのはとびっきりの嘘です。来るはずのない人を来ると言ってしまうなんて!
誤魔化さなくちゃいけないのに、誰もが会場の入り口を見つめているのを見て次の言葉が出ません。きっとあまりにも常識を外れるようなことを言ったから「もしかしたら」と思ってしまったのかも。
ほんのちょっぴりでも信じてもらえることがこんなにも、……いえ、でもこれで最後ね。「連れて来ているわけないじゃない。あなた方に紹介するのも勿体ないわ」とかなんとか言って帰るしかないんだわ。後ろ指をさされながらね。
「やっぱり――」
言いかけた言葉はそこで止まりました。だって扉が開いたから。
侍従が来賓の名を高らかに宣言します。
「ネバラ魔国、第三皇子ルヘッグ殿下御入来」
一瞬にして会場は混乱に陥りました。だってここはバルタザール様の……つまり公爵家のお屋敷であり、しかもバルタザール様のお誕生日パーティーなのです。
そんな私的な空間に隣国の皇子がいらっしゃるだなんてあり得ませんから。でも濡れ羽色の長い髪と、血の滴るような真っ赤な目はたしかに魔国の皇族の特徴で。
もう生きた心地がしないとはこのことだわ。まさか皇子様を恋人だと言う羽目になるだなんて! これは罰なの? 罰だというなら一体なんの? 私はただ自分の心を守りたかっただけなのに。嘲笑する人々から、私自身の心を。
皇子殿下は何も言わずまっすぐに私の方へと向かっていらっしゃいます。場内の人々は彼の前から逃げるように左右へ避け、あっという間に私たちは触れ合えるほどの距離となりました。
「やぁ俺の最愛、麗しきリュリュ。会いたかった」
「……ぇ」
会場の中の誰もが驚きに満ちた瞳でこちらを見つめます。でもきっとこの中で最も驚いているのは私だわ。だって、私この方に初めて会ったのに!
長身のルヘッグ殿下は優雅に背を丸めて、見上げる私の耳元へ口を寄せました。
「君が望んだんだろう? 俺が君の嘘を真実にしてやろう。さあ、得意の嘘を披露して」
そう言われても、すでに私の嘘は真実になっていると言って過言ではない、わよね?
バルタザール様が目を丸くして私の名を呼びました。
「リュシエンヌ、君は婚約者がありながら別の人物と」
「ち、違、彼とはお友達の……言ったでしょう、お隣の聖王国の王女殿下と親交があると。彼女のご紹介でお手紙をやり取りするようになったの」
子どもの頃から嘘をつき続けた私は、責められれば息をするようにその場を取り繕ってしまいます。私の嘘に大きく頷いてルヘッグ殿下が言葉を続けました。
「そうだ。婚約者が下位貴族の娘とちちくりあってるのも、『私がいたらないせい』と庇っていたぞ? 健気な娘だ。だから今日、貰い受けに来た」
ルヘッグ殿下の言葉を誰も疑おうとはしていません。その結果していないことがしたことになり、言っていないことが言ったことになっていきます。じわじわと、周りの私を見る目が変わっていくのがわかります。
「な……っ。リュシエンヌ、そんな極めて個人的な話を他国の人間にしたと言うのかい」
「愚かだな。実に愚かだ、バルタザールくん。リュリュが東方の精油を仕入れてやると言ったとき、お前は『東方に精油などあるわけがない』と嘲笑ったろう」
バルタザール様だけでなく、私もまた驚いてルヘッグ殿下を見上げました。だってそんな話、私は誰にもしていないもの。だってそうでしょ、東方の精油を持ってるという話も仕入れてあげるというのも嘘なんだから。
返事をしないバルタザール様に重ねて問うように「ん?」と投げかけてから、ルヘッグ殿下は再び歌うように語り出します。その言葉ににじみ出る毒を隠そうともせず。
「東方の品物を公爵家の専売で仕入れてやると言っているのに、そこの女、香水商を営む家の娘に気に入られたいがためにリュリュを笑い者にした。……東方からの輸入はこの俺も一枚噛んでいるんだ。この国で商売が成立しない理由は何か、と調査するのは当然のことだろう? そこでお前とそのつまらない女の関係を知ったというわけだ」
ルヘッグ殿下はそっと私の肩を抱き寄せ、さらに伸ばした右手で私の右頬を撫でました。
何も言い返せないまま唇を噛むバルタザール様を前に、誰もが目を逸らすばかり。あれほどご機嫌取りに注力していたのに、もはや彼の肩を持とうという人はいないようです。
でもそうですよね。だってこの一瞬で、バルタザール様は「病的な嘘つき女と婚約を結ばされた可哀そうな公爵令息」から「浮気相手のために婚約者を笑い者にした結果、他国の皇子に切り捨てられた男」へと変貌してしまったのですから。
「ル……ルヘッグ殿下」
「なんだ、よそよそしいじゃないか。いつものようにヘグと……。あぁそうだ、これを忘れていた」
彼は僅かに身体を離し、懐から小さな円形のケースを取り出しました。人差し指と親指とをくっつけて作る丸くらいの大きさの。ケースを開けるとふわりと厳かな香りが広がります。甘いのに重くて、土を思わせるのに清らかな不思議な香り。
練り香水でしょうか、ルヘッグ殿下はケースの中のワックスを長い指でとり、その手をこちらに伸ばします。左の耳たぶから右の耳たぶへ。そして最後にデコルテを撫でるように。
微笑みを浮かべたまま私の目を真っすぐ見つめて行われるそれがすごく恥ずかしくて、みるみるうちに顔が赤くなっていくのに私もまたルヘッグ殿下から視線を逸らせません。
「この前すこし話したろう? 新作、芙蓉の香りだ。お気に召したかな」
「え……えぇ、もちろん。聞いていた通りとても素敵」
お気に召すもなにも、そんな話は聞いてないし香りを堪能する余裕もないのですけども。口をついて出るのはいつだって嘘ばかり。
それでもルヘッグ殿下は満足そうに笑って頷きました。
「なら、ここにはもう用はないな」
さぁ帰ろうとばかりにルヘッグ殿下が私の手を取って、出入り口のほうへと歩き出します。従うように踵を返した背後でバルタザール様が私の名を呼びました。
「リュシエンヌ、まさか君はずっと真実を言っていたのか……?」
それに対し、私が何か言うよりも先にルヘッグ殿下が答えます。
「それを聞く意味がどこにある。お前は一度だって信じなかった、それが全てだろう。あー、それから。俺の最愛を傷つけ続けた者に、魔国が利することはないとは言っておこうか」
ルヘッグ殿下がそう言うと、あちらこちらから悲鳴のような声があがりました。横暴だと大きな声を出す人や、私は何もしていないと無実を主張する人、それにほんの出来心だったのだと謝罪する人も。
魔国はその名からもわかる通り、元は魔族の国でした。人間族との平和が成って、その血も多少は薄くなったと聞いていますが……。今なお衰えぬ戦闘力の高さと魔力量。彼らとの平和の維持は過去も未来も変わらず最優先課題なのです。
外に出れば、重い雲が月を隠してしまったのか少し薄暗い。チラチラ揺れる街灯の明かりの下でルヘッグ殿下が私の身体を腕の中に閉じ込めました。突然のことで驚いたけれど、それ以上に人のぬくもりが心地よくてじんわりと目頭が熱くなります。
「王家にも、もちろん君の父親にも状況は通達してある。だからまずは魔国へ連れて行くが、いいな?」
「あ……はい、もちろん」
本音を言えばもちろんいいわけないのですけど、どこまでも弱さを見せられない私は頷くしかなくて。そうでなくても相手は魔国の皇子ですから、「はい」以外の選択肢はないんですけどね。
「じゃあ目をつぶって」
そう言うなり、ふわっとした感覚が私を襲いました。周囲が少し騒々しくなって、ムスクの奥行きのある重々しい香りが鼻腔をくすぐります。
ルヘッグ殿下が身体を離し、私はゆっくりと目を開けました。目の前には大きな書き物机があって、背後の窓の向こうでは青い葉を茂らせた木が茂っています。
「ようこそ、我が魔国へ」
「瞬間移動……」
魔族の中でも一部しか使えないと言われる瞬間移動ですが、戦時中にはこの魔法に最も苦しめられたと聞いたことがあります。皇族ならば使えるのも納得ですけれど。
彼は窓辺に寄って窓を開けながら私を手招きします。窓から見た景色を忘れることはないでしょう。紫色の空に水色の草原、青い葉を揺らす木々の幹は真っ白で。
「俺が君を助けた理由は、まぁ気まぐれというやつだ」
「気まぐれ」
「ちょっとした事情で君の国を監視していたんだが、次から次に嘘を吐く君が面白くて少し興味がわいた」
さらっと私の頬を撫でてから脇を通り抜け、彼はソファーへ腰を下ろしました。「客だ」と呟くなり侍従と思われる小さな角の生えた体格のいい男性が部屋へやって来て、二人分のお茶を用意するとまた静かに出て行きます。
私はルヘッグ殿下に誘われるままに彼の対面へと座りました。
「前日に何を食ったかなんてどうでもいいだろうに、噓つくんだもんなぁ」
「う、嘘じゃないわ」
口をついて出た嘘に、ルヘッグ殿下が楽しげに目を細めます。それはまるで……おもちゃを見つけた肉食獣のよう。
「さっきの角が生えてた奴は半人半牛、遠くに聞こえる笑い声は女面鳥。人間族にエルフだドワーフだといろんな種があるように、俺たちにはもっと複雑な多様性がある。……では、俺が何かは?」
「だ、堕天使の系譜と聞いたことが」
「そう。先祖は人間をたぶらかし堕落させるのが好きだったらしい」
言葉を切ってカップを口へ運んだルヘッグ殿下は、ちろっと唇を舐めてから熱い吐息を漏らしました。
「嘘だ」
「はい?」
「俺は人間の嘘が好きだ。しかも狡猾な、何もかもが計画された嘘じゃあない。後悔と不安と恐怖に押しつぶされながら紡ぎ出される嘘が」
心臓が早鐘を打ちます。
もしかして私、変態に気に入られた……?
「私の嘘がお気に召したということでしょうか? だ、だから助けてくださった?」
「そう。君が人付き合いをやめたり、または死んだりしたらその極上の嘘を味わえないだろう」
「うわ変態」
「向こう見ずな正直も好きだよ。次の瞬間には吐きそうなほどの後悔に襲われるんだろう? ……アハハ、それだ、その顔が好きだ」
深呼吸を繰り返してどうにか落ち着きを取り戻します。少なくとも彼を前にして私は虚勢を張る必要がなく、ばかみたいな嘘をつかなくてもいいのですから。そう、嘘をつく必要がないのです。
「で、でも殿下は私を嘘をつかねばならない環境から助け出してくださいました。私はもう――」
「俺はこう見えて嫉妬深い」
どちらかと言えば嫉妬深そうなお顔立ちですけれども。
私の言葉を遮ったルヘッグ殿下に小さく頷きます。
「俺と君の結婚が決まったも同然なのは理解できるな?」
「はい。少なくとも我が国の貴族たちはそう解釈しているでしょう」
「そんな中、君を放り出したら彼らにどれほど甘美な嘘をつくのか……想像するだに快感がこの身を駆け巡る」
うっとりと蛇のように舌なめずりをする彼はどこからどう見ても変態でした。
「しかしそれでは先に言った通り君が自死を選ぶ可能性があるわけだ。そんな悲しい結末を回避するには結婚するしかないね? だが俺は嫉妬深い。妻には最大級の愛を捧げてもらいたいんだよ」
「愛」
「具体的には、俺が求めれば必ず『愛している』と返すこと」
眇められた彼の真っ赤な瞳が私を観察しているのを感じます。視線、口元の動き、スカートを握る指。何ひとつ見落とさないように、私が今どれだけの恐怖を感じているかを味わうように。
きっと私は今、岐路に立たされているのでしょう。国へ帰って嘘をつき続けるのか、それとも彼の花嫁になるのか。彼は私がそのどちらを選んでも構わないと思ってるのです。
迷うことがありましょうか。政略結婚とはいわば人生最大の嘘でしょう? 私もバルタザール様もお互いを好いていたわけではなかった。誰もが皆、夫や妻を「愛している」「尊敬している」と言うけれど、それは綺麗な嘘で空虚な自身の心を誤魔化しているに過ぎないのよ。
「ええ、もちろ――」
「その言葉がつまらないものなら、すぐに手放すがな」
瞬きをする間にルヘッグ殿下は私の横に来て、耳元でそう囁きました。
「手放すだけ?」
「魔国で放り出されればどうなるかわかるだろう? お望みならこの手で殺してやってもいい」
「……愛しています、ルヘッグ殿下」
「ヘグだ」
「ヘグ、愛してるわ」
今後、私が彼に愛を伝える時が人生の最後になるかもしれないということです。
濡れ羽色の真っ直ぐな髪は美しく、探るように細められた真っ赤な瞳は冷ややかで。そして薄いけれど整った唇が楽しそうに歪められた瞬間、私は生を勝ち取ったことを理解しました。
「そうだ。恐怖と後悔が伴う嘘こそ甘露と知れ、愛しのリュリュ」
彼はその後、もう二度と嘘をつかなくていいと言いました。私がつくべき嘘は彼に愛を囁くときだけ、と。
あれから何年の時が経ったでしょうか。
ルヘッグ殿下が我が国を調査していたのは征服するためでした。人間族の国の中でも吹けば飛ぶような小さな国です。皇位につかない皇族が自分の領地とするのにちょうどいい大きさだったのだとか。
と言っても、経済的に困窮させたり貴族と貴族を仲違いさせたり、または平民の王家に対する怒りを増幅させたりしてじわじわと国力を削いでいくばかりで武力行使はしていません。
私を酷く嘲笑った人を中心に没落させ、心からの謝罪をくれた人物は重用して。大公としてのルヘッグ殿下は素晴らしい領主であり、素晴らしい夫だと思います。ただ日に一度、愛を伝えるその時だけはいつも獲物を狙う蛇のような笑みが私を竦ませるけれど。
大公妃となった私はその立場が、肩書が、そして大公たる夫が、鎧であり武器です。つまらない嘘を四方八方に射かけて威嚇する必要はなく、ルヘッグ殿下から与えられる深い安らぎにすっかり……油断していました。
寒い冬が過ぎ、動植物が眠りから目覚める頃です。お隣の聖王国からの使者を迎え、盛大な夜会を催したその最中のこと。聖王国の使者が「東方の珍しい木を見たい」とおっしゃって、庭へご案内することとなりました。
庭へ出るための掃き出し窓をすべて開けても全員が同時に出ることはかないません。ですからルヘッグ殿下が先頭を行き、私は一団から一歩遅れてついて行きました。
漆黒の布を被せたような空やそこに散りばめた宝石の星は魔国から見るのと変わらないから好き。そんなふうに思ったら、私はもう魔国の人間になったのだなと可笑しくなったりして。ちょっと面白い冗談なんだけどね、ってルヘッグ殿下にそれを伝えたくて彼の姿を探したの。
そしたら。
「死ね、リュシエンヌ!」
「妃殿下!」
給仕の姿をした男が白布巾の陰から抜いた短剣を私に向かって振り上げていました。そばにいた衛兵たちが咄嗟に駆け寄る気配がありますが、きっと間に合わない。
私はここで死んでしまうのね、とどこか冷めた目で月光の反射する刃先を見つめました。
濡れ羽色の真っ直ぐな髪と、探るように細められた真っ赤な瞳、それに形のいい薄い唇。私が死ぬときはきっとそんな恐ろしくて美しいお顔を目に映しているのだろうと思ったのに。ああ、この人はバルタザール様だわ……。
「リュリュ!」
気が付けば、私が思い描いていた恐ろしい人が目の前にいました。私を抱き寄せ、目を細めて探るようにこちらを見つめています。
「ヘグ……?」
「怪我はないか? まさかネズミが入り込ん――ゴホッ」
倒れ込む彼を支えて庭へ腰を下ろしました。苦し気に咳き込んだ彼の口からは血が。ハッとして周りをよく見れば私に怪我などどこにもなく、バルタザールは衛兵が取り押さえていて、そして。
「私を庇ったのっ?」
「俺、は、自分の物が……他人に壊されるの、を好まない」
彼の胸からとめどなく血が溢れています。私はそれを両手で必死に押さえるのだけど、ぜんぜん止まらない!
「誰か! ヘグを……っ!」
「待て、リュリュ。聞かせろ。君は俺を、愛……してるか?」
こんなときに日課だなんてふざけたことを!
でもルヘッグ殿下の縋るような瞳を見れば答えないわけにはいかなくて。
「愛……してなんかない。大っ嫌いよ。ずっと愛してるって言うのが苦痛で仕方なかった。嫌い、大っ嫌い」
目から涙が溢れてルヘッグ殿下のお顔が滲みます。
ねぇ、ちゃんとその蛇みたいな目で見てくれている?
「そうか、嫌い、か」
「ええ、嫌いなの。ねぇヘグ、つまらない答えだったでしょう? だから早く殺して、私も連れて行って」
「は。それ、はできない、相談だな。……俺も愛してるよ、リュリュ」
駆け寄って来た半人半牛の従者たちがルヘッグ殿下を抱えようとするのを、私は必死で抵抗して彼を抱き寄せました。
「ヘグ……ヘグ……!」
「そんなに強く締めたら本当に死んでしまうぞ」
「……え?」
「え、じゃない。君は最愛の夫を殺す気か」
身体を離すと、ルヘッグ殿下は苦笑を浮かべながらゆっくりと半身を起こします。さっきまで全然止まらなかったはずの血も、いまは止まっているみたい……?
「なん、で」
「魔族がそう簡単に死んでたまるか」
「……は、確かに。よかったぁ……」
ルヘッグ殿下は大きな手でそっと私の頬を撫でました。私は彼にこうやって撫でられるのが大好き。
「それで、俺のことが嫌いだって?」
「あの、それは」
「ああ、面白い嘘だ。ちょっと詳しく聞かせてもらわないとな」
お気に入りのおもちゃを見つけたような、いつもの楽しそうな笑みを見せて彼は私を抱き上げました。半人半牛の従者に「あとは頼む」と言ったかと思うと、ふわりと浮遊感が。これは何度体験しても慣れないのだけど、瞬間移動の魔法です。
静かな場所に移ったかと思えば、私はベッドにぽいと放り投げられました。すかさずルヘッグ殿下が上から覆いかぶさります。
「あの、お客様が」
「任せて来たから問題ない」
彼の細く長い指がドレスのリボンにかかりました。
「や、待って。だめ」
「ああ、いい嘘を心得てるな」
「違ーう! やめてくれないと嫌いになるから!」
「ん? 俺のことは大っ嫌いなんだろう?」
ああもう! これ、何を言っても彼のいいように解釈されるだけだわ!
まさかここにきて夫と意思の疎通が困難になるだなんて!
「……愛してるわ」
「ああ。俺も愛してる」
嘘をついても、嘘をつかなくても、彼はどんな私も受け入れてくれる。その事実が、私に幸せを運んでくれました。
思うように生きていいのね、って。
お読みいただきありがとうございましたー
人の嘘がわかる魔族が「えっ、そんなことまで嘘つくん???」って
面白くなっちゃった話を書こうとしたらこうなりました。
楽しかったーと思っていただけたならば、ブクマやら★やらをポチっとしていっていただけると!
はい!ありがとうございます!!
さて。
「聖女様をお探しでしたら妹で間違いありません。さあどうぞお連れください、今すぐ。」
という作品を、ただいま鋭意連載中です。
こちらはコミカライズも準備中となっておりますので、
よろしければ読んでいってくださいませー!ありがとうございます!