第21階層。(後)
もうすっかり暗くなってしまった。山道には住居も街灯も滅多に無いから暗くて歩き辛いし、侘しくて焦燥が煽られる。
でも最短距離で広場まで戻らなくては。チェスタ達はまだ残ってるだろうか?見下ろせば周りの家々から漏れる柔らかな明かりが、巨体を覆うふさふさの細かい毛を照らし付けてる。側に人影は見えないが、視線をずらして広場の外周を見回すと…ベンチに座る男が2人、途方に暮れてるようにも見える。
『チェスタ…ビスカっ!』
最後の一踏ん張りと思って走りながら呼び掛けると、2人ははっと立ち上がってこっちを見上げて…多分、本当に待ちくたびれてたんだと思う。
『ルクス…流石に遅いぞ…!』
『もう帰ろうかと思っていたところだぞー!…その、背中の荷物は…?』
2人はすっかり待ちくたびれて、待ち切れなかったんだと思う。立ち上がって、俺が向かう方向へ駆け寄って来てくれて…俺は兎に角早く2人の元へ辿り着かなくちゃって、広場の中へ走って…
忘れてた。否、見くびってた?あいつの、人骨への執念を…!
『はっ…!』
最初に異様な空気を察知したのは身体担当のビスカだけど
『…っ!成る程…逃げろ、ルクス!』
それを受けて、逸早く事態を理解したのは頭脳担当のチェスタだった。
『はっ…あ!うわ!うわぁああっ!!』
何でも担当の俺は…迫り来る巨大毛玉の鋭い嘴に、間抜けな声を上げるしか無い…!
早い…否、速い!取り敢えず逆走の体勢を取るけど…こんなの、人間なんかが逃げ切れる訳が無い!
でも、こいつ…羽ばたいて飛び付いて来ては居るが、飛翔してる訳じゃない。これは、跳躍だ。思えばホーンを襲った時もそうだったかも。体が重過ぎるんだ。
ドスン!と地が響く。広場の欠片が粉みたいに舞う。そんな様子がいやに冷静に目に焼き付くってことは、俺は既の所で躱せたみたいだ。
でもまだ鋭い嘴はその姿を覗かせてる。つまりあいつは顔を上げて俺を…否、俺の背中を諦めてない。恐怖がそう見せるのか、まるで刃物みたいに光って見える。
『おいルクス…また来るぞっ!』
ばさっと大きな羽が一震えするより僅かに早く、ビスカが声を上げてくれる。でも、だからって何処に逃げれば良い?いっそこのまま海まで走るか…否その前に追い付かれるか、俺の足が駄目になるだけだ…!
『ルクス!その背中の荷物をいくつか投げろー!気を引けるかもしれない!』
どうしたら良いか分かんない時は、咄嗟だとしても聞こえる声の言うがままにやるしか無い。チェスタがくれた声の通りに、左手で骨の欠片を掴んで、迫り来る毛玉目掛けて投げて…怖かったから一応もう2回、掴んで投げて、掴んで投げた!
白い塊は毛玉の横顔を掠めて、それを追うように燻んだ薄桃色の嘴はぐるりと曲がって…その刹那に溝色の巨体はもう一度、重力に負けた。
ズシィイイイイッ…ン!
そんな音が、衝撃が響いて、また少し粉が舞う。
広場の地面にはモザイクみたいな石畳が敷かれてる。でももう、あの蠢く毛玉の下は滅茶苦茶になってるだろう。俺の所為かも…。
『おい!今のうちに、それをどこかに…あいつの鼻の利かないどこか遠くに隠せーっ!』
俺は考え足らずの馬鹿だから、聞こえる声の言いなりにやるだけだ。反射的に舵を切ったのは山の方向へ引き返す形で、丁度第2階層くらいの高さまで坂を駆け上ったところで、適当な草むらの裏に籠を下ろした。
見下ろすと、毛玉は身を捩って嘴を八方に動かしながら、散らばった人骨を取り込もうと踠いてる。巨体には繊細な動きは難しいのか、案外上手く行ってない。
『ルクスー…!』
二人がこっちまで来てるからやっと合流する。ビスカはチェスタの顔色を窺って…チェスタは、呆れた形相をして怒ってる。
『お前ー…目の当たりにしたホーンの悲劇を忘れたのか…!せっかく調達した餌が危うくフイになるところだったぞー!』
『ご…ごめん…本当にごめん!』
これに関しては只々俺が悪いから、反省するしか無い。朝から上に行って下に下りてまた上に行って…新しい奴と出会って知らない言葉を沢山浴びせられてホーンと歩けば度々蹲んで中々進めなくて、ハルルには苛立ちを当て付けられて、ビエッタ達との余計な一時は忘れられなくて、結局…今日一日の間に思い出せたことは有ったようで一つも無かったみたいだから。
夜になってやっと此処まで戻って来られて、安心しちゃったんだよ…
俺だって、不本意だ……。
『…えっと、ルクス。結局ホーンの帽子に付いてたっていうアクセサリーの正体は分かって、それを調達して来られたってことなんだよな?一体、白い石って何だったんだ…?』
俺が肩を落としたのを見てか只気になってただけなのか、ビスカは草陰に隠れた籠の方へ話題を逸らしてくれた。チェスタはまだ少し剥れながら、ふぅと一つ溜息を吐いて調子を整える。
『あれは…人骨だ…。』
『…人骨ー…!?』
チェスタとビスカが目を丸くする様子が見られて、少しだけホッとした。ディンディイとホーンの様子を見て、ハルルが人骨まで余すこと無く活用したいって聞いて、人骨のアクセサリーなんておかしいと感じた自分が変なんじゃないかって思えてきてたから。
俺はチェスタとビスカに、ディンディイから聞いた話をそのまま伝えた。
『…ふむー、なるほど。確かにディンディイとやらの言うことで辻褄が合うようにも思えるなー…しかしそのような奇特な鳥が、なぜこんな最低層にー…?』
ハルルの、ミズルがどうこうと言った呟きは伝えてない。俺が、そんなことは有り得ないなって思ったから。
『チェスタ…どうする?あいつをどこにやるのかと、どうやって動かすのか…ルーバーも、ああ言ってたし。』
『ルーバーが…?』
『あー…そうだな。仮にあの鳥を首尾良く動かせたとしてもー、処遇そのものを決めかねているのだ。ディンディイの言うとおりー、ルーバーは家禽を飼育するプロであり、鳥類全般に精通しているわけではないー…あいつの苦しみを最小限に止めつつ息の根を止めることは難しいだろうから、出来れば施設の整った鳥飼屋まで連れて行って欲しいと言っている。』
苦しみを最小限に、息の根を…
何だか、ユトピが言ってたことに似てるな…。
何故そんなことを考慮する必要が有るんだろうか。どうせ殺すなら、どうせ死ぬなら…苦しみの有無なんて関係無い筈だ。死んだら終わりで…つまり、死んだら楽になれるのに。
…まぁ、ルーバーが言うなら仕方無いか。あんな怪物、そもそも殺すことすら難しそうだし…鳥飼屋って奴なら、何とかしてくれるんだろうか。
『まー、海に運ぼうが上まで運ぼうが、運搬のプロである運び屋に協力してもらいながら丈夫で広い路を選べば何とかなるだろうー。しかし肝心の、こいつをどうやって動かすかという方法がー…うーん…!』
『…骨で釣って動かすんじゃないのか?』
『さっきみたいな調子で、31階まで走り切れるか…?』
俺の間抜けな質問に、ビスカは溜息を吐いて苦笑する。
昨日、遠くから毛玉を眺めた時の気分を思い出した。余りに途方の無いことに直面すると、何だか愉快な気分になってくるのは何故か。
『鳥飼屋って、31階じゃないと居ないのかよ?』
『他の階層にも居るがー、一番近いのが31階なんだ。確か…アンギュラとかいう名だったかな?鳥は主に高い場所に飛来するものだからー、今や低層階に鳥の知識を詳しく有する者は居ないのだ…。』
『…やっぱりなんとか海まで連れてって、そこでどうにかするしかないのかな?』
ビスカが、何処か切ない顔をする。すっかり暗くなった広場で、家屋から溢れる明かりだけが照らすから余計にそう見せるのかも知れない。
『そうだなー。海で、食事を出来ぬまま衰弱したところを男何人かで掛かれば、何とか仕留めることが出来るだろうかー…?はー…。』
…何だ、それ?
成る程、チェスタの言うようにしたら、最小限の苦労で邪魔者を片付けることが出来そうな気がする。
でも、少しだけ何かが引っ掛かって、気分が悪いのは何故なんだろうか。
さっきは苦しみの有無なんて関係無いって思った癖に、自分が矛盾してるみたいで嫌だ。思い出したけど、ハルルが婆さんの死体を蹴った時の感覚に似てる気がする。
『…いつ、海まで運ぶんだ?』
『うーん。人手とも相談だがー…あの鳥もあれでもうかなり弱っていることだと思う。この広場で餓死されてここで解体作業をすることになっても困るからー…明日はまず誘導経路の確認をして、皆に協力を呼び掛けてー…早ければ夕方頃には行けるんじゃないか?ルーバーにも聞いてみなければならないがー。』
『……そうか。』
何て言ったら良いか分かんないし、俺には何も思い付かないから、何も言わないことにした。
『とりあえず、明日も朝からこの広場に集合だー。あいつには…明日ルーバーに相談して、人骨を混ぜた餌をやってみるかー。死ぬ前に好物を食わせてやろう。腹を満足させてやったら、肉の質も良くなるかも知れないしなー。』
『すぐに殺すなら、関係無いんじゃないか…?胃袋に物が残ってたら、捌きづらそうだし。』
『ふっ…気分の問題さー、ビスカ。』
気分か。そうか…これは飽く迄も、気分の問題なんだ。
少しすっきりした。気分なんてそんなもんだ。誰かの他愛も無い一言で切り替わるような、形が無くてあやふやで霧のように不確かな物。
『ルクスー…明日、ちゃんと朝から来るんだぞ。今日のようにのろのろしないようにー。』
『……分かってるよ。』
心外だ。別に今日だって、寝坊した訳じゃ無いのに。
まだまだ幾つかの苦労は残ってそうだけど…この奇妙な事件も早ければ明日、3日目にして一段落付きそうだ。
鳥飼屋の話が出て来て、第31階層に行けるかも…とか、ちょっと思ったんだけど。そう何でもかんでも思い通りに行く訳でも無いし、行けたとしてもゆっくり回る暇なんか無いか。
…それに、第20階層だって第21階層だって、大した収穫なんて何も無かったんだ。
今、此処で何も持たないんだから、此処じゃない何処かに行けば何かが有るんじゃないかなんて…甘い考えだったのかな。
今朝はびっくりした。何て言ったら良いか分かんない。
『いってらっしゃい、ルクス。』
『……うん。』
プリマが俺を見上げれば、花のように広がる髪は後ろで揺れる…慣れはしない。
まだこの町が働き出すには少し早い時間だけど、ホーンに一刻も早く商売道具を返してチェスタにのろのろしてるとか言われる前に広場へ行けるように、もう動き始めなくちゃならない。
ずっしりと詰まってた人骨はあの後ビスカが持って来てくれた適当な箱に移して山道に置いて来たから、空っぽの籠はもうこの手元に収まってる。
折角だから、第21階層へ上り切るまでの間、背負って歩いてみようかな…?
とか思いながら、蒼い扉に身体を預けた瞬間
『んっ!』
掛け声のような唸り声と同時に勢い良く引かれた扉に俺の全部は持って行かれて…倒れそうになったけど丁度、腕の中の籠は小さな胸へ飛び込んだ。
『……は…?』
『ん。』
『………誰?』
一連を眺めるしか無かったプリマが呆ける。ホーンは直ぐに奪った籠を背負う。
そんなに早く籠を返して欲しかったのか…?わざわざこんな朝早くにやって来るなんて…この家のことは、どうやって知ったんだ?その辺を歩く誰かに聞いたのか?否、喋れないこいつがどうやって聞き込みするんだよ…?
『ルクス…そいつが、籠を貸してくれた拾い屋…か?』
『あ…あぁ。ホーンっていって、こ』
『んっ!』
ホーンは俺を越えた先のプリマに向けて元気良く唸りながら丁寧に一つ辞儀をして
『ん!』
がら空きになった両腕を使って、俺の左腕を引っ張った。
『…っ、おい!何するんだよ…っ!?』
咄嗟に身を引いて抵抗しようとしたけど…こいつ、身体の小ささの割には、結構強い…!
強いと言うより、根性が有る!簡単に諦めないから、ずるずると俺の身体は日差しの下に引き摺り出されて…
『ルクス…?』
『プリマっ!このこと、チェスタに…』
伝えておいてくれっ…!
とまでは、声は届かなかったと思う。傾きの力でゆっくりと閉まる扉に遮られてしまったから。
『おい、ホーン!籠はもう返しただろ!一体何なんだよ…!?』
ホーンは唸りすら上げなくなった。俺の手を引っ張って黙々、ぐいぐいと進み、階段を上る…。
これ、もしかして第21階層まで連れて行かれるのか…?
何の用事で?元々籠を返しに行くつもりだったから上るのは良いけど、時間が掛かるのは御免だぞ。広場に集合するのが遅くなったら、チェスタから小言を刺される…!
ホーンは黙してひたすら進む。やがて空の弁当箱を持って返しに行く奴や、仕事道具を持って歩く奴と擦れ違うようになって…この町は、どうやら今日も動き始めた。
観念して抵抗を緩めてもホーンの腕が緩むことは無くて、こいつの『仕事』への執念を感じる。そう…こいつは恐らく誰かに頼まれて、俺を拾いに来たんだ。
あやふやな仕事は、何を何処まででもやらなきゃならないんだ。お互い、苦労するよな…言葉を介さないお前がどう考えてるのか、俺には知るべくも無いけどさ。
ホーンは、小さな窓の付いた扉を身体を使って押し開ける…第21階層で俺のことを呼びそうな奴なんて、そりゃあ此処くらいしか思い付かないよな。
でも、昨日の今日でわざわざ何の用だって言うんだ?
『ルクス…待ち兼ねたよ!拾い屋のホーン、確実な仕事をいつもどうも有難う。』
『…ん!』
輝く髪の色男が何処かわざとらしい謝辞を述べると、拾い屋のホーンは大層得意気に鼻を鳴らしてやっと俺の腕を解放した。
『おい…何の用だよ?ホーンに籠を返したら、今日もあの鳥をどうにかする為に働かなくちゃならないのに…!』
『働かなくちゃ』と言って、何だか癪だ。昨日こいつが出してくれた、気に食わない助け舟を思い出してしまったから。
ディンディイは俺の抗議にも一つの疾しさも無さそうにニコニコ爽やかに笑ってる…余裕って奴は、どうにも人を不敵に見せる。
『其の鳥は、如何する事に成ったんだい?』
『は…?』
『如何遣って何処へ運び、何の様な処置を施す?』
『え……あ……。』
答えられやしない。分かんないからだ。
『…えっと、牧畜屋のルーバーは出来れば鳥飼屋に頼みたいって言ってるんだけど、31階まで運ぶのは…あいつは人骨が無きゃ死んだみたいに動かないし人骨が近付いた途端に目の色変えて襲って来るから、階段を幾つも越えて走り抜くのは難しいんじゃないかって。だからせめて海まで動かして……其処で飢えさせて、弱らせて…何人掛かりかで仕留めようって話になってる…。』
声が勝手に萎む。何故俺が疾しい気持ちにならなくちゃいけないのか分かんない。でも、あいつを助ける義理が無いとか捌くのが一番良いとか最初っから言ってたディンディイだから、別に何とも思わないんだと思うけど。
ディンディイは…
『ははっ…やっぱり!』
とても嬉しそうに満面で笑った。
やっぱりとか…まるで、こうなってるって分かって聞いてたみたいに。
『ディンディイイイイイイ!!』
謂れの無い気不味さと疑問は、喧しさに打ち消された。振り返れば、ホーンは豪快に扉を放った煩さを避けるように部屋の真ん中の机へ移動して、残されたニレイはどうやら憤りに打ち震えてる。
『許さん…許さんぞッ!葬送屋等初めて赴いてみたが…貴様の名を出したら、頗る嫌な顔をされて仕舞ったではないかッ!御陰で俺の発明が如何に此の町の発展に繋がり人々の為に成るのかを、滔々と説明する羽目になったぞ…!何故ホーンに行かせない!』
『…葬送屋…?』
言われて、気付いた。ニレイの右手には何か白い物が握り締められてる。程良い太さで、立派な棒みたいな…あれは、まさか骨…人骨、か?
『うーん、矢張りそうか…其れは済まない。ホーンは彼女にすっかり嫌われて仕舞ったみたいだし、俺は此の家から離れられないからさ。』
『…や、矢張りとは何だ…!其れならそうと最初から言えぇえッ!俺迄嫌われ掛けただろうがッ!』
『掛けただけならば良かった。最終的には嫌われずに済んだのだろう?』
何だか…まるでふざけてるみたいなやり取りだ。否、ディンディイが楽しんでるだけか?
『貴様、大概にしろよっ…ルクスッ!』
『はっ?』
ディンディイに真っ直ぐに食って掛かってた筈のニレイが、立ち所にこっちに視線を刺す。俺が何したって言うんだよ…お前が葬送屋で何をして来たのかも分かんないんだぞ。
『君ィ…先端を忘れて来て居るでは無いか!必ず持参する様に言ったのに。』
『え…?』
否…そもそも俺はホーンに無理矢理連れて来られただけで、おたまを持つ暇すら与えられなかったし、ニレイが居ることも聞いてないんだけど…。
『ニレイ、君の知的探究心には全く共感出来るが、此れから始める作業には支障は無いじゃないか。さっさと始めて、下階の事件を解決すれば…ルクスは君の天才ぶりに満足して、発明屋の御得意に成ってくれるんじゃないか?』
『むっ!?…ふむ、うーん…まぁ、良かろう。次回は忘れるなよ、君ッ!』
作業?これから何が始まるんだ?もしかして時間が掛かるんじゃないか…家を出てから、もうどれくらい経ってる?チェスタ達もそろそろ家を出た頃なんじゃないか…?
否、待てよ……事件を…解決?
これから、何が始まるんだよ…!?
『…と言う訳でルクス、先ずは其処にでも座ってくれ。』
『否、何がどう言う訳なんだよ!』
ディンディイは机を挟んでホーンの向かい側の席に俺を促すけど…理解出来る訳が無いだろ!
『君の望みは、溝色の巨大毛玉を最善の方法で処理する事だろう?』
ディンディイには、一つの疾しさも無い。ニコニコして…まるで、不敵だ。
『…そうだけど。』
『しかし安定した運搬方法が確立出来無いから、最小限の移動距離で済む次善策に甘んじようとして居るんだ。其処でさ…昨日君の話を聞いてから、俺に一つだけおも……良いアイディアが浮かんだんだよ。良ければ、座ってくれないか?』
『えぇ…?』
こいつ今…『面白い』って言いそうになってなかったか?
少しだけ、何と無くだけど、嫌な予感が…不安がする…!
でも何分どうやらこいつは頭が良い。本当に良い方法が有るんなら、チェスタだってビスカだってルーバーだってそれを望んでる…俺だって、そりゃそうだよ。
『……取り敢えず、話を聞かせてくれ。』
迷いながらも、草で編まれた椅子に腰を下ろすことにした。
話だけ聞かせて貰って、走って広場まで行って、良いアイディアとやらを持ち帰った上で事情を話せばチェスタも許してくれるだろうか…?
『うん。説明は、実物を用いながら行った方が話が早いだろう…ニレイ、ホーン!』
『んっ!』
『ふん、指図をするなッ!』
ディンディイの合図で、部屋の中の空気が一変する。
ホーンは立ち上がって、さっき俺を引っ張ってずんずん階段を進んだ時と同じだ。真っ直ぐに、与えられた目的だけを見据えてる。
ニレイの瞳は輝き出した。ギラギラと力強く、元々喧しい奴に、より一層の生気が灯されてしまった。
ディンディイは…笑顔だ。
疾しさなんて微塵も無い…つまりは邪気が無いんだ。こいつ、面白がってる…!
『良し、ホーン。机上に固定してくれ。先ずは解体からだ。』
『んっ。』
『はっ…おいっ!何する気だよ!?』
ニレイに命じられたホーンは身を乗り出して、またしても根性を以て俺の腕の自由を奪う…今度は、がらくたの右腕の方。
ニレイの右手指の隙間からは、2本の尖った棒が飛び出して身の毛がよだつ。嗚呼…否、あれは…ドライバーって奴か…?プリマの道具箱に何本も入ってた。
『始めるぞ。動けば要らぬ傷が付く事に成るやも知れん…大人しくして居ろよ、君ィイ…!』
ニレイは眉も口角も吊り上がって…狂気すら感じる…!
…否、待てよ。何なんだよこれ?今、何が起こってる?これから何が始まるんだ?さっきからずっと、一体全体…
『何で俺が、こんな目に遭わなくちゃならないんだよぉおおおおっ!』
心からの叫びを受けて、ディンディイは
『…うん。実物を用いながら説明した方が早いだろうね。お互い、暫く発明屋の仕事に委ねようじゃあ無いか。』
笑顔で椅子を回転させて仕事に戻った。疾しさなんか、一つも無い。
もう観念した。発明屋に拾い屋に電気屋…どれも下層階ではちっとも聞いたことの無い職業ばかりだったけど、こいつらのプライドには感服だ。それぞれ仕事を完遂する為ならば、全く聞く耳を持ってくれやしない。
『嗚呼、確かに其のおたまの腕とやらを戻す為には、此の4つの穴に合う螺子を嵌める他無いだろう。しかし其れならば此の下の…土台ごと取り替えて仕舞えば良いのだ。其の上で頑丈な土台を新しく取り付ければ良い……ふんっ!ほら、矢張り俺は正しい!』
昨日の下調べが俺から聞き取った情報と嵌まって順調なのか、ニレイはおたまの台座…つまりは錘みたいな腕の蓋のような部分を取り外すことに成功した。
『矢張り中は空洞だ。とても丈夫な、見た事の無い合金で囲まれた空洞…先端に武器や道具等のパーツを装着し、内部には其れが働く為の機構を収納して居たのだと思われる。』
中身が空っぽなのは、腕を振った感じで最初から分かり切ってたことだ。だから何故こんな大層な覆いを施すのか意味が分かんなかったけど、成る程確かに。この中に仕組みを仕舞えば素早く武器を飛び出させたり、火を吹かせたりすることも出来るのかも知れない。
おたまの腕には仕組みなんか必要無いから、空っぽのままだったんだ。
『…矢張り君の腕は、存在しないのだな。』
嗚呼、分かってたよ。別に今更、悲しくも何とも無い。
だから、お前がそんな目なんか、別にしなくたって良いのに…。
『しかしおたまの腕とは、責めて手首が使えないと意味が無いなぁ……掬い上げても、溢してしまうだろう。』
ニレイはどうやらおたまのことを理解してるらしいが、料理をしてた訳じゃなくて、賢いから知識として知ってるってだけなんじゃないかと思う。それとも、外の世界では皆当たり前に知ってる物なんだろうか。
『存外、本当に巫山戯ただけなのかも知れんな。』
ニレイの目は、さっきのままだ。錘の中身が空っぽなことを確かめて俺の腕の半分が存在しないことをゆっくりと含んだ時の瞳で…口角が、見えない程微かに悪戯っぽく上がった。
『そんなこと…有って堪るか。』
そんなこと、有って堪るかよ。
掬い上げても溢すような、おたまとしての役割すら果たせないがらくたくっ付けたまんま、今までの自分全部失くして。
そんながらくたが、今までの俺にも大切な人が…故郷が在った筈なんだっていう唯一の拠り所で、不確かな証拠なんだ。ふざけ過ぎて、余り有る。
『そうだな。同情しよう。だから意味の有る腕を作ってやるんだ。何やら自信が有る…俺は必ず、君が最も求める腕をくれてやる!』
『は?何だそれ…?』
『ふっ!…先ずは、君が今成すべき仕事に特化した道具を施してやるから、其れを使用し君は俺の仕事ぶりを評価するが良い!…今回はディンディイの発案が元と言う点が癪だが、設計と作業は他ならぬ発明屋の俺だからな。其の点を決して忘れる事の無い様にッ!』
ニレイの調子はいつの間にか戻って、瞳は熱く、口調は喧しくなった。
結局、発明って何なんだ?この町で俺の腕を弄ろうとする奴はプリマ以来だが、ニレイのこの作業は今のところびっちりと閉じてた空洞の蓋を外しただけで、どちらかと言えば修理と言うより破壊に近い。
『俺が天才で在る故に頗る順調だが、後少しだけ時間は掛かるから聞いて置こう。君…どんな機能、どんな姿を望むか、決めたか?』
本当に、ニレイは俺の希望に寄り添った腕を発明してくれるつもりなんだろうか。我儘だって知ってても、無理だって分かってても、天才だったら、受け止めてくれやしないだろうか…?
『…鏡の中の左手が、欲しい。』
見向きもされず暇を持て余してた生身の腕を持ち上げて、緩慢な空気を掴んで見せてみた。ニレイの手は止まって…ぱちくりと瞬きながらも、真っ直ぐに向き直ってくれた。
でも、やっぱり無理な物は無理だ。天才って何のことだか覚えてないけど、多分神のことでは無い。
『…君の気は察するに余り有る。しかし人間の指の動きとは我々が平時意識する以上に細やかで正確で、其の靱やかな造形と併せても奇跡と呼べる。自由に指が動き物が掴める腕其の物等…』
『そうだよなぁ…神が与え給うた、生命と言う奇跡。幾ら君と言えど…』
何処から聞いてて、何処まで聞いてないのか良く見えないディンディイが何気無く口を挟む。元々無理は承知だったし、賢い奴に賢い奴が同調するんだから、諦めも付く…とか、思ったけど
『否……否、待て!俺に不可能等無い。発明は魔法だ。全てを可能に書き換える!』
『え…そうか…?』
急にニレイは掌を返して胸を張って、今度はディンディイが振り返って瞬く。
ニレイのスイッチって、もしかして、ディンディイ…否、『不可能』か?
『天才』に依る『発明』で『不可能』に抗う…?成る程、確かにそれって…
『魔法』みたいだ。
『だが…時間を寄越せ!そう、こう言う物は、急拵えの良い加減は良く無いからな。其れ迄は…そうだな。ちょっと考えるから、1日くれ。』
『1日で良いのかい?良い加減は良く無いだろう。』
『おたまなんて冗談みたいな腕や重厚なだけで何も持たない腕の方が良く無いだろう。少なくとも、其れよりは役に立つ何かを作るッ…俺は天才なんだから!次こそは、ディンディイの出番は無いッ!』
『はぁ…そうかい。だそうだよ、ルクス。』
ニレイは此処ぞとばかりにディンディイに勢いを当ててからまた手を動かし始めて、ディンディイは呆れた風に見せて少しだけ楽しそうに息を吐いてからまた椅子を回転させて背中を見せた。ホーンはもうこの場での役目は果たし切ったのか、ディンディイに断ってから何処かに出掛けて行った。きっと今頃また、沢山のがらくたを背中の籠に集めてる。
ニレイは、後少しだけ時間が掛かるって言ってた。重い腕を弄られてる間は動くことも出来なくて暇だから、今まであんまりちゃんと見てなかったこの家の様子を見回してみる。
この部屋は…この町で過ごした部屋の中で、何だか一番居心地が良い。壁や床、机なんかの家具は滑らかに切り出された木で作られてるが、椅子は硬い草で編まれてて、柔らかくて座り易いし隅に飾られた小さな木と調和してる気がする。壁に囲まれてるのに開放感が漂うようで、不思議だ。
第1階層の広場ではまだ人々が困ってるのに、早く広場へ行かなければチェスタに怒られるのに、この爽やかな空間と二人が黙々と仕事に打ち込む穏やかな時の流れが緩慢さを生み出すから、非常に良くない。
せめて、少しでも身になる、役に立つことを思案して時間を有効活用するんだ。それがきっと、この緩慢の根源で在るミズルへの抵抗と成る。仕事の役に立つこと、若しくは失った記憶の手掛かり…
……魔法って、何だったかな?
今まで何回か無意識に当たり前のように使ってきた言葉だが、よくよく思い返そうとしてみたら、そんな物俺は一度も見たこと無かったような気がするんだ。
でもきっと、さっきのニレイの口振りから察するに、何処か超常的で…それこそ奇跡を叶えるような力。
見たことも無い癖に…
俺はそんな力を、強く夢見て居たような気がする。
結局どれくらい時間が経ったかは分かんないけど、確かにそんなには掛かってない気はする…そう、信じたい。
『良し。先ずは立ち上がって、ゆっくりと腕を振ってみるんだ…具合は、如何か。』
言われた通りに腰を上げて、先ずはそろりと上に、次は下に動かしてみた。ずっと同じ姿勢に固定されてたから、こんな動きだけでも解放感を味わえる。
何かを中に入れ込まれてたみたいだけど、重くは無くて感覚は殆ど変わらない。只、空っぽの虚しさだけが無くなって、何かが詰まった窮屈さだけが少しばかり気になるようになった。
『…うん。問題は、無いけど…。』
無いけど、この腕は結局一体何なんだよ。空洞の中に何かの仕組みを入れたんだろうけど、外側に飛び出る物は何も無くて、見てくれは昨日までと何にも変わんない。錘の蓋の部分はどうやら付け替えたみたいだけど、結局塞がってるし。
『言って置くが、此の仕事は俺が天才で在る故に此処迄の早さで成し得た物だと思えよ。シンプルに見えながら非常に堅牢な造りで在ったが、如何にも此の天才の閃きが冴えパズルのピースが嵌まるが如く』
『さて、其れでは此処からは俺の役目を果たす時間だ。其の腕の使用方法を、実物を用いて説明しよう。』
『おぃいいイッ!俺の口上を遮るなよッ!』
こいつらの会話っていつも、まるで冗談を演じてるみたいだ。使うのは二人して、難しくてややこしい言葉ばかりの癖に。
『ルクス、此方へ来て貰っても良いかな?』
こんな時までディンディイは席を立つことをしない。こいつ、風呂とか便所とかはどうしてるんだろう…まぁ、どうしても必要なことは出掛けてやるんだろうけど。近付いてみたら、何だか少し良い匂いがするし。
『ニレイ、此れは、結局釦は何処に?』
『天面…突出口の側だ。』
『えぇ?少し危なくないかい?発動と同時に勢い良く飛び出して手に当たる可能性が。側面の方が良かったんじゃ…』
『其の位の安全意識が俺に無いとでも思ったか!技術的に不可能なんだッ!…今の所は、な。天面の蓋は比較的薄く簡素で、分かり辛い繋ぎ目を如何にか探し出して螺子を外す事に成功したが、側面の金属は頑丈過ぎて穴を開ける事も出来無ければ繋ぎ目も見付からない。無理に手段を施せば身体から外れて二度と元に戻せない可能性も有る…如何やってそんなに強固に喰っ付いて居るのかも、未だ解明出来て居ないのだ。チッ…!』
おい、危ないとか何とか言ってなかったか?何が飛び出てくるのか気になって仕方無いけど、ニレイの話も気になる。
不可能に抗う天才が不可能と言う言葉を持ち出す程の技術が使われてる…この腕って、もしかして結構凄い物なのか?
『うん、分かった分かった。まぁ、ルクスが注意して使用すれば問題は無いだろう。と言う訳でルクス、彼方の方に腕を向けて、此の釦を押してみてくれ。』
ディンディイに言われて腕を曲げて錘の蓋を覗き込むと、昨日までと何も変わらないと思ってた其処には良く見たら中心にうっすらと円が描かれてて、その側に小さく丸い突起が飛び出てた。
ボタンってこれのことか?きっとこの円から、何かが勢い良く飛び出して来るんだろうな…気を付けて、注意しながら、ディンディイが指差した誰も居ない何も無い虚空へ腕を定めた。
腕を伸ばすと蓋は見えなくなるから、手探りで小さな突起に指を掛ける。ぐっ…とほんの少し力を込めると、ガチャッと、意外と大袈裟な手応えがして
感覚が蘇った。
記憶は、思い出は、情報は蘇らない癖に…感覚だけが。
『…っわぁ!』
その感覚も、勢い良く飛び出て来た白い塊への驚きに因って直ぐに引っ込む。まるでそれに付き合うみたいに塊も直ぐに腕の中へ引っ込む。
『嗚呼、釦を押し続ける間だけ骨が飛び出す仕様に成って居るからさ。もう一度、押し続けてみてくれないか?』
『骨…?』
ディンディイに言われて、恐る恐るもう一度ボタンを押してみる。潔く押そうがゆっくり押そうが飛び出す物の勢いは変わらなくて、この機構が今自分の体の一部で在るだなんて信じ難い。
豪快に飛び出したのは、棒だ。白くて太い…さっき、ニレイが持ってた棒か?つまりは…
『ルクス、其れは大腿骨だ。人体の中で最も太くて長い骨…ホーンからの聴取に拠れば、葬送屋の余り物の骨は全て君が持ち去ったが、新規の一人分の人骨はホーンが持ち帰った腸骨一つ以外は其の儘なんじゃないかって事だったからさ…今朝ニレイが自らの好感度を犠牲に迄して拾って来てくれたのさ。』
『おィイイイイイッ!!貴様が前情報を寄越さない所為だし、嫌われ掛けただけだ!嫌われては居ないッ…筈だ…ッ!』
唸ることしか出来無い筈のホーンからどうやって其処まで聞き取れるんだ?
まぁ確かに…俺はハルルが許可をくれた山積みの古い骨は残さず全てを籠に収めたけど、ユトピの婆さんかも知れない分の骨は最後までホーンがじっくり品定めしてて、ホーンが腸骨しか持って帰ってないのならそれ以外の部分はそのまま葬送屋に余ってたんだと思う。
『其れだけ重厚な金属でぴったりと蓋を閉めたら、少なくとも嗅覚に依って骨の存在が察知される事は無いんじゃないかな。骨の匂いを嗅がせたい間だけ釦を押して、休みたい間は引っ込めたら良いよ。ワンタッチで切り替えられて手軽だろう?後は…出来れば骨を仕舞う所作に一工夫加えた方が良いかな。其の鉄塊の中に収納して居ると覚られたら、元も子も無く成る可能性が有るから…まぁ、俺には其の毛玉の知能が如何程か推知出来無いが。』
成る程…確かに便利そうな…出来そうな気もするな。あいつを一先ず置いておけそうな隙間を見付ける度に立ち止まりながら、点を線で繋ぐみたいに進むんだ!
…否、本当に出来るかな?あいつの勢いは恐ろしいまま変わらない。幾ら広くて丈夫な路を選んだからって、広場の石畳も粉にするような着地に耐えられるのか?まだまだ課題は山積みのようにも思える…。
『…ふふ。他にも幾つか、運搬に際して心得ると良さそうなアイディアが浮かんで居るんだ。其の腕と併せて持ち帰って、当事者同士で検討し合ってみてはくれないか?』
『…う、うん。』
ディンディイは俺の心中を見透かしたように優しく微笑んだ。何と無く恥ずかしい…。
『んっ!』
ギッと小さく軋みながら、扉が開かれる。俺はこの二日間を共に過ごして知った。ホーンは表情は乏しいが慣れてくると意外と勢いが有って、結構元気だ。
『お帰り、ホーン。もう良いのかい?…でも丁度良かった。君の御陰も有って腕は完成したから、手筈通りルクスと共に第1階層へ向かってくれ。』
『は?』
手筈って何だ?ディンディイは今、どれ程先のことまで考えてるって言うんだよ…?
『あの…俺、早く戻らなくちゃ…!』
『大丈夫。今回ホーンには籠を背負って下りない様に、既に昨晩話を付けて有るから。君達の意向を拾って俺に持って帰ると言う事が、此の往復に於ける拾い屋の仕事さ。』
『は…?』
何考えてるのか、意味が分かんないぞ…!
『ルクス…修理屋は、文字を読めるか?』
ニレイまで訳が分かんないことを言って来る。文字…?
文字って、何だっけ?
『ん…?嗚呼、そうか。きっと君自身が文字を知らないか覚えて居ないのだな…まぁ、もしも修理屋が読めないならば図を見る様に言ってくれ。此れは其の腕の仕様書だ。万一不具合が有れば修理屋に見せてくれ。』
そう言って、3枚の紙を渡して来た。それぞれに様々な角度から俺の右腕を両断して曝けたような絵が描かれ、隙間を埋めるようにびっちりところころした記号が敷き詰められてる。これが、文字…?多分俺は、文字を知らない。
『…良し。では全ては整いつつ在るかな?最後に纏めも兼ねて、俺の頭の中に有るアイディアを順を追って全て説明して置こう。』
否…最初から順番に説明しろよ!
多分だけど…もっと俺が不安にならずに、穏便に此処まで辿り着く手順が在った筈だ…!
…まぁ良い。過程はどう在れ、結局俺の右腕は大腿骨になってしまったし、ディンディイ達は…まぁ、多少は楽しみながらも、困り果てる下層階の人々の為にこんなにも色々協力してくれたんだ。
だからディンディイの頭脳を以て立てられた作戦を聞き漏らすことの無いように真剣に耳を傾ける…もう、さっきの感覚は霧のようにすっかり消えて、何かが蘇ったという事実すら忘れて目の前の仕事のことだけ考えてる。
こんな調子じゃあ、きっと今夜も闇が怖い。
でも今日は良いや。俺は右腕を手に入れたんだから。
鏡の中の左手とは似ても似付かないけど…
死んだ人間の骨が飛び出てくるだなんて、お前がくれたがらくたの腕くらいふざけてる。
背中に籠を負わないホーンの歩みは…まぁ、悪くは無かった。
偶にぴくっと一震えして立ち止まるけど、平時の調子で無闇に拾っても持ち運び切れないと目に見えてるからか、ギュッと目を閉じ惜しそうに溜息を吐いて整えてから、歩き出す。だから真っ直ぐ進むよりはやっぱり時間は掛かるけど、いちいち蹲むよりは随分とマシだった。
山道を下り切るのが少し怖かった。プリマが朝の状況を何処まで理解してチェスタに伝えてくれたのか分かんないし、俺が悪い訳じゃないのにこれ以上鈍間扱いされるのは御免だから…!
広場ではルーバーが巨大な毛玉を見詰めながら優しく撫で付けてて…チェスタと、ビスカと、カストルが話し合いながらウロウロしてた。今回も俺達を一番最初に見付けたのは、徐に顔を上げたチェスタ。
『…ん?ルクスー!それに、ホーンまで…!?』
『ルクス!無事だったのか!』
『ホーンんん?誰だぁ…こいつぅう…?』
3人の反応はこんな感じだ。チェスタもビスカもプリマがちゃんと話を伝えてくれてて、咎めずに心配してくれて…そして何より、大層不思議がってた。数時間前の俺と同じ気持ちだ。
俺はディンディイと違って、最初から順番に3人に説明する…カストルも既にこの場に居たのは、呼びに行く手間が省けて非常に都合が良かった。
何でも、取り敢えず運び屋を呼んで海までの運搬ルートを話し合ってたが、巨体の跳躍を繰り返させながら疾走するにはやはり道の損壊が避けられないと頭を悩ませてたところらしい。
ディンディイのアイディアを伝えたら、3人はまるで目から何かが落ちたかのように呆け…誰からとも無く、おぉ…っと歓声が漏れ出した。カストルに至っては、目が燃えるように輝き出した。
『…な、何だそれぇえええええ…とても、とっっても楽しそうじゃあないかぁああああああ!!俺はやるぞぉおおおっ!この町の全運び屋の中で、きっと俺が一番の適任のはずだぁあああああああっ!!分からんけどっ!』
…とか何とか。兎に角やる気を出してくれるのは良い事だ。だから後は、準備と練習…と、その前に、ホーンの仕事から片付ける。
皆の意向を纏めて、ディンディイの元へ持って帰らせる。
皆のって言っても、チェスタとビスカの分は聞く前から何と無く分かってた。『可能ならば、ルーバーの望む通りにしたい』って。
そしてルーバーは、優しい顔で優しく、溝色の羽毛を撫でながら…
『わがままが通るんなら、この困ったちゃんに嫌われたくないや…!』
とか何とか、申し訳無さそうに笑ってた。
ホーンは山道を上って行った。一人で真っ直ぐ帰れるものか、少し心配だけど…何せ籠は無いんだし、まぁ何とかなっただろう。
其処からやることは沢山有ったけど、一番忙しかったのはカストルだ。
先ずは巨大毛玉に飯をやる。俺が昨日持って帰ってきた骨を全部、ルーバーが特別に料理してくれた。
これはディンディイの作戦の一つ。
―君が背負って帰った分の人骨を利用して、或る程度毛玉の腹は満たして置く事を強く推奨するね。広場で飢え死にされたら此れは此れで元も子も無いし、上へ移動する為に、其奴にも体力が必要だ―
確かにそうだ。背負い籠一杯分の骨程度じゃ、何日も断食してた巨体を満たすことなんか到底出来無いだろうから…魚とか果物とかも混ぜて嵩増しした特製の餌をやる。
しかし何せこいつは人骨が差し出された途端に目の色を変えて暴れるからまた石畳を滅茶苦茶にされたら堪んないし、満腹になった後だと暫く動いてくれなくなるかも知れないから…序でに明日の練習もさせて貰う。
餌遣り序でだけど、大腿骨の腕の仕舞い方のコツも練習したいから、織り交ぜながら。ひたすら俺とカストルと…後はビスカにも加わって貰って、連携だ。
チェスタはなるべく広くて丈夫な路を割り出しながら頭脳の中で運搬経路を模索する。第21階層近辺のディンディイが知ってるエリアに関してはディンディイの助言を伝えたりもしたけど、結局これも、日々町の上下を繰り返す運搬のプロ…運び屋のカストルの意見を大いに取り入れた。
カストルはあっちこっちに走り飛び跳ね毛玉と格闘しながら、チェスタに何か聞かれたら答えながら。
こんな調子で…明日にはもう蓄積した疲労だけで身体が潰れて仕舞わないだろうか?心配だけど…やって貰うしか無いから、カストルの体力とやる気を信じるしか無い…!
上階の準備は、ホーンから俺達の意向を受け取ったディンディイが整えてくれる筈だ。
もう人骨は食べ切った。時間は無い。
こいつが死ぬ前に、こいつを殺す為に
明日…上まで、駆け上る。
天気は快晴。大仕事には打って付けだ。
集合場所は勿論第1階層の、山道の終着点で在る広場。此処から唐突に全てが始まった訳で、今日も此処から全てが始まり…そして今日、全てに決着を付ける。
ルーバーやスーピーはそれぞれに不可欠な通常業務が有るから今日は来てない。集まったのは俺、カストル、チェスタ、ビスカ…
それから、プリマ。
『プリマ……本当に、大丈夫なのかー…?』
『ただ沢山階段を上るってだけじゃなくて、かなりドタバタすると思うぞ…?』
『うん…大丈夫。少なくとも、足手纏いにはならないようにする。』
心配する兄のような男達二人にも、プリマは甘えること無く、いつも通り表情も見えない。
『プリマぁ…お前ってやつはぁあ、本当に立派だぁああああ!…しかし、これは必ず成功させなければならない大切で難しい仕事だぁああ!ついて来られなければぁ、置いていってしまうかもしれないぞぉお…?』
カストルって、暑苦しい性格の癖に意外と仕事の時は非情だ。間違ったことは言ってないんだろうけど。
『あぁ、大丈夫だ。必ず付いて行くから。』
『…プリマ。お前、素っ晴らしぃいぞぉおおおおおおっ!!』
その癖やたらと心意気を評価する。何と無く勝手だと思うのは、何故なんだろう?間違っては居ない筈なのに。
プリマが何故、平時の業務を休んでまでして今日一日俺に付いて来てくれるのかは、表情が有ろうが無かろうが理解は出来無い。有難いことなのは確かなんだけど、必要なのかどうかは疑問だから。
でも昨夜家に帰って此処までの経緯を粗方説明して、ニレイに渡された仕様書をプリマに見せたら…プリマは甚く真剣に図と記号と睨めっこしてから、一呼吸だけ俯いて、そして『第31階層まで付いて来る』と言った。
何が起きるか分からない激しい仕事の半ばで、万に一つも大切な腕に不具合が起きた時には直ぐに対応出来なくてはならない…って。
勘違いかも知れないけど、プリマの瞳には使命感めいた物が宿ってる気がする。仕様書と見詰め合う内に…宿り出した気がする。違うかも知れないけど。
『…よし。ではー、あまり心配し過ぎても仕方が無いと思うし、そろそろ始めるかー…?』
チェスタがプリマを見下ろしてた顔を上げる。俺達3人と、プリマも頷く。
皆で後ろを振り返る。溝色の家みたいな毛玉は、今日も丸い。
寝てるのかどうかは分かんないけど…どうせ、俺がボタンを押せば始まるんだと思う。
だから喉を鳴らして、緊張をあやしてから…号令は、俺の役目だ。
『…行くぞ、皆!』
誰からとかじゃ無い。皆一斉に返事を上げる。だから頷いたかとかちゃんと構えたかとか確かめもせずに…ボタンを押した!
ガチャンと感覚がして、白くて太い棒が飛び出す。きっと一呼吸は間が有ったんだろうけど、来るって分かってやってるからなのか、骨が現れた途端から緊張感が揺らぎ出して空気の震えを感じた。
『来るぞっ!やるぞ…カストルっ!』
『わかってるよぉビスカぁああああああっ!!』
スタートは、多分大丈夫だ。昨日は広場で練習出来たし、山道は丈夫で広いから!
『来いっ!偏食の…溝色毛玉ぁっ!』
俺は山道へ向かって全力で駆け出す。でも駆け抜けはしない。あいつは走りも飛びもせずに、瞬発力だけが取り柄の跳躍のみで進んで来るからだ。
駆けながら振り返って様子を確認する。真っ直ぐに俺に跳び付かんとする毛玉の前には…先ずはカストルが立ち塞がる。作戦通りだ。
カストルは毛玉の落下点に先回りして、両手の平を天に押し上げる…衝撃を吸収するように『ふんわり』とだ…!
『おりゃあああああああっ!!』
…ふんわりと、だぞ?気合いを入れ過ぎてはないか?
バネのように突き上がるカストルの腕は、まるで発射台みたいに毛玉を後方に撥ね飛ばす。
『はっ…馬鹿!カストル、飛ばしすぎだっ!』
『悪いぃいいいいいっ!楽しみすぎたぁあああああ…!』
軌道に待ち構えてたビスカが慌てて走る。間に合いはしそうだけど飛んで来る角度は急で、一旦仕切り直して体勢を立て直した方が良さそうだ。
『ルクス、骨をしまえっ!とりあえず坂の手前で止まるっ!』
『わ、分かった!』
俺は一応、腕を思いっ切り一回ししながらボタンを放した。
これもディンディイの立てた作戦の一つで…―君の腕から骨が出たり入ったりする様子を何度も見せ付けては、流石の毛玉も嗅覚なんかに頼らず其のイカイカアームを喰い千切ろうとするだけさ…遠くに向けて腕を振りながら骨を仕舞い、恰も投げて隠した様な振りをすると良いだろう―って。
白い棒が引っ込む間に、ビスカは毛玉に手を添え衝撃を抑えながら流すように地面へと誘導する。ズシィ…ン!と響くけど、ビスカの丁寧さが光ったのか、どうやら地面にヒビが入る程のことにはならずに済んだみたいだ。
『…カストル…!』
ビスカは怒りながら呆れてる。チェスタとプリマも山道の方へ駆け寄って来る。
『おいおいー…これじゃ先が思いやられるぞ…お前たちに掛かっているのだからー、くれぐれも頼むぞ…3人とも!』
『す、すまなぃい…次こそは、ばっちり飛ばすぞぉっ!』
チェスタは上へは付いて来ない。体力が保たない自信も他信も有り余るから、今日は昨日一昨日と溜まってしまった何でも屋の仕事を一つでも多く一人で片付ける。
『いや、だから飛ばし過ぎるなよ…?』
見えない前途に頭を押さえるビスカの横を抜けて、プリマが隣に来る。
『ルクス…骨の腕は、大丈夫か?』
眼差しは、まるで真剣だ。
『うん…大丈夫。』
『そうか。何か有ったら、直ぐに言ってくれ。』
『うん…。』
始めたばかりで、しかも早速仕切り直しになって、そんなに直ぐに故障する訳が無いじゃないか。
こっちの前途も、何だか見えない。見えない物には、やっぱり不安が拭えない。
俺の腕を、俺の目を真剣に眼差すプリマに悪い気がしないもんだから、俺は尚更戸惑ってる。
最初に聞いた時は『何だそれ?』って思ったし、矢鱈と楽しそうに話すディンディイにも信用出来なくなってきて半信半疑だった。
でも昨日の練習の成果も有ってか、思った以上に上手く行ってると思う。
この作戦は、ディンディイが昔過ごしてた…ダイガクって場所で休み時間に見た光景から着想を得たアイディアらしい。
飛んで来たボールをキャッチする訳でも、投げる訳でも無い。手の平で押し返してもう一度空中に上げて、それを皆で落とさないように続ける遊び。この町では大人は仕事か体操以外に余り運動をしないし、子供はボール遊びと言えば専らクルッケルだから、チェスタやビスカも知らなかったって。
―毛玉の勢いが凄まじいならば、衝撃を和らげてから着地をさせれば良いと思ってさ…地面に打つかる前に他の何かに打つかれば、衝撃が奪われてゆくと思わないかい?此の町で最も逞しいとされる職業は運び屋か大工だと思うが、此の仕事は飽く迄も運搬作業で在るのだから運び屋に依頼をするのが望ましいだろう…二人組が良いな。宛らスパイクの様な突撃を受け止めつつ勢いを和らげる役と、更に其の毛玉を受け止めつつ優しく地面へ誘導する役が…―
カストルの気持ちが、全く理解出来ない訳じゃない。そもそも休み時間の遊びが元になってる作戦だし…これが怪物みたいな溝色毛玉なんかじゃなくてボール相手だったなら、確かに結構楽しそうだ。
第7階層までは順調だ。でもここから先は山じゃ無くなる。つまりしっかりとした地面が無くなって人の手で建てた通路を通らなくてはならないから、より一層の慎重さが求められる。
『はぁっ…きっつ…!大丈夫か、プリマ…?』
『私は全然大丈夫。ビスカとカストルの方が辛そうだ…水を入れて来ているから、飲んでくれ。』
『俺はまだまだ全然いけるぞぉおおおおおおっ!でも、ありがとぅおプリマぁあああっ!』
骨の腕も今のところ頗る快調だけど、プリマが来てくれて何だかんだ結局俺達は助かってる。疲れた時に優しくしてくれる誰かが常に側に居てくれることが此処まで心強いとは、初めて知った。
第7階層の、山の頂点を示す目印のように立つ大木の下。貴重な開けた場所で毛玉は転がりながら嘴を…顔を左右に振って、大腿骨を探してる。瞳はふさふさの羽毛に隠れてよく見えないけど、きっと血走って少しの白も見逃さないようになってるんじゃないかと思う…健気で、哀れで、何だか可愛いとすらちょっとだけ思える。息が切れてるようにも見える…こいつの体力は、31階層まで保つのか…?
『ルクスは、大丈夫か?』
『…うん。平気だよ。ありがとう、プリマ。』
と言いつつ、差し出された水は受け取って、飲み干しておく。汗を掻く仕事に、水分は何よりも不可欠な筈だ。
『一応、少しだけ見せてくれないか…?』
『…うん。』
プリマは俺の右腕を手に取って、まじまじと眺め回したり、ボタンの感触を確かめる。
…プリマは、本当に大丈夫なのか?
気負い過ぎてはないか?こっちは、お前がこんなふざけた腕に何故そんなに真剣になるのかも見えてないんだ…助けたくても、助けられないぞ。
第8階層から先は兎に角広く、兎に角丈夫な道を選んで進む。
石や土で造られた道が望ましいけど、第一に優先すべきは広さだ。だから結局殆どの場合は、運搬用に整備された外周の道が適してる。
『はぁあああ…かなり慣れてはきたがぁああ…かなり疲れてきたなぁああああああ…っ!万が一にもぉお…道が壊れてしまったらと思うとぉおおお…!』
『体力もかなり使うけど…神経も相当使うよな…!正直、チェスタはついて来なくて良かった…今回は、足手まといだ…!』
確かに…チェスタは体力は無いしビスカに余計な神経を使わせそうで邪魔になりそうだ。
俺達もこの進み方に大分慣れてきたけど、この怪鳥も動くことにかなり慣れてきてる風に見える。昨日や一昨日よりも自在に動けるようになった気がするし、跳躍距離も伸びた気がする。何より、もしかしたらこっちに協力的になってるんじゃないかって気がするんだ…俺達が思う通りに付いて来たら、最後にはちゃんと骨が貰えるんじゃないかって思ってるのかも。ディンディイが思ってる以上に、頭は悪くないのかも知れない。
『…よし。また、階段だぞ…いけるか?カストル。』
『ふっ……当ったり前だろぉおビスカぁあっ…とりゃあっ!』
蹲み込んでたカストルが勢いを付けて立ち上がる。此処は食材を運んだあの大運搬の日にも使った階段だ。ルートリーと初めて出会った場所…木造りだけどしっかりしてるし、何より広いし外周で人の邪魔にもなりにくいから、此処から第9階層へ上るのが良いだろう。
『あ…待ってくれ。彼処に誰かが居る。』
プリマが小走りで階段を上がって行く。大掛かりな運び方だから、始める時は通行人を巻き込まないように注意を払わないといけない。力仕事以外は何かとプリマがやってくれるもんだから頭が上がらない。
大きな階段の先に突っ立ってたのは婆さん…否、爺さんか?下でぐったりと突っ伏しながら震える巨大毛玉を呆けるように見詰める様子が、ユトピのボケ婆さんを彷彿とさせるけど…プリマが話し掛けたらハッと我に返って、どうやら真面に会話は出来てるみたいだ。少し話して、プリマは直ぐに戻って来た。
『何か…見学をしたいらしいんだ。この運搬の噂を聞き付けてわざわざ待って居たみたいで…邪魔にならない所で見て居ても良いか…って。』
『…はぁあ?』
ビスカとカストルは揃って眉を顰め声を上げる…俺だって、同じ気持ちだ。意味が分かんない。
昨日、ホーンが俺達の意向を持ち帰る為に町を上る際に、序でに各階にこの毛玉の大移動のことを触れ回ってくれることになってた…どうやって伝えたのかは知らないが。
でもそれは、皆に巻き添えを回避して貰って迷惑を最小限に減らす為だ。こんなの、見物するような物じゃない。
『あの爺さん、ミズルのことをとても信じているみたいなんだ。人々の糧と成る大きな鳥はミズルの賜物だろうから、是非とも拝みたいって…。』
何だよそれ?荒唐無稽だ…ミズルを信じてるってだけでも、理解が及ばないのに。あいつ、町育ちなのか?被害者なのか…?
『…なるほどぉ。じゃ、いいんじゃあないかぁあ?なぁあ、ビスカぁあ?』
…はっ?
『んー…まぁ、邪魔にならないならいいか…?あのへんの物陰にでも隠れてもらえばいいかな…?』
何でこいつらは納得出来るって言うんだ?否、確かに邪魔をしないならば何処でどうするのもあいつの自由なのかも知れないけど…すんなりと受け入れ過ぎだろ。
まるでミズルって本当に、この町の神みたいだ…!
『ん…分かった。』
プリマは上の爺さんへ向かって両腕を使って大きな丸を作り、了承の意思を見せ付ける。更に片手で階段から少しだけ外れた場所に積まれた箱やら道具やらの山を指すと、爺さんは一呼吸の後理解してそっちに身を隠した。
『よし、行こうぅう!上ったすぐ先にぃ、ちょっとした広場があるぅうう…俺、ビスカ、俺、ビスカのトスで届くぐらいだろぉう。ルクスは、まっすぐ走れよぉお!』
『…うん。』
『了解。』
俺もビスカも同時に頷く。やるよ。走りはするけどさ…不安だ。陰に隠れて視界には入ってない筈なのに、上手く行ってたさっきまでとは違う物が一つ有るって言うだけで…。
俺は毛玉の目の前に、カストルは階段の根元に、ビスカは階段の中腹辺りに構える。こいつは身体は重くて飛ぶのが下手糞みたいだから、階段では小刻みに手助けしてやらなくちゃならない。
『行くぞ…カストル、ビスカ。』
仕方が無いから…やるよ。
『おぅううっ!』
『おぉっ!』
カストルの大声と、その奥に通るビスカの返事を確認して、俺は腕のボタンを押す。ガチャンと大袈裟な手応えにも、もうすっかり慣れた。
『行くぞ…起きろっ!』
声を掛けたから…って訳じゃ勿論無いけど、毛に隠れてた目が急に見開かれて現れる…来る!
階段を駆け上るのはしんどいけど、俺は絶対にこいつに追い付かれちゃいけない。大きな階段を2段飛ばしで上がると、俺が通り抜けた後に先ずはカストルが立ち塞がる。
『飛べぇええええええええっ!』
朝の一発目の如き気合いで突き上がる手の平は、階段を越えさせる為ならば丁度良い勢いの筈だ。毛玉はカストルからの補助を受けて羽をもう一つ振るわせ、その目の前にはもうビスカが待ち構えてる。
真っ直ぐな階段を上り切って、後ろを確認する。毛玉は丁度ビスカの腕から飛び立って、カストルはさっきまでの疲れが嘘みたいな速さでもう俺の直ぐ後ろまで駆け上がって来てる。
『よしっ…次で決めるぞぉおおおっ!ビスカ…』
カストルの腕が、再び溝色の巨体を押し上げようとした刹那
『おぉ…おぉおぉ……!』
聞き覚えの無い嗄れた声が聞こえたのと、どちらが早いか
見開いた目が、薄桃色の嘴が、ギュンッと真横へ曲がった。
それと同時に毛玉の下から現れたのは嘴と同じ色の、三又くらいに分かれた棒みたいな…
それが、首の動きと同じくらいの力強さでカストルを蹴り飛ばしたから
嗚呼、成る程。あれは、脚だ…!
『ルクスッ…爺さんの方に行けッ!!』
ビスカの必死な叫びで我に返ることが出来た。毛玉がカストルを蹴り飛ばしてまで方向転換をした先に居るのは…何をしたいのかわざわざ自ら怪物の視界に姿を現した、ガリガリで、まるで骨みたいに痩せっぽちの爺さん…!
『カストルーッ!!』
背後でビスカが叫んでるけど、一つの身体は二つの方向へ走ることは出来ないんだ。ビスカはこっちに行けと言ったんだから、あっちはもうビスカに任せるしか無い。
大丈夫だろう?この町でもしものことなんて起こらないんだろう?もしものことって何だ?カストルが怪我をして、爺さんが喰われて、後は…
『爺さんっ!逃げろ!隠れろーっ!』
俺は何故だか、この4日間でお前の頭の中が何と無く分かるようになった気がしてる。
でも思えばいつの間にか気に留めなくなってしまった…お前は鼻だけじゃない、目でも骨を見付けることが出来るんだ。
お前、俺達がこの爺さんを御馳走してやる為に此処まで連れて来たって、勘違いしてやがるだろ…っ!
初動が遅れたらもう、瞬発力だけが取り柄の毛玉にこの超短距離では追い付けまい。年寄りは急には動けないのか、俺の声が届いてないのか、何を考えてるのか…爺さんは呆然と突っ立ったまま巨大鳥を拝んでる。
ぼんやり浮かんで来てた『最悪』と言う言葉が、輪郭を顕にする…
『ご隠居っ!』
『カストルッ!』
『お前は…!』
順番に色んな方向から短く声が続いて、突っ立ってた爺さんは突然何者かに腕を引かれて側の建物の奥へ引っ込んだ。
次に巨体が重力に負けて木造りの通路に落下する。町が一気に崩れてしまうんじゃないかってくらいの衝撃を感じて、一呼吸の後…
『…本っ当ぉー、めんどくせぇーなぁーてめぇらはよぉー…!』
聞き覚えの有る、気怠気な声。締まりの無い喋り方。
爺さんの無事も確認してないのに、思わず振り返ってしまった。真っ直ぐ後ろ…階段の向こう側。町と空の境目で在る頼り無い柵からカストルが投げ出されようとしてて、その腕をトロイメラの長い腕が確かに掴んでる。
『おいそこのマシなヤツ…引き上げるの手伝えよぉー!』
『えっ…あ、悪い!今行く!』
あと一歩のところで間に合わなかったらしいビスカが、駆け寄ってトロイメラに加勢する。
『ルクス、大丈夫か…!』
いつの間にか階段を上って来たプリマは、あっちとこっち、どちらに付いたら良いのか分かんないみたいで取り敢えず俺に声を掛けた。
『否…俺は、多分一番大丈夫…。』
カストルはトロイメラとビスカが引き上げて、ぐったりしては居るけど落下と言う『最悪』は回避することが出来たみたいだ。嗚呼、そう言えば爺さんは…?そうだ、あとは毛玉の所為で通路が壊れて…
『うーん…着地位置が奇跡的なのか、見事に柱や梁の損壊は免れてるみたいだ。とは言え床板には穴が空いてしまったみたいだから、修理屋を…いや、大工の方が良いかなぁ?どう思う、ルクス?』
これも聞き覚えの有る声だ。真面な内容を真面な喋り方に乗せて、浮かべる笑顔は何処までも爽やかな…
『ルートリー…!』
爺さんが引っ込んだ方向から現れたのは、女が好きそうな整った顔立ちとやたらな長身を併せ持つ男。目を合わせると改めて満面の笑顔を湛える。
『やぁ、久しぶり!昨日人伝てに依頼された通りに、トロイメラとペアで第11階層の広場に待機してたんだけど…あいつが暇だ暇だってうるさいから。早めに合流して何か手伝えることが無いかと思って下りてきたんだ。どうやら最高のタイミングで出会うことが出来たみたいだね。』
『俺ぁー、待ってるのは性に合わねぇーんだよぉー!ルートリーの外の世界での話だって、もぉー聞き尽くしちまったしなぁー。』
『お前が根掘り葉掘り聞き出してくるからネタが尽きたんだろ?まったく…カストルは、大丈夫か?』
呆れたような笑顔まで悠然さを醸すルートリーが心配を向けると、名前を出されたことがスイッチになったみたいにカストルは勢い良く飛び起きた。
『はぁっ!…いっだぁあああっ!俺は、大丈夫だぞぉおおおおっ!…と言うか、俺は途中で引き継ぐだなんて聞いてないぞぉお!31階層まで走り抜ける気満々だったのにぃいいい…っだだだぁあっ!!』
『…痛ぇって言ってんじゃねぇーかよぉーバカがっ!』
『全然大丈夫じゃないじゃないか。』
『いや、こんなキツい仕事31階までやり抜くなんて無理だから、区分けして他の運び屋にも応援を頼むって昨日話してただろ…ん?カストルは、練習に夢中で聞いてなかったか?』
カストルは起き上がった癖に直ぐ頭を押さえて、3人の男達から次々に突っ込みが入る。
―君の骨の腕は代わりが利かないから頑張って貰うより他に無いとして…巨大毛玉で球遊びをしながら第31階層迄上るのは、何よりも怪鳥の瞬発力に負けないパフォーマンスを維持し続ける事が難しい。三区間程に分けて、負担を分散しよう。上階の運び屋へは俺の方から依頼を通して置くからさ―
…って、ディンディイが言ってたから。俺はちゃんと皆に伝えたんだけど…
『なぁ…!えっと…ルートリー…?』
『ん?』
今度は少し離れた場所から、プリマの声がする。気付けばまるでルートリーと場所が入れ替わったみたいに、爺さんが消えた建物の陰から顔だけ出して、こっちに助けを求めてるみたいだ。
『其処の路の様子を少し見てみたんだけど…通路の損壊や修理はこの町全体の構造にも関わってくるから、修理屋よりも大工を呼んだ方が良いと思う。あと、この爺さんがどうしても間近で鳥を拝みたいらしくて出て来ようとするんだ。どうしたら良い…?』
爺さんも後ろから顔を覗かせようとするのを、プリマに制止されてる。懲りない奴だな…食糧になる巨大鳥はミズルの賜物とか言ってたっけ?あわや自分が、あいつに喰われそうになってた癖に。やっぱり状況を理解してないのか…?
『おや…このお嬢さんは?』
『あ…こいつ、修理屋なんだ。俺の腕に何か有った時の為に、付いて来てくれてる…。』
『なるほど!それなら確かに彼女の言う通りにするのが間違いないんだろうな。このままだと邪魔されそうだし…ぜひそこのご隠居に大工を呼びに行ってもらうことにしよう。その間に俺達はこの巨大鳥を移動させて……うん、ありがとう!えっと、君の名は…?』
『あ…私はプリマ。よろしく。』
ルートリーはニコッとプリマに微笑み掛けて、プリマに表情は生まれない。プリマは別に、ルートリーの顔に興味は無いんだろうか。少し年が離れてるか…?
ちょっと早いけど、カストルとビスカは此処でお役御免みたいだ。実物で練習した訳じゃないトロイメラとルートリーが何処まで上手くやれるか分かんないし…何より俺はこいつらのことがあんまり好きじゃないけど、ルートリーの言うようにするのが一番良さそうだ。
それが仕事なんだから、仕方が無い。
骨みたいな爺さんの、まるで壊れてるみたいな荒唐無稽な信仰。それをすんなり受け入れる奴ら。ハルルが何気無く吐き捨てた呟き…ミズルと言う名の理不尽、ミルハンデル……たった今起こり得た『最悪』と、回避された『最悪』。
偶然の反対は運命じゃなくて…摂理とは……嗚呼、何だったか…?
今までこの町中で納得出来なかった違和感の全てがぐるぐる巡る。でも結局何にも成らず混ざりもしないから、きっとその内消えるしか無い。
只…心の中でぐるぐる暴れ回る内に見えない小さな傷を沢山残して、それがまたいつか何かに滲みることになるのかも知れない。
『よっ……それっ、トロイメラ!』
『あぃよぉー…っと、こっちだっ!』
トロイメラの体躯と比べて、毛玉の体積はきっと数倍も有る筈なのに…不思議だ。まるでトロイメラが巨大鳥の全てを優しく包み込むように、勢いを往なして穏便に地へ導く。
こいつら…上手い…!
昨日練習したカストルやビスカより上手いかも。手際が良くて、なのに正確だ。こういう感じを、何て言うんだっけか…スマート…?違うか?
『お疲れ…水、飲む?』
『…さんきゅーう。』
『ありがとう、プリマ!君が居てくれて本当に助かるな…よく気が付くし、新たな出会いに俺の心も一層華やかになれたし。何だか楽しいよ!』
プリマは言葉も表情も少なくて愛想なんか無きに等しいが、ルートリーの爽やかな笑顔が取り持ってくれてるのか、初対面らしい二人とも少し打ち解けてきた気がする。
第9階層の惨状はビスカと手負いのカストルに任せて、俺達はそのまま第31階層へ向けて進むことにした。巨大鳥と共にいつまでも彼処に留まってたら、またあの爺さんが何をやらかすか分かったもんじゃない。
カストルは痛みを訴えながらも自分の足で立ち上がれてたし、通路の穴は毛玉を退かして見たら思った程深刻でも無さそうだったから、ビスカが中心になって事後処理は出来るんじゃないかと思う。
毛玉は…何だか少し元気を取り戻したような気がする。爺さんを食べ損ねて、意気が削がれてしまったんじゃないかと思ったけど…トロイメラとルートリーの言うことを良く聞いてる。
否、こんな奴が人間の言葉を理解出来る筈は無いって思うけど…『こっちだ』とか『落ち着け』とか、トロイメラやルートリーが話し掛けてる通りに事が進んでる気がして……まさかこの鳥、女なのかな…?
『……なぁ、トロイメラ。』
『…なんだよぉー。』
もうそろそろ次の階段が見えてくるだろう頃に、ルートリーが呟くようにぽつりと口を開く。
路が狭くて複雑で難関な第12階層も何とか超えた。潮の匂いもかなり薄くなってきた。太陽もとっくに天辺を超えて、多分今頃が一日で一番暑い時間帯。
こいつらとも、そろそろお別れだ…。
『俺たちはまた、ポルクスに怒られるのかなぁ?』
ポルクス…?運び屋の名前か?この先の階段で待ってる奴のことかも。
『知らねぇーよぉー!あいつが怒ったところで、悪ぃーのは俺らじゃねぇーだろぉーがっ!カストルがっ……いや…誰も、悪いやつなんか居ねぇーだろ…。』
カストル?…そう言えば、前にカストルとトロイメラが話してた時に、ポルクスの名を聞いたことが有ったような気もする。まぁ、どうでも良いか。
『遅いぃ…っ!』
不意に、じりっとした声が渡る。高いけど、男の声だ。幼い訳じゃないが、何処か頼り無くて…
なのに顔を向けたら、路の真ん中に仁王立ちしてたのは歯を噛み眉を吊り全身から怒りを表して空気に伝えてるような奴。俺と同じくらいか、少し年下かもな…大人って訳じゃないけど、少年って呼ぶ程でもない。
『お疲れ、ルートリーとトロイメラ!ズッシーンって聞こえたからさ、やっと来たのかと思って見に来たんだよ。』
後ろに立つもう一人の男はにこやかだ。あっちは多分チェスタと同じくらいの年だ。程良く逞しくて誠実そうな顔立ちの青年で、女に好かれそう…こいつは、運び屋だ。
『ごめんごめん。これでも少しは巻き返したと思うんだけど…カストルたちが早めにリタイアしたり、色々あったからさ。』
『おいバカッ…その名を出すなよぉー!』
ルートリーが優しく笑い飛ばしながら応じると、トロイメラは大層面倒そうに顔を顰める。
『カストルぅっ…?おいぃっ!カストルに何かあったのかよぉっ!?』
察した。こいつがポルクスか?トロイメラの懸念通りなのか、カストルの名が出た途端にその目には一層の熱が灯って確かにややこしくなってしまった気がする。こいつ、カストルのことが好きなのか、嫌いなのかな…?
『おいおいポルクス、ルートリーは笑ってんだからきっと大丈夫だろう?カストルの分まで俺らが頑張って終わらせちゃおうぜ。』
『クリエぇ…!』
クリエと呼ばれた後ろの青年は、ルートリーにも劣らぬ爽やかさで微笑んでポルクスの肩をぽんぽんと叩いて宥めた。何だかこいつは、清涼感に加えて軽やかさも有る。男女なんて隔たりは関係無く好かれそうな明るさと親しみ易さを感じるんだ…良い奴そうに見えるけど、実際のところはどうなんだろうか。
『ありがとうクリエ…でも、仕事にも関わることだからちゃんと伝えるよ。あの鳥の行動原理は兎にも角にも『骨』の一点のみみたいなんだ。俺たちにはあんまり分からないような骨の匂いにもとても敏いらしいし、骨のように痩せた爺さんが視界に入っただけでルクスの腕の骨も差し置いて、待ち構えてたカストルを足蹴に方向転換して襲おうとした。イレギュラーさえ無ければ、素直で一途な良いコだったけどね…。』
ふぅー…と、細くて長い溜息を吐いて、ルートリーが今日の大仕事を振り返る。俺に取ってはまだ半ばだし、ポルクスとクリエにとってはこれから始めることだけど…上手くやってるように見えて、何だかんだでルートリーにも疲れやストレスは積み上がってたみたいだ。
『ルクスぅ…?はっ…まさかそのぉ、ごっつい腕が噂の骨腕かぁ…!お前ぇ、カストルの足を引っ張ったんじゃないだろぉなぁ…!?』
ポルクスの目が俺にぶら下がる冷たい右腕を見付けた途端に、ギッ!と歯を食い縛る音がした。
否、何で俺がそんなこと言われなくちゃならないんだよ?道理の無い物見の部外者で在る爺さんを受け入れようとしてたのは、寧ろカストルの方だぞ。
『あぁ、ポルクス!ルクスはとても良いやつだし、カストルとは普段から仲が良いみたいだから、お前もぜひ仲良くしてあげてくれよ。な?』
『はぁあああ…っ!?』
『…おいぃー…余計なコト言うなよぉー…!』
ルートリーが余計なことを言うのは、性格なのか何気無い癖なのか…まさかわざとじゃないだろうな?もうこいつには帰って貰った方が良いかも…。
『なぁ…皆。』
『何だよぉっ!?今は取り込み中…んん?お前は、何だぁ…?』
プリマが口を挟んで、俺はポルクスの尖る眼差しから解放される。代わりにその目に刺されるプリマは、乏しい表情にも困ったように空気を伺う幼さが見て取れる。
『どうしよう…あいつ、眠そうなんだ。』
路に崩れる毛塗れの巨体をプリマが指差す。丸まって目も嘴も溝色の羽毛に隠れてしまったが、その呼吸に依る規則的な揺れは見て取れる程にいつもより大きい。息が深くなるくらい疲れてるってことだ。
『おやおや…そりゃ、俺たちが疲弊してあのコが疲れないなんて訳がないよなぁ。ただ、立ち止まることも出来ないからなぁ。日が暮れる前に31階層まで、急ぐしかないな…骨を見せたら起きるかな?じゃあ、此処からはよろしく頼むよ。運び屋のポルクスと、クリエ!』
『……ちぃっ…!やるよぉ…打ち合わせ通りにやるぞぉ、クリエぇっ!』
『おう。ルートリーもトロイメラも、あとは任せて安心して今日はゆっくり風呂にでも入ってくれ!』
ポルクスはとても仕事人とは思えない綺麗な舌打ちで不承不承を表して、クリエは快くニカッと笑って自分の胸を一つ叩いた。
ポルクスとクリエ…こいつら、大丈夫かな?
この先の階段を上れば第21階層。この辺は方角的にはディンディイ達の家とは反対の方で、俺に取っては初めての景色。そして更に一つ階段を越えれば、第22階層から先は一度も足を踏み入れたことの無い未知の領域。其処を、今出会ったばかりの奴らと怪物を引き連れて駆け抜けなくちゃいけないんだから、不安だ。
正直、只付いて来るだけでもプリマが居てくれるだけで心強い。カストルとビスカが居なくなって、知らない顔と出会って、その度に実感する。
但し、大腿骨の腕は頗る順調で、プリマがその片手に健気に携えてる道具箱を開ける機会は未だに無い。
でもプリマの表情は変わらない。姿を現さないけど…瞳の奥にだけ、何かの使命を帯びてる。
『それでぇ!ルクスぅっ…カストルはぁ…っぐぁ!』
『否…だから、ちょっと待ってくれっ…一旦、骨をしまうぞ!』
『ほーい!じゃっ、ピヨピヨもこの辺で休憩しよーぜ…っと!』
ポルクスが巨大毛玉を突き上げる…否、突き飛ばされる。
次にクリエが軌道を修正したり、着地を補助したりする。
それが、こいつらが昨日打ち合わせた作戦らしい。
ポルクスはひ弱とか華奢って感じでは決してないけど、背はやや低めで運び屋としては力が弱い方らしい。それでも自ら志願してこの仕事をやることになったから、相方に顔馴染みのクリエを指名してこのやり方で行くことに決めたみたいだ。
『うっぐ、ぐっはぁ…ル…クスぅ、カストルはぁ…っ!』
路の真ん中で倒れ込みながらも、口を動かし続けて…さっきからずっと、こんな調子だ。
『はぁ…っだから、走ってる間は質問されても答えられないって…!』
ポルクスは執拗にカストルのことを聞き出そうとしてくる。カストルは最近どんな仕事をしてるとか、どんな物を食べてるとか…俺だって別にしょっちゅうカストルと一緒に居るって訳じゃないし、答えられることは少ないんだけど。只、そんな質問は俺よりも先にカストルと知り合ってたプリマが答えられる時も有る。
『大丈夫か、皆…水、飲むか?』
プリマが追い付いて来る。先ずは倒れたポルクスに駆け寄るプリマを、横目で窺いながらゆっくり起き上がって…
『プリマぁっ……カストルはぁ、今どれぐらいの背丈なんだぁ…?』
『え…?』
ポルクスは、まるで此処ぞとばかりに俺達にカストルのことばかり聞いて来る。
『ポルクス…』
こいつの普段の様子を知る者は、此処にはクリエしか居ない。そんなクリエはポルクスのことを窘めたりなどは全くしてくれない。只、ようやく口を開いて、何か言ってくれるのかと思ったけど
『…カストルは、お前と同じくらい…否、そうだな。お前より少し大きいくらいの背丈だと思う。お前よりは、大きい。』
仕事内容とか何を食べてるかとかは見てなければ分かんないけど、背丈なら毎日のように会ってれば直ぐに答えられる。だからプリマは正直に答えて、クリエの発言は遮られる。
『………そうか。』
ポルクスはまるで不貞たように顔を伏せて…一呼吸の後立ち上がった。
『おいぃ!行くぞぉっ!こんなひどい仕事はぁ、さっさと終わらせるぅっ…!』
自分から志願してやってる仕事なのに、何て言い草だよ。今だって、お前が起き上がるのを皆で待ってたのに…。
恐らくポルクスは、下層階から荷物が引き継がれる仕事だって聞いて、カストルに会えるかも知れないって思ったんじゃないだろうか?カストルが此処まで来なかったとしても、下階から上って来た奴からカストルの情報を何か聞き出せないかとか…そんな下心を携えて。
何故、そんなにも必死なんだろう?こいつが普段第何階層に住んでるのかは知らないが、どんなに階層が離れてようが所詮は同じ町なんだから、自分からカストルに会いに行けば良いだけなのに。
『なぁ、ポルクスー…。』
『何だよぉ!クリエぇ…!』
もう一度クリエが口を開く。クリエには邪気など全く無さそうで、なのにポルクスは睨み付けるように振り返って…自分がクリエをこの仕事に呼んだ癖に、何が不愉快なんだか分かんない。
こんな人間は外の世界にも居たんじゃないかって気が、何と無くしてる。でもこんな性格を何て言い表わすんだったか思い出せない。絡まってるとか拗れてるとか…何と無くだが、そんな言葉が浮かんで来るけど。
『さっさと終わらせた方が良いってのは俺も同感だが、酷い仕事だなんてことは無いだろう?お前の大好きなカストルの友達どもと、友達になれたんだから。』
『だっ…!?』
『…友達?』
『ん?違うの?プリマ…』
ポルクスは大層不服そうに顔を赤らめて、友情と言う物を全く覚えてない俺には理解がゆかなくて、クリエは只一人反応を示さず無表情で会話を眺めてたプリマに意見を仰いだ。
『ん…?よく分からないけど、カストルは良い奴だからきっとその友達のポルクスも良い奴だし、そんなポルクスの友達ならばクリエも良い奴なんだと思う。だからクリエの言うことは間違っていないんじゃないか?』
『何だよそれぇ!わけ分かんないだろぉっ!』
こればっかりは、全くポルクスの発言に同感だ。でもクリエは満足気にニコニコと頷いてるから、どうやらプリマの言うことは間違いでは無いらしい…納得は、行かないけど…。
『そうだよなぁ、プリマ!俺もそう思うよ…お前もルクスもすっげー良いやつそうだし、しかも何でもやってくれるんだろう?』
『は?』
嫌な予感が走った。
そろそろ俺は気付いてる。俺の予感は、結構当たる。
それとも何でも屋っていつでもこんな感じなんだろうか?チェスタもビスカも下層階で、こんな感じで下らない仕事を沢山頼まれてきたのか…?
『何でもやるだなんて、良いやつだよなぁ…ん?良いやつだから、何でもやってくれるのかな?ははは!』
『クリエ…私は何でも屋では無い。何でもやるのは、ルクスだけだ。あとは、チェスタとビスカ…。』
『ん、そうなのか?そういえばプリマは修理屋なんだっけ…じゃ、ルクス。あとはよろしく!』
歯を見せて爽やかに笑いながら、クリエが横目で俺に飛ばす物は…
何なんだこれは?依頼…なのか?
『おいぃ…クリエぇ、お前何言って…』
『ん?悩んでて、じっとしてるだけじゃ解決出来ないんだったら…動けばいいじゃないか。カストルのことで悩んでるんだったら、カストルと仲良くてしかも何でもやってくれるルクスに頼むのが手っ取り早いだろっ?どーよ?』
『…はぁあぁ?』
ポルクスは再度顔を赤くして、今度は何て言ったら良いか分かんなくてに困ってるように見える。
『違うか…?でもこのままじゃあ…カストルみたいに、ルクスとプリマにも次にいつ会えるかわかんないぞ…?』
クリエは不思議そうに小首を傾げて、その癖やっぱり笑顔でポルクスの顔を覗き込む。ポルクスは…
『………ちぃい…っ!』
仕事中とは思えない見事な舌打ちを聞かせてくれた…怒ってるのか?何でだ?
嫌な予感がする…面倒だな……今までで一番面倒臭いかも…!
『……ルクスぅっ!お前ぇ…何でも屋なんだろぉ…?依頼を受けた時に軽く聞いたぞぉ…!』
『う……うん。』
今までも面倒な依頼は幾つも有った。今正に進行中のこの仕事だってそうだ。でもこれは…一際気が進まない。
こいつらの事情が全く見えない。何故かは知らないがどうやらカストルはポルクスの友人の癖して長いこと会うことを避けてるらしい。
そしてポルクスは、それなのにカストルのことを求めて止まない執着を捨てられないらしい。嫌われたなら…捨てられたならば諦めれば良いだけなのに、意味が分かんない。
俺よりもカストルと仲の良いチェスタとビスカが何て言うか分かんないけど、これはきっと『厄介事』って奴なんだ。
心の見えない怪物の相手をするよりも、希求を剥き出しにした人間の方がよっぽど厄介だ…!
正直信じられないと言うか…実感が湧かない。俺達は、第31階層に辿り着いた。
『っはぁあ……っ、はぁあああーっ…げほっ!』
ポルクスは正に満身創痍だ。クリエも流石に息を切らせてるけど、笑顔は変わらず明るくて、常に照度を保ってる。
『はぁ…遂に来たなぁ…!俺たちは、大したトラブルは何も起きなくて良かったな!ピヨピヨとポルクスは限界っぽそうだが…ギリギリ間に合ったってやつかな?』
第31階層の外周の通路は見晴らしが良い気がして、第21階層のディンディイの家の辺りの風景を思い出す。でも煌めく海面はより遠くなって、代わりに空は少し近くなった気もする。
確かに毛玉はもう限界だ。第31階層への階段を越えて直ぐの所で力尽きて、地に突っ伏して…序でにポルクスも隣で倒れてて、まるで仲でも良いみたいで滑稽だ。
でも…
『なぁ…まだゴールじゃないだろ?アンギュラの鳥飼屋って、どの辺りに有るんだよ?』
第31階層まで登り切ることが目標じゃない。鳥飼屋までこの巨大毛玉を運び切ることこそが目的だ。
『ん?なんだ、知らないのか。そこが鳥飼屋だよ。くせーだろ?はは!』
クリエは階段の真横に聳える大きな門を指差した。木で出来た高い柵に囲まれた広い土地…広いって言ってもルーバーの牧場とは比べ物にならないけど、この町はどうやら上れば上る程一階層毎の広さは狭まっていくらしいから、この高さの割には大きな施設だと思う。
言われてみれば、確かに臭い。でもこれもルーバーの牧場の、マミムの獣臭さとは違う。穀物みたいな匂いだ。
『…此処が、鳥飼屋。』
プリマが柵を見上げながらぽつりと呟いた。プリマだって今日一日沢山の階段を上りながら、甲斐甲斐しく俺達の面倒を見てくれた。苦労の反動が感慨を引き起こすのかも知れない。
『おーいっ!アンギュラーっ!ポルクスが死んじまうから、あとは頼むよぉおーっ!』
クリエはアンギュラとは既に顔見知りなんだろうか。ポルクスは酷い言われ様だが、少し前まであれだけ煩かった奴がもう反論する気も起きないとは確かにこいつも限界らしい…本当に死んだりはしないと思うけど。
『…はーいはいはいはーいっとぉ!今行くから待ってなぁ、オットコ前どもぉー!』
大きいけど簡素な木の柵は声を良く通す。遠くから低めの声が飛んで来る。低いけど不思議と少し艶を感じて、女の声だと判る。
『お待たせー…ってか、そっちが待たせてたんだけど。やっぱ大変だったみたいだねぇ…ってデカっ!』
軽そうな門を勢い良く蹴り飛ばして出て来た女は、早速溝色の巨体を見付けて驚いてくれた。
鳥のプロで在る鳥飼屋でも、空に近付いた第31階層でも、こんなにも大きな鳥にお目に掛かることは中々無いらしい。
こいつが、鳥飼屋のアンギュラ…女の割に背は高いが、年は大分若そうだ。クリエと同じくらいかも。うねる薄赤色の長い髪を顔の両脇に貯えながら、残りを後ろで一つに丸めてる。
『…おっ。キミ達が何でも屋かぁ?意外と幼いね。結構前に噂を聞いたコトが有ったから、も少し大人なのかと思ってた。』
…おかしい。チェスタ達は大体第1から7階層くらいまでを中心に仕事をして、第8階層より上では知名度は格段に落ちる。ダンダリアンもレストラもゴードルンも、何でも屋なんて聞いたことも無さそうにしてた。
でも第21階層でニレイは何でも屋の噂を聞いたことが有るって言って、第31階層のアンギュラも同じことを言って…
やっぱり、何でも屋って他にも居るのか?
俺達とは違う、もっと遥か上層の階を拠点にして…
『アンギュラ、私は何でも屋ではなく、修理屋のプリマ。何でも屋はこのルクスと…下階にあと二人、もう少しだけ年上の仲間が居る。』
『ん、そーなの?…カワイイから大歓迎だけど、何で修理屋さんなんかが此処までくっ付いて来たワケ?』
アンギュラの不思議そうな笑顔でまた思い出した。結局骨の腕には一度も何の異常も起こらなかった。
プリマが此処まで階段を上って来て、何にも意味が無かったって訳じゃない。プリマが居てくれたお陰で助かったことが沢山有った。でも…プリマが今朝その目に宿してた使命は、多分果たせてない。
『アンギュラ、それはそうとポルクスがもう限界なんだ…水かなんか、一杯分けてやってくれないか?あと、ピヨピヨももう動けんかも。中まで運んだ方がいいんだろうが…』
『んー?…あぁ。まー良いよ?何とかするわぁ。何とか……ね。』
アンギュラという女には、何処か違和感が有る。はっきりとした喋り方で、どうやら友好的で、間違い無く笑顔なのに…トロイメラ程では無いが、何故か気怠そうに見える。
『後はプロに任せなぁ。』
ニカッと笑いながら腰にぶら下げた水筒を差し出す様子で気付いた。こいつ、レストラに少し似てる。
何か心配そうな…嗚呼、否、これは…憂いって奴か?
『サンキュー、アンギュラ。おい、ポルクス…飲むかー?ほら。』
『……う。うぐぐぅ…っ!』
水筒を受け取ったクリエはそのまま蹲んでポルクスを覗き込む。ポルクスは呻きを返事として震える腕を伸ばすが、まだ顔を上げられない。
アンギュラは巨大鳥に歩み寄って、そっとその溝色の毛を撫で付け出した。余りにも優しいもんだから、微動だにせず突っ伏す毛玉が無視してるのか受け入れてるのか気付いてないのかも判然としない。
『…ポルクス、暫く動けないっしょ?休んでっても良ーよ?』
『んあ?そりゃ助かる!何から何まで悪いな…。』
『こーゆー時はお互い様よ……と、言うワケで。またね、ルクスとプリマ!お疲れぇ。』
『えっ…?』
ニカッと微笑むアンギュラに、プリマが呆ける。
俺も似たような気分だ。此処までの苦労には何処か見合わない、何とも淡白な終わり方…。
『ん?それとももーちょっと、コイツとの最期のお別れに浸っとく?…そんなのイヤじゃない?』
嗚呼、そうだ…忘れてた。俺達はこいつが死ぬ前に、こいつを殺す為に此処まで苦労をして運んで来たんだ。
俺とプリマが去った後、こいつはアンギュラに殺される。
『……嫌じゃない。』
偶々プリマの一番近くに立ってた俺にしか聞こえなかったかも知れない。でもプリマは確かにそう呟き捨てて、毛玉に歩み寄り、アンギュラがそうしたように優しく手の平で溝色の羽毛に触れた。
『さようなら。ありがとう……ミタモ。』
柔らかい眼差し…このプリマはきっと、笑顔だ。
……でも、何だよその台詞?不可解だ。
『……ミタモって…何?』
アンギュラが眉を顰め、皆の疑問を代弁すると
『ん?えっと……あぁ、多分、ミズルの賜物…?呼び名が無いと礼の言いようも無いから、咄嗟に出て来た…。』
ミズルノタマモノ…略して、ミタモ?
何だよそれ…!?
『…ぷっふ!はははははは…っ!』
ぱちくりと目玉をひと回しした後、アンギュラは腹を抱えて爆笑した。
プリマの表情はまた鳴りを潜めたが、目を伏せる様子が少し照れてるようにも見える。
『プリマ…あんた、優しいんだね。だからとっとと帰りな。この肉はこの辺の階層の料理人に分けられて、あんた達低層階の奴らの腹に収まるコトは無い。食べもしないヤツが、死ぬ肉に思いを馳せる義理なんか無いさ…あとはこっちに任せときな。』
確かにそうだ。食べもしない肉どころか、普段食べる肉にも然して思い馳せたことなど無い。形骸化した儀式のように『いただきます』と唱えるくらいで…
『そんなことは無い。』
今度ははっきりと、真っ直ぐにアンギュラの目を見てプリマは言い放った。
『この町の腹を満たすミズルの賜物に、感謝をしない筈など無い。この町は私の故郷だから。私は、掛け替えの無いこの町が大好きだから。』
『……こ…きょー……?』
アンギュラはプリマの力強い純粋さにたじろぎ、故郷という言葉に小首を傾げた。
さてはアンギュラはこの町で生まれ育った人間なんだろうか。旅立つ先も帰る先も無いこの町では、故郷なんて言葉は何の役にも立たない筈だ。
『プッ!』
唐突に甲高い破裂音が響いて、怯んだアンギュラも思わず身体を震わせる。
『なっ…何の音…?』
確かめずとも何と無く判る。家程巨大な身体が音に合わせて震えて、毛がふわふわと微かに煌めく。その中から少しだけ、燻んだ薄桃色が覗いてる。
『プッ…プピピーッ!』
言葉を持たない獣が、声を上げて何を表したいのかなんて人間には測りようが無い。だから状況を補完して勝手に都合良く解釈するしか無いんだ。
俺の見立てはこうだ。『強がって振り絞った別れの挨拶』か、『辞世の雄叫び』。
…どちらにせよこの声は恐らく、こいつがこの世で上げる最後の『言葉』。
『……ピヨピヨ、こんな声だったんだなぁ。』
呆気に取られたクリエが染み染みと呟く頃には、薄桃色の嘴も隠れてミタモはまた毛玉に戻ってた。
プリマもそれを確認したのか、くるっと踵を返し、合図のように俺に近寄る。
『ミタモをよろしく、さよならアンギュラ。』
プリマの表情は微かが過ぎて測れない。でもきっと悪気は無くて、何より優しい筈だ。それなのに…
『よろしく…って…。』
それを向けられたアンギュラは明ら様に顔を歪めた。プリマは直ぐに身体を返して歩き始めたから、きっとその表情は見えてない。俺も慌ててプリマを追って歩き出す。
少しだけ…でも確実に様々なことが憂鬱で、やっと大きな仕事を終えられると言うのにちっとも心が晴れない。
アンギュラの気持ちが少しだけ読める。これから殺すだけの動物に名前を付けるだなんて、情が生まれそうになるから止めて欲しい。寝覚めが悪くなる。
それにポルクスの依頼だって忘れてない。どうしたもんか…取り敢えず、帰ったらチェスタとビスカに相談かな…?
何より…衝撃的だった。プリマの、この町への…『故郷』への想いを、初めて見せ付けられた。これは…こんなのは……
まるで、信仰と呼ぶに相応しい。
信仰は、心の支えだ。俺はプリマの心の支えで在るミズルをぶん殴って、プリマに取って掛け替えの無いこの町から飛び出そうと足掻くんだ。
自分の故郷へ帰る為に。
嗚呼、そうだ。俺には俺の掛け替えの無い故郷が、信仰がきっと在って…
つい最近チェスタに言われたことを思い出した。
―俺たちの平和を脅かすことをするなよ―
俺が脱出を目指すことが、この町の崩壊を引き起こす訳じゃないだろう?
だって、そうだろう。この町はプリマの故郷なんだ。
故郷とは、帰る為に在る場所。
この町を飛び出すことが出来るようになったとしても、この町はプリマが帰る為に在り続ける筈なんだから。
『仕事し辛くさせないでよね…。』
アンギュラは顔を伏せて吐き捨てるけど、階段を下り切る頃の俺達にはもう聞こえないし、聞かせないように呟いたんだろう。でも様子を何と無しに眺め続けてたクリエには聞こえてたみたいだ。
『……なんか、手伝うか?アンギュラ…』
少し心配そうに顔を覗こうとするクリエに、即座に背を向けてわざとらしく腕を回し始めたのは、何を気取られない為だったのか。
『いんや、問題ナシ。あたしは、プロなんだからさ…!』
でも声は、言葉は力強くて、その魂に偽りが無いことの証左となる。
皆が皆、皆の為に、手と手を取り合うこの町では…
誰もが何かのプロで、代わりは利かず、妥協なんか許されないんだ。
それが、プライド。
プリマもくたびれたのか、歩みが遅い。
折角だから、さっきまでゆっくり眺めることの出来無かった初めての景色を、きょろきょろと観察しながら戻ってゆく。そうして気付いたけど、プリマも同じように首を動かしながら歩いてる。
プリマは生まれながらにこの町に住む住人だが、この辺は馴染みが無いから目新しいんだ。だって確かに、低層階とは雰囲気が全然違う。
先ず、色が統一されてる。
下層階では建物は思い思いの色で塗られて素材も様々。山や地面には色取り取りの草木が生えてた。ガチャガチャな景色は階段を上る程に足掻きが…景観美への憧れが見えてきて、第20階層からは区画毎にデザインすることで統一感に依る美しさと、枠組みの中から各々の個性を主張する自由を両立させた。
大体、第26階層くらいからだろうか?意外と早めに第20階層みたいな華やかさは落ち着き出して、同じ色が増えてくる。煉瓦みたいな暗赤色。煉瓦そのもので作られた建造物も無くは無いけど、木で作られた小屋なんかも全部似た色で塗られてる。まるで、個性なんか考えることに飽きてしまったみたいだ……否、疲れたのか?
でも、不思議とこれはこれで悪くは無い。第30階層から上は金属素材も増えてきて…鉱物が採れる山が在るのは下層階なのに、何故上に来て金属が増えるんだろうか?分かんないけど…暗い赤と鈍い光沢は相性が良いように映る。
金属…そんな共通点で思い出して、自分の右腕を軽く持ち上げてみる。ニレイが本当に天才なのかどうかは分かんないが、確かに腕は良いんだろうな。
『なぁ…プリマ。下まで下りる前に、この辺の知らない食事処で飯でも食べて行かないか?弁当屋でも良いけど…。』
『…え?』
振り向いたプリマは、無表情な癖に大層不思議そうに見える。
『折角この腕の為にこんな上まで付いて来てくれたのに、何の故障も無くて…雑用ばっかりしてくれて、無駄足みたいになっちゃっただろ?せめて、此処まで上ったからこそ出来るような特別なことをして帰らないか…?』
プリマは黙して只、その丸まった瞳をこちらに向けるのみだ。そんなに変なことを言ったか…?俺なりに、此処まで支えてくれた礼のつもりで言ってみたんだけど…。
『…ルクス。何が無駄なんだ?私はちゃんと、発明屋に託された仕事を果たすことが出来たのに…。』
『はっ…?』
二人して、ぽかんと口を開けて見詰め合って…馬鹿みたいだ。
『いつの間に…ニレイに、何を頼まれてたんだ?』
『え…だって、この仕様書に…』
プリマは道具箱から折り畳んだ3枚の紙を取り出して、一番下…3枚目の紙の、最下部に太く力強く書かれた記号を指して見せ付けた。
『……ん?もしかして、ルクス…文字が読めない…?』
何と無く、恥ずかしい。文字が読めないって…出来ないことが有るって、決して良いことじゃないとは思うけど…どのくらい普通じゃないのかは分かんない。この町の暮らしでは、皆あんまり使ってないような気もするけど…看板とかは、絵で描いてあったりして。
『ごめん…そうだよな、記憶が……まぁ、私も全部が読める訳では無いんだ。じいちゃんが教えてくれた簡単な言葉とか、修理に関する用語や記号だけ…それで、この一番太い文字は多分『私の寸分狂わぬ完璧な仕事を見届けて、私の天才ぶりを証明してくれ』…みたいなことが書いてあると思う。』
『……はぁあああ?』
何だそれ……偉そうだ!
『この下に小さく書いてある端書きみたいなのは、ちょっとよく分からなくて…何かを『よろしく』って、言ってるみたいなんだけど。』
言われて更に下に目を落とすと、太い文字の下に小さくぐちゃぐちゃっと何かが書いてある。虫が走るみたいに汚くて、ちゃんと伝える気が有るのかも定かではない。
『その腕…只骨を飛び出させるだけの目的に、結構丁寧な仕組みと貴重で丈夫な素材を使ってるみたいなんだ。私がおたまを直そうと触れた時のことも思い出して、仕様書を読めば、此処まで手掛けた発明屋が頭脳と感性を持った天才なんだと判る。だからこの仕様書を託された私は、書かれた通りにその腕が働き役に立つことを見届けるのが役目だと思った……勿論、万一故障を起こしたら仕様書の指示通りに修理するつもりも有ったけれど。』
俄かには理解し難いが…どうやらプリマは使命感に衝き動かされた訳でも他の誰の為でも無く、只ニレイからの依頼を遂行する為に此処まで苦労を共にしてくれたみたいだ……否、これって依頼って言えるのか?只の目立ちたがりが溢した自己顕示欲を、馬鹿正直に捉え過ぎてるだけの気も…!?
『ルクス。お前が良ければだけれど、第20階層に寄らないか?』
『はっ…?』
不可解過ぎて顔を歪めた俺に気を遣ったのか、プリマが止まった歩を再び進めながら話題を逸らす。
『イチゴ屋に行ったら…これと同じシュシュが、もう一つ置いて有ったりはしないだろうか?やっぱり、髪は耳の後ろで結ばないとどうにも落ち着かないんだ。小さな頃から、ずっとああしてきたから…。』
プリマは頭の後ろで髪を纏める花のように淡い毛糸のシュシュを指して、また少し照れ臭そうだ。
…確かにそうだな。銀のような金のような不思議な色の髪を真横で二つに結んで、表情が無いから何処と無く目付きが生意気に見えるし、口調が堅苦しいから年相応の可愛気も表れないけど…
でも、俺がこの町で出会った奴の中で、誰よりも純粋な人間。
そんなプリマじゃないと、俺も落ち着かない。
もう空は大分朱くて、大仕事で掻いた汗はすっかり夕風に冷やされてる。イチゴ屋に寄った後、第12階層で温かい夕飯を探すのも悪くないかもな…ダンダリアンも会いたがってるって、言ってたっけ。
今日も間も無く、一日と言う区切りが一つ終わる。何の進展も無い不毛な日々の一つにまた別れを告げる。
…進展が無い?正しいとは思うけど、しっくりは来ない。後退と呼ぶ方が相応しくはないか?
この町の為の仕事を終えて、肩の荷が降りて、プリマと二人で歩いて、見慣れたプリマに再会する為のシュシュを探して、ダンダリアンの酒場で見知った奴等に挨拶をして、温かい飯を食べて帰るとか…そんな小さくて近過ぎる未来を、悪くないとか思ったり
否、悪くないとか…
本当に、悪くないだけか?
受け入れてるだけなのか?まさか、お前…俺は
望んでる訳じゃないだろうな…!
…恐ろしいことなんて考えたくはない。嫌な考えなんて全部思い浮かびすらしなかった振りをして、馬鹿の振りをして生きて居たい。
でも、それって結局…
今日もこの町の温もりに溺れながら、眠りに堕ちるってことなんじゃないのか…?
ミタモ…プリマが名付けた、ミズルの賜物。
俺も、お前も、自分の居るべき場所に帰りたいんだって…不本意なんだって
俺は、そう思ってた筈なのに…。
『…ただいま、プリマ。』
蒼い扉が軋んで、ルクスの声がする。でも響かないで、頼り無い…きっととても疲れている。
『おかえり、ルクス…お疲れ様。』
見上げてみたルクスの表情は、何だかとても複雑で私には心中を推し量ることは難しい。只の疲労だけとは思えない。失意?焦燥?否…切ない…?まだ子供の私には、難しい感情はとても理解出来無い。
何やら昨日突然第1階層の広場に謎の巨大物体が現れて、上階に住む拾い屋と言う者に頼ろうとしているとは昨日のルクスと朝に会ったスーピーに軽く聞いたが…まさか当てが外れたのだろうか?しかし修理屋の私には、今のところ役に立てることは無さそうだ…。
『一応シブリーに聞いたら、プリマは来てないって言ってたから…弁当、2つ貰って来ちゃったんだけど…』
『あぁ、今日は私も仕事の区切りが付かなくて…ルクスが帰って来たら終わりにしようと思って居たんだ。弁当、ありがとう。』
机代わりの箱の上に散らかした工具を端に寄せて雑に片付ける。記録屋のピロが愛用するペンの修理だけ、手こずって終わらせられなかったな…明日、早起きしよう。
『遅くなって、ごめん…今夜は、魚を揚げた弁当だって。』
何を謝ることが有るのだろう。ルクスが遅いお陰で、私もゆっくりと仕事に打ち込むことが出来たのに。
申し訳無さそうにそっと弁当を差し出すルクスの左手が不思議で目が追うと…その美しさに、思わず呆けてしまったんだ。
淡くて、でも確かに彩り豊かで心が躍る。花みたいな紫、桃色に…少しだけ、黄と緑が差し込まれている。毛糸で編まれているのだろうか…?ひらひらとうねって、まるで人形のドレスの裾みたいだ。
でも、違和感が滑稽だ。ルクスは記憶が無い所為も有るだろうが、この年頃の男の中ではかなり飾り気が無い奴だと思う。そんなルクスが、何故選りにも選ってこんなにも女が好みそうな淡く華やかな装飾を唐突に…?
『………あ。』
私の目線を追ったのか、ルクスの目も自分の左手首に辿り着いて微かに声を上げる。まるで着けていることを忘れてたみたいだ。
『えっと…第20階層で、イチゴ屋って奴から貰ったんだ。この町じゃ儲けるもんも無い癖に、拾い屋みたいに色んな階層で有名になりたいとか言って、これを女子に見せびらかして宣伝してくれって頼まれたんだよ!えっと、これはシュシュって言って…腕に嵌めても良いし、髪を結んでも良いって…』
決まり悪いのか目を泳がせながら説明を捲し立てるルクス。
イチゴ屋と言う仕事は初めて聞いたが、シュシュと言う物にも馴染みが無いな…髪を結ぶのは兎も角、腕に嵌めたら仕事がし辛そうだ。あんなに美しい毛糸が、塗料や木屑で汚れることが有ったりしたら嫌だ。
『だからこれ、プリマが貰ってくれ。』
『えっ!』
何故こんなに驚いてしまったのか我ながら分からない…きっと、自分がこんな美しい装飾を身に付けるだなんてとても想像出来なかったからだ。
私だってルクスのことを何も言えない。白いシャツと丈夫が取り柄のズボンを仕事で汚しながら洗って使い続けて、着飾るだなんて只の一度も頭に浮かんだことは無かった。
ルクスは『女に宣伝しろ』と依頼されたから、手近に居た私に渡そうとして居るだけだ…でも残念だけど、きっと私はルクスの期待には応えられない。
『あの…ルクス。きっと他の、飾るのが好きな女に渡した方が良い。修理屋の仕事は手元でばかり作業するし、腕に嵌めたらきっと直ぐに汚してしまう…。』
ルクスは不思議そうだし、悪気は無いし、実際にルクスは悪いことは何もして居ない。
『…髪を結ぶのに使えば良いかなって、思ったんだけど…プリマだって、髪を縛ってるその紐に玉をぶら下げて、飾ってるじゃないか。』
……そうか、この玉は…飾る為に下げられたのか…?
私は自ら望んで髪を縛り始めた訳じゃ無い。
私はどうやら人よりも頭から生えて来る毛の量が多く、おまけに毛質は硬くて、伸ばしっ放しだとばさばさと見苦しい。
或る日じいちゃんが、目や口に毛が入るからと言って、その辺に有った紐で真横に二つ縛ってくれた。私は何だか面倒で『短く切れば良い』と言ったが、じいちゃんは『そんなのは詰まらないぞ』と言ったから…よく分からなかったけど、私は受け入れたんだ。
瞳程の大きさの透き通るガラス玉は、プラツェが下げたんだ。髪を縛って育て屋に行ったらプラツェに甚く好評で、『じいちゃんに結んで貰った』と説明したら…
『流石ドラグォ。無骨で、足りなくて、惜しい男。』
そう言って紐を解いて、何処かから持って来たガラス玉を通して、髪を結び直してくれた。『これで可愛くなったわ』って言って…私にはこの意味も、よく分からなかったんだけれども。
プラツェは、私のことを飾ってくれたんだ。じいちゃんは…髪を短くしたら飾ることが出来なくて詰まらないって、言いたかったのだろうか?
『……プリマ?』
反射的に思い出が鮮やかに再生されて、ルクスのことを置き去りにしてしまった。でも、これはルクスのお陰で呼び起こされた、大切な真実…。
『もし嫌だったら、プリマの言う通り別の奴を探すよ。スーピーは…髪は長いけど、結んでる訳じゃないよな…髪を結ってる女って、後は誰が居たっけ…?』
『ルクス、済まない。』
『…は?』
自分の勝手を心より申し訳無いと思い口を突いて出てしまった言葉だが、唐突で言葉足らずで、ルクスの理解は追い付いていないかも知れない。
『やっぱり、そのシュシュは私にくれないか?必ず身に付けて、この辺りの女達に宣伝するから。』
『え…?あ……うん。じゃあ…はい…。』
ルクスは不思議そうだ。受け取れないと言っても寄越せと言っても同じ顔をされるなんて、何だか矛盾みたいで滑稽だ。
ルクスが差し出した左腕から、鮮やかなうねりを回収する。
毛糸はふわふわと柔らかい。取り敢えず机代わりの箱の隅に置いて、私は思案する。何せこのシュシュは一つしか無いものだから。
でもきっと皆は喜んでくれる筈だ。だって、飾らないことは詰まらないことで…つまりは、飾るということは楽しいこと。楽しければきっと、皆笑ってくれる筈。
それに…ルクスがされた依頼に、ルクスの『仕事』に、協力することが出来るならば。
今まで一度もしたことが無いこと。こんな小さな勇気くらい…出さない手は無いだろう……そう、思う。
『おはよう、ルクス。』
ピロのペンの故障は、インクの詰まりが原因だった。分解して丁寧に掃除をして、新しいインクの補充は自分でやって貰うように言って返却すれば、この仕事は完了だ。
ルクスはルクスで昨日上階で拾い屋に借りたと言う背負い籠を、朝一で返却しに行かなければならないらしい。なのに昨日の疲れが響いているのか空が明るくなっても起きて来ないから、声を掛けてやる。背負い籠なんて、その辺の農家の誰かに余りを分けて貰うか、藤編み屋のエウロに新しく作って貰うかでもすれば良いのに。
『ルクス…起きなくて良いのか?』
あんまり気持ち良さそうに寝ているから忍びないけど、埒が明かないから毛布を少し剥がして揺すってみる。不快そうに眉を寄せ、吐息を溢して、やっとその目が開かれる。
『……………は…?』
ゆっくりと、確実に、見開かれたと言うのに…ルクスから言葉は顕れない。
無理矢理起こして、怒ってしまったのだろうか?ルクスはそんなことで怒るような気の短い奴でも、起きて直ぐに怒ることが出来るような寝起きの良い奴でも無いと思うのだが…
もしかして……やっぱり、変なのかな…?
でも、二つに結んだ髪の片側だけが鮮やかで華やかな方が、バランスが悪くて余程滑稽じゃないか?
だったら…後ろで一つに結ぶしか無いじゃないか。
『………ん?あ………え…と……あ。あ、あぁ……あぁ。』
言葉を紡げないまま、声だけが段々と確かさを帯びてきて…ルクス、さては寝呆けて居て、昨日のことをようやく思い出したんだな。
『……おはよう……プリマ…。』
思い出したのだろう筈なのに、きょろきょろと目を丸くして、お前の所為で変わった私の新しい姿に一向に慣れてくれない。
でも、私だって慣れないんだ。両耳の後ろにスースーと風が通って、落ち着かない…!
『今日は早めに出掛けると言っていたから、もう弁当を貰って来ておいたんだ。食べるだろう?』
『うん…。』
やっぱり出来るならば、髪は二つに結びたいな…イチゴ屋とやらを訪ねれば、同じ物がもう一つ貰えたりはしないだろうか?左右揃いのシュシュで結べば、おかしくは無い筈…でも、第20階層まで上る機会なんて中々無いからな…。
『いただきます…。』
『私も、いただきます。』
ルクスがすっかり受け入れてくれたことに甘えて、飽きもせずに今朝もシブリー。今日もまた変わらない一日が始まる。大変なことが起こっても、私の髪型が変わっても…大切なことは変わらない。
太陽は昇って、私が居て、ルクスが居る。
其処には…ミズルの加護が在る。
…次の満月までは、あと半月くらい有るのに…もう、待ち遠しい。
飾る私を見たら、ミスケはびっくりしてしまうだろうか?でもきっと、喜んでくれる筈だ。
だって…楽しければきっと、皆が笑ってくれる筈だから。




