第15階層。(後)
『君がビスカか。ルクスから名前は聞いているよ。来てくれてありがとう。今日はよろしくな。』
『ああ、お前がゴードルンだな。こっちこそよろしく。力になれるように、頑張るよ。』
ビスカとゴードルンは気が合いそうだ。合いそうだから、話は弾まなそうだ。お互い真面だから、言いたいことが無さそうだ。
『よし…脚はとりあえず回復してはいるー……行くか、ビスカー。』
『あぁ…。』
今日は朝早くから、細長い家の前に集合して打ち合わせ。チェスタとビスカはこれから上階へ…第21階層よりも上へ行って医者を探す。ゴードルンは先ずはいつも通りに13階から19階の見回りをして、時間が余れば昨日のように上の階へ…まぁ、ゴードルンについては時間が少なくて余り期待は出来ないだろうが。
俺も昨日と同じで、診療所で医者ごっこだ。歩き回れないから、一番やきもきする立場だ。でも歩き回って成果が表れる期待は薄そうだし、どちらがマシかはどうとも言えないな…。
『よろしく二人とも。ルクスも、また後でな。』
ゴードルンは家の中に戻って行った。きっと胸にマミムの皮の鎧を着けてから、また出掛けるんだと思う。
俺も赤い階段に向かう。上り切った先に在る細やかな神々しさにももう慣れた。耳を引き裂くような軋みにも。
敷物を越えて小さな道具箱の隣に座る。早く来たから、患者が来るのはもう少し後だろうと思う。でもきっと、今日も医者を求める奴は来る。
明日が終わった後そいつらは、まだ見ぬそいつらはどうなるんだろうか。目を閉じながら昨日までのことをゆっくり思い出すと、そんなの知ったことかと思うけれども…
血に狼狽え、苦しみに呻き、事態に焦燥して他人に助けを乞うなんて愚かなんだ。自分のことは、自分にしか救うことが出来ないんだから。
でもそんなのは寂しくて貧しい考え方だって、頭の何処かに閉じ込められたもう一人の自分が訴えてるような気もする。昔誰かにそう教えて貰ったじゃないかって、悲しそうに見守られてるような気が。
だからせめて、言われた通りまではやるよ。文句を言われても、不毛でも、何かが間違ってても……お前に、言われた通りまでは。
膝に顔を埋めて、決意を確かめたら…まるでそれを待ってたかのように扉が鳴いて、溢れた眩しさに当てられて身体が疎に温められる。
………お前って誰だ?
分かんないけど、今は良いや。今は目の前の影が、俺の相手だ。
もう二度とお前からの慈愛を受けることの無いように…俺は顔を上げる。
決意を確かめたら、視界が晴れてきた。決意は道標だ。迷ったら、嫌になったら決意を新たにして、見えた道を進めば良いだけ。
『ぷぁっしゅん!』
第18階層で壊し屋を営む女、イリーガル。大人だけど、どちらかと言えば若いと思う。声を聞いて何と無くそう感じるってだけで、後は測りようが無い。ちっとも顔が見られないからだ。
『ぶぁ………ひゅっ!はぁあ〜…かゆっ!とにかく熱は無いんだひゅよ…!喉もヘーキで、ただただ鼻が……ぽぎゅっひょん!』
これって、くしゃみなのか?大胆で斬新で…まるで芸術みたいだ。くしゃみが止まらなくてどうしようも無いから、飛沫が飛ばないように両袖で顔を覆い、決してその表情は窺えない。
やって来るや否や豪快なくしゃみの乱打で話が全然進まないけど、話さなくても異常は伝わる。これじゃとても生活はままならない。
どうやら風邪ではないらしい。痒いと言うのも変だ。こんな症状には今まで出会ったことが無いんじゃないか?
『何か心当たりは無いのか?いつから始まったとか…。』
『んズズ…いつから…?そん……ぶぇっし!ぞんなこと言っても…いつの間にかでふぁぶっ!はぁあ………いや、まさかね……はっしゅっ!』
油断して上がり掛けた顔も、直ぐにビクリと震えてまた引っ込む。
『何か有るんだな…?』
『何かって…ひゅっ!程じゃ…ただ……ざいっきんっびゅっ!困ってるの!迷いマミムを拾って…一緒に、暮らじてるのよ……ひっし!』
迷いマミム?迷うって…迷子ってことか?牧場か何処かから逸れて来たのか?
『ほんの4日前のことで…っぺし!第18階そ…ぽっへい!にはマミム屋なんて…ぶひょ!…居ないし、どこから…来たのか…全然…っばしっ!わっかんなくて。これがまだ子供でどっでもかわ……っぱは!』
くしゃみが小刻みになってきてる。これはこれで聞き辛い。イリーガルは伏せた顔が沈み過ぎて最早蹲るような状態になってる。土下座しながら笑いを堪えてるみたいだ。
こんなの絶対、そのマミムが原因じゃないか。動物って汚そうだし…マミムは毛が長いから、それが空気中に舞ってるんじゃないか?そして鼻に入ったりとかして。
『そのマミム、どうするんだ?』
『ふぁ?どーするって、どこ……どっびょえぇいっ!…どこかテキトーなぼくっ……………牧場に預けちゃっても、良いんだけどね……ばっしゃああああいっ!……でも、ずごく可愛ぐって、もうちょっと一緒に居たいなとか…かかか………かひゃっはぁああ!』
大した能天気だ…こいつも今までの奴らと同じなんだ。同情し掛けた心が一気に失せてきた。どいつもこいつも自分の身体のことを理解もしてなけりゃ、何処か他人事のような呑気さも有る。その癖医者に対しては『どうにかしろ』と煩かったりして。
外の世界でもこんな感じなのか?俺は、医者に掛かったことが有ったのだろうか?覚えてないけど…有るのかも知れない。何だか医者って年寄りで、偉そうで、何を言っても大して取り合ってくれないような…そんなイメージが勝手に浮かんで来るんだ。
『そのマミムをさっさと牧場に渡しちまえよ。若しくは…家の中には上げないで、外で飼うんだ。同じ部屋に居るから毛が落ちたりして部屋が汚くなるんだ。』
『ぞんなっふぁっはっ!まだ子供なのよ!?外じゃ凍えちゃっ!しゅっしょっ!』
『…だったら、塵が鼻に入らないようにマスクをして暮らすとか。』
『えぇ……息苦じぞぉ…っぷし!』
『すいまぜーん。』
建て付けの悪い扉の隙間から渇いた声が滑り込めば、ゴン、ゴン、と、少しだけ鈍い音がゆっくりと響く。
助かった。丁度、この女は埒が明かないって思い始めてたところだ。
『開げまーす…』
『ぶぇっ?ちょっと待…ふぁっぎゅしょいしょいいっ!』
イリーガルは蹲ったまま真横に転がって、内開きの扉を既の所で回避した。入って来たのは、少しだけ髪の長い若い男。肩に掛かる程度の薄緑の髪。チェスタよりは年上な気がする。ルートリーまでは行かない。
『ありゃ…先客だ……げほっ。医者に、話を聞いて欲じーんだが…ごっほ!…ごほ。』
察したぞ。こいつは喉が悪いんだ。よく聞けば渇いたと言うよりはささくれた声で、口元を拳で隠しながら、がらがらと喉をあやしながら喋ってくる。
『ぢょっど…ズズズ!あだしが先に相談してて…ぶっきしゅっ!』
『じゃあ早ぐしてぐれ。俺も困ってんだよ。ん、ごほ…げっほ!』
何だか2人してずるずるがらがらと話して、くしゃみや咳で区切られて酷く耳障りだ。この男は風邪なのか?見たところ、怠そうな様子や熱そうな様子は無く、真っ直ぐ立ててるみたいだけど…。
『おい、お前はマミムとの暮らしを何とかしたら解決だよ。毛を吸わないように、別々に暮らすか防御をするしか無いと思うんだけど…』
『何だ…何の話だ…?げほ、よいしょっ。』
男は図々しくも俺の正面…イリーガルが退いた場所にそのまま腰を下ろし、勝手に話に入って来る。狭苦しくも雑音響く冷たい部屋。今日もこの仕事は不愉快だ。
『マミみゅひゅっしゅっ!マミムよっ!…マミムぢゃんど一緒に…っぺし!暮らしたいんだけど毛が舞うからららっしゃいぃいいー!ズズ…はぁあ。』
『なんでぇ…ごっほぉ!げひ。そんなら服を着せろよ。』
服…?マミムに、服?毛塗れで、十分過ぎる程暖かそうなマミムに?
『毛が舞うなら、げほっ!布を被せてフタしちまえよ。サイズ測って、仕立て屋に頼めば…っがっは!げほ…良いじゃねーが。けほ。』
不思議だ。動物に服だなんて、今までそんなこと一度も考えたこと無かったけど…妙に説得力が有るな。確かに服を着せて体の大部分を覆えば、無闇に毛が舞い飛ぶことは格段に減らせそうだ。
『ず…ずすすひゅっしゅんんっ!素敵っ!マミムに服を着せるなんて、とっても可愛ぐないっ!?あなた素晴らじいこどを言うっ……ぱひゃひゃひゃっ!なにも…何者…?』
興奮に思わず起き上がり男に迫るが、また直ぐに波が来てその場に蹲るイリーガル。飛沫は全て男の肩に掛かる。一瞬だけ顔の全容が覗いたが、やっぱり若そうで、この男と同じくらいの年のような気がする。
『汚な…っごほ!俺はヴァリアン。第12階層でにぐをさばいげっふぉごほごほっ!おぇ…っ!ごめ…!』
今度はヴァリアンにピークがやって来て、イリーガルとは反対側へ倒れ込む。何なんだこいつらは。馬鹿みたいで投げ出したくなる光景だけど、イリーガルの方の悩みは解決か?
『…ヴァリアン、お前は喉が悪いから来たのか?熱は有るのか?』
二人の再起を待つのは面倒臭い。こうなれば纏めて片付けてやろう。風邪…しかも喉なら、一度診たしもう一度何とか出来そうだ。
『おごっ、ごほ……あ、あー…違うんだ、風邪じゃっ…ふぉ、なぐで………歌い過ぎだ。げふっ。』
『……はぁあ?』
ヴァリアンはゆっくりとまた起き上がる。何故か得意気にも見える。
掠れ声で…聞き間違えたか?歌って言ったか?ふざけてるのか……?
『俺ぁ、今はごんなだが歌うのが好ぎで…結構上手いんだぜぇっほ!昨日は珍しぐ早めに仕事が終わって、だから仕事場を掃除しながら歌ってだら…ごほ、こほっ!気分入ってぎぢゃってなぁ…喉が痛ぐで、違和感じか無いんだよ!げふっ!』
やっぱり『歌』って言ってるじゃないか!
歌で喉を酷使して駄目にしたってことか?イリーガル以上に下らな過ぎる。そんなの、今日一日大人しくしてやり過ごす以外どうしようも無い。と言うかこんなことになる前に、こんなことになるって想像くらい付くだろ!
『あの、肉屋のイストリが世話になったって聞いたがらざっはっほ!あー…些細なことでも、相談に乗ってぐれるって。』
最悪だ…イストリは無責任で、ヴァリアンは投げ遣りだ。つまり二人共後先や迷惑を考えない似た者同士だ。しかも抜け毛だの歌い過ぎだのでわざわざ階段を上って来て、こいつらは暇なのか?
『はぁあああ…。』
『…っぐしゅっ!』
『ごほ…げほ!』
嘆息と、くしゃみと、咳が重なって…その瞬間だけ、この部屋に言葉を介する人間は居なくなった。
やっぱりおかしい。医者と言う職業は常日頃から、こんな馬鹿らしい問題にばかり向き合わなくちゃならない物なのか?ロラサンも毎日こんな風に過ごしてたのか?こんな仕事、本当に必要なのか…?
俺には医者に掛かった記憶が無いから分かんない。医療とは何なのか。何の為に必要なのか。でも、うんざりして来たからそう感じるのか?明日が過ぎれば終わりを迎えるからそう感じるのか?
まるで、引き留められてるみたいだ。
どんなに些細な話でも、意味の無い話でも、途切れさせさえしなければ終わりは訪れないのだから。
次の医者が見つかるまでは行かないでくれって、この階層に引き留められてるみたいな、そんな感覚が今、急に降りて来て…
じゃあ自分たちで何とかしようって気も起きないこいつらが、そんな回りくどいことをする筈が無いって分かってるんだけど。
『なぁ…あーあー。喉を良ぐするにはどうしたら良い?お医者さんよ。』
困ってるのは自分の癖に、ヴァリアンは何処か呑気な顔をしてる。呆れるを通り越して、最早憎めない。不思議だ。
『……蜂蜜でも食ってろ。』
『……げほっ。はちみつ?』
嗚呼…そうだ、この町に蜂は居ないんだ。蜂。それから、マミム以外の動物。不便な町だ。
虫。動物。医者。危機感。時の流れ。被害者の記憶…この町に足りない物の基準とは。
ミズルが俺達から奪い去ってゆく物の基準とは、何だ?
そうだ…食べ物は、そのまま置いたら腐ってゆくんだ。死体と同じなんだ。肉だって、植物だって、元は生き物だったんだから。
改めて恐ろしい。弁当だって腐るんだ。昨日のドルードの弁当が、一日経つ間に腐らなくて本当に良かった。グレコの所為で悪心を生じて後回しにした筈なのに、結局それを食べて食中毒を起こすだなんて笑えない。
と言うことに、先程来た患者…第14階層の茶葉屋、メイパティオが気付かせてくれた。大食いで弁当を食べることが何よりの趣味だけど、時間が無くて食べ切れなかった分を一晩置いて朝に食べたら腹を壊したって。
そう、腐った食べ物だって異物の一種だ。取り込んでしまったら制圧するか追い出すか。追い出す方法は、上から出すか下から出すかだ。
『にいさん、どうだい?結構いいカンジぃっかぁ?』
セウスが終わったから、恐怖を振り返って無事を実感する行為もお終いだ。今日はまたフリウスが、不注意で転んで額の真ん中を擦り剥いた……子供だからって、3日も連続でそんなヘマをする物か?こいつらも…俺のことを引き留めてはないか?
『…あぁ、良い感じだ。出来るじゃないか。』
だから今日は、自分たちでやらせてみた。そんなに転んでばかりならば、自分で包帯くらい巻けるようになれと。
『次からは家で、自分でやれよ。』
『えぇっ?うぅーっん…。』
何が引っ掛かるのか、セウスは少し拗ねてる。フリウスは傷口に当てたガーゼを無駄に気にして弄ってる。
『そっかぁー…にいさんと喋るのぉ、結構好きになってきてたんだけどっなぁ…。』
セウスが勿体無さそうに口を尖らせると、フリウスは屈託無さそうに満面の笑顔を発現する。
『あぁ!俺も好きだぞぉ!』
こいつらまでふざけるのか。こいつらまで、医者に『話しに』来てるって言うのか?
『……もう、大丈夫なら帰れよな。』
何かを誤魔化したくて、何かを言ってやりたかったけど、面倒でうんざりして諦めた。こいつらに…この町の住人達には、もう何を言っても無駄なような気がして。
『はぁーっい。行くぞぉ、フリウス。』
『うん、セウス…』
黒髪兄弟が立ち上がろうとした空気に、何と無くはっとした。きっともうそんな時間で、昨日の景色が頭に浮かんだんだ。
『ルクス、どうだ……むっ!これは…セウスとフリウス!すまない!』
ゴードルンだ。その向こうの空は、もう薄朱い。
ゴードルンが開けた扉はフリウスの背中にごちんとゆっくり当たって、立ち掛けたフリウスは僅かに体勢を崩すけど、直ぐに振り返る。
この町は時計のようで、この町は絵本のようだ。この兄弟は毎日同じ時間に探検に出掛けて転んで帰り際に此処に寄って、ゴードルンは毎日同じ時間に見回りに出掛けて同じルートを回って終わったら此処に寄る。皆が同じ時間に起きて寝る、決まった時間割の中で…何度見ても、磔の景色。今日は偶々、そんな二つの景色が重なっただけ…。
『また来ていたのだな…ルクスが居て、良かったな。さあ、きっとピピが待っているぞ。気を付けて帰れよ。』
『うん!じゃっ、ありがっとぉにいさん〜。』
『またねぇ〜!』
ゴードルンは外側へ身を引き、二人の兄弟は朱い日差しの中にひょいひょいと飛び出し、そのまま駆けて行った。
『またね』と来たもんだ。俺の医者ごっこは明日で終わりなのに…明日、今度はまたセウスがすっ転ぶ気か?
『お疲れ、ルクス。今日もありがとう…チェスタとビスカはまだ、か。』
ゴードルンは温かな微笑で兄弟を見送った後、扉を閉めて端に寄り腰を下ろした。チェスタとビスカはどうしてるんだろうか。2人が帰るのを待って、成果を共有しなくちゃならない。きっと皆して、大した物は持ち寄れないんだろうけど。
『ルクスは今日は……いや。この4日間、どうだった?』
狭くて冷たい部屋で二人きりは重たくて、だからって記憶も失くした俺達に話題なんてこれくらいしか無かった。でも…
『2人を待たなくて良いのか?』
『ああ…まあ、そうだな。すまない。これはただの世間話だ。医者を必要とする者の数が増えていないかと、少し心掛かりでな。』
そもそもゴードルンがそう言ってたんだ。ロラサンの死を境に、医者の手を借りたい者が少しずつ増えていってるんじゃないかって。元々がどれ程の頻度でやって来てたのか知らないが、片手で数えられる程度の人数の推移なんて、誤差の範囲じゃないか。どちらにしろ医者が見つからなけりゃ解決にはならないし、考えても仕方が無い話だ……と思いつつ、俺もかなり気になり始めてる。
『…今日は、くしゃみと声枯れ、食中毒。それから目が腫れた奴と、さっきの兄弟だけだ。昨日はもっと多かった。一昨日はそれより少し少なくて、今日と同じくらいか…。』
『そうか…そんなに…!』
ゴードルンは急に深刻そうに目を見張った。俺は基準を知らない。やっぱりこれって、異常事態なのか?
『ロラサンが生きて仕事をしていた頃は…一日に1人、来るか来ないかだったんだ。』
『は?』
そんなに少なかったのか?それが居なくなってまた新しい医者が来た途端に、毎日5人も6人も来るようになるもんなのか…?しかもあんな、どうでも良い用事ばかりで。
『だからロラサンは昔は、自ら町を歩き住民の声を聞き、様子が変わった者が居ないか確かめて回っていたのだ。病の芽に目を光らせ、育つ前に摘もうと…丁度ロラサンが年を取り、歩くのが億劫になった頃にこの俺が警備員を初めてな…それからは俺が見回りのついでに、不安な者をロラサンの元へ案内したりしていたよ。』
自分から、患者を探しに…ってことか?何故わざわざそんな、面倒に首を突っ込むようなことを?
見えたぞ。ロラサンがそうやって自ら進んで面倒事を探し回るようなことをしてたから、この辺の階層の奴らは医者に甘えてどうでも良いことまで差し当たり相談しに来るようになったんじゃないのか?否…それなら何故、ロラサンが死んだ途端に俺にばっかり言いに来るんだ?…辻褄は合わないが、きっとロラサンは悪い。ロラサンがそんな合点が行かないことをするから、ユトピにあんなことを言われたんだ。
『……ルクスは。』
『は…?』
声を掛けられて気付けば、ゴードルンは何処か気まずそうな…否、後ろめたそうか?そんな目を扉に透かして、誤魔化してる。そんな態度をされたら、打ち明けられる前から気分は下がる。
『ルクスは…このまま医者になる気は無いよなあ…?』
『は?』
ほら見たことか。碌な話じゃ無いと思った。
あれはまだ昨日のことか…俺が医者になれば全てが収まるのかって思ったけど、そう言えばあれもゴードルンに揶揄われたから至った考えだったんだ。やっぱり冗談じゃなかったんだな。
『この4日間、随分立派に医者を務めてくれていたみたいだからな…素人でも、手探りでも、医者さえ居れば…人々は笑顔で暮らせるはずなんだよ。』
あたかも平和の味方のような切ない顔をして、偉く勝手なことを言ってくれる。
俺の笑顔はどうなるんだよ。少なくとも俺の笑顔は、この町に落ち着いてこの町の人々の笑顔を守ることなんかじゃない。俺は、必ずこの町を脱出するんだ。
『……お前まで、引き留めるのかよ。』
『え…?』
思わず吐き捨ててゴードルンがきょとんと間抜けな顔になったところで、扉がゆっくりと開く。さっきよりも濃い朱が、眩しい光が、響く不快な金属音に招き入れられる。
『ルクスー…お、ゴードルンも居たか。待たせたなー…。』
チェスタは酷くくたびれてる。昨日顔を出さなくとも見せ付けた嫌味な態度も鳴りを潜める程に。
『はぁー…流石に一日歩き回って疲れたな。俺も座れる場所、有るか…?』
ビスカも大きな溜息を連れて来る。チェスタは何故か一度退室し、ビスカをゴードルンとは反対の端へ押し込めてから、自分が真ん中に収まって扉を閉めた。間違い無くこの人数が、この部屋の限界許容量だ。
『お疲れ、チェスタ、ビスカ。一日本当にありがとう。まずはぜひ休憩してくれ。』
ゴードルンは、チェスタとビスカにも何だか申し訳無さそうに微笑み掛けた。悪いと思うなら頼まなきゃ良いのにって思いながら、昔にも何処かでこんな遣る瀬無さを抱いたことが有った気がする。
『いやー…大丈夫だ。帰りが遅くなる方が明日に響くしなー。簡潔に話そう。俺たちは今日、第32階層まで上ってきたんだ。』
『さ……32階!?』
ゴードルンは大層驚いて…申し訳無さ過ぎて、青褪めてるようにも見える。此処から17もの階段を上った先…上るだけならば手近な階段を探して直ぐだろうけど、くまなく歩いて聞き込みをしながらだったなら、きっとかなり骨が折れる。それにきっと、上の階層はもっと人が多いんじゃないだろうか?
『まー…階層の全てを余さず周り切れた訳ではなく、行けるところまで足を運んでみただけだがー…はっきり言って、成果は無かった。驚いたよー…。』
チェスタは冷静に淡々と報告しながら、目線は床を眼差し少し俯いてる。ビスカは折った片膝に肘を付いて頭を抱えてる。一日歩いて何も意味無く終わったのなら、どんなに最終的に自分に害の無い問題だとしてもやさぐれたくなる気持ちは分かる。
『俺、実は21階層までしかちゃんと歩いたことが無かったんだ。チェスタも独り立ちする前に24階層でこの服を手に入れたきりだって。だからびっくりした。30階層以上はかなり垢抜けて栄えてて…自由だし、21、2階層あたりも今はすごい人が多いんだな。低層階とはまるで空気が違う…。』
上の階程都会だって、今までの話で何と無く察してたけど…どうやら俺の想像以上みたいだ。垢抜けるってどういうことだ?人が多いって、第12階層よりも多いのか?眩暈がしそうだ。自由って、ミズルに囚われたこの町で一体何が自由なんだ?
行ってみたい。脱出の手掛かりを探りたいだけじゃない。単純に興味が有る。刺激が欲しい。何でも良いから俺の脳を刺激して欲しい。どんなに小さなことでも、取り戻す切っ掛けの為に。
『そうか…それは苦労を掛けたな。しかし、駄目か…そうか。無駄骨を折らせてすまない。』
感謝と、謝罪。ゴードルンはさっき俺の笑顔を無視した以外は、ずっと気を遣ってばっかりだ。
『俺が受けると決めた仕事さ。気にしないでくれー。しかし、泣いても笑っても明日までだー…キリが無いから。』
明日…どうするんだ?第32階層よりも上へ医者探しを続けるのか?
チェスタはふぅ、と息を吐き勿体振ってから、ゆっくりと顔を上げた。
『もう医者を探すのはやめだ。明日は、上へは上らない。』
…諦めるのか?じゃあ明日はどうするんだ?この仕事はこれで引き上げるのか?それとも俺だけが明日もこの小さな診療所へ上って来て、只一日医療と呼べない医療を延命させて終わるのか?
俺以外の2人は余り不思議そうにしてない。ビスカはきっと、此処へ着く前に歩きながらチェスタに既に話を聞いてるんだと思う。ゴードルンはきっともう、諦念に辿り着いてる。
『明日ー、ビスカはまず低層階でいつもの何でも屋の仕事を片付けて…終わり次第こちらに向かって貰おうー。俺はルクスと共にこの診療所まで赴き…人々が、医者が居なくとも凌げるように手助けしたいと思っているー。』
確かにそうだ。見付からない物を当て所無く探し続けたって不毛で、無くてもどうにか済むように諦める方が余程前向きだ。それに…セウスだって、包帯を巻けるようになったんだ。
『医者が居なければー、自分のことは自分でなんとかするしか道はない。明日はこの近辺の人々にその指導をして回る。怪我の処置、病の判断基準、医者の世話にならないための日常生活の心構えー…実は今日、聞き込みついでに第22階層の医師ニケアの妻イトとー、第28階層の医師プラームスにいくつかの知恵を教わって来たんだ。それを人々に授けー、そうして凌ぎ新たな医者の漂着を待ちながら…それでも間に合わなければニケアや第11階層のモネミの助けを借りー……借りられなければ、それはそれまでだ。』
チェスタの考えに完全に納得させられるということは、何処か癪だ。否、納得した訳では無く、元々俺の中にこの数日間燻ってた擬かしさを、チェスタが纏めて形にしてくれただけなんだ。
本当はそれでも、どうにかなる筈だ。
『ニケアにはもうー、有事の際は駆け付けて貰えるよう話はしてある。モネミにもー、この帰りにでも話を付けておこう。俺たちが出来ることは此処までだと思う…どうだろうかー、ゴードルン。』
チェスタの笑顔は真にゴードルンとこの階層のことを憐れみ優しいし、だからこそなのか圧が有る。その笑顔に笑顔を返すゴードルンもそれを分かって受け入れてる。俺はそれを見て何と無く『大人』という表現が浮かんできて……気に食わない。前を向く為に、諦める筈なのに。
『…ああ、素晴らしい。それが良いだろう。そこまで考えてくれて、本当に感謝してもし切れない。明日は俺も共に回ろう。顔が効く俺が話した方が、皆も少しは真面目に聞いてくれるかも知れない。』
『…よし。決まりだー!』
ゴードルンの返事を受けて、チェスタは一瞬はっきりと明るく笑った後、ふっと息を吐き勢いを付けて立ち上がった。もう大分暗くなってきてる。今日は早く帰った方が良い。明日で漸く、この仕事も終わりを迎えるのだから。
暗くなりゆく空の向こうに去ろうとする朱が羨ましい。あんなに遠く、小さく、美しくて…だから、酷く自由に見える。
赤い階段を皆で降りて、細長い家の前でゴードルンと別れ、第11階層でモネミの元に寄ると言うチェスタとビスカとも別れた。星の光も中々届かない暗い住宅街では、それでも町中が夕飯を食べて風呂に入って床に就くまでは、孤独になることは少ない。
今回の仕事は後味悪く終わることになりそうだ。いつか出て行く俺には関係無いし、それでもどうせ、そんなに大変なことにはならなそうな気がする。どうやら俺の危機感も呑気な住民達に奪い去られてしまったみたいだ。
何でも屋の仕事を始めて、少し慣れてきた頃にあの大運搬が有って、ダンダリアンと出会ってレストラにジュースを貰って、今度はゴードルンと出会って…また余計なことさえ無ければ、漸く落ち着いた日々を手に入れられる筈だ。
この町の輪郭が、少しだけ見えてきた。自分のことも、断片的にだけど思い出すことが有って、何も進んでない訳じゃない。そろそろどうしたらこの町を抜け出すことが出来るのか…考えて動き出してみても良いのかも知れない。
人が多くて、栄えてて、自由な第20階層以上に行ってみるのも良いかもな。また俺に面倒を掛けられて苦労したチェスタに睨まれて、難しいかも知れないけど…都合の良い口実を考えてみよう。
先ずは今日も、シブリーの所へ寄って弁当を2つ貰って帰るんだ。この時間じゃあ、出来立ては到底望めやしないが…。
『ではプリマ、またルクスをいただくぞー。』
『あぁ…行ってらっしゃい、ルクス。』
『…うん。行ってくる。』
プリマに表情は殆ど浮かばない。でもきっと微かには浮かべてる。視覚には表れない柔らかさを、何処と無く感じるから。
チェスタはニヤニヤと俺の腕を引いて蒼い扉から引き摺り出した。この仕草は、十分わざとらしい。
昨日チェスタが言ってた通り、ビスカは後からやって来る。チェスタ達は昨夜モネミに会い話を付けることが出来たらしいから、もう今日はひたすら人々に健康意識を啓発して回るだけだ。
今日で一区切りと思うと、このかったるい階段を積み重ねた通勤経路も名残惜しい…気がする。チェスタは昨日までの疲れが抜け切ってないのか、ふぅふぅと小さく息をしながら顔を曇らせ歩いてる。横目にそう感じてたら…
『……ふぅ。ルクスー…。』
『…ん?』
こちらを向かないまま、前の方の少し下を向き歩きながら、チェスタが話し掛けてきた。
『お前は明晩プリマと共に行くからー、今夜は酒場には寄らないかな…。』
『は?』
ふっと息を吐きながら、チェスタがニヤリと口角を上げた気がした。
『この5日間は殆ど歩き通しで心が荒んだからなー……今日はビスカと飲むぞ。せっかくダンダリアンの許しも貰えたからなー。とは言え、どうせ瓶一本も飲み干せないだろうな…。』
丁度第7階層から第8階層への階段を上り切って、チェスタの足取りが僅かに軽くなる。まだ9本もの階段を越えなくてはならないと言うのに。
チェスタは何と無く吹っ切れたみたいな…って表現は、大袈裟だけど。でも、折角見付けた居心地の良い場所を心置き無く楽しむことに決めたみたいだ。
俺は何もしてない。ダンダリアンがやってる酒場で、ダンダリアンが来いって言ってるだけで、俺はそれを伝えただけだ。でも何だか気分が良い。ダンダリアンとチェスタたちは、俺で繋がったから。でも…
『…俺は、今日が終わってから決めるよ…お前らが行くなら、ダンダリアンに挨拶くらいはしとこうかな。』
3日前に行ったばかりだし、明日プリマと行くし、あの狭い酒場に俺ばっかり行くのも気が引けるから。まだ片手で数える程しか行ったこと無いけど、何と無く感じるんだ…それをして良いのは、ビエッタだけなんじゃないかって。
『そうかー。では、とりあえず今日の勤めを果たしてからだなー。』
前向きなことを言ってみたところで、薄暗いこの街並みの中ではどうにも締まりが悪い。
『…なぁ。』
『んー?』
直ぐに第8階層から第9階層への階段が現れる。町の外周に在る階段は開けて明るいけど、町の真ん中に在る階段は通路が密集して薄暗い。此処も、そんな場所だ。
『明日は、早く帰っても良いってことか?』
少し嫌味なつもりだった。2日前の突っ慳貪で門前払いな態度と、『ずるい』という2人の言葉が思い出されたから。でも今日のチェスタの態度は飄々として…いつもより、僅かばかり爽やかだ。
『ふ…俺の、妹のように大切な小さな幼馴染とー、あとは……自ら面倒事を持ってきたくせに文句ばかり言ってー、それでも俺の言う通りにやり切ってくれた、もう一人の相棒のためにー…仕方無いから明日までは厄介と我儘を許そう。』
兄の顔だ。チェスタが時折俺に、いつもプリマに見せる…ビスカには見せない、憎らしく得意気で頼もしく健気な面持ち。
今……『相棒』とか、言ったか?
『まー、元々俺とビスカはずっと2人でやってきていたんだ…お前くらいー、居なくなったところでな…。』
階段を上り切ったチェスタはまた少しだけ早足になり、鼻歌を歌い出した。勿論、俺はこの歌を知らない。音楽と言う形の無い物に何の意味が有ったのか、俺にはまだ思い出せない。そんなことは今はどうでも良いから後回しだし、いずれ必要なのかどうかも分かんない。
でも…知らない旋律を勝手に口ずさまれて、チェスタの歌は全然響いてなくて多分下手なのに、不思議と耳障りでは無かった。小気味良いリズムを刻まれて、少し歩き易くなった気すらする。
住宅街を抜けて、異質な区画で在る第12階層に入って、直ぐ桃色の門から上ってまた住宅街に入ると、最後の面倒臭い一日が始まる覚悟を決めなくちゃならない。
住民達にはまだ、今日が啓発活動の日だと知らせてはない。予感がしたんだ。悪い予感は、当たるから怖い。
否、必然だ。この町の景色は、磔なんだから。
ゴードルンはマミムの胸当てを身に付け、髪もばっちり結んで既に家の前に立ってた。俺達の視界に細長い家が捉えられたが同時に、ゴードルンもこちらを見付け手を掲げる。
『おはよう、ルクス!チェスタ―』
そんなことはどうでも良かった。
『医者っち…医者っちーっ!!』
ゴードルンが上げた声で気付いたのか、あちらも偶々やって来た所だったのかは分かんない。
でも、赤い階段の上から精一杯叫ぶ声が聞こえた。
『……ユトピ?』
『ユトピ?』
チェスタが聞き覚えの無い名を飲み込めないまま、俺に釣られて上を向く。
階段の上で人の体が宙に浮いて、白髪が揺れてる。そのまま、中段に打って、転がって…
『あ、危ない…!』
一番近くに居たゴードルンが反射的に駆け出した。俺とチェスタも直ぐに走り出すけど、間に合う筈が無い。
ユトピはあっと言う間に最下段まで転がって来た。見えなかったけど…確かユトピが声を上げた直後に、何とも形容し難い酷い音が響いてた。多分、駆け下りようとして滑って投げ出されたんだ。
『大丈夫か、ユトピ!』
ゴードルンとユトピは、当然のように見知ってるみたいだ。高くも無いが低いとも言い切れない階段の下…意外にも、ユトピは直ぐに自分で手を突いて起き上がる。
『あー…だっ、大丈夫だゴードルン……っそれより…医者っち…!』
青天の霹靂に駆け付けるしか無かったけど…改めてユトピに『医者』と呼ばれてハッとした。こいつが、俺に一体何の用なんだよ…?
『今すぐ来てくれっ!婆ちゃんを、助けてくれ…っ!』
何を言ってるんだ、こいつは…?
余程の危急なのか、ユトピはもう足を立てて立ちあがろうとして、ふらついてる。
『ブリックに、何か有ったのか…?』
ユトピの婆さんのこともゴードルンは知ってるみたいだ。
ユトピはゴードルンに尋ねられた癖に…俺に縋り付いて、そのままの勢いで立ち上がった。
『婆ちゃんが急に苦しんで…死にそうなんだっ!助けろ医者っちっ!』
この町に、もしものことなんてどうせ起こらないんだろう…?
そうだ。これは滅多に無いような仮定の話なんかじゃない。
有り触れて、常に其処に孕まれる、当たり前の死だ。
俺は知ってる。永遠なんか無い。物は必ず壊れて無くなる。
それに抗うなんてことは、救済でも何でも無いんだ。
人間だって獣の一種で、必死になれば意外とどうとでも動けるみたいだ。あんなに派手に階段を転がったユトピなのに、もう死ぬしか無い婆さんの為に必死で走りながら喋ってる。
『本当についさっきなんだ…っ!飯食った少し後から、婆ちゃんが咳き込み出してっ…いつもはそのうち収まるけど、どんどんどんどん酷くなってきて…それからどんどんぐったりしてきて、苦しそうなんだよっ…!頼むっ、助けてくれ…!』
こうしてユトピが来て帰るまでの間に、もう死んでるかも知れない。第11階層のモネミを呼びに行ったゴードルンが間に合うことなんて、有り得ないだろう。ユトピだって、何でそう思えないんだ?そんな状態から時を戻して、死を回避するなんて…
『婆ちゃんを、楽に…っ、安らかに死なせてやってくれっ!』
………死を、楽に?
安らかに死なせる…?
『其処だっ!其処が俺たちの、家だっ…!』
俺達の…と言っても、どうかと言われたら小さな家が5つ引っ付いて一つの塊になっただけのような物に見える。真ん中の家だけ比較的広そうで、扉は開け放たれ、女が叫び掛ける悲痛な声が聞こえてきた。
『お婆ちゃんっ!お婆ちゃん…聞こえる?お婆ちゃん!ハニャはここに居るわ…安心して、気をしっかり…!』
ユトピよりももっと若そうな、しっかりと気立てが良さそうな女。俺やビスカと同じくらいの年かも知れない。
『ハニャ、退けっ…医者っちだ!ほら医者っちっ!頼む、診てくれっ…苦しそうだ…!』
未だにどうしたら良いのか理解し兼ねるのに、ハニャと言う女が退くから言われるままに婆さんの枕元に収まる。
婆さんは確かにぐったりして、汗ばんでも居る。でも確かに生きては居て、呼吸は浅いがゼェゼェと何か詰まったような音で…偶に激しく咳き込み、ゴボッと何かが溢れそうな音と勢いが轟く。
恐ろしい。嘔吐に少し似てる。
『医者っち…婆ちゃんを、笑顔で死なせてやってくれ…!笑顔にしてくれるだけで良いんだっ!』
笑顔で死なせる…
ユトピは、婆さんが死んでも良いのか?
笑顔で死ぬ奴なんて…この世界中、外の世界も含めた全世界を探しても、存在し得るのか?
医者の力が有れば、笑顔で死ぬことが出来るのか…?
『は……はぁあーっ…ルクス…!』
婆さん程では無いが息を切らせて酷く苦しそうな声がして、振り返る。一緒に全力疾走してた筈なのにいつの間にか遅れ去ったチェスタが、漸く此処まで辿り着いた。
『ぞ……その婦人が…ユトピの、婆さん……っ、はぁ、はぁあ…!』
あと一歩で室内と言うところで力尽き、変な服の裾をぐしゃぐしゃにしてへたり込む。しかしながらどうにか顔を上げ俺達を見回し、何でも屋の頭脳担当は一瞬で状況も成すべきことも理解出来たんだろう。
『おい…話が進まねーから、お前はまずそっちで休めっ…』
『ルクスっ!』
チェスタはユトピの為に、ユトピを無視した。一刻を争う中で、苦しむ婆さんを前に誰よりも取り乱すユトピは無視しなければ、ユトピの望みには近付けない。きっとそうだ。
『何よりも呼吸を楽にするんだ…きっとそれが良い!』
呼吸を楽に…?そんなの、どうしたら良い…風邪や声枯れみたいに木の蜜を飲ませたら良いのか?こんな今にも死にそうな婆さんに、そんなことさせられそうも無い。そもそもこいつ、飲めって言って話は通じるのか?3日前にはすっかりボケて真面に会話も通じなかった婆さんが……今、こっちの言葉は認識出来てるのか?
もし、出来てるなら……こんなの、笑える訳が無い。
『ユトピ!あと…ハニャ!』
ハニャは心配そうに、でも俺達の邪魔をしないようにぶつぶつと小さく婆さんに呼び掛けてる。ユトピは…ほんの少しだけ、目が潤んできてる。そんなに、婆さんのことを愛してるのか……信じられない。泣くほど愛しい、人間なんて。
『お前ら、笑えっ!』
『………はぁあっ…!?』
言葉とは裏目の賽子なのか諸刃の剣なのか、ユトピの顔はみるみる歪んだ。激しさは違うけど、3日前に俺には医者は出来ないと言い捨てた時の様子が思い起こされる。
でも俺にはあの時みたいな憤りは無い。今度こそ俺の方が正しいって自信が有るからだ。
『微笑むだけで良い…笑え!もっと優しく話せ…!婆さんに触れろ、抱き締めろ……お前ら、家族だろ……。』
あの感覚が、実在した記憶だとは思えてない。
でも、記憶じゃなかったとしても感覚は有って…
風邪を引いた時に、暖かいベッドの隣にずっと居てくれた誰かが……もしもこんなに悲しそうにしてたなら、きっと俺は到底笑顔にはなれない!
『家族って、そういうもんなんだろ…っ!』
『医者っち…。』
言いながら、やっぱり自信が無くなってきて、やっぱり俺には家族なんて一人も居なかったんじゃないかって思えてきて…ユトピの方を向けなくなって、婆さんを確かめて……気付いてきた。もしかして、寝かさない方が呼吸が楽だったりはしないか…?
余りにも頼り無い動きで気付けなかった。婆さんは、どうにか体を起こそうと身を捩って…
『君は正しい。』
正しいって、何のことだ?家族が、そういう物だっていうことか?それとも、俺には家族なんて居ないってことか?それとも、婆さんを起こした方が良いってことか?
て言うかこいつ、誰だよ?
聞き覚えの無い、硬くて感情の無い女の声。急激に違和感が襲って、反射のようにバッと振り向いたら…皆の目はもう、チェスタの背後に立つ女に釘付けだった。
白髪だ。でもユトピの白髪とはまた少し、光の当たり方が違う。この女の髪は透明感が無くて、絹のような質感に見える…。
『ルクス、チェスタ…驚くな!彼女は、医者のようなんだ!』
女の更に後ろから、ゴードルンの声がする。医者って言ったのか?信じられない。だって…
『は……医者?あなたが…?馬鹿な…!』
誰よりもチェスタが、目も口も大きく開けて唖然としてる。俺は一目も見たことが無いけど、チェスタは昨日、モネミにもニケアにもそれからプラームスにも会ってるんだ。チェスタが知らない医者は、この辺の奴等の誰もが知らない医者。そう。昨日まで、どんなに歩き倒して求めても見つからなかった…
そんな都合の良い話が、在って良いのか…?
『私は如何やら馬鹿では無い…其処迄通して貰っても良いかな?』
女が目線でチェスタ達に指示を出すもんから、欠片が嵌まるように目が合った。プリマやビエッタと似てるような似てないような、勿体振った喋り方。でもプリマとビエッタには悪いが、第一印象としては…この女の方が、話が通じそうな気がしてる。
『……あー……頼む。』
チェスタは立ち上がって、身を引いた女の脇を通って外に抜ける。そしたら今度は女が入室して、身を寄せ合い固唾を飲むユトピとハニャの前を頭を下げながら通り過ぎ、俺の隣まで辿り着いた。
其処まで長くない髪を顔の脇にたっぷり残しながら、後ろに編んで結んでる。髪とはそのまま結んで垂らすよりも、編んだ方がより美しいし邪魔じゃない。薄紫の首を覆う長いワンピースは布が硬そうで、狭い部屋では何と無く邪魔だ。
婆さんの咆哮のような咳は一旦治ったみたいだ。隙間風のような音がするから、辛うじて息も続いてるらしい。只、死にそうな程苦しいことに変わりは無い…否、死にそうだから苦しいだけなのか?
『君は正しい。少し上体を起こそう。』
優しい声で念を押して、ぽんぽん、と肩を叩いてくれて
そのまま、俺の肩をぐいと後ろに引いた。
『御兄さん、此方へ。御婆様の身体を少しだけ起こしてあげるんだ。其の方が呼吸は楽だ。毛布か布団は余って居ないだろうか?丸めて背中に当てて、起きた状態を維持してあげるんだ。』
冷静で、非常にてきぱきしてる。これから人が一人死ぬと言う所で淡々と的確に動ける様子こそが、こいつが医者だと証明してくれてる。
『わ…私、自分の部屋の布団を持って来るわ!』
『…有難う。出来れば何枚か、御願いする。』
ハニャがバタバタと外へ出て行った。ユトピは化かされたみたいに、女のことを信じられないまま動けない。
『し…死にそうなのに、起こしたら、辛くないか…?』
勢い任せで一方的だった第一印象が嘘のように、ユトピは今や不安そうだ。確かに、死ぬ時には横にしてやるのが優しさなんだと俺ですら思ってたし、叫ぶ程走る程必死で助けて欲しかったところに突然求めてた救世主が現れてくれたならば、逆にどうしたら良いのか途方に暮れるだろう。
『大丈夫。体を起こした方が胸が広がって、呼吸が楽になる。一度試させてくれ。少なくとも此の儘では、何かが良くなりはしない。』
女はユトピを宥め寄り添うように、穏やかな笑みを保ち続けた。
『只、此処から回復をさせる事は難しい。薬を飲む事ももう出来ない。手は冷たく青く、自ら姿勢を変える体力も残って居らず、此方の問い掛けに応える事も叶わないだろう。次に此の荒い呼吸が治まる時は、呼吸が止まる時だ。』
ずっと微笑んでるのに、連ねる事実はどうしようも無く残酷だ。また少し感覚が呼び起こされて来た。
そう。医者ってこんな感じだった。事実だけを突き付けてくれて、感情は介入しないしさせないから表情も込める必要が無くて、用意した一枚の仮面だけを浮かべてる。でもそれは間違い無く、目の前の課題を解決する為の手段だ。
こいつの仮面は、優しい。
『だから、御婆様を安心させるんだ。笑顔にしたいと願う側が笑顔にならなければ、相手を笑顔に導く事は出来ない。残す家族が笑顔で無ければ、安心して旅立つ事等到底出来ない。』
ユトピはゆっくりと、大きく息を呑んだ。
確かに俺の思った事は、間違ってなかったみたいだ。でも冷静さに欠けて、説得力を持たなかった。この女の包容力が、ユトピの不安と悲しみを捩じ伏せようとしてる。
『お待たせ!布団よ!これを使ってっ!』
ハニャが戻って来て、チェスタとゴードルンがバサバサと3つ布団を投げ込んで来た。医者女は即座にそれを拾い丸め出す。
『君もそっちを同じように丸めてくれ。御兄さん、御婆様の背中を持ち上げて。』
起こした背の後ろに丸めた布団を2つクッションのように挟んで、起きると寝るの間…椅子とベッドの間みたいな姿勢が出来上がった。もう1つ転がった布団も丸めて、膝の下に突っ込み、脚も少し曲げてやったら…婆さんの苦しそうだった眉が微かに下がって、少しはマシな様子になった気がしなくも無い。姿勢を変えてやってる間に振り返した咳も、再び落ち着いて来た。
『さぁ、御兄さん、此方へ。御婆様の手を取り、優しく語り掛けてあげるんだ。聞こえるか…心迄届くかは判らない。でも聞こえるならば、届けてあげた方が良いに決まってる。』
女はユトピを婆さんの枕元へ誘った。ユトピはすっかり落ち着いてた。覚悟を決めたような…そう、吹っ切れたような様子で。
『……婆ちゃん。手ぇ、冷てーな……ごめんな、心配掛けて。もう大丈夫だからな……心配しないでくれよー…俺は、ずっとついてるからな。』
穏やかな声で、後ろからじゃ顔は窺えないけど…きっと、笑顔の筈だ。
『…妹さんも、一緒に声を掛けてあげるんだ。』
女が後ろを振り向くから俺もハニャを見遣ると、いつの間にかもう1つ、ペラペラに萎びた布団を抱えて来てた。
『ねぇ、お婆ちゃんにこれを抱かせて!』
『此れは…?』
『ユトピっちゃんの布団よ!お婆ちゃんのことが大好きで、一番お世話をしてきたのはユトピっちゃんだわ…ユトピっちゃんの匂いを抱いたら、きっとお婆ちゃんも寂しくなくなる筈よ!』
ハニャは医者とユトピの間に割って入って、婆さんの腕を動かして萎びた布団を抱かせた。そうだな。ふかふかの布団に収まるだけじゃなくて、ふかふかした物を腕に収めて寝るっていうのも、心地良いのかも知れない。
『婆ちゃん…。』
『お婆ちゃん…。』
俺は3歩引いて、壁に背中を預けた。きっと俺はもう用済みで、2人だけに…否、3人だけにしてやった方が良い。でも医者女は動かず同じ場所に立ったまま、婆さんの顔をずっと見張ってる。
さっきまでの騒ぎが嘘のように凪いで、その癖ユトピとハニャは婆さんに話し掛け続けるから、婆さんの喉から鳴る儚い隙間風も、もう俺の耳には届かない……そろそろ、終わりなんだろう。良かった。
ユトピと、ハニャと、婆さんの願いは叶った筈だ。
俺は結局、本物の婆さんと会話をすることは無かった。だから婆さんが実際最期に何を願ったのかは思い浮かべようが無いけど…きっとこの対処と結果は、悪い物じゃ無かったんじゃないかって推測する。
2人の言葉に耳を傾けることは止めた。野暮だとか、そんな気を遣った訳じゃない。只俺には必要の無い時間だし、どうせ医者やチェスタとゴードルンも聞いてない筈だ。
楽に死ぬ事など、恐らく不可能だ。死とはどうせ痛く、苦しく、怖く在る。一度生まれ、芽吹き、燃え盛った筈の物が消える過程なんか、到底容易な話じゃない。
楽に死にたいなんて…安らかに旅立たせてやりたいなんて、条理を無視した我儘だ。
だから、こんな死に際に立ち会った事は多分無いんだ。命と言う物は奪うか、投げ出すか…大抵どちらかで、愛する家族に優しい言葉を投げられながら旅立つ奴なんて見たことは無い……そう、この光景はまるで旅立ちだ。惜しまれながら送り出される、故郷との決別。
故郷とは本来、このようにして巣立つべき場所なのに。
『………婆ちゃん。行ってらっしゃい。』
『おやすみ…お婆ちゃん……。』
一方で行って来いと言いながら、他方で休めと言うのも変な話だ。死とは果たして旅なんだろうか、眠りなんだろうか。当然ながらこの世界の何処を探しても死んだ事の有る者なんて見付からないんだから、知るべくも無い。
『……一旦、外で話さないかな?』
医者の女は無言で3人の側を離れ、邪魔にならないように俺に声を掛けてから外に抜けた。確かに…2人が立ち上がらない事には、次への進み様も無い。
開け放ったままだった扉を潜れば、薄雲が混じる空ですら酷く眩しく感じる。頗る不謹慎な表現だけど、まるで地中から生き返って来たような、そんな清々しい心地がした。
ゴードルンは目を閉じて、何かに思いを馳せてる風に見える。チェスタは虚空を見て、何を考えてるのか、考えてないのか測り兼ねる。女は、何も思ってないんじゃないだろうか。改めて…こいつは、何者だ?
『御婆さんは既に息を引き取ったと見える。2人が別れを告げ終わって整理が付いた所で私が正式に確認を取り…葬儀は、何の様な方式で行えば良いのかな?後は、墓の準備だな。2人の気持ちに区切りが付く迄、私達で準備を始めて仕舞わないか?』
葬儀って…何だ?墓は…何と無く分かる。一度生まれ芽吹き燃え盛った命が完全に消え去る事はとても難しくて…抜け殻と人々の記憶はしつこく残り続ける。だからどちらも、墓に仕舞うんだ。そうやって、思い出したくなったら墓へ会いに行って…ん?もう、思い出す必要の無い奴の抜け殻は…どう処理してたんだったか?
『それで……私の状況は、いつになったら誰が教えてくれる?』
女が訳の分かんない事を聞いてきて、チェスタははっと目を見開いた。俺にはまだ見当が付かなくて、こっちが先に教えて欲しい。
『あなたは……たった今、飛ばされて来たばかりだと言うのか!?』
飛ばされた…?被害者?
チェスタは信じられないからこそ驚いて声を荒らげたんだろうけど…俺は理解が行って、スッと全てが落ち着いた。外の世界で医者だった奴が、偶々たった今直ぐ側に飛ばされて、ゴードルンが見付けて連れて来た…振り返ってみたら、そうとしか考えられない展開だったな。
理解は出来るけど、有り得無くは無いんだろうけど、腑には落ちない。
『どうやらそうみたいなんだよ…モネミ家の方へ降りるのに近道になる階段が、第14階層の袋小路に有るんだがな……そのどん詰まりに、彼女がぼーっと立っていたんだ。俺にとってこの辺りの者は皆見知っているが、見たことの無い顔だったし、何をしているのかも分からず不審で…ピンと来たよ、被害者なのだと。この町に飛ばされ6年…自分が被害者の第一発見者になったのは、初めてだ。』
偶然じゃないみたいな、願っても無い偶然だ。偶然の反対って、何だっけか…運命、か?少し違う気もする。
そんなことが有って良いんだろうか?実際に起きてしまったのだから、ありがたく受け入れるしか無いのか?
やっぱり何かが納得行かないな。受け入れはするが、ありがたくは思いたくない。
『…ん?目覚めたのは、いつ頃なんだ?被害者は大体、倒れた状態で発見されると相場が決まっているが…。』
そう言えば俺も、気付いた時には寝かされてたな。チェスタとビスカが運んだって言ってた。
『そうなのか…?分からないんだ。頭の中が濃い靄に満たされた様で…気が付けばあの場所に立って居た。今もまだ地に足が付いて居ない感覚で、夢の中の様な心地だ。』
確かに女は、まるで何処かに置いて来たみたいに心は此処に在らずだ。どうにも声や目線に力が篭らなくて、ふわふわと宙に浮いてる。その現実味の無い浮遊感には何と無く共感出来るけど、全くが俺と同じと言う訳では無さそうだ。
『あなたは、その…どこまで覚えているんだ?名は?自らの身の上を…医者という職のことを覚えているなら、そこまで重症ではないのか…?』
こいつは医者を正に完璧にこなしてた。つまり自分が医者だということ、医者として日々どう過ごしてたのかを覚えてるってことで…俺が全て奪われた物を、少なくとも幾つかは携えたまま此処に来てる。それがミズルと言う名の理不尽…。
『名…名前か。そう言えば…何だったか……うん?ミル……キ…?ああ、確か、ミルハンデル・ミルキだ。御手数だけど、ミルハンデルと呼んでくれ。医者と言うのも、その人に医者かどうかと聞かれて…言われてみて、確かに私は医者だと思い出したから、そうだと答えたんだ。そうして此処に連れて来られた。』
ゴードルン…抜け目が無いな。聞いてみてこいつが医者だったところで、飛ばされて来たばかりの被害者にこんな切迫した仕事を押し付けようとするだなんて。
確かに…医者を呼びに行かなくちゃいけないのに被害者も放って置けなくて、じゃあこいつが医者ならこいつを連れて来れば良いだけで非常に話が早い。でもそんなの、余りにも自己都合で、手前勝手だ。俺がミルハンデルだったら激怒したい。
『医者の事も、全てを覚えてる訳じゃ無いんだよね…でも此処へ向かいつつ話を聞いてみたり、此処に来て様子を見て居る内に、どうしたら良いのかが自然と頭に浮かんできて……うーん、他の事は今一つはっきりしないな…ちゃんと考えれば、もう少し浮かぶかも知れないけどね。』
しかしミルハンデルは俺みたいに取り乱すことも無く、婆さんの最期を処理した時と同じように淡々と噛み砕く。何処から来たのか、この先どうなるのか…帰ることが出来るのかも分かんないのに、よく此処まで冷静に居られるな。記憶も判然としない癖に…やっぱりこいつは俺とは違う。どうして憤らずに居られるって言うんだ?
『なぁ……ありがとう。』
ぽつり、と言葉が落ちて来た。振り返ると…ユトピが奥から顔を出してる。
『…もう良いのかい?』
『ああ…大丈夫。それに、今すぐ礼を言いたくなったんだ。ありがとう、お医者ちゃん。医者っちも、ありがとうな。ゴードルンも、そこの兄さんも……みんな、ありがとう。』
ユトピの目は赤いのに、表情は晴れやかに映る。家族が死んだと言うのに不思議だが、これを旅立ちだと捉えるならばそんな物なのかも知れない。
『如何致しまして。でも、気にしないで……もう一度少しだけ、御婆様に会わせて貰えないかな?本当に此処を旅立ったのか、確認だけさせて欲しい。』
『…あぁ、そうだな。頼む。来てくれ。』
ユトピとミルハンデルはもう一度部屋の中に消えた。確認をして、葬儀に、墓…この後具体的にどんな仕事が待ってるのか、見当が付かない。朝には今日婆さんが死ぬなんて思ってなかったんだし…もう啓発回りをする必要は無くなったと思うから。
昨日までの停滞が嘘のように、ミルハンデルと言う歯車が一つ嵌まった途端に全てが目紛しく展開し出す。
偶然の反対は運命では無い。
こんな結果が定めだと言うのならば、ちっともありがたく無い。これが定まった結果だって言うのなら、今までの俺達の苦労って何だったんだよ?
『ゴードルン…これは、一体…。』
チェスタが徐に呟き出した。ゴードルンに問い掛けながらも、眼差しは宙に浮いて。空でも無い、何処を見詰めてるのか。
『ミズルの……賜物としか…。』
チェスタのその言葉に、ゴードルンは見られてもないのにこくりと頷いた。
『ああ……ミズルの賜物としか、言いようが無い。』
この町で暮らしてると、憤りの先や後にはいつもミズルの名前が出てくる。
この町の奴らが、被害者が、ミズルのことをどう捉えてるのか、多分俺はまだ余り理解出来てないと思うんだが……
もしかしてこれってやっぱり、神って奴に似てやしないか?
神、と言う言葉のことはまだ全然思い出せないんだ。でも、こんな感覚だった気がするんだよ。
都合が良い時も、悪い時も、神は言い訳なんだ。
詰まりは拠り所。この町ではミズルを言い訳にして、奇跡を信じて、理不尽を乗り越えてる。
………そうか。だからミズルは神なんだ。言い訳なんかじゃない。理不尽とは、ミズルのことなんだから。
ミズルとは、この町の神のことだったんだ。
ミルハンデルは婆さんの死を確認し終えた。動かないで、目を閉じて、息をせずに脈も動かなければ生きてはないって誰だって判別は付くと思うけど…最終的な判断は医者が下すべきらしい。ミルハンデルがそう言ってた。
『…そうなのか。其の様な遣り方も存在するのか…?私が経験して来たのは、もっと違って居た様な……まぁ、余りはっきり思い出せないし、ユトピ達が望むならば、否定等しない。』
『しかしこのようなやり方を採用しているのはこの近辺の階層のみのようだ。他は燃やしたり、下層階まで遺体を運んで土や海に沈めたり等するそうだが…第18階層に、変わった葬送屋が居てな。彼女が独自に編み出した弔い方だ。この町の理には適っているよ。』
ゴードルンとミルハンデルがゴチャゴチャ段取りしてる。葬儀と言う物はどうやら幾つかのやり方が有って、それぞれが好きな方法を取るらしい。でもこの町に墓と言う物は存在しなくて、ミルハンデルはそのことに驚いてるみたいだ。確かにこの町で暮らし歩いた中で、墓は一度も目にしたことが無い。
話を横で聞きながら何と無く思い出そうとして……俺も、墓を作ったことは無かった気がするな。見たことは何度も有った気がするんだけど。
死体なんて、専ら埋めるだけか、その場に放って置くだけで……ん?でも待てよ。もしかしたら何処かで一度……
『死の確認が取れたならば、急いだ方が良いんだ。この方法は時間が掛かるから…死体が腐敗してしまう可能性がある。ユトピ達の準備が出来たならば、早速18階まで運ぼうじゃないか。』
『そんなにバタバタと進めて良い物だったか…?』
ミルハンデルにはどうやらしっくり来てないらしいが、俺は特に何も感じない。こいつと俺は気が合わないみたいだ。嫌味じゃ無い。きっと育ち方が、過ごして来た人生が全く違ったんだろう。こいつの記憶がはっきりしてきたところで、話を聞いても然した役には立たないかも知れないな。
『それならば、一度診療所の様子を見て来ても良いだろうかー?ビスカが来ているようならば、遺体を運ぶのに協力させた方が良いだろうー。』
ビスカの存在を、今日も独りで下層階の細やかな業務を片付けてくれてるビスカのことをすっかり忘れてた…緊急事態だったんだから、許してくれ。
色々有って、もうすっかり昼を越してる。多分腹が減ってるけど、皆そんな暇も気分も無いだろう。何故、人が死ぬと食欲は失せるのだろうか?
『そうだな…ではチェスタには診療所に行ってもらい、俺は遺体を運ぶ担架を持って来るか。ルクスは、ひと足先に葬送屋へ話を通して来てくれないだろうか?』
『は…?俺?』
『ああ、その…その腕では、担架を運ぶ作業は向かないのではないかと…。』
『……腕……腕……っ?』
ミルハンデルが小さく息を呑む。どいつもこいつもどうにも、この腕の違和に気付くのが遅過ぎる。そんなに俺はハンデを感じさせずに動けてるのか、皆俺に大した興味が無いだけか?
いつもいつも不本意だけど、この腕を持って役に立てることはこの場にはもう無さそうだ。と言うかこの階層の仕事に置いてこの腕が働いたことは、結局一度も無いまま終わってしまった。おたますら失くなってしまった、こんな腕じゃ…。
『第18階層で誰かに聞けば、場所を教えてくれると思うから。』
第18階層…レストラの酒蔵の2つ上。行ったことは無いけど、今はゆっくり眺める暇も無いだろうし…どうせなら、第20階層以上に行ってみたいな。
『じゃあ……行ってくる。』
『ありがとう、ルクス。頼むぞ。』
でも、葬儀と言う物だけはとても気になってる。何かの切っ掛けになるとは思ってない。多分、記憶を失う前にも見たことが無い物だと思うんだ。
葬送屋って、どんな奴なんだろうか。人の旅立ちを、眠りを見送るだなんて…生産性の無い仕事。
第18階層は、下の階層と大きな変わりは無い。構成はやっぱり住居が中心で…でも一つひとつの土地が少しずつ広く、建物が大きくなって、人も増えてきてる気はする。偶に木や煙突も生えてたりして…予感をさせる。上に進めばもっと栄えてるって。
『葬送屋はね、この通路をずっと真っ直ぐ行って、突き当たりを左に曲がりなさい。突き出して開けた場所に高い柵と大きな門が有るから、大きな声でハルーリーを呼んで。』
階段を上がって直ぐに居た女に尋ねたら、丁寧に教えてくれた。葬送屋の名は、ハルーリー…。
言われた通りに進めば、上に巡ってた通路や床が唐突にブツッと途切れ、代わりに空が広がって、高い柵…大きな門が現れる。
人が2人縦に並んだくらいの高さ。この町でこんなに大きな鉄柵は見たことが無い。此処にしか無いんじゃないだろうか?
棒を組み合わせたような柵はスカスカだから中の様子を伺うことが出来る。そこそこ広い土地の所々には何か塵のような物が山になってる。真ん中には道具や設備は何も置かれてなさそうだけど、広場の一番奥…最も空に近い場所に、人が一人横になれるような台が据えられてる。端には簡素な木の小屋が建って、寂れてる。一見人が居る気配は感じないけど、松明が二本立って炎を燻らせてるから、この施設で人は確かに暮らしてる筈だ。小屋の中にハルーリーが居るかも知れない。声を上げてみよう。
『ハルーリー…ハルーリーっ…!』
死に対面して詰まった息を発散させるように、思い切り叫んでみた。柵を掴んだらガシャンと響いて、こっちが外側の筈なのにまるで気分は牢獄の中だ。
『おーいっ!ハルーリー!』
何度か名を繰り返して、それでも広い空間には誰も現れる気配無く虚しく響くだけ。留守なんだろうか?どうしたもんか…
『オーイっ!ハルーリィーィイ!』
『はっ!?』
キンッ!と、高音が耳を裂く!
酷く驚いて、ひっくり返りそうになって、鉄柵で身体を支えようとして、またガシャンと大きく響く。
『キミ…ダレか死んだんだね?』
振り返り其処に居た女は、片手に大きな…縦に聳えるパンパンの袋を抱えてた。桃色の服で、桃色の髪で、若そうで、笑顔で、目が死んでる。
否…死んじゃいない。光を通してないだけだ。本当に見えてるのか?でも、目線は定まってる。良く分かんない奴だな…。
年は、ビエッタよりは下だ。チェスタよりは、少し上のような気がするな…昨日の、鼻と喉の2人と同じくらいか?白桃よりも薄く輝く桃色の長い髪にリボンを絡ませて…洒落てるような、奇抜なだけなような。
『…ン?チガウの?』
話し方も、何と無く変だ。何がどう変なのか、上手く言い表せないけど……声も、聞いたことが無い不思議な音だ。高音だけど、何処か柔らかくて儚くて…でも、高音は高音だ。
飄々として、捉え難い。チェスタなんかよりも、よっぽどふざけた印象だ。
『…違わない。俺のじゃないけど…婆さんが一人、さっき死んだんだ。早い方が良いって言うから、早速此処に死体を運ぼうとしてて…葬儀の準備を、してもらえないか?』
『…ソーギ…?』
葬儀と言う言葉に引っ掛かって、キョトンと目を丸める女。こいつは、葬送屋のハルーリーなんじゃないのか?
『ゴメン。ソーギは出来ナイよ。ココは葬儀屋じゃナイ。葬送屋。』
葬儀と葬送って、何が違うんだ?俺はそもそも何の為に婆さんの死体を此処に連れて来なくちゃならないのかもよく分かってない。何と無く、死体が邪魔にならないようにどうにかするんじゃないかとは思ってるけど。
『儀式はしナイ。送るダケー。』
ハルーリーは生気の無い目ではっきりと俺の目を刺した。
悪戯のように薄笑う笑顔は、気の所為だとは思うけど、不敵に見える…。
『マ、入ってくれ。ハナシはナカでシようー。』
ハルーリーに肩を掴まれ、ぐいと門前から押し除けられた。荷物を持つとは逆の手で大きな錠前を外すと、大きな鉄門も片手でズルズル押して開ける。細い身体に、よくもこんな重い門を押す力が潜んでる。
柵に丸く囲まれた土地に足を踏み入れて見れば薄く土が敷かれてて、さらさらと砂埃が舞ってる。何かを踏んでしまってパキッと渇いた音がした。これは、この空間のあちこちに掃かれ山にされ纏められてる…白くて渇いた、棒?棘?踏むと砕けて、砂になる……まるで塵みたいに雑然と扱われてるから、別に良いか…。
『アナタ、被害者なんだね。』
藪から棒だ。そんなに今の俺は世間知らずだったか?
『ソーギは儀式。この世の全てに別れと感謝を告げる。そして遺された者は故人に別れと感謝を告げ、故人はこの世の者ではナくなる。神か、精霊か、星か…儀式に依って、死者は死後の国の者にされる。』
そうか、葬儀とは儀式のことか。なら、確かに必要無いか?ユトピとハニャならさっき婆さんに辛うじて息が有る内にも沢山話し掛けて、別れなんてもう十分だろう。でも…死者には死後の国が待ってるのか?儀式をしなければ、死後の国からは新たな住人だと認めて貰えない?もう死んでしまってるのに?そうなったらどうしたら良い……ずっと旅を、彷徨い続けることしか出来ないんだろうか?
『ソーソーは、送るダケ。別れを交わすコーナーも無ければ、済ませた先に何者かに成れるワケでもナシ。デモ、死んだ者はいつまでも生者の世界には共に居続けられないでショ?だから世話してやるワケさ。』
何を言ってるのか、よく分かんなくなってきたな。送るだけ送って、後のことは知らないってことか?ん?死者に後なんて無いだろ?結局葬儀って何なんだ?葬儀が分かんなけりゃ、葬送のことも…
『……分かりヤスく言ってヤんね。ココはシタイをショリするダケさ!』
あぁ…何だ。それならそうと、早く言えよ。
否、俺が葬儀という言葉を先に出したのが悪いのか?誰だっけ、葬儀なんて言い出したのは…。
『儀式をシたがるのは、神を信じるヒトビトだけ。このマチに神はイナイ、宗教は存在シナイ。だからこのマチで出来るコトはソーソーだけってコトさ。アンダスタン?』
ん?おかしいな。さっき、ミズルはこの町にとっての神なのだと、神とはこの町で言うミズルのような物なんだと理解したつもりだったのに。宗教って何だっけ?宗教とは、神の為に必要な物…?
『だからソーギなんて言ってクるのは、被害者なのカナーって思ってネ…。』
…あぁ、そうだ。さっきはミルハンデルが『葬儀』と言い出したんだ。俺には、そんな物の覚えは無くて…ん?俺だって外の世界から来た筈なのに、俺には神が居なかったのか…?
『フッ…!フフフフフフフフ、フフフふふフあハハハハッ!』
天まで届きそうな程高く自由に浮遊する笑い声。ハルーリーは話しながらいつの間にか、隅の小屋から色々道具を運び出して来てた。大きな甕、大きな筆。あの棒は、新しい松明か…?隣に転がすのは、それを立てる台だ。
『ハハハッ……羨ましい!』
ハルーリーの笑いの経穴が全く読めない。一人で喋って説明してただけの癖に、何がそんなに面白くて…羨ましいんだ?
『ジュンビ完了ー!…アトは、シカバネが来ないコトにはね。待てば来るかい?それとも、オマエはモー帰る?』
多分ゴードルン達はビスカと合流したら直ぐに婆さんの死体を運んで来る。今戻っても行き違いになるかも知れないし、帰ったところで仕様が無い。葬儀じゃなくても良い。葬送でも良いから、見てみたい。
ハルーリーは奥の台をベンチ代わりにして座り出した。網状の大きな敷物が掛けられてて、尻が痛くなりそうだ。
最も空に近い場所に、人が1人横になれそうだから、座ったら2、3人並べそうだ。ベッドなんて言うような良い物じゃない。只の四角い、鉄の台。少し低くて、僅かに膝が立つ。
こちら側は柵がとても低い。俺の腰程度の高さ。身を乗り出したらなんて想像したくはない。
『……ワタシはハルーリー・パラディーソ。ハルルと呼ばれた方が嬉しい。』
名前が二つ有る。こいつも、被害者なんだ。
何と無く、俺もハルルの隣に腰を下ろした。後ろが空だと思うと背筋が寒くて…癖になる。
目の前には広場に打ち捨てられた道具と、大きな門、その向こうに幽かに透ける家々。この場所は町から突き出し天井も無いから、牢のような鉄柵の圧も相まって外界から隔絶された虚しさを感じる。俺とハルルの、二人きり。
『キミ…重症者なんだろう?羨ましい。』
『は……何で…?』
俺はまた気付かずに、世間知らずを露呈したか?
否、こいつ……重症者が、羨ましいと言ったか?
『コッチがナニか新しく言うタビにゴチャゴチャゴチャゴチャ悩んで、まるでヒトツずつ噛み締めてキオクをハンスーしようとシてるみたい。チガウ?』
何も間違ってない。そうか…記憶喪失って、側から見たらそんな風に映るのか。でもそれって仕方が無いだろう。外から物を取り込むには噛み締めないと飲み込めないのは食事と同じで、記憶が無いと何をどれだけ取り込めば良いのか取捨も選択も難しいから手当たり次第に咀嚼して、時間が掛かる。
『羨ましい…。』
さっきから羨望が煩い。否、この眼差しは本物なのか?こう言うのは何て言うんだっけか?馬鹿にしてるみたいにも…
『一体、何が…』
『イヤ、妬ましいと言い換えよう。』
ハルルの目に相変わらず光は通らないが、キンッと凍るような冷たさが宿った。でもまた直ぐに緩む。冷たくも温くも無くなる。詰まりは生気が無い。
『は?』
『キオクさ。すっかりナくて、羨ましい。このマチで、キオクなんかイラナイ。キオクが有れば…一層帰りたくなってしまう。外の世界に。』
みるみる心が黒く蝕まれる。昔何処かで見たな。手紙がゆっくりと焦げてゆく様に似てる。
ルートリーに向け芽生えた憎しみが蘇る。
『何度、船を出そうと思ったコトか……でも、とても怖くて出来なかった。自死と同じ行為なのだから。』
ハルルはハルルで、憎しみを目で飛ばしてる。その真っ直ぐな眼差しの先には鉄門が聳えてて…きっとこいつはこいつで、今座る此処を牢獄に見立ててる。
『ワタシは10年前…15才という若さで飛ばされた。ノドカな牧場で、ウシとトリと、父と母と妹と暮らしてた。いつか恋人が出来るコトを夢見てた。恋人と結婚して、妹の巣立ちを見送り、父母の旅立ちを看取るつもりだった。どれも私だからこその希望、私にしか出来ない希望だったのさ…。』
15才は、プリマの一つ上だ。自分が何才なのか、15才の頃にどうしてたのか記憶の無い俺には、若いかどうかは今一つピンと来ない。
ウシって何だっけ。動物だよな?やっぱり外の世界にはマミムって居ないんだな。ウシはマミムと何が違うんだろうか。
『そんな家族も…今はもう、ワタシなど死んでしまったとでも思っているのだろうか?ミズルはとても残酷だ。被害者の記憶の程度が、それぞれだなんて…仲間意識が希薄にならないか?ワタシがオマエを妬むように。』
さっきはルートリー、でも今度はミルハンデルの顔を思い出す。
ルートリーもお前も、結局乗り越えて仕事してる奴が偉そうにするなよ。
絶望を乗り越えることは、希望を諦めることだ。10年だろうが15才だろうが、結局諦め切れる程度の望郷が、他人が奪われた物を引き合いに出して偉そうにするな。
でも、ミルハンデルが居て。乗り越えるべき絶望すら存在せず、既に淡々とこの町での初仕事を華麗に終えたミルハンデルが居る。
望郷の念が、失った物を取り戻したい心が全ての者に等しく備わってると言う訳ではきっと無いのだろう。
バサバサと音がする。黒い羽根が舞う。広場に鳥が一羽、戯れに降り立って白い塵を啄んで弄り出す。
『ハハ…ッ、オーイっ!チョット早いゾーっ!』
ハルルは身勝手にもまた生気を捨てた。正直、ハルルのことが気に食わないかどうかは、まだ判別が付かない。
重症者を妬む程故郷と家族への情を持ってたハルルは、如何にしてそれを乗り越え葬送屋を始めたんだろうか?だってこんなこと言って俺の心を逆撫でしておきながら…乗り越えてなきゃ、やらない筈だ。葬送屋だなんて生産性の無い、終着点のような仕事。
ゴードルンはハルルの仕事を『変わった葬送屋』と評した。ハルルが独自に編み出した、この町の理に適った弔い方だと。
やっぱりこの葬送は見ておいた方が良い。だから待つ。塵を啄む鳥の、ギョロギョロと気持ち悪い目の動きでも追って気不味さを持て余しながら。
担架に載せられて迎えられた婆さんは、鉄のベッドに丁寧に捨てられた。
寝る婆さんの顔は、笑顔では無い。眠ってるみたいだ。だから、安らかとは言えるのかも知れない。
『…見てくー?』
『いや、いいよ。俺、あんたの世話になったことは無かったけど噂はみんなから聞いててー……信頼してるからっ。婆ちゃんの生を、無駄にはしないって。』
『…ハッハ!モっチロンっ!』
どうやらビスカは下での仕事が片付いたみたいで、チェスタとビスカが片方ずつ担架を担いで、婆さんを此処まで運んで来た。ユトピは付いては来たけど、本当に只付いて来ただけみたいだ。それにもうすっかり落ち着いて、余計な気を使わなくなって、初めて会った時のユトピが戻って来てる。勢いはまだ足りないけど。
『じゃあユトピも帰るらしいし、行こうルクス。』
ビスカが空になった担架を脇に抱えて冷たい門を潜ろうとすると
『アッ!待ってよ。コイツ、置いてってくれタマえ。』
『…ん?』
ハルルは俺の裾を掴んで、尊大な癖に何処か戯けた声を上げた。
『ヒトデを借りたくてさ。ダイジョブ。時間は取らないから。忙しい?』
海星…?何か、そんな名前の生き物が居た…否、この場合は人手か。こいつは、文章はおかしくないのに喋り方と声が変で…何故か、何を言ってるのか分かり難い時が有る。
『…まー、今日の仕事はもう全てキャンセルになったようなものだし、良いんじゃないかー?今、次に大事なのはミルハンデルだ…ルクスー、俺たちはとりあえず診療所に戻る。早く済むようならまた来てくれー。遅くなるようなら、そのまま家へ帰っても良いぞー。』
婆さんが死んで、此処まで運んで来て、ユトピの悲しみも下火になって、だからチェスタも一段落して軽く呆けてるようにも見える。それに確かに次に解決しなければならないのはミルハンデルの身の上で、その為には今は其処まで人手は要らないだろうし、記憶も持たず自分のことすらどうにも出来てない俺が居ても邪魔なだけだと思う。
『分かった。じゃあな。』
こくりと頷き、チェスタは浅く手を翳す。ビスカは首を向け、目線で挨拶してくれる。
『じゃ…またな、医者っち。悪かったな。ありがとう。』
ユトピはボンボンと両肩を叩いて笑顔をくれた。そう言えば俺はこいつに『出来ない癖に』とか一方的で偉そうなことを言われて不愉快な思いをしたんだったが、まさか今の言葉一つだけがその謝罪な訳では無いだろうな?『また』と言うのも何なんだ?俺がお前の菓子屋に、豆の菓子でも貰いに行くのか?
3人は牢の外へ出て、重い門は地面を削りながら閉ざされる。
『……人手って、何に必要なんだよ。俺、片手しか使えないから…』
さっき出して来た大きな甕を婆さんの枕元へ引き摺り寄せながら、ハルルは目線だけで俺に仕事を指図する。取り敢えず大きな筆を1本、松明を2本抱えて同じ場所へ運び、人手として動いてみる。
『目んタマはフタツ付いてるんだからジューブンだろ?ヒトデとは、旅立ちのギャラリーのコトだよ。キミ…ソーソーを、見てみたかったんだろう?』
俺って何処まで分かり易いんだ…?思ったことを直ぐに理解して貰えて望みが叶うことはとてもありがたい筈なのに、何故こんなにも嫌な気分になるんだ。恥ずかしくて、素直に受け入れ難い。
『サテ…コレ、シのカクニンはしてる?』
『確認…?あぁ…確認は…』
ハルルは何の抵抗感も出さずに、渇かんとする婆さんの顔に顔を近付けた。
ミルハンデルも確認を気にしてた。何度も何度も…確認したところで、絶えた息が吹き返すことなど有る筈が無いのに。
『ちゃんと、死んだかどうかカクニンしないと…放っとくコトなんてデキナイよー……うん、イキはナイなぁ。ミャクは……ナイ…か?ナイかな?専門じゃナイから、わかんナイー…ほっ!』
ドゴォッ!と、鈍くて重くて柔らかい音が響き渡る。
ハルルは短いズボンから伸びた足を大胆に上げ、横たわる婆さんを踏むように一蹴りした。
『えっ!?』
『おらっ!おりゃっ!』
もう一蹴り、更に一蹴り。
『はっ!?おい!やめろよ!確認は、ミルハンデルがしたから!』
婆さんはもう痛みも屈辱も感じることは無い筈なのに、ハルルのこの蛮行を看過ごすことだけでも疚しく思えるのは何故だ!?
『……フンッ、マー、死んでるでしょー。』
ハルルは婆さんがぴくりとも動かない無生物で在るとその目で確かめて、満足そうに鼻を鳴らした。恰も嗜虐的に見えるけど、気の所為で良いんだよな…?
『ホラ、死んでナイのに動けナくて食べられるなんてカワイソウなコト、有ってはならナイじゃナイか。』
『食べられる……?』
うん。きっと気の所為だと思われる。ハルルは言葉に胡散臭い実演を交えて、こいつなりの葬送について説明しようとしてくれてる。
『サテ。ツギは味付け。』
続く工程は、大きな筆を甕の中に思い切り良く突き刺し浸ける。ズブッ…と、粘度を持った音が立つ。
引き抜けば芳香が舞う。甘い…少しだけ、塩気が有る?どうやら油みたいだ。それを、筆を使って婆さんに塗りたくり出した。服の上から、豪快に。
一気に、これから何が起きるのか予想が付かなくなる。
『チョイチョイ。アレも持って来てよね。』
目が二つ有ればと言いつつ、ハルルは次々顎で指図する。振り向けば広場の真ん中に、さっき抱え切れなかった2本の篝火台。
『このベッドの両ワキに、一本ずつ立ててくれ。ア、あまり近付けスギず……アァ、遠い遠い!もうイッポ近く…!』
何だかんだ働かされてる。まぁ、暇よりは良いか。周りにはすっかり油の匂いが広がってる。でもこれは恐らく食用の油。
ハルルは何がしたい?婆さんの死体を胃袋に仕舞って処理しようとしてるのか?
『……コレぐらいで来るかな…?マ、アトは喰い付きシダイで足すか。』
べちょべちょと筆を押し付けて止めを刺したハルルは、既に照らされた松明から火を採り2本の新しい松明を灯した。これが、点火した途端にもくもくと煙が溢れ出して目が痛い。俺が咳き込む間に、ハルルはそれぞれを脇の篝火台へ立てる。
『行こ。』
ハルルは面倒臭そうにずるずると甕を引き摺る。ずっと訳が分かんないまま、付いて行く。小屋の近くに向かうから入るのかと思ったが、ハルルは甕を適当に打ち捨てた後鉄門の方へ向かって…冷たい門に背中を付けて、地べたに座り込んだ。真似をして座ると、低い台に寝かされた婆さんと、丁度同じくらいの目の高さになった気がする。
広場の端から端を眺めて、何が始まるんだろう。あの油は魔法の薬で、あの松明に灯る炎は魔術の炎で、超常的な力で死体を消し去ろうとでもしてるのだろうか?
『ワタシの家系は、何代もマエから農場をやって居たんだよ。ウシとトリ…と言っても、ゼンブで4種類在るんだ。ワカル?』
『は…?』
何が言いたいのか全く理解出来ない。勿体振らないで欲しい。この町に飛ばされたばかりの時プリマやチェスタの話を聞かされて、勿体振ったいけ好かない奴らだって思ったけど…被害者の知り合いが増えて思った。外から来た奴らの方がよっぽど勿体振って手間が掛かる。
『マー、ウシをマミムに置き換えたらゼンブワカルと思うケド…ニクになるウシ。チチを採るウシ。ニクになるトリ。タマゴを採るトリ。ウチの牧場には、この4種類が暮らして居たんだよ。』
成る程。考えたことが無かったけど、確かに。乳や卵を採るなら健やかに育てないといけないし、肉を食べる為に殺したら、もう乳は出ず卵も産まれない。効率良く、用途別に生産するんだ。
『ワタシはモノゴコロ付いたトキからずっと、フシギで仕方がナかった。同じ種族なのに、ベツのバショに飼われ…しかも、チチのウシやタマゴのトリも、サイゴは捌かれニクになり消えるんだよ!』
それも考えたことが無かったけれど、考えてみたら分かることだな。多分乳や卵って、子供を育てる為に必要な物だから。年を取って子供を産めなくなったら、乳や卵も出なくなって…役に立たなくなったら肉にして食べることが活用だ。何が不思議なんだ?
『ニクのウシやトリは太らせて元気なウチにコロす。チチのウシはコドモを産ませてチチを絞って、チチが枯れたらまたコドモを産ませてチチを絞る繰り返し…産めなくなったら、ニクにする。コドモが飲む分のチチなんてモッタイナイから、オヤコはスグに引き離すよ。オスはニク、メスはチチ。タマゴのトリは、ホッタラカシ!産めるだけ産ませて、産まなくなったらニクにする。』
…少し、不思議になったな。でも何が不思議なのかが言い表せない。さっき、婆さんを蹴るハルルに覚えた不快感に似てる。食べる為に、欲しい物を採取する為には、とても効率の良い手段に聞こえるんだけど。
ハルルの変な話に耳を傾けてたらいつの間にか、鉄のベッドに合わせてた筈のピントはズレてきて…白い物がチラチラと目に障って、思い出すように慌てて嵌め直した。さっきの奴とは別の鳥。べたべたの婆さんの顔に降り立った。あの顔が自分で、生きて感覚が在ったとしたならばとても嫌だ。
『フシギなんだ…肉も乳も卵も、牛も鳥も人間も同じ世界の生き物なのに、人間だけが都合に合わせて効率的に動物を飼育して、採取し、屠殺し、使役して…ショージキ、罪悪感などナイ。タダ、理由が知りたいダケなんだ。』
罪悪感…?この、じっとりと留まる不快感の正体は罪悪感なのか?何が罪悪なんだ?生きる為に食べ物を用意する牧場の、何が罪悪だ?婆さんに対しては、何か悪いことをしたか?
2本の煙はもくもくと天に昇る。それに隠れて、今度は黒い影が広場にやって来たみたいだ。さっきの鳥なのかどうかは分かんない。
『キミは、キオクを奪われトばされて…今、どんなシゴトをしているの?』
『は…?』
この話、いつまで続くんだよ?葬送も全然始まらないし。時間は取らないって言ってなかったか?
『俺は、さっき来たチェスタとビスカと一緒に何でも屋をやってるよ。』
『ナンデモヤ…?』
何でも屋って、何でもやるだけの分かり易い職業な筈なのに、前例が無いってだけで人々の理解に一手間が加わって非常に面倒臭い。
『ナンデモヤ…何でも屋…?ドコかで聞いた…気のセイ?マ、イーヤ。フーン。』
何だよ、聞いたこと有るのかよ。しかもそっちから聞いておいて、まぁ良いやって、失礼だ。チェスタ達って、何処まで知れ渡ってて、何処に知れてないのか良く分かんないな…。
『ワタシは15才と言うコドモの時分にやってキタケド……15才じゃあ、もうこのマチのヒトビトはミンナ自立して働いているそうだね。だからワタシは、どんなシゴトをシようか…牧畜?ソレトモ…?そう考えたトキ、ニクとチチとタマゴを思い出して、この葬送屋を思い付いた。』
独特な音波でゴチャゴチャと、言いたい順に散らかして来やがって。この話の行き着く先が、さっぱり見えない。
葬送も見られない。帰れば良かったかな…?溜息を吐くと
『キヅイテる?もう、ハジマッテる。ちゃんと、眺めて。』
そう言って、ハルルもひとつ溜息を捨てた。ハルルの話の中を迷子になって、のぼせたみたいに頭がぼやけてまた視界が朧になってたことに気付く。
ギュッと目を閉じて勢いを付けてから見開くと、婆さんに群がる鳥はもう2羽増えてる。小さい奴と、この中では一番大きいやつ。4羽で仲良くツンツンと…啄んで味見してるようにも、突いて遊んでるようにも見える。否…仲良くって言うよりも、様子を見てるのか?出方を窺ってるみたいだ。
『コノヘンを通るトリって、ナンデモ食べるんだよ。死んだニクも、オイシイみたい。ニオイを付けて…あとは、ケムリで知らせると、ヨってクる。』
『…は?』
ちょっと待てよ。これが、葬送なのか?
味を付けて、鳥達の胃袋に収めさせるんだ…時間が掛かりそうだ。
また一羽、飛来した。先ずは鉄の寝床の傍らに降り立ち、様子を見てる。
『キミは…魂の在処とはドコに存在すると思う?』
こいつは本当に俺に語り掛けてるのか?こちらの応えも待たず、まるで一人で喋ってる。自問…否、自分に言い聞かせてるみたいだ。
『トリの魂とは…ウシの魂とは。チチのウシの魂と、ニクのウシの魂の場所はチガウのか?イキモノの魂は……では、死者の魂は?あの…バーサンの魂は、死んでドコに行った?消えた?アソコで啄むトリたちの魂は、このアトどうする…?』
『はぁ?おい、良い加減に…!』
捲し立てられて、焦燥が酷く煽られた。魂って何のことだ?死んだら何処かに行く物なのか?死とは、魂の旅立ち?死とは魂の消失?息が絶える前…紫の子供達を探してた頃の婆さんには、魂が宿ってた?
何がそう思わせるのか…神のことを思い出した。神だろうが、ミズルだろうが…見えない物に無理矢理想いを馳せようとすると、どうしても都合良く結び付け頼ろうとしてしまう。
『……魂とはナニモノか。タマシイとは平等に在るべきか?ワカラナイ…ケド、コレがワタシなりのアプローチ。』
鳥に食べさせたら、魂はどうなるんだ?天に運ばれる?
それとも齧られ血肉にされることによって、肉になった動物達と平等な顛末を味わせることが出来る?
『死体をエサにして、トリたちに食べさせてー…食べ尽くさせたらあのヒモを引っ張って集まったトリを一網打尽にしてニク屋に持って行かせるんだよね…このマチはニク不足だから。』
回りくどいし要領は得ないまま苛立ちは治らないが、漸くこの葬送の全容が見えてきた。
あの網の敷物は、罠だったんだ。よく見たら紐が伸びてて、広場を囲う柵の上を通ってこちらに繋がってる。何処か得意気な笑みを浮かべるハルルが手を伸べ示す先に、その端が垂れてる。
成る程。きっとゴードルンが言ってたように、この町の需要に適った利の有る方法なのだろう。墓にもしない死体を処理出来て、不足してる肉も少し調達することが出来る。
魂と言う存在について、これがどうして答えになるのかは分かんない。さっきの不快感の正体が何なのか、何故罪悪感なのかもぴったりと嵌まらない。
でもきっと、ハルルの気が済むならば、それが一番の手段だ。遺された者達…ユトピやハニャの気じゃない。ハルルの気が済むことが肝要だ。答えを求め思い馳せ彷徨う者にこそ、答えを決める権利が有る。神を必要とする者にだけ、儀式が必要なように。
『……これ、いつになったらあいつらは全部食べ終わるんだ?』
4羽の動きは忙しなくなってきてるけど、肉を千切って口に含んでるのかは遠くて良く見えない。一歩引いて眺める1羽はまだ参加すら出来てない。
『ンー…アイツらだけでゼンブ食べ切れるワケじゃナイからねー。オナカイッパイ食べて飛び去って次のヤツが降り立って……3〜4日くらい?』
『は?時間は取らないって言ってただろ!俺はいつ帰れるんだよ?』
『ハ?じゃあ帰れよ。』
『はっ…!?』
キッと睨み付ける冷淡な顔と冷淡な高音…勝手過ぎるだろ。だったらせめて最初から、趣旨を教えておいてくれよ…。
『ドー思った?ワタシのハナシと、トリに貪られるバーサン…。』
……こいつは何で、俺に葬送を見せてくれたんだろう。俺が見たがってそうだったからってだけじゃないんじゃないか。俺に何か、感じさせたかったんじゃないか。
何を感じさせたかった?何もかも忘れて尚被害者面する重症者を妬んだ嫌がらせかよ。
『…確かに不思議な気もしたし、少し嫌な気分がした。でもそれ以上はよく分かんないや。』
『イヤなキブンとは?』
嫌な気分という言葉に反応して…意外なことにハルルは、意外そうに目を丸くした。
『多分、罪悪感…?だと、思うんだけど…。』
『………フ。フハッ!』
罪悪感という言葉には、鼻息みたいに間抜けな笑みを溢した。何なんだよその笑い方は。
こいつはずっと俺を馬鹿にしてやがる。人を馬鹿にして、ミズルの理不尽を恨んで、その癖重症者を理不尽な理由で妬んでやがるんだ。でも、性格の悪い嫌な奴…って思う気になれないのは何故だ?
出会ってしばらく、チェスタにはムカつくことが多かった。ルートリーに、記憶が無くて良かったなと言われたら、途端に憎しみが湧いて来た。俺の思考を振り回し頭痛を生んだハルルには…何故か、怒る気にはなれない。
こんな奴、初めて出会った。他所に同じような奴が居る気もしない。
変な奴…!
『注文した通りのカンペキなシゴト振りをドーモアリガトウ、何でも屋。』
ハルルはこちらに向き直り、ニコリと満面の笑みで右手を差し出して来た。ハルルも俺のことを、妬みはしても嫌いはしないでくれてるみたいだ。でも…
『あの、ごめん。腕が…。』
俺の右腕には、他人の右手を握り返す為の物は何も付いてない。おたますらも失ってしまった。
『…ムッ。見えてるよ。シツレイな!』
ハルルは口を尖らせると、俺の重くて寸胴な腕を両手で引っ張り、ぶんぶんと撓ませた。
『ワタシはこの初めて見るユカイな腕とアクシュがシたかったの!』
この腕が見えてた上で、全然驚いてなかったんだな…まぁ、そういう奴も結構居る。こんな腕を他に見たことが有る奴には、未だに出会えたことが無いけど。
本当に変わった奴だ…手の無い腕と握手がしたいとか。ふざけてると思うのに、悪い気がしない…。
『ツイデにサ、気が向いたらモー一つ頼みを聞いてくれナイ?』
『…何だよ?』
ハルルはもう一度、眠る婆さんを指差した。
今思い出したけど、あれは祭壇に似てる。台の上に何かが供えられて、左右に灯りが焚かれて。祭壇って、何に使う物なんだっけか。
『あのアミでトリを捕まえたら、ニク屋に引き取って貰うんだけど…ニク屋はニクを捌き弁当屋や食事処に配るのがシゴトだから、忙しいとナカナカ来てくれないコトも多くてね……ワタシヒトリだと大量のトリの相手はタイヘンなのだよ。ワタシのパートナーになるような腕の良いニク屋…イヤ、狩人がイチバン良いな!動物をシトめるコトにこそ長け、捌くコトもデキる狩人を見つけたら、ゼヒこの葬送屋に紹介シろ!』
『はぁ…!?』
何と言うことだ。また上の階の奴に依頼をされてしまった…この連鎖は、いつまで続くんだ?これもチェスタに怒られるか…?
『……まぁ、もしもそういう奴を見付けた時に、紹介するくらいなら…。』
『ヤタッ!』
ギュッと目を細めたハルルは、喜びの勢いのまま飛ぶように立ち上がる。
『ヤクソクだよ?じゃ、バイバイ。』
『はっ!?』
閂を抜いて、ズルズルと鉄の門を押すハルル……
本当に勝手な奴だ!
何故だ…何故、怒る気になれないんだ?訳が分かんなくて、怒りが湧かない自分の方に憤りを覚える…!
『ホラ、さっさと帰れば?』
追い出されてるみたいだ……折角なのに勿体無い気がして、最後にもう一度鉄の祭壇へ目を凝らした。
一羽増えてる。否、さっき眺めてただけの奴が参加し出したんだ。あの赤いのは…血か?はっきりしない。でも、婆さんの旅は次へ進めるみたいだ……鳥の一部になって、その鳥はきっとこの町の誰かの一部になって、そいつが死ぬ時はまた、此処から旅立てば…
この町の人間は、永遠にこの場所に縛られて、永遠にミズルの物として生きることが出来る。
………それが、ハルルの答え。
神を必要とする者にだけ、儀式が必要なように。
俺はそう感じるってだけの話だ。走った後なんかよりも、頭を悩ませて神経を使った後の方が断然、疲労感が凄まじい。
人の死が迫る火急の事態にどうにかしろとかせっつかれて、救世主のように現れた医者はさっき飛ばされて来たばかりの被害者、死体の処理を頼みに行った先の葬送屋は理不尽な妬みを一方的に押し付けて、小難しくて独特で超越的な…意図不明な話を長々と!
まだ空は青く清々しい。でも長過ぎる一日だ。風呂に入りたい。否、その前に体操がしたいかな…若しくは、一度思い切り叫びたい…ん?その前に、飯か…?
遅くはなってないと思うから、まだ皆診療所に居ると思う。ミルハンデルの処遇について話し合ってる筈だ。
扉を叩くと、暫しの後チェスタの手に依って開けられた。奥にミルハンデルが居て…ビスカ、チェスタ、ゴードルンと、男三人で囲んでる。
『ルクス…早いなー。もう良いのか?』
『あぁ……これ、俺は座れるのか…?』
一目瞭然なんだから、無理だと分かって聞いてる。今日は疲れたし、もう帰ってやろうかな…?
『否、粗方話は終わってるんだ。然うだろう…ゴードルン?ルクス…私は、此処で暮らしながら医者をやる事にするよ。何やら、丁度席が空いて人々が困って居たらしいね。』
やっぱりミルハンデルは淡々とこの状況を受け入れて……ほんの少しだけ悲しいことのような気がするのは、何故だ?ハルルが見たらきっと、羨ましくて憎らしいんだろうけど。
『そういう訳でルクス…ミルハンデルが、ロラサンの代わりになってくれることになったよ。お前が今日まで協力してくれたお陰で、ミルハンデルと出会うことが出来た。本当にありがとう…。』
本当に、そうか?
俺の力が何か作用してミルハンデルをこの場所に引き寄せた訳じゃない。だからゴードルンの言うことは決して正しくない。
でも俺の4日と少しの苦痛と奮闘は、ミルハンデルに出会えるまでの時間稼ぎだったんだって
無駄にならなくて良かったという、安堵が溢れてる。
溢れる程に納得が行かなくて恐ろしくて…
何故こんなにも急に都合良く全てが解決するのか戸惑いが拭えないし…ミルハンデルは、本当に良いのかよ…?
『何でも、此の町では人々の為に働いてさえ居れば安寧と安定は保証されて居るらしいね。医者をする以外に取り柄の見当たら無い私には有難い。直ぐ側にゴードルンが住んで居て助けてくれるし、人々にも必要とされて居るのならばやらない手は無いだろう……ルクスは少し遠くに住んで居るらしいが、此れからは同じ町の住人と言う事で…どうぞ宜しく。』
ミルハンデルはニコリと微笑んだ。まるで、本当にこれで良いみたいに…。
『ルクス…我々が此処で役に立てそうな事はもう余り見当たらないしー、そろそろお暇しようかと思うんだ。どうだろうかー、ミルハンデル…?』
チェスタが顔色を窺っても、ミルハンデルの姿勢は崩れない。
『ああ…そうだね。遠くに住むと言う君達の時間を余り煩わせても、仕方が無いだろう。今日は本当に有難う。助かった…感謝する。』
『いや……こちらの、言葉だー……。』
チェスタの最後の一言は、何処か力無くて気不味そうだ。
チェスタはぎこちなく診療所を後にして、ビスカも立ち上がり続く。ゴードルンとミルハンデルも次々出て来て、階段の手前まで見送りをしてくれる。
『じゃあ、またいつか。今度は酒でも飲もう!』
『あー、そうだな…またな、ゴードルン。』
『ミルハンデル、しっかりやれよ。応援してる。』
『あぁ…ビスカも、またいつか。ルクスも、またな!』
ミルハンデルの顔と手がこちらを向く。ずっと淡くて、ずっと微かに笑顔だ。
俺とか…ハルルとか、ミルハンデルとか、ゴードルンとか、ダンダリアンとかビエッタとか、ルートリーとかプラツェとかポロップとか……被害者って、一体何なんだ?
町育ちの奴と話すよりも、人生の道半ばでこの町と言う牢獄に飛ばされて来た被害者達と話す方が、孤立感が深まるのは何故だ?
今、一番話したくないのは、未だ出会ったことの無い自分以外の重症者なのかも知れない。
もしそいつも、ミルハンデルみたいにあっさりと故郷を手放せるような奴だったとしたら……俺は、俺は何でこんなに辛いんだよ?
『……よし。行こうー、二人とも。』
『あぁ。行こうぜ、ルクス。』
チェスタとビスカが歩き出す。半ば呆けながら付いて行って、通路を渡り、階段を下りながら…
『……なぁ、ルクスー。』
チェスタが徐に口を開く。ビスカが居るのに、俺の方に向けて話し掛けてくるなんて珍しい。
『ミルハンデルを、どう思う?』
『…はぁ?』
意図のはっきりしない問い掛けには今日はもううんざりで、明ら様に拒絶的な声を上げてしまった。チェスタは不思議そうに眉を顰める。
『…でも、いい奴そうだよな。前向きそうだし、ちゃんとした医者みたいだし……あいつのお陰で、俺たちも心置きなくこの仕事を終われるんじゃないか?』
ビスカがやんわりと間を取り持ってくれた。取り持つ為の適当な一言だけど、至極正しい。そう。あいつのお陰なんだ。まるであいつが…
『…やはり、そうだよなー。ミズルの、賜物だ。』
……そう。ミズルの賜物。
ミズルに飛ばされ、ミルハンデルはやって来たのだから。
医者が死んだところにやって来た医者は、まるでミズルからの贈り物…。
『……ミズルが、医者が居なくて困ってた俺たちに齎してくれた、賜物?』
ビスカはフッと、吐息で笑った。チェスタはそれを見て、一呼吸呆けた後……口元が緩んだ。
俺はその一連の様子を見て、何だか羨ましくて妬ましかった。ハルルの理不尽な嫉妬の真似事のように。
これでもう、この話は本当にお終いだ。どうでも良いことなんか、有耶無耶にして。
自分の目的や周りの平和が、誰かの自由や幸せを犠牲にして成し得た物なんだって、そんな疑念を信じる者なんかきっと意外に少ない。
隣で愛する人が笑い飛ばしてくれたならば、尚更安心することが出来るから。
『ルクスー……第12階層が動き出すにはまだ少しだけ早いかもしれないな。どうするー?』
そうか…そんなこと、もうすっかり忘れてた。明日のことですら忘れてたんだよ。
『…今日は、やめとこうかな……ダンダリアンに、明日プリマと一緒に行くって伝えといてくれ。』
酷い疲れと苛立ちと、遣り切れ無さが靄のように立ち込めて、重くて息が難しい。
明日のプリマとの約束の為にも、今日は帰ってゆっくり休む……そして、明日は早めに仕事を切り上げるんだ。
『……そうかー。では、今宵はビスカと二人きりで楽しませてもらうとするかー…ふふふ…!』
チェスタはよく、こんな気分が重くなるような仕事の後で楽しむ気分になれるな。さっきの口振りじゃ、こいつだって間違い無く不信を抱いた筈なのに…自らを生かす、ミズルと言う機構に対して。
今は嘘のように、無かったことかのように、愛するビスカを揶揄って微笑んでる。
『な…何だよ…!?二人きりって…他の客も居るだろ!ビエッタとか…!』
ビスカは多分俺が来る遥か以前からこんな愛され方を続けてきたのであろう癖に、飽きもせず毎回顔を赤くして憤慨する。そもそもこいつが何に対して憤りを感じるのか殆どにピンと来ないんだが…だが、チェスタの感覚だけが少し掴めてきた。自分の発言が愛する者の心を動かすという事実は、恐らく快感だ。相手が、自分だけを見てくれてる。
だってこいつら、もう俺のことなんか見てないんだから。
『ふ…そうだなー。ビエッタは、きっと今日も居るだろうがー…それはきっと俺たちには関係あるまい。あっちはあっちでやるだろうー。』
『は…?』
ビスカは肩を透かされた様に小首を傾げて、俺には少し腑に落ちた。嗚呼、きっとダンダリアンも、チェスタとビスカが客だと楽な筈だ。チェスタはビスカとやるから、ダンダリアンはビエッタとやれば良いだけなんだから。
『よし!そうと決まればー、酒場が開くまで、どこか雰囲気の良い場所で愛でも語り合うとするかー…また明日な、ルクスー。』
『はっ…ふざけるなチェスタっ!本当にお前は馬鹿だっ!』
チェスタがビスカの手を掴み、見せびらかすように引く。慌てたビスカはその手をぶんぶん振って解こうとするから、二人は遊んでるか、喧嘩でもしてるようにしか見えないけど。
『あぁ、また明日…チェスタ、ビスカ。』
チェスタとビスカは脇に曲がった。雰囲気の良い場所って何処だろう。雰囲気がどういった物なのか、よく分かんないけど……外周へ回って、海でも眺めるのだろうか。俺は、この町の景色の中なら…って話だけど、海と夕べが結構好きだ。
俺は階段をひたすら下りて、真っ直ぐに家へ帰る。
プリマはきっとまだ仕事の最中だ。箱の上でガチャガチャ何かを弄ってるか、外に出掛けて何処かの小屋でも直してるか…夕の分の弁当もまだ出来上がってないだろうし、弁当はプリマの仕事が済んでから貰いに行った方が良いだろう。
医者が死んだところにやって来た医者は、まるでミズルからの贈り物……果たしてそうか?
ミズルが産んだこの町へ、ミズルからの贈り物?
と言うよりは、修理みたいだ。そう呼ぶ方がしっくり来る。壊れた自己機構を直すみたいに、外部から取り込んで、動かして……何だか、病気みたいだ。
そうだ。風邪や筋肉痛が放って置いても治るのは、栄養を取って安静にして養生したら、身体の中で自己治癒力が働くからで…ミズルがミルハンデルを取り込んで、ロラサンと言う欠片を失ったこの町の歯車達は新たな欠片を受け入れて、またその内滞り無く回るようになって……ミズルはそうやって、この町と言う大きな一つの生物を育て生かし続けてる。
意思を持たない呪いが飛ばしてくれた奴が偶々必要な人材だったなんて話よりも、よっぽど納得出来る。
……本当にそうか?丁度席が空いてた?医者しか取り柄が無いからありがたい?
ミルハンデルがそう言うなら、納得するしか無いじゃないか。この憤りには、遣る瀬が無い。
ミズル……お前は、本当に存在するんだろうな?
神のように、何処かで…俺達を眺めてるのか?何の為に?目的すら存在しない程の、理不尽の為に?
いつか必ず、お前を見つけてぶん殴ってやる。
どんなに天上で嘲笑ってようが、其処まで辿り着いて掴み掛かってやるよ。
呪いを殺したら呪いは晴れて、海に漕ぎ出し故郷に帰れるようになるだろうか?
……そんなことは、今は取り敢えずどうでも良いんだ。殴らないと気が済まないんだ。
まるで遊びのように一つずつ人間を集めて、纏めて怠惰に飼い慣らすこの呪いを。
きっとそうしたら、ミルハンデルの目も少しは覚めるんじゃないか。故郷のことを思い出して、情熱を取り戻して……ルートリーとか、ダンダリアンとかも、被害者達で船を造って漕ぎ出して……プリマ達に、俺の故郷の素晴らしさを見せ付けられたなら。
プリマにいつの日か、俺の故郷の海と夕べを見せてみたい。
……叶え方の想像も付かない未来を空想する行為は、眠りながら夢を見る時と同じ部分を浪費してる気がして、虚しくて、癖になる。
第12階層。恐らく、一度だけ訪れて、何か料理を食べた事が有ると思うんだ。
でもそれはきっとやっと歩けるようになった頃で、何も覚えてはいない。その後、私はじいちゃんに誘われても『シブリーで良い』と一点張りだったみたいで…。
人が沢山歩いている。目が回りそうだけど、恐らくこれが酣では無く、これから日が沈む程に賑わいが増し、大人は酒に頬を染めるのだと思う。
ルクスに導かれるがままに階段を上り継ぎ、黄色い門を潜った。ルクスはどうやら、私が逸れない様に努めてゆっくり歩いてくれているみたいで…少し忍び無い。いっそ何処かルクスの端を掴んでくっ付いて行きたいけれど、常に片腕の塞がったルクスにそんな事をしてしまったら、危なくて仕方が無いだろう。
低層とはまるで違う景色を進んで、恐らくこの階層の東端。突き当たりそうになった所で、ルクスは左手の小さな部屋の扉を開けた。
我が家によく似た蒼い扉。壁の色が変われば、印象も少し違う。
『ダンダリアン…。』
『ルクス……待って居たぞ。随分可愛らしい家族だな。よろしくプリマ。』
ルクスは小さなカウンターの中に苦しそうに収まる大男を、ダンダリアンと呼んだ。じいちゃんのように無骨そうな男だが…こいつが、料理をするのか。
『よろしく、ダンダリアン。』
『嗚呼。さぁ、此の辺にでも座ってくれ。其の端は二人組には座り辛いから、またどうせ今夜もやって来る無愛想な小娘に座らせよう。』
逞しくても、笑顔はとても温かい男だ。きっとじいちゃんよりは、人と触れ合う事に慣れて居るんだと思う。
無愛想な小娘とは、そのような常連が居るのだろうか……私の事を表したみたいで、一瞬胸を衝かれてしまった。
促されて、私は一番左端の席に、ルクスはその隣に腰を下ろした。カウンターの中が少し見えて、中には何が何なのか想像も付かない大小の瓶や、食材が入ってるのであろう箱が沢山積まれている。調理器具は、シブリーに教えて貰ったから少し知っている。寸胴鍋、フライパン、ターナー、おたま…あれは肉を切る包丁。あっちは魚。あれは野菜を刻む筈だ。
『昨日は大変だったらしいな…お疲れさん。だが、問題は解決したんだから、良かったじゃないか…。』
ルクスの今回の仕事について、私は殆ど何も聞かされて居ない。私がルクスに修理について話す意味が何も無いのと、理由は同じだ。
だが、ルクスが酷く疲れてそうだったことは甚く感じていて…階層の移動だけでも辛かっただろうに、何やら思いを巡らせて難しかったんじゃないかって、そんな風に見えた。
『チェスタ達から聞いたのか?』
『否、チェスタ達は確かに来たんだが…実はその後ゴードルンも来てな。俺は何もしてないってのに礼を言われたよ。俺のお陰でルクスに出会えた、ってさ。』
『何だよ、結局ゴードルンも来たのか?』
『嗚呼。チェスタと…ふっ。ふっふっふ……ビスカの様子を見て、何とも言えない顔をして居たな…ビエッタは怪訝そうだった。否…やっとビスカに会えて良かったな…。』
ルクス…私の知らない知り合いが、何人も増えたんだな。
良かった。これはきっと、これこそが間違い無く、ミズルの加護。
ミズルよ…貴方に奪われ舞い降りたこのルクスと言う細やかで尊い一つの命に、どうか安らかな幸を、一つでも多く与え給え。
『…ダンダリアン。』
ダンダリアンは蓋をしたままの浅い鍋と、隣に置いた深い寸胴鍋をそれぞれ火に掛け出した。ルクスが事前に約束を付けてくれて居たらしいから、きっともうあの鍋の中に食材を仕込んで待ち構えて居たのだろう。
『何だ?ルクス。』
ダンダリアンは足元からグラスと橙色の瓶を取り出す。注がれ、水で割られた橙は向こうの世界を透き通す。
『ダンダリアンは……否。ダンダリアンの故郷って、どんな所なんだ?』
故郷……私は、使った事が無い言葉。
しかし、きっと何処かで一度聞いた事が有る。そんな言葉を私に聞かせてくれたのは、きっとミスケ…。
『俺、記憶が無いから…聞いても全然分かんないかも知れないけど。』
ルクスはどうやら、本当に聞きたかった事を濁して着地したみたいだった。そしてそれをダンダリアンも察していて、温かな微笑みがルクスを宥めた。
『ふっ…其れを言ったら、プリマはもっと分からないんじゃあないか?お前さん、町育ちなんだろう?』
『ん、あぁ…外の世界の事は、分からない。プラツェが少し話していた事が有ったかな。外の事を話したがる被害者には、会った事が無いから…。』
故郷とは、外の世界の事だ。ルクスにとって、外の世界とは故郷。
『ははは、そうだな。べらべらと饒舌に過去を話したがる奴も居るが…余計な事は話さずこの町に溶け込む奴の方が、何方かと言えば多い気がするな。暮らしが軌道に乗れば、皆がそうなる。』
『……そうなのか。』
ダンダリアンがそう言うとルクスは意外そうで、気落ちした風にも見えた。
『…俺の故郷はプーフスクだ。とは言え傭兵としてあちこちを転々として…結局は三国全てに加担した。俺に取っては故郷等、在って無い様な物だ。』
プーフスクとは知らない言葉だけれども、恐らく国の名前だ。外の世界には三つの国が在るとは、プラツェが言っていたような気がする。国と言う物に何の意味が有るのかは分からないけれど、国とは只の単位で在り、塊。
ダンダリアンの言葉の一つ一つ、何がどうルクスに作用しているのか見当が付かないが、また微かに気落ちたように見える。
『…プーフスクって、町の名前か?知らないや…ごめん。』
ルクス…さてはこの話題を選んだ事を、後悔してはいないか?
望む答えが得られなかったのは、当てが外れたからじゃない……ルクスがダンダリアンに…否。それよりも私に、気を遣って本当に知りたかった事を素直に口に出来無かったから。
『お前は何と無く、ビルバルドの様だ。』
ルクスがこの男と懇意になった理由が見えて来た。
ダンダリアンは人の心の機微を、揺らぎを察知する事が出来る。それはきっとあちこちを転々としたと言う経験から培われた能力なのだろう。そしてその能力を活かす事の出来る、心根の優しさを併せ持っている。
ルクスもダンダリアンも、お互いが優しいから友達になる事が出来たのだ。
『は…?ビルバルド?』
この言葉もルクスの記憶からは奪い去られて居るみたいだけれど、察するにこれもきっと…
『国だよ。外の世界の国。俺達外から来た者は皆、三つの国のどれかの人間だった。ビルバルド、ハールラマ、プーフスク…。』
国とは、きっとこの町に住む私には測り知れない概念だ……何故世界が、三つに分かれる必要が有るのだろうか?外の世界は折角、きっと素晴らしく広大な筈なのに。
『まぁ、三つの国に文明・文化的な違いは全く無い。只『敵』なだけだ。しかし何故だろうな…其の、穏やかな闘志が、何と無くな。お前の其の目は、ビルバルドだ。うん。』
『闘志…?』
ルクスは擽ったそうに小首を傾げた。
ビルバルドと言う国の事は一つも分からないが、闘志と言う言葉は腑に落ちる。確かにルクスには、鍋の底から静かに泡が立つような熱さが有る。激しくは無くとも、決して潰えず、薪を焚べれば沸騰してしまいそうな危うさを秘めた熱さが。
『俺はビルバルド軍として戦った事も有るし、ハールラマやプーフスクとしてビルバルドと対峙した事も有るからな…当たってると思うぞ。保証は無いが。』
ダンダリアンは寸胴を一つ掻き混ぜながら、隣の浅鍋の蓋を開ける。中には丸々と大きな魚が2匹、雑に重ねられて居る。部屋は芳しい蒸気に包まれて…不思議だ。シブリーの台所では嗅いだ事の無い香りだ。荒々しくて、心を揺さ振る。
『きっとゴードルンも言って居ただろう。』
2つの大きな皿に、丸々一尾ずつの大きな魚が乗せられる。弁当には切り身しか入っていないから、丸ごとを食べると想像すると…何だか、心が踊るな。
『此の町へ流れ着く者は、何故だか兵士が多い。お前も案外…兵士なのかも知れんぞ。あの健気な腕も、何かを守って居たのかも知らん。』
そう言いながら、ダンダリアンは一つをルクスの前に、もう一つを私の前に差し出してくれた。ニヤリと笑って、どうやらルクスが救われる事の無さそうなこの話題には、一区切りの合図。
『……そんな訳が無いだろ。』
『……ふっ。さぁ、熱い内に食べるんだ。スープも今よそうからな。』
籠る蒸気の所為か、話が思うように行かなかった決まりの悪さからなのか、ルクスは気恥ずかしそうに左手と…おたまが消えた右手を合わせる素振りをする。
私も両手を合わせる。いつも必ず目を閉じて、シブリーの笑顔とマミムや魚の在りし日の姿を思い浮かべていた。でも今日は、目の前のダンダリアンを見据えて。
『いただきます。』
いつもと同じように、ルクスと声が重なった。
『おう。熱いから気を付けな。』
いただきますに返事が来るのは、久し振りの感覚だ。プラツェの育て屋で、チェスタとビスカとスーピーと、皆でシブリーの弁当を食べた時以来。
切られていない魚は、何処から手を付けたら良いか分からない。一番美味しそうな腹の真ん中を突き刺して、巻き込んだ僅かな身を口に運ぶ。
自分の身体と世界との隔たりが消え去ったみたいだ。外から吸い込んで鼻を通る芳香も、口の中に運ばれて喉を通る熱気も、同じ味がするものだから
『熱っ…!』
思わず声が漏れそうになったけど、そそっかしいルクスが先に声を上げてそれを遮る。
『おいおい…だから、そう言っただろう?こっちも熱いぞ。』
ダンダリアンは笑い飛ばしながら、今度は椀にスープをよそって出してくれた。濛々と湯気が立ち込める。
『プリマも、気を付けてくれよな。熱いから、冷ましながら食えよ。』
『…あぁ、ありがとう。』
ルクスは余計に罰が悪そうだ。恥じる事など無いのに。熱い物に熱いと漏らすのは当たり前だし、美味い物に逸るのも又然りだし……何よりも今、私もダンダリアンも、とても楽しいのだから。
ルクスには納得が行かなかったようだけれども…私にはこれも、至極腑に落ちる。
ルクスには闘志が有る。きっと兵士に向いていた筈だ。兵士とは何物なのかは知らない。でもダンダリアンの口振りから推測が利く。兵士とは、何かを守る者。
ルクスの闘志は激しくは無いが確実に其処に有り続ける……それで居て、優しさも持ち合わせて居るのだから、ルクスはきっと大切な物を守るのに向いている筈だ。
ダンダリアンを信じてみよう。
ルクスは、兵士。
ルクスの故郷は、ビルバルド。
ビルバルドって、一体どんな景色なんだろうか?人々は…ルクスの、家族とは?
いつか、見る事が叶ったら良いのにな。
ルクス……私の故郷は、この町だ。
この、名も無き吹き溜まりの温かさに、これからもお前が触れるように……
お前の故郷の温かさも、いつか私に見せてはくれないだろうか?




