表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Home⇔Town  作者:
3/6

第15階層。(前)

『すげーっ!美味っ…何だ此れ!レストラの酒ぐらいうんめ〜じゃねぇかっ!レストラが作ったんだから当たり前か!ははは!レストラの酒都合して貰えん事なんか如何でも良くなっちった…此のジュースは、もっと世に広めんべきだ!』

依頼人のダンダリアンでもなく、頑張った俺でもなく、何故かピズーリが一番盛り上がってる。

酒を都合って、何の話だ…?まぁ、どうでも良いならどうでも良いか。

『嗚呼…素晴らしい。砂糖漬けの筈なのに、素材の味が確かに感じられて、爽やかで上品だ。レストラに此の様な才能迄有るとは…。』

ダンダリアンは一口ずつ確かめながらジュースを味わい、酒場内は和やかな空気感だ。でも…

『ダンダリアン…もし満足出来なかったらまた話を聞いてくれるって、レストラは言ってたけど……誰かを笑顔にしたい時に、手伝ってくれるって…だから』

『否…此れで良い。今は此れが良い。お前のお陰だ。本当に有難う。ルクス…何でも屋の、ルクスよ。』

止めてくれ…嬉しいから。

俺はこの状況を以ってして、気付いてないんだ。俺の根がこの町に伸びようとしてることを。忘れてるんだ。この町で生きてしまったら、俺の負けだということを。

ミズルに、負けるな。

『ルクス。間も無く空が朱らみ、日は沈もうとするだろう。良ければ、また腹を満たしてから帰るか?』

確かに昼過ぎにポロップの元を発って、レストラのところで試飲をして、酒場でジュースも楽しんだ。

チェスタ達にはこの後寄って今回の報告をするって言ってたけど…どうせもう今日の仕事は殆ど残ってないだろうし、飯の一つくらい食べてから帰っても大差無いか。

『じゃあ、食べてく。飲み物は橙ジュースで良いや。桃ジュースはダンダリアンの物だから。』

『お…はは、そうか?じゃあ、御言葉に甘えようか。適当に作るから待って居な。』

ダンダリアンは言いながらもう足下の瓶を取り出して、新しいグラスに橙色の液体を注いでくれた。

料理の様子を何と無く眺める。ピズーリは未だ興奮冷めやらぬままジュースの味や感動について語りまくってる。ダンダリアンはそれに適当な相槌を打ちながら後ろの箱から肉を出し、叩き始めた。

この前来た時とは…仲間と共に来た時とはまた包まれる空気感が全然違う。

他の奴が話してる様子を横に眺めながら、会話が耳を通り過ぎながら、人と居る筈なのに1人の時間なんだ。

チェスタ達と来た時に居たビエッタもこんな気分だったんだろうか?悪くない、気分だよな…。

何処から来たのか不思議な心地良さに、身を委ねようとしたら

『旦那あ!』

新しく滑らかな扉は全く音を立てないから、まるで唐突に其処に現れたかのように男の声が高らかに響く。

『…ゴードルン!』

『おっ、ゴードルンだぁ〜。』

ダンダリアンとピズーリは笑顔で振り返る。

俺も振り返って見てみると…ゴードルンと呼ばれた男は、今までこの町では見たことが無い、ちょっと変わった格好をしてた。

髪は下は刈り、上は纏めて後ろで1つの団子にしてる。服は…普通なんだが、上半身に…何だっけな、これは。鎧とは違って…胸に当てるような。そう、胸当てだ。胸を守る為の鎧。黒と茶の斑模様で、恐らくマミムの皮で作られてると思う。この争いも天敵も無い平和な町で、何の為にそんな物を着けるのか。

『偉く楽しそうだな、ピズーリ…おや。見ない顔だ。酒を飲むような面構えには見えないが…旦那かピズーリの知り合いなのか?』

ゴードルンは何故か俺の隣の席に座り、俺はピズーリとゴードルンに挟まれる。ダンダリアンは何も言われてないのに、さっき自分が飲んでたみたいな琥珀色の液体が入ったボトルと、綺麗なグラスをゴードルンの側に置いた。

ゴードルンの年は、ピズーリより少しだけ上のように見える。口元と顎に髭を生やしてる所為も有ると思うが。でも、ダンダリアン程大人ではないと思う。

『お前、名前は何だい?俺はゴードルン。ゴードルン・ポゼーソンさ。よろしくな!』

ゴードルンは注いだ琥珀の液体を一口流した後、笑顔で右手をカウンターの上に乗せ差し出してくる。が、俺は意味が分かんない。そう、今まで…スーピーとダンダリアンは左手を差し出してくれたから、自然と左手を返すことが出来たんだ。

『…何だ?俺は何か気に食わないことでもしてしまっただろうか?』

?が幾つも浮かんだまま、取り敢えず何か言葉を返そうとすると

『ゴードルン、よく見てやってくれ。そいつの右腕は俺達の物とは違い少しだけ前衛的なんだ。』

ダンダリアンが助けてくれて、ゴードルンは俺の滑稽な右腕を発見する。

『は……何と!このような腕は初めて見た!外の世界にはこのような腕が有ると言うのか…?ああ、すまない。改めて、よろしくしてもらえたら嬉しい。』

ゴードルンは右腕を引いて、今度は左手を差し出した。

『よろしく…俺は、ルクスだ。』

俺も左手を差し出し返すと、ゴードルンがぐっと掴むので応じて掴み返す。スーピーも、ダンダリアンも、この行為に何の意味が有ると言うのだろうか。初めて見える者とは、手の平を交わせば良いのだろうか?

『もしかして、被害者なのか?記憶の無い…まあ、握手くらいは忘れても大した問題は無いさ。応援しているよ。』

俺は気付いてない。いつの間にか緩衝を挟んでない。俺が認めてしまえば、ルクスとは俺の名だと言うことになってしまうのに。

そう言えばこいつにも名前が2つ有ったな。皆がゴードルンと呼んでるんだから、俺もそう呼べば良いだけか。

『ところでピズーリは何をそんなにはしゃいでいるのだ?美味い酒にでも巡り会えたのか?』

『ち、ち、ち。近いが、違うぞ。今日、俺は素晴らしいジュースに出会えたのだ!レストラの傑作ジュース…!』

作ったレストラでもなく、頑張った俺でもなく、何故かピズーリが一番偉そうだ。

『レストラが…ジュース?そんなの初耳だ!是非飲んでみたいものだ……旦那、俺が飲む分は余っているかい?』

『ん?嗚呼』

『このジュースの残りはダンダリアンの物だ!』

事情を知らないゴードルンには悪いが、強めに遮ってしまった。優しいダンダリアンは、どんな奴にでも一杯分けると言ってしまいそうだから……こんなことになるなら、ピズーリに飲ませるんじゃなかったな。

『そうなのか…?それはすまない。旦那、レストラに直接交渉でもしたのか?羨ましいなあ…酒場ならではのコネかい?』

どうやらゴードルンは悪い奴ではなさそうだ。多少勿体振った口調では在るが、ダンダリアンやビエッタと比べると、何処か柔らかい。

『ふ…何でも屋に無理を言って、我儘を叶えて貰ったのさ。』

頑張った俺ではなく、何故かダンダリアンが誇らしそうに見える。何故か、悪くない気分だ。

『何でも屋…?』

『何でも屋は、依頼されたら何を何処迄も何でもやってくれると言う、斬新な職業だ。な、ルクス。』

『は…?』

俺の答えを聞くまでも無く、ゴードルンの顔は理解の色を失う。こんな反応にも、もうすっかり慣れた。

『…その通りだ。言われたら何でもやる。他の仕事の手伝いも、下らないことも、ちょっと自分勝手なことも。』

そう言うと、ダンダリアンは小さく息を吐いて微かな笑みを押し殺した。俺にはダンダリアンが笑った理由が分かるから、少しだけ擽ったい。

『それは確かに斬新だ…!素晴らしい!』

……ん?この反応は、まるで…あの夜の

『…おや。早めに来た積もりだったのだが。』

滑らかな扉はまた音も立てずに開く。部屋の中に蒸し蒸しと篭った香りが逃げて行く。

現れたのは、一度見知った女。ビエッタだった。

『あっ、ビエッタ。久し振りぃ〜。』

『嗚呼、ピズーリ…久し振り。だがお前がダンダリアンに寄越したワインは確実に私の中に取り込まれて居る。』

『ははっ!そりゃ良かった!仕事の甲斐が有るわぁ!』

ビエッタはピズーリと会話しながらゴードルンの隣、折れ曲がり独立した一席に腰を落ち着ける。その間にダンダリアンはもう、赤いワインのボトルとグラスをビエッタの目の前に置いてる。そして

『ルクスも、お待たせ。相変わらず料理に成っては居ないが…香りだけは良いだろう。』

ビエッタが扉を閉めたことに依って、再び肉とハーブの香りばかりが空間を支配した。マミムの肉は臭みが少なくジューシーだけど、ハーブの香りが強く感じられて爽やかさも有る。

『ありがとう…いただきます。』

ダンダリアンの目を見て言うと、その目を細めて返事としてくれる。

ダンダリアンは片手しか使えない俺の為に、肉を小さく切って出してくれた。欠片の一つをフォークでぶっ刺して口に運ぶ。噛むと肉の汁が溢れ出て、それだけなのに不思議と幸福が満たされゆく。きっとハーブが同じなのか、この前の魚の味に通じる部分も有るな。シブリーのマミムとはまた全然違う…豪快な味だ。

しかしダンダリアンは、料理に関して特に卑屈に見える。こんなに美味い物を出せるのに、料理じゃないとか、そんな小さくあやふやなことばかり気にして。

『美味そうだなぁ…何でも屋。俺も腹ぁ減って来たなぁ〜。』

『そうだよなあ。俺も同じものが食べたくなってきたよ。』

ピズーリが俺の手元に横目を流すと、ゴードルンも同調する。

『嗚呼。良いだろう、待って居な……ビエッタは、食うか?』

『否…未だ、大丈夫。そいつらに先に振る舞ってやってくれ。』

ビエッタはまた、澄ましてワインを含みながら、聞いてないようで居てずっと俺たちに耳を傾けてる。

『おぉ〜、ありがとよビエッタぁ。宜しく、旦那ぁ〜!』

ピズーリは流石にもうレストラのジュースを飲み干し、最初に飲み掛けてた橙色の液体を呷った。あれってもしかして、只のジュースか?

皆仲が良さそうだ。客同士で仲良くすることも有るのか…そりゃそうか。酒が好きで、ダンダリアンが好きで、同じ場所に集まるんだから。

『なぁ…ルクス。お前、何でもやると言っていたが…実際どこまでやってくれるんだ?その…腕に、枷をはめて。』

尤もな疑問で在る。そして、今まで何回も投げられてきた疑問でも在る。

『…何でもやってきたよ。あと2人、仲間が居るんだ。手伝ったのは、掃除屋、育て屋、材木屋、水屋、花屋…助っ人以外だと、朝起こしたり、代わりに弁当屋に並んだり、クルッケルの審判をしたり…あとは』

『ああ、なるほどなるほど…よく分かった。本当に何でも有りだということが。素晴らしいよ。俺の話も、聞いてもらうことは出来ないだろうか…?』

やっぱり。そんな気がしてたんだ。素晴らしいなんて言って、目が輝き出して。まるであの夜のダンダリアンみたいな。

まるで一筋の希望に縋るみたいな、なんて言い過ぎか?

『聞くことは出来るけど…依頼を受けられるかどうかは分かんないぞ。本当は俺、第4階層に住んでて…ダンダリアンの依頼を受けたのも、何て言うか…その、リーダーみたいな奴に許可を貰ったからなんだ。』

癪だ。とても不本意だ。でも、他に伝わるような言い方が思い付かない。確かに俺もビスカも、チェスタの指図を中心にして動いてるのだから。

『そうか…それでは仕方がない。どうしたものか。実は今日ここに来たことも、この話のためを兼ねていたのだ。皆の心当たりを借りたくて…。』

ゴードルンは思い出したように深刻な顔に変わった。さっきまでの陽気は何処へやら、憂いが過ぎる程に。

『如何したんだ、ゴードルン…解決に近付くかは分からんが、近付かんとも限らない。是非話してみてくれ。』

ゴードルンは琥珀色の液体で一口喉を流し、改まって語り出した……俺を含めた他の全員が、静かに耳を傾ける。

『実は……ロラサンが死んじまったんだよ…。』

『えっ…!』

ロラサンって、誰だよ?

他の3人は大層驚き、信じられないって顔をしてる。

こいつらが知ってるってことは、この辺の階層の奴なのか?死んで驚く程仲が良いか、名の知れてる奴ってことなのかな…?

『ロラサンが居なくて、医療は間に合って居るのか?』

ダンダリアンが心配そうに問う。ロラサンとは医者だったのか?

『そうだな…周知だろうが、元々あの辺りは人口も比較的少なく、その分トラブルも少ないのだ。ロラサンも、俺が飛ばされて来た頃には既に高齢で出来ることも限られていたが、大きな問題も無くひたすら地域の相談役といった存在だった。日に日に老い医療と呼べる行為が出来なくなってきても、早急に切迫するということも無かった。しかし5日前にロラサンは死に…どうもそれを境に、医者の手を借りたいと言う者が漸増している気がするのだ。』

『は…?』

『…如何言う事なのだ?』

ピズーリは化かされたような、ビエッタは訝るような、それぞれの驚き方をする。ダンダリアンは焼いた肉を取り上げながらも、確かに目を丸めてる。

『どうもこうも…こっちが聞きたいさ。皆、医者という頼れる存在が失われて不安が募っているのやも……今のところは大した相談は無いんだが。いつか何かが起こりそうで、起きなさそうで…胸騒ぎがする。酒場に来れば、何か伝手を探れるかと淡い期待を胸に来たんだよ。』

ゴードルンは手を組み俯いてしまう。思ったよりも随分深刻な話だった。医者が居ないだなんて…考えられない事態じゃないか?

どんな職業も名乗ったもん勝ちだから、必要なものが失われっ放しになるんだろ?

『人口の多い12階層と20階層の間である第15階層は、生活基盤の境目でもあるのだ。11階層の医者モネミは12階層以下のことで、22階層の医者ニケアは20階層以上のことで、それぞれ手一杯だ……まあ、それでもたまに助けてはくれるがな。しかしもしもの時を思うと…もしものことが起こりそうで、少し恐ろしいのだ。この町に限り、そのようなことは無いと分かってはいるのだが。』

もしものことが起こりそうだ。

そんなことより

そんなことは無いと分かってる。

こっちの台詞の方が気になってる。

もしものことってどんなことかは知らないが、どうせ良くないことなんだろ?何故そんな最悪の事態を想定して動こうとしないんだよ。この町の奴らの頭ってどうにも、雲の上でふわふわ遊んでるみたいだ。

トロイメラの、生気が無いと言う表現を思い出して、余計に気に食わない。

『何でもしてくれる何でも屋があれば、医者の代わりをしてくれるか、医者を探すかしてくれるやもと思ったのだが…。』

ゴードルンは何の算段も無さそうにちらりと横目でこちらを窺う。確かに聞いた限りではこんなの八方塞がりで、どうしようも無いじゃないか。

こんな事態が相手では、何でもやるより他が無い。

『……チェスタと…リーダーっぽい奴と相談しなきゃどうするか目処が立たない。此処より更に上の階で、いつ見付かるか見通せない医者の代わりをするのは難しいと思う。でもこんな状況放っとくことなんて出来ないから、何か力になれないか皆で相談してみるよ…それで、どうだ?』

こんな口約束をしたら、チェスタに窘められるだろうか?だってダンダリアンの依頼だって特別扱いだったのに、今度は更に上に行くだなんて。俺は楽しいんだけど。

レストラの蔵は第16階層だったから第15階層も通ったけど、ただ通り過ぎるだけだったからどんな施設が在ってどんな雰囲気だったのか、碌に見ることが出来てないんだ。

こんな事態に不謹慎極まりないが、今の俺にはこの町を知り脱出の手掛かりを探るだけが道だから。

『ありがとう、ルクス!ああ、このような出会い…正にミズルに感謝だな!』

『はっ?』

何だこいつ!

良い奴だと思ってたのに…選りに選って、ミズルに感謝だと…?

そんなのまるで、俺をこの町に飛ばしたことを感謝してるってことじゃないか!

『ゴードルン…こいつ、最近飛ばされて来たばかりの様なんだ。だから…』

ビエッタが諭すように声を掛けると、ゴードルンは

『は…あ、そうなのか!てっきり……いや、本当にすまない!まだ、乗り越えていないのだな…。』

まだ、とかそんな言い方も止めろ。いつかは必ず慣れてしまうみたいだろ。

『気を悪くしたならばすまない。今の言葉は忘れてくれ。きっとこの町の空気に溶け込んだならば…あっ!……本当に、すまない。』

…もう帰ってやろうかな。チェスタやビスカに相談しないで、もうすっかり俺の形になった布団に帰って、プリマが何かを弄るガチャガチャした音に身を委ねながら、寝てやろうか。

『ごちそうさま。』

『ん、嗚呼。』

全ての肉が俺の腹に収まった。取り残された皿と、桃と橙だった2つのグラスを目の前に押して寄せる。

『じゃあ俺は行く。ありがとう、皆。』

狭苦しい席から立ち上がろうとすると、ゴードルンはこの前衛的な腕に追い縋る。

『ま、待ってくれ!医者の件、よろしく頼むぞ!もう二度と、ミズルがどうこうなどと言わないからな!』

『分かってるよ…。』

頗る不快な気にはなったが、問題は深刻だから仕方が無い。

医者が居ないとさぞ不安で在ろう。俺のおたまは幸せだった。プリマが直そうとしてくれたから。

『ルクス、またな。』

『また…。』

『またな!今度こそ良い酒見付けたら紹介してくれよなぁ!』

ダンダリアン、ビエッタ、ピズーリの順に送り出してくれる。温か過ぎる度に、カストルが言うようにゴードルンが言うように、根が伸び染み込んでしまってないか。忘れ掛けてた危惧が忘れてたみたいに襲ってくるんだ。

『よろしく頼むよ、ルクス!』

ゴードルンは駄目押しの一声を押し付けた。俺は返事のつもりで軽く手を翳してから、黄色い門へ向かった。

もうすっかり日が暮れて、第12階層はまたあの賑わいで埋め尽くされてる。

この中には町育ちも被害者も居る。どちらも居るしどちらかしか居ない。

でも、どちらも同じ暮らし方をしてる。町の人々は被害者を受け入れて、被害者はこの理不尽な町を受け入れて。

気に食わないな。まるで俺が、我儘で聞き分けの無い子供みたいで。

気に食わない…いつか慣れるなんて先人振って語るゴードルンやビエッタが。そんな言い方をするということは、自分だって最初は出来なかったということなんだ。根を張り溶け込むと、受け入れることが。

あいつらは負けただけなんだ。ミズルに抗う心が、折られて砕けてしまっただけだ。

きっとそれだけだ。帰れるんだったら、誰も好き好んでこんな理不尽な無秩序に身体を預け浸されるなんて…

そう、生気が奪われるだけだろう?


『ルクスー…遅すぎて今日は帰ってこないのかと思ったが……なぜいつも俺たちの邪魔をするのかー…?』

俺…この家に来る時は、必ずこいつらの邪魔になってないか?きっと俺のタイミングが悪い所為なのに、こいつらが悪いんだろうって気がしてるのは何故だろう。

『あと15秒、いや30秒待つんだー………うん、んー…よし、入れー。』

躾けられたマミムのように立たされて、ゴーの合図で漸く入る。それにしてもこいつらがこんな感じになる時って、大体いつも布団が敷いてあるよな…。

『る…ルクス、おかえり…おつかれ…。』

いつもは体力が有って真面目で頼もしいが、今回のビスカは随分と頼りない。本当に、よく分かんない奴。

『さてー、ルクスによって一枚だけになってしまった我が家の布団を退けて、報告を納めて貰おうじゃないかー。』

何だよいちいち嫌味にして、もう良いよ。遅くなった挙句邪魔をした俺が悪いよ…。

『ダンダリアンの依頼は…レストラの酒を届けることは出来なかったけど、代わりにレストラが作ったジュースを届けて、ダンダリアンには満足して貰えたみたいだ。成功って言って良いかなって、俺は思うんだけど…。』

『えっ…レストラが、ジュース?』

『それはすごい…レストラは酒を作るということしか知られていないはずだがー…まさかルクスが、動かしたのかー?』

2人は…2人も、目を丸くする。酒で有名になると、酒以外の物を作るだけでこんなにも様々な人々から驚かれるもんなんだな。

『否…多分レストラは、ダンダリアンだからジュースを作ることにしたんだと思う。兎に角レストラはポロップの水に満足してくれたし、ダンダリアンもレストラのジュースに満足してくれたから解決だ!…それで、飯を作るって言ってくれたから酒場で待ってたら、ビエッタと…ゴードルンっていう男が現れて。』

チェスタはこの後話がどのような流れを辿るのか、勘が働いてきた風に見える。傾けた顎を拳で支え、ほんの微かに眉が寄る。

『…ルクスー。その、ゴードルンという男は第何階層に住んでいるんだー?』

チェスタの心中を推量してみる。『こいつちょっと1人で行動させた途端に芋蔓みたいに面倒臭いことを持ち帰って来やがって』『どうしてそんなに上の階の仕事ばかりに時間と人手を割ける訳が無いだろう』『しかし上の階には何でも屋を必要としてる奴らが結構居るんだな』『やっぱり何でも屋とは画期的で最先端の素晴らしい職業なのだ』…とか、そんな感じか?

『ゴードルンは、詳しく聞かなかったけど…多分、15階層辺りだと思う。15階は人の多い12階や20階に挟まれて、医者の手が行き届かないらしい。』

『医者…?それは、つまり…!』

『は…それって結構、まずいんじゃないのか?』

2人は皆まで言わずとも察してくれたらしい。話が早くて助かる。

『15階層の医者が、死んだらしい。だから医者の代わりになるか、医者を探して欲しいってさ。』

そう伝えたところで、結局今回は難しいだろうなって思いながら吐く。だってこの第5階層から第15階層まで上り下りするにも時間が掛かるし、この近辺の階層はドミトルとパストという医者が2人で受け持ってて、他に医者は見当たらない。つまり上へ…恐らくゴードルンもまだ行ってないような、第22階層以上に余ってないか探しに行かなくちゃならない。

この大きな町の、いじらしい階段達が邪魔をして非現実的だ。

『そんなにも…思っていたよりも、随分深刻だな……うーん。しかし明日も明後日も仕事は詰まっているし…どうしたものか。』

チェスタは俺と同じ感想を呟きつつ、どうにか都合を付けようと画策してくれてる。

『ルクス…お前ってやつは、本当に面倒だー…困った者の話を聞いたならば、放っておくことは出来ないー……それが、何でも屋なんだ。どうだ…不便だろうー?』

『全くだ…ごめん。』

俺の謝罪を聞いた途端に踏ん切りが付いたのか、チェスタはそれはそれは大きなため息を放った。

『はああああー………ビスカ…明日の仕事は何だっけかー?』

ビスカは宙に確認を取りながら、指を折る。

『…明日は頼まれてた洗濯をして各家に届けて、第1階層で海の掃除、第2階層の鍛冶屋のルジが作った農具を各農家に届けに行って、ついでに農家に困ったことは無いか聞いて、なんかあったらそれも手伝って…全部終わったら第4階層のプラツェのとこに行って、また子供たちとクルッケルしてやらなくちゃなんない。夜になったら第5階層に戻って、風呂入るついでに古い風呂桶を全部新しいやつに取っ替える。』

明日も相変わらずか。何でも屋って本当に何でもやるんだよな…それに、頭がおかしい。

海の掃除なんていつでも良いし、子供と遊ぶことなんかより医者が居なくなったことの方が確実に一大事だろ。

『……よし、決めたぞ2人ともー。』

俯き思案してたチェスタが顔を上げ、俺達を見渡す。

『洗濯は手際良く終わらせるしか無いとして…海の掃除は近日以内に後回し。農具はきっちり全て運ぶ。ただし農家の困りごとは、余程逼迫したもの以外は後回し。クルッケルは大事な仕事だが…致し方あるまい。後日に回して……1人でこなしたら、この辺でもう日暮れだろうー。風呂のついでに桶を替えるのは、予定通りだー。』

1人…?俺とビスカには、チェスタの思うところがまだ見えてこない。

『チェスタ…結局、どうするんだ?』

ビスカが聞くと、チェスタはムッと恨むように俺を向きながら種明かしを始めた。

『分担だー。この問題は早急に解決に挑まねばならない。まず、ビスカは通常通り下層階で何でも屋の業務に当たれー。明日の予定は今言った手筈で頼むぞ。そしてルクスー…。』

ムッと睨むように目を合わせるチェスタ。お前の所為だぞと、恐らく言ってる。

お前さえ居なければ、下層階の生温い依頼だけこなしてのんびり暮らせたのに、とか…?

流石にそれは、言い過ぎか?

『ルクスー、お前は医者の代わりだ。』

『はっ?』

何言ってんだ、こいつ?

『お前は第15階層にて、故人が執り行っていたような…診察の仕事に従事しろ。俺は…2人をそれぞれサポートしながら、様々な階層を当たり医者を探そう。望みは薄いかも知れないがな……都合良く、医者の記憶を持った被害者でも飛ばされて来なければ。』

『おい待てよ!何で俺が医者の代わりなんだよ!俺は知らないことが沢山有るし、右腕も使えないし…チェスタの方がこの役目に向いてる筈だ!』

『んー…?お前に文句を言う権利は無いぞ?お前が持ってきた依頼だ。お前は、この事案を解決したいからこそここへ持ち帰ってきたのだろう?この何でも屋は俺という頭脳で動いているのだから、俺が自由に動けた方が何かと都合が良いはずだ。それより何より…』

チェスタは苛立ちの眼差しをそのままに、まるでこちらを試すように口角を上げて

『お前、何でも担当なんだろうー?』

確かにそうだ。別に其処に何も文句は無い。

でもさ、何でもやるってことは、何でも出来るって訳じゃないからさ……

『まーとにかく明日一度、2人で話を聞きに行くぞー。良いなルクス。ビスカもー…すまないがどうか?』

『まぁ…俺はなんでも良いよ。俺が一番体力あるし、そっちの方が大変そうだから。』

『………分かった。』

別に俺が何か悪いことをしたとは思えないのに、何故だか居た堪れない。今日、酒場に長居してゴードルンに会うことが無ければこんな面倒臭いことにはなってなかったのか?

でも医者が居ないなんて放っとけないし、だからこそチェスタも無理に動こうとしてるんだ。

俺達に出来るのは、早く解決出来るように動くことだけだ。

早く解決して、いつもの下らない依頼ばかりをこなす何でも屋に戻らなくては…

なんて、思うかよ。騙されないぞ。

いつもの、って何だよ。

だらだらと、下らなくて、ずるずると、時が過ぎて

まるで絵画の中みたいな、磔の暮らし。

そんなのが俺の日常では、決して無かった筈なんだ。

また危なかった。怒り忘れてる。滾り忘れてる。恐れ忘れてる。

心を新たにしろ。碌に見たことの無い第15階層を見られるんだぞ。

新しい階で、新しいことを探るんだ。もしかしたら、脱出や記憶の手掛かりが……

有るのか?そんな物が。だって第12階層にだって、そんな物は無かったのに…。

恐ろしい。でも進まなくちゃならない。進まなければ、動かなければ……俺の時も、止まってしまうのだから。


昨日の出だしは、ポロップを待たなければならなかったからのんびりして…気は逸ってたけれども。

今日は昨日よりも早い時間で、少し緊張する。確か医者って、凄く大事で難しい仕事だった気がするんだ。

病気とか、怪我とか、体の痛みや苦しみをどうにかする仕事だった筈だ。チェスタは確か、この町には病気は殆ど存在しないと言ってたけど…まさか全く無いなんてことは無いだろう?怪我だって、どんなに気を付けてても起こり得る筈だ。その度に痛い苦しいって駆け付けられて…

詰まるところ医者って、人の痛みに責任を負わなくてはならない、遣る瀬無い職業だってことだ。

そんなことをする奴を探すにしても、そんなことをさせられるにしても、どちらにせよ責任感が重く鎮座する。

『ルクスー、行くぞ。』

チェスタは俺の…プリマの家まで、迎えに来てくれた。

『ルクス、いってらっしゃい。』

プリマは玄関先まで見送りをしてくれるから

『…うん。行ってくる。』

修理屋だって、言われたら何を何処までも修理する。出張する時も有れば小さい物を預かって家で作業する時も。今日は色々なところから預かった様々な雑貨類を修理しまくるらしい。

『ふ…ではー、プリマ。ルクスはいただくぞー。』

は?

『…ん?あぁ。ルクスをよろしく、チェスタ。』

いただくって何だよ?

『よし。行くぞルクスー。』

不思議と優しくニヤつくチェスタを追って、慌てて歩き出す。

外はしとしとと霧のような雨がしめやかに舞い降る。これじゃどうせ洗濯は乾かないから、仕事が一つ減って都合が良かったかもな。

上を渡る通路が或る程度屋根代わりになるとは言え、滴ってくる雫や風に乗って吹き付けてくる霧を完全に躱すことは不可能だ。でもチェスタは黒い、頭まで被れるコートを着て雨など気にも留めてない。狡いとは言わないが…あのコートは誰に頼めば貰えるんだろうか。

雨を纏う町中は人出が殆ど無い。偶に、チェスタみたいなコートを羽織った奴が何か小包を持ってとぼとぼ歩いてる。多分弁当とか、何か直ぐに入り用な物を取りに行っただけなんだと思う。この町は、夜と雨には真面に動かない。

蹴り上げがとても高い、崖みたいな階段を上がる。チェスタは全然喋らない。こいつ、ビスカが居ないと全然喋らないんだな…トロイメラと進んだ階段を、少し思い出す。

きっと、ビスカが居ないからじゃない。俺だから話すことが無いんだ。これがもし、プリマや、カストルや、スーピーだったら…全然違うんだ。別に良いよ。別に、お前らと仲良くしたい訳じゃない……只、何だかムカつくだけなんだよ。

『ルクスー。』

後ろに付く俺に振り向かないまま、チェスタがゆっくり口を開いた。第7階層の小道。何の変哲も無いガチャガチャの住宅街。昏く曇る中をぽつぽつとランプが照らしてる。

『もしもこの仕事が上手くいったならば、またビスカも連れてダンダリアンの酒場へ顔を出してしまおうかなー?』

は?何の話だ?

そもそもチェスタは自分からもう酒場には行かないと言ってたし、ダンダリアンも来るななんて言ってなかったし、チェスタが行きたいと思うならいつでも好きに行けば良いだけなのに。

『何でそんな面倒臭いこと言うんだよ…行きたいなら行って、行きたくないなら行かなければ良いんだ…。』

気付けばこっちに歩幅を合わせてくれて、表情がよく分かる。チェスタは子供を遇らうような、優しくいけ好かない目をして口角を吊り上げてる。

『言っただろう。酒を飲まない者はいたずらに酒場に行くものではないー……ただ、依頼を叶えたついで程度ならー、顔を出すぐらい許されるだろうかと思ってな。あとはー…酒を飲めるようになってみたい気持ちが、少しあるー。』

歩く先の道を見据えながら、歩き始めた時よりも少しだけ楽しそうなチェスタ。酒を飲めるようになってみたいって、何だ?

チェスタだって桃ワインを飲んでたじゃないか。俺は桃ワインも飲めなかった…レストラはあの時、桃ワインは弱くて飲み易いって言ってたな。何か訓練でもしたら、もっと強い酒に挑めるようになるのか?

酒って中々理解出来ないな。チェスタとビスカの関係くらい、謎が深まるぞ。

『ルクス。』

またチェスタに呼び掛けられる。次の階段は狭くて、小さくて、低くて。逆に上りづらい。

『プリマとの暮らしはどうだ?』

どう?どうと言われても……何なんだ、この質問?

だから、思い返してみる。多分30何日だ。とは言っても、お互いに仕事をして、帰ってきて、二人で弁当を食べる時も有れば、何でも屋の皆で食べて帰る日も有って…そんな時でも必ず、プリマは箱の上で仕事をしてて、俺より後に寝て、俺より先に起きてるな……きっと修理屋って、結構忙しいんだろうな。あの辺の階層では、プリマしか居ないみたいだし。

今のところ、プリマと暮らしてるから特別どうってこともない。こまめに腕を診て貰ったという訳でもなくて。あの、おたまが取れた日にはまた腕をガチャガチャ弄られたけど…初めみたいな、特別な感覚は現れなかったな。あの感覚は、まさか嘘だったんだろうか?

そんなこんなだから、大した会話もしてない。朝起きて、『おはよう』と言って、さっきみたいに出掛ける時は『いってらっしゃい』に『行ってくる』。帰ったら『ただいま』に『おかえり』。それで寝る時には『おやすみ』って言って、朝が来て…それだけだ。つまりそれって

『………悪くない。』

たった一言の答えを導き出すのに、随分時間を掛けた。

チェスタはその間、何も言わずに待ってくれた。

『…ふ。ふはは。そうかそうかー。それは、何より。』

何故かは分かんないが、チェスタは満足そうに見える。

階段をもう2、3上る頃には、確実に静かに霧雨に晒されて、震える程には身体が冷えてた。

チェスタはきっと本当に、兄みたいな奴なんだ。

プリマの、ビスカの、カストルの、スーピーの、あいつら皆の兄みたいな立場で。気持ちで。状態で。

だから俺にも、兄の振りをしてくれてるだけだ。

なのに何故だか、ムカつくのに何故だか。

悪くないや。今なら、そんな気分だ…。


力になる為に上って来たは良いが、何処に行って何を何処まで協力すれば良いのか全く聞いてない。

第15階層まで来て、丁度朝の散歩をしてたような爺さんにゴードルンのことを尋ねたら、ゴードルンの家は第14階層だと言われた。

ゴードルンを手伝う為に来たって言ったら、偶々出会っただけの爺さんなのに『ありがとう』と返されて…理解した。ゴードルンは何かしらこの辺の階層の奴ら皆の為になる仕事をしてて、信頼されてるみたいだ。

第14階層の端の方、路端に建つ縦に長い家。細長くて二階建てで、だから一部屋当たりは狭そうで…使い辛そうな家だ。

『ルクス…!それに、あなたは…さては…!』

訪ねると出て来たゴードルンはもう出掛ける準備を済ませたところだったようで、家の中で昨日と同じ格好をしながら、俺とチェスタの来訪に大層な感動を露わにする。

『…正にルクスのリーダーと言った風体だな!非常に個性的で粋な装いだ。来てくれて、本当にありがとう…!』

ゴードルンの反応に、チェスタは御満悦だ。

『いやいやー。分かっていただけるとは、素晴らしい感性の持ち主なのだなー。この服にも、ルクスの腕に負けぬ斬新な魅力があるだろうー?』

どうやらチェスタこそが誰よりも、この何でも屋の仕事に誇りを持ってやってるらしい。人に頼られる時と喜ばれる時に、こいつは得意気に満面の笑みを浮かべる。そしてわざわざコートの前を開け放して、この粋な装いにも常に相当の自負を持って見せ付けてるらしい。

『しかし、あなたのその胸当ても中々見ないものだなー…マミムの斑模様が趣き深い。それは、自分で作ったのかー?それとも…。』

チェスタがそう言って気付いた。何でチェスタがこんなおかしな服を着てるのかは知らないが、自然に考えたらこの町で見たことの無いような物を身に付けてる奴が居たら、自分でデザインして作った酔狂で独創的な奴か……外の世界から持ち込んで来た、被害者だ。

俺のこの斬新で魅力的な腕のように。

『ああ…いや、どちらでもなく……これは仲間たちにアドバイスをもらいながら、第19階層の腕の良い革加工屋に依頼をして制作してもらったのだ。俺は6年前に飛ばされ、ゴードルン・ポゼーソンという名以外は何も記憶が無いんだよ…。』

やっぱりゴードルンは被害者だったんだ。

ビエッタもそうだったから…もしかして、外の世界の人間にだけ名前が2つ有るのか?何でそんな面倒臭いことをするんだろう。俺にも名前が2つ有ったのか?一つだけでもさっぱり浮かばないのに、2つも思い出さなきゃならないなんて…。

『しかし、この辺りの階層で知り合った仲間は不思議と元兵士と言うやつが多くてな……酒場でそいつらの武勇伝を耳に流している内に呼び起こされてきたのだ。民を守るという志、戦いに沸き立つ昂り…俺も昔そのように過ごしていたのではないか、と思わせる。この簡素な鎧は、その浮かび上がった感覚を逃さないための杭のようなものなのだよ。』

ゴードルンの目は何処か遠いけど、不思議と確かでも有る。感覚だけでも自分の正体の尻尾に杭を打つことが出来たんだから、羨ましい。

きっと俺も何か、外の世界で仕事をしてた筈だ。それを思い出せたなら、見える景色はまるで違うんじゃないか?職業っていうのは詰まるところ、俺がこんな腕でも今まで生きてきたっていう証になるんじゃないかって。

『……成る程。それはとても大切なことだ…きっとその掛け替えのない感覚こそが、ミズルの賜物であろうー。』

『ああ、俺もそう思っているよ。ありがとう…。』

何を言ってるんだこいつら。ミズルの賜物なんて…奪った物を、欠片だけ徒に返してきて、そんな言い方……ゴードルンは何でありがとうなんて言えるんだ?

『立ち話をさせるのも忍び無い。此処は狭くて客を入れられないから、詳しくはロラサンの家の方で話そう。すぐそこなんだ。』

外へ出る。雨は強まりも弱まりもしない。ゴードルンは、チェスタのより少し大きな褐色のコートをさらりと羽織ってやって来た。みんな必ずこの雨用のコートを持ってるのか?欲しい…。

家を出て直ぐ左の眼前にはもう、赤く塗られた木の階段が見える。この近所の建物の色合いはやたら薄くてカラフルで、子供っぽい。

何の変哲も無い真っ直ぐな階段を上って、正に目の前に小ぢんまりと佇む空色の壁。上の通路はこの家の屋根に収束して、其処には花が咲き寄ってるように見える。

やっぱり何と無く、女子供が好きそうな家だ。多分、可愛らしい。

『ここがロラサンの…故、ロラサンの拠点だった。ロラサンは第15階層で医者をして…第12階層と第20階層の間、盛り場と都の間にある静かなこのエリアを、静かに守ってくれていた。そして俺は警備員として、同じく盛り場と都の間を守ろうとしているのだ。』

『警備員…?』

どうやら誇らし気なゴードルンに、俺とチェスタは二人して理解しかねる。警備員って…何だ?初めて聞いた。警備って、何かを守ることだった気がする…。

ゴードルンが煤けた色の扉を押すと、ギッと蝶番が軋む音が響く。中央に丁度大人一人が寝転がれそうな敷物。隣に、2人くらいは何とか座れるだろうか。その側に小さな道具箱が打ち捨てられ、あとは何も無い。小さな部屋には生活感が無くて、寂寥感が浮かんでる。

『とりあえず座ってくれ…と、俺が言うのもおかしいが。ロラサンは、きっと許してくれるだろう。』

ゴードルンは奥に腰を下ろしたので、俺とチェスタは敷物の上に座る。床の硬さと冷たさを、十分に感じることが出来る。

『…さて。改めて、俺はゴードルンという。6年前に第14階層に飛ばされて…色々考えあぐねた結果、そのままそこで警備員をすることにしたんだ。』

『あのー…先ほども気になったが、警備員とは初めて聞く職業だー。どのような仕事をするのか、聞いておいた方が良さそうだー。』

チェスタが手を挙げて尋ねると、ゴードルンはどうやら誇らし気だ。さてはこいつも…警備員という仕事に、プライドを持ってるな?

『警備員とは…不意に飛ばされ記憶を無くし途方に暮れていた俺が考案した職業だ。日がな町中を歩き、不審なことが無いか見回るのだ……まあこの平和な町において、変わったことなどそうそう起きないものだから…専ら人々の様々な悩み相談に応えて過ごしているよ。』

『なんと…まるで歩き回る何でも屋のようだー…。』

チェスタは目を見張り、眉を寄せる。悔しいんじゃないか?人々の為になんでもやる仕事が、他にも有ったことが。

『ふ。そうかもしれないな……兵士の…民を想い平和に賭す志を活かしたかったんだよ。それが叶っているのかは分からんが、俺は今満足だ。だからこそ、この問題も解決したいんだよ。』

そうだったか?兵士って、民と平和を想う志を持つ物だっただろうか…?兵士とは、殺戮だった筈だが…。

そうだ。兵士とは、兵器だった筈だ。

『そういうわけで俺は今までも、困った民を解決へ導いてくれる職業に繋いでやっていたのだ。今回はなんでも解決してくれる何でも屋に繋ぐというわけだが……どうだろうか?俺はこの辺りの階層で困る者が居ないか見て回らなければならないから、医者の代わりをしながら、医者探しを助けてくれはしないだろうか…?』

俺がチェスタの顔色を窺おうとするからか、ゴードルンもチェスタの顔だけを見詰めた。チェスタは拳に顎を乗せながら、宙を見て思案する。

『…俺は思うのだがー、この依頼にはあまりにも終わりが見えなくはないか?結局新たな医者が見つからねば終わりは来ない…名乗り出る者が居ないということはこの近辺の階層を探しても無駄だと踏むが…だからと言って、恐らくもう60〜70階以上は建ち上がっていると思われるこの町中を探し回るということは、到底非現実的であろう。ゴードルンがこの件にのみ力を割くことが出来ないように、俺たちこそ低層階での仕事をないがしろにすることは出来ない。つまり…』

チェスタは、この仕事を受ける義理が無いという理由ばかりをつらつらと述べてゆく。ゴードルンの表情は萎れてゆく。

そんなことより、この町は60〜70階くらい重なってるんだな……高過ぎじゃないか?そんな高さ…どうやって攻略する?攻略して、果たして脱出への糸口は待ってるのか?眩暈だ…。

『つまり、期限を設けさせてくれ。そうだな…7日…いや、5日にしようー。』

確かに、期限を設けなければこんな依頼キリが無い。何を何処までもと言いつつ、ちゃんとこういう線引きも出来るんだな。無いようで有る秩序……否、やっぱり有って無いような秩序だ。

『…ありがとう。無理を聞いてくれて、感謝する。5日の内にどうにか出来るように、誰よりも俺が力を尽くすよ。』

ゴードルンが申し訳無さそうに嬉しそうに微笑むと、チェスタは情け深そうに微笑み返した。

『すまないなー、ゴードルン……これは俺には知り得ないことなので想像なのだがー…あなたの誠は正に、昔被害者から伝え聞いた騎士という者のようだなー。』

ゴードルンは今度は、素直に大層嬉しそうな笑みに切り替わった。兵隊など必要の無いこの町で生まれ育ったチェスタには、兵士などどのような物か想像することでしか言いようが無い筈だ。

俺の想像の中の兵士とゴードルンは、似ても似付かないな。ゴードルンは、人など1人も殺せそうな気配は無い……そんなこと言ったら、ダンダリアンだってビエッタだって…。

『よし。では早速行くかー…ルクス、あとは頼むぞー!』

『はっ?』

『よし…では俺も行くか!』

『えっ!?』

何だよいきなり、2人して!

俺はいきなり、取り残されるってことか?

『俺は、どうすれば良いんだ…?医者の真似なんて、出来ないぞ!』

『俺にも出来ないさー。どうせ誰にも出来ないのならば、この町のことをよく知らないお前がここに残りー、この町の地理に明るい俺が歩き回る方が道理に適っているだろうが。手筈通り、頼むぞ何でも担当ー。』

やっぱりやらなきゃならないのか…!まぁ昨日から言われてたことだし、俺は何でも担当なんだから仕方が無い。どうせこの町では病気は滅多に無ければ戦争も争いも無いらしいし…5日くらいならどうにかなるか?

起こりそうで、起きなさそうな…もしものことでも起きない限りは…。

『ではー、またなルクス。夜までには一旦迎えに来ようー。』

『では悪いがよろしくな、ルクス。俺も解決に向けて頑張るよ!』

チェスタとゴードルンはそれぞれ後ろ目に俺を見遣って分かれの合図にした。

小さな部屋に取り残される。プリマの家よりも狭い。でも窓は3つも有って、明るさはこっちの方がかなりマシだ。木造だけど、しっかりとした小屋。

そもそも俺は此処でどうしてれば良いんだろう。待ってたら、その内具合の悪い奴がやって来るのか?

こんな右腕で、医者の真似事なんて出来るのか…?

そんなこと患者が来る前から考えててもどうしようも無いことで、直ぐに飽きて床を見回し始めた。ずっと気になってた…敷物の側の、小さな道具箱。

小さな、と言ってみても、丁度プリマの…修理屋の道具箱と同じくらいの大きさだ。蓋の仕組みも同じ感じで…と言うよりもしかして、箱はプリマの物と全く同じなんじゃないか?

留め具を外して開けてみる。上段には、小さな道具が幾つか収まってる。目盛りの付いた小さな棒、二股に分かれた金属の棒、先に小さな鏡が付いた棒、小さなハンマー、小さなブラシ、小さなハサミ…これは何だ?細い管の片方には丸い錘みたいな、もう片方は二つに分かれて輪になりそうに曲がってる。医者ってこんなに様々な道具を使うのか。本当に、まるで修理屋だ。

上段を持ち上げると下には細かい物がぐちゃぐちゃと収まってる。丸められた布…見付けて少し思い出したぞ。これは怪我に巻く物だ。ぐるぐる巻いて、流血を押さえるんだ。これを巻くと、怪我を持ってるっていう証明みたいで…何処と無く勲章めいてるのは、何故なんだろうか。この隣に沢山有る小さく切られた布を傷口に当てれば良い筈だ。

あとは小さい袋が沢山有って、その中に小さな玉が少しずつ入ってる。小さな瓶も有る。中には液体が少し入ってる。

これらは多分、薬だ。玉は何の薬か見当が付かないが…飲み薬なんだったら、熱を下げたり痛みを和らげたりするんじゃないだろうか?液体は、飲む物じゃない。傷に塗るんだ。傷の赤みを抑えたり、雑菌を殺して傷を清潔にする筈だ。

あとは丸いケースが1つ有る。中には仄かに透明感の有るベタベタしたクリーム。これも傷に塗るんじゃなかったかな…こっちは多分、傷口を保護する。

…俺ってもしかして意外と、薬のことを知ってるのか?見たら色々思い出してきた…俺は多分過去に、傷を負ったことが有る。

当たり前か。傷を負ったことの無い人間なんか居ない…否、この町の住民だったらどうなんだ……流石に転んで擦り剥いたり、ハサミやナイフで間違えて指を切るくらいはするか。だからこそ、ロラサンという医者は必要とされてたんだろうから。

それに…傷どころの話じゃない。俺のこのおかしな、個性的な、斬新な腕は…その中身は、この肘から下は…

元から無かった訳ではないだろうから。

何かに…誰かに因って、切り落とされたんだ……否、これは傷ではないか?これは怪我。怪我でもない。これは、喪失だ。傷口ではない。

何にせよ俺は傷を負ったことが有る。漠然と、きっと何度も有るような気がしてる。

きっと人間は、何度も小さな傷を負っては癒してきたような、そうやって強くなってゆく生き物だったような気がしてる。俺もそうやって漸く強くなって…記憶を全て失い、争いの無いこの町で温く暮らして、折角育んだ強さをフイにしてしまったような気がする。

傷を負って強くならなくては生きてゆけない自由な世界と、ミズルが用意した傷付くことの無い揺籠の中であやされるのと、どちらが人に取って幸せなんだろうか。

他の奴らは何て言うか知らないが、俺には間違い無く前者だ。

だって、強くならなくちゃ自分で守ることが出来ないじゃないか。

ミズルに飼い慣らされる人生において、ミズルが居なくなったら、ミズルに掌を返されたらどうするんだよ。

大事な物は、大事な人は、自分は…自分で守らなくちゃ安心なんか出来ない。

それが例え、どんな深い傷を背負う道であったとしてもだ。


どれぐらい経ったか、分かんなくなってきたぞ。少しだけドアを開けて様子を見てみたら、雨は未だに強くも弱くもならずに柔らかく立ち込めてる。

少食な俺の腹の虫が鳴いてるんだから、きっととっくに昼を過ぎて久しい筈だ。

これ、どんなに暇でも腹が減っても、チェスタが迎えに来るまで待たなくちゃならないのか?医者を求める奴が来る気配も無いし…もう帰りたくなってきてる。根気が無いって、自分でも分かる。

座り直して、道具箱の中を弄り眺める。果たして何回目だか。部屋の中にこれ以外何も無いもんだから、この道具箱も無かったら、そろそろ退屈で狂ってる。

眠くはないけど、寝てやろうかな。自棄糞にそう思い始めた時

『すいまっせぇん。』

ギッと扉の根が軋んで、もうどれぐらいぶりか忘れた人の声。見上げると其処には黒髪が長い少年と、黒髪の短い、もっと小さな少年。

『…ロラサンじいさんは?』

長髪の少年も、きっとプリマよりは少し若いだろうな。短髪の少年は、少し涙目にも見える。

ゴードルンは昨日、ロラサンが死んだのは5日前だと言ってた。ロラサンの死を知らない者も、中にはまだ居るのかも知れない。

『えっと…ロラサンは死んだよ…。』

『えっ!あっ、そぉなんだぁ。へぇー。』

随分あっさりしてる。余り故人に思い入れは無いと見える。俺はこいつら以上にロラサンとは何の縁も無い癖に、何と無く寂しい気持ちになるのは何故なんだろうか。

『にいさんはロラサンの代わりなの?』

『あー…一応、そうだけど』

『じゃあいっつも通り寝るねー!』

一応そうだけど何処まで出来るか分かんない、って言おうとしたのに掛かり気味に勝手なことをされる。短髪少年は敷物の上に俯せになり、長髪少年はそれを挟んで俺と向かい合うように腰を下ろした。

『じゃっ、よろしっくぅ。』

勝手に進めた挙句、長髪少年は天真爛漫な笑顔、短髪少年は涙目で俺を見上げる。

『よろしくって言われても…何をしたら良いか言ってくれなきゃ分かんないんだけど…。』

『えぇっ、そぉなのぉ…?』

『いっ…いたいよセウスー!もぉむりぃーっ!』

堰を切ったように唐突に、短髪少年が泣き出した。勘弁してくれよ。無茶言ってるのはそっちだぞ…!

『あぁっ、泣くなよフリウス。仕っ方ないだろぉ、こいつは代わりなんだから…えっとさ、俺たちいっつもロラサンに診てもらってたんだけど…』

おい。こいつとかどうとか、ちょっと失礼じゃないか…?まぁ、それこそ子供だから仕方無いか…やっと来た患者だしな…。

『俺たちは探検家になるのが夢なんだ。だっからやれる日は町を歩き回って足腰を鍛えたり、面っ白いものを探したりしてるわけさ。でも一日そうしてると、なぜだっか次の日脚が痛くなっちゃうんだよなー…ロラサンは、きんにくつー?って言ってたかなぁ。そうすっとロラサンが脚を揉んでくれて、治りが早っくなるんだよぉ。』

きんにくつー…筋肉痛?

聞いたことが有る…確かに聞いたことが有るぞ。

脚とか腕とか、使い過ぎるとその筋肉が悲鳴を上げるんだ。俺はこの病に、罹ったことが有る。何度も、何度もだ。

俺も探検したことが有ったんだろうか。否、脚だっただろうか?腕だった気もする。この、重い枷のような腕に悲鳴を上げたのか?

て言うか…探検家って何だ?こんな、上か下に行くしか無い町で。

『はやくぅー…。』

『にいさん?』

ずっと俺を見上げてる、黒髪の兄弟……出来そうな気がするから、やるだけやってみるか。

『…どうせこの辺が痛いんだろ?』

『びえっ!いだいっ!セウスぅうっ!』

脚の下半分、後ろに膨らんだ筋肉を押すと、短髪の少年フリウスは悲鳴を上げる。いちいち長髪のセウスに助けを求めやがる。

『多分、こんな感じだ…。』

『んんんん…?』

セウスは興味深そうに俺の施術を覗き込む。

不自由な方の腕で脚を押さえ付けながら、自由な手の親指で脚を、押す……否違う、擦るんだ。強めに擦る。押したり揉んでも余り良いことは無いんだ。次の日もっと酷くなったりして…。

『なんかロラサンと違うぅ…くすぐったいっ!あんまり…気持ち良くないぞぉお…!』

フリウスが身悶えながら文句を言うから、重い腕を更に乗せて押さえ付ける。

『ロラサンはどうしてたって言うんだ。』

『にいさん、ロラサンも同じ感じだったけっど、もっとこう…ぐりっぐりやってたぞぉ。なんつっかぁ、肩揉む感じで…。』

本当かよ…?絶対俺のやり方の方が良い。自信が有る。だって俺は多分ずっと、このやり方で筋肉痛と戦ってきたんだと思うから。ロラサンってもしかして、藪医者なんじゃないか…?

『文句が有るなら止めても良いけど…ゆっくり風呂で温めて、風呂上がりに同じことをした方がもっと効くと思うぞ。』

『えぇ…?にいさん、なんっかよくわっかんねぇなぁ…ロラサンと違うことするのに、ロラサンとおんなじこと言いやがる…。』

セウスは不思議そうに俺の手元を見詰め続けた。フリウスはずっと擽ったそうだ。言いやがるとか…やっぱりこいつら、年長者との喋り方がなってない。

でもこいつらのお陰で、また一つ、ほんの僅か少しだけ本当の自分に近付けた筈だ。俺はきっと何度も、筋肉痛と闘い治してきた筈なんだ……だから何だって言われたら、何も返せないんだけれども。

左脚が終わって、奥の右脚に重りを乗せる。フリウスは観念したのかすっかり身を委ねてる。セウスはもう暇そうに欠伸し出した。こいつもどうやら俺と同じで、退屈に対抗する根性が弱いらしい。

やらせてくれるんだったら、きっちり良いようにやってやらなくもない。会話は無いまま、片指を滑らせ続けて……そんな頃に、またギッと扉が軋む。

施術に気分が乗ってきて、気付くのに一呼吸遅れた。差した影を見上げると…

『やはり来ていたのか、セウスにフリウス。』

其処にはゴードルンだ。コートに付いた大粒の雫に後ろを見透かすと、雨は漸く形を成し本降りになってきてるみたいだ。俺は帰り道にずぶ濡れになるしか無いのか?

『昨日一日探検したと先程ピピに言われ、お前たちにロラサンの死を伝え忘れていたと気付いたのだ。』

『えっ…かあさん帰ってきてっのかい?』

黒髪兄弟とゴードルンは知り合いのようだ。歩き回る何でも屋のような仕事だと言われたら、この辺りで顔が広いとは容易く想像は付くが。

『ああ、畑の様子はもう見て来たと…しかし、良かった良かった。もうルクスに診てもらっていたのだな。』

ゴードルンは満足そうに俺達3人を見渡す。

満足するなよ。俺は只代わりをしてやってるだけで在って、常に此処に居てくれる医者が見つかった訳じゃないんだぞ。

『診てくれてっけど…ロラサンとは全然違うよぉー…文句があるなら止めるとか言うしぃ…な、フリウス?』

何だその告げ口みたいな言い方は?仕方無いだろ文句を言われたら止めるしか無いんだから!

同調を求められたフリウスは……寝てる。

『フリウス……終わってるけど。』

軽く揺すれば直ぐに、フリウスの目がゆっくりと開く。

『ふ……ふぁ…?ん〜……気持ち良かったぁ。結局気持ち良かったよぉ。ありがと…あ、脚も少し楽になったかもぉ?』

フリウスはしれっと起き上がる。もう瞳を潤ませたりはしない。結局とかいう言い方は少し気になる。兄が兄なら弟も弟なんだ。

『そっかぁ。じゃあ良かったなぁフリウス…かあさんも居るみたいだし帰っかぁ。じゃーなルクス!一応あんがっとぉ〜!』

『じゃーねールクスぅー!』

一応とは何だ。此処まで来ると、子供だからでは片付けたくない…!

2人は勢い良く扉を開け、鈍く錆びた音に見送られて雨の中を駆けて行く。折角筋肉痛と折り合いを付けたのに、今度は滑って転んでもっと痛いことにならないか心配だ…まぁ、あいつらなら少しくらい痛い目を見ても良いか?

『走ると危ないぞお!』

ゴードルンは心優しくも一声掛け、2人の少年の影が見えなくなるまで見送ってから扉をゆっくりと閉めた。そしてコートを脱ぎながら

『ルクス…お前さんこんなに立派に、医者が出来るんじゃないか!』

大層満足気だ。

『否…偶々筋肉痛のことは知ってただけだ。こんなもん医療と言える程のことでも無いし。本当に怪我や病気の奴が来たらどうしようも無いぞ。』

そうだ。本当に偶然が重なってどうにか対処することが出来た。あいつらが『筋肉痛』って言ってくれたから俺は対処法を思い出すことが出来たし、右腕を上手い具合に使って、左手だけでもどうにかマッサージすることが出来た。こんなに上手いこと、二度は行かない気がするが……

『良いじゃないか。お前は今、目の前で困る幼い兄弟を救うことが出来たのだから。今のように、この小さな診療所を訪れた者一人ずつに確実に向き合い、処置を探れば良いだけと思うぞ。』

ゴードルンは優しく微笑む…そんなことを言われたら、そんな気もしてくるから良くないぞ。

良くないだろ。処置なんて、探ってたら手遅れになる…。

『しかし…医者の心当たりを探しながら上の階を回ってきたのだが…やはりこの近隣には見当たらないな……そしてついでにロラサンの死去を報せて回ると、皆一様にけろっと受け入れ、そのくせ医に関する悩みを打ち明けてくるんだよ。まあ、危険性も緊急性も無い話ばかりだが…不思議だよなあ。この辺りの住民は、上や下の階層よりも一際のんびりしている気がするなあ……もしも何か一つ、歯車が進んでしまったら…はああ…。』

ゴードルンはぶつぶつ振り返りながら敷物の上に座り、丁寧な溜め息を一つ吐く。

あの黒髪兄弟みたいな反応を、あいつらみたいな所業を、この辺の奴らはみんなやってるってことか?呑気過ぎる、と言うか…ちゃんと状況を理解出来てるのか?

『チェスタはまずは下層階を当たると言っていたが…期待をしてはならないな。しかし、都合の良い被害者が飛ばされて来るまで呑気に待つというのも…』

『ただいまー…おっと、ゴードルン!』

勢い良く押され、扉はギギッと痛々しい音で鳴く。現れたチェスタは直ぐ下に落ち着いたばかりのゴードルンに衝突しそうになる。

『ああ、チェスタ!すまないすまない…ご苦労様。果たしてどうだったか……聞くのも心苦しい気がするなあ…。』

ゴードルンは身を屈めつつも腰を上げ位置をずらし、チェスタはコートを脱ぎ畳んで、空いたスペースに滑り込んだ。下の敷物に、ぽたぽたと幾つかの雫が垂れる。

『うーん…まー、概ねあなたの予想通りの結果だと思われる……とりあえずこの雨の中歩けたのは第10階層いっぱいまでなのだがー…やはり第11階層のモネミは、第12階層のことで手一杯だし、最近はリューリューという弟子を作ってまでして回しているらしいー。第12階層は、食べ過ぎだの飲み過ぎだの、調理中の事故だのとドタバタが起きやすいからなー。モネミの手は借りられなさそうだ……明日は、一応もう少し下の階層を回ってみるかー…?引き続き期待はしない方が良いと思うが…。』

チェスタが申し訳無さそうに、でも当たり前のように淡々と報告を上げると…ゴードルンも残念そうに、でも当然のように頷いて次を見る。

『そうだな…不毛なようで申し訳無いが、それで頼む。俺は明日は平時の見回りをしつつ、12階層中の食事処に、情報提供と窮状拡散の頼みを触れて回ろうかな…勿論、寄り道をして酒を飲んだりなどしないぞ!』

チェスタもゴードルンも、どちらもかなり望みが薄そうだ…5日間という期限が決まってるとは言え、このままじゃ1つも結果の出ない、消耗だけの5日間になってしまうぞ。正に不毛だ。

『というわけで、よろしくな、ルクス。』

どちらから言ったのか聞き分けられない程同時に、両側から俺の目を捉えて言い放つ…。

消耗するのは、不毛なのは歩き回るチェスタで在り、ゴードルンで在る筈なのに…何と無く俺が一番損をする予感がするのは、何故なんだ?

『夜は皆寝静まるし、俺もこの近くの家にずっと居て注視するから、ひとまずは大丈夫だろう…それより明日は、おそらく今日より忙しくなると思うぞ。今日俺は見回りをしながら、当面のロラサンの代わりの医者が来たと言っておいたから…。』

『は…はぁあ?』

何でそんなこと言うんだよ…!わざわざ代わりが入ったとか言うこと自体荷が重過ぎるのに…俺は間違い無く医者なんかじゃないぞ…大丈夫かよ?

『よし、では今日は暗くなる前に帰らせてもらうか。行くぞルクス…ゴードルンは、また明日。』

『ああ…本当にありがとう、チェスタ。ルクスも、また明日。』

軋む扉の外に飛び出して、チェスタは手早くコートを羽織る。やっぱり雨は確かな雫に形を変えて降り注いで、朝みたいな誤魔化しが効かなくなってる。これって明日、俺が熱でも出して医者の世話にならなくちゃいけなくなったりしないよな?

『…ゴードルンー?あなたの家はこの直ぐ下なのだよな?』

チェスタが、ふと思い立ったように寂れた部屋へ振り向いた。

『ん、ああ…そうだが。』

腰を上げるゴードルンに、チェスタは手を貸すように見せかけて……その手のひらは、ゴードルンが小脇に抱えるグシャグシャの布を捉えようとした。

『そのコートを、ルクスに貸してやってはくれないだろうかー?』

ゴードルンはほんの一瞬にも満たない刹那にキョトンと静止した後、直ぐに合点が行ったかのようにチェスタへと笑顔を合わせる。

『ああ、なるほど!気が利かなくてすまない…使ってくれ!明日、返してくれれば良いからな。』

人の良い顔で、褐色の布を広げながら差し出してくれた。羽織ると、ゴードルンが今まで吸わせた雨の湿気が籠るけど…あの雨に直接打たれるよりは、幾倍もマシな筈だ。

『よし。では行くぞールクス。』

にんまりと笑う。徒に優しい眼差しで。

くそ。こいつ、いつそうなるのか、兆しが全然分かんないのに

偶に、すごく良いタイミングで兄になるんだ。

狡い。俺に、そんな物が在ったのかは分かんないが…

勝手に決めて、勝手に仕切って、押し付けて、気が向けば、どうしようも無く優しくて。

きっと、狡い生き物なんだ。兄って奴は。


『ルクスー。仕立て屋のヴェロアは知っているな。次の雨天日までにー、彼女に雨外套の仕立てを依頼しておけよ。』

『分かった…。』

ヴェロアは第3階層に住む腕の良い仕立て屋だ。近い内に時間を見付けて必ず行こう。このコートは、生活に必ず必要な物だ。今まで雨の日に歩き回ることなんて無かったから、気付かなかったよ…。

帰りながら話して、チェスタは明日は朝からビスカの仕事のサポートをしつつ、下層階を回れるだけ回るということになった。

ゴードルンは見回りで、俺はまた医者の代わりだ。今日より忙しくなるとか……嗚呼…勝手なことばかり言いやがって…。

第5階層に下りて直ぐのところでチェスタと別れて、一つ腹が鳴る。雲に隠れて見えないけれど、雨の向こうで太陽は今や今やと沈もうとしてる筈で、確実に町は昏くなりゆく。

真っ直ぐ家に向かうと見せ掛けて、少しだけ回り道をする。育て屋兼弁当屋の煙突からは、雨に打ち消され煙になり切れなかった靄が霧散してる。

弁当屋の入り口を2回小突いてから押すと、まるで待ち構えてたかのように焼けた魚の匂いが扉の隙間を抜けてくる。ダンダリアンの作った蒸し焼きの魚とは違って、皮目を香ばしく焼き上げた魚の匂いだ。弁当には、これが良い。

『ルクス。2つか?3つか?』

シブリーは大きな身体で小さな箱に料理を分けながら、必要最低限の言葉しか喋らない。不思議とその素っ気無さが心地の良い男。

『今日は出掛けてて、今帰ってきたところなんだけど…プリマは来てるか?プリマが来てないなら、プリマの分も貰ってく。』

きっとプリマは来てないんじゃないか、とは思った。まだ少し時間が早いし、どうせまだ作業に没頭してるんじゃないかって。

『プリマはまだ来ていない。お前のことを待っているんじゃないか、ルクス。』

待ってるだなんて、そんな大層なことは無いと思うけど…どちらにせよ、どうせプリマが1人で過ごしてシブリーのところに来てないってことは、何も食べずに腹を空かせてるに決まってる。

『2つくれ。』

シブリーは俺が言うより僅か早くに手を動かしてた。小さな箱に手際良く米を詰め、既に切られた焼き魚を詰め、ころころ刻まれた野菜を詰め、ハーブを散らして…

『遠出して精を出したお前に魚を一切れ、お前を待ついじらしいプリマに余った苺を一つオマケだ。ほら。』

シブリーは言葉と表情が抑えられてるだけであって、その実はとても人情に溢れる奴だ。何かと言えばオマケを付けて…誰にでも毎回オマケが有るんだったら、もうそれはオマケとは呼べないんじゃないのか?

『ありがとう。』

『ああ。また。』

俺だって人のこと言えないぐらいには大して喋れないから、2つの箱が収まった布の包みを掴んで、重い右腕を挙げることを挨拶にして出て行くだけだ。

シブリーの元を発てばもう直ぐに家だ。たった一つ角を曲がるだけ。

ピンクの壁の真ん中に貼り付く蒼い扉の明かり窓からは、ぼんやりとした灯火が、プリマがまだ仕事に打ち込み続けてることを暴いてくれる。

身体を一振るいしてコートの雫を払ってから扉を引くと、プリマはやっぱり視界の右端で、たった一つのランプの灯りだけ頼りに、大きな箱の上でよく分かんない物を弄ってる。小さな車輪の付いた、木の棒。何に使うか見当が付かない。さては、子供の玩具か…?

『…おかえり、ルクス。』

『ただいま、プリマ。』

プリマの表情は語らない。でも、共に過ごしてすっかり理解してきた。このプリマは、温かい。

『思ったより早かったな…お疲れ様。』

『あぁ、ありがとう。これ、シブリーの弁当。今日は苺を1つ増やしてくれた。俺の方は、魚が1切れ多い…。』

『そうなのか…じゃあ、私のはこっちか。弁当まで、ありがとうルクス。』

蓋を開けて中身を確認したら、苺が2つに魚が3切れの弁当箱を持って行って、広げた玩具を除けた上に落ち着ける。

俺はコートを扉の側に打ち捨て、まるで置き去られたようにぽつんと一つ在る箱を机代わりにして、床に座った。魚が4切れ、苺が1つの弁当箱を眺めて、さっき弁当屋の扉を開けた時に感じた香ばしい香りを思い出す。最後にもう一回だけ、腹が鳴る。

『いただきます。』

『いただきます…。』

一緒に食べようとか、特に何も言ってない。だけど何故か大体いつも、不思議なことに…二つの声は、同時に響く。

今日の魚はシンプルに塩と青胡椒の味付けだ。この町ではどうにも毎日毎日変な魚が出てきて、同じ種には二度と中々お目に掛かれない。今日の魚はふっくらして脂が乗ってて、この味付けにとても合ってる。付け合わせの野菜には酢が効いてて、これも魚に合ってる。

チェスタ、ビスカと食事をする時は下らない会話を挟むことが有るが、プリマと弁当を食べる時には会話は一つも無い。黙々と、さっさと食べて…遅く食べ終わった方…大体俺が2つの弁当箱を纏めて、弁当屋に返しに行く。

『…ごちそうさま。』

プリマは食べるのが早い。シブリーの弁当を気に入って食べてるってことは、味は感じてると思うんだが…何かこう、味わってるって感じじゃないんだよな。ひたすら同じリズムで口に運んで。

まぁ…かと言って俺が特別遅い訳でも無い。米を掻き込んで、飲み込んで。苺を一粒放り込んで…

『ごちそうさま。』

手を合わせて、目を閉じて。一呼吸追いて…何と無しに口を突いた。

『プリマは、第12階層まで行ったりしないのか?』

最近、気になってた酷くどうでも良いこと。

ダンダリアンの温かい料理を食べてみたら…そりゃ間違い無くシブリーの弁当は美味いんだけど、本当にプリマはそれだけで満足なんだろうか?

『ん…?う…ん……どうだろうか…?多分、小さな頃…じいちゃんに連れられ一度行った事が有るんだ…でも何を食べたか覚えていない。上るのは大変だし、じいちゃんも私もシブリーの味が大好きで……1人で行っても仕様が無いし、じいちゃんが死んでからは、私はシブリーしか食べていない…。』

ん…?そう言えばプリマの爺さんって、いつから居ないんだ?俺がこの町に飛ばされて30何日…多分それよりは遥かに前に死んでるんじゃないか?まさか何年もずっと毎日シブリーだけだったって訳じゃ無いよな…?

一度でも第12階層で出来立ての料理を食べて、その後終ぞそれが恋しくならないだなんて信じられない。やっぱりプリマって、味なんて気にしてないのか?

『ルクスは…第12階層で、何を食べたんだ?』

自分が何処かズレてるってこと、気付かぬ素振りで聞き返してくる。チェスタ達だって大概シブリーばかりだが、それでも偶に、シブリー以外の弁当も食うし外食もする。やっぱり、プリマが変わってるよな…?

『俺は…魚を食べたよ。ハーブで、蒸し焼きにした。第12階層で知り合いが出来たんだ。そいつが酒場をやってて…其処で食わせて貰ったんだ。』

『酒場…?』

プリマの顔が不思議そうに止まる。プリマでも知ってることなのか…酒が飲めないと酒場に居られないって。

『ルクス…酒が飲めるのか…?』

プリマは何だか怪訝そうだ。俺が酒を飲めたとしたら、何か変なのか?

『否…全然飲めない。でも、来いって言ってくれたんだ。料理とは呼べないとか言ってた癖にさ、凄く美味かったんだよ…温かくて、香りが良くて…ハーブの配合に、拘りが有るみたいでさ…』

おたまの話もどうでも良かったけど、もしかしたらそれ以上にどうでも良いかも知れない話が予想外に往復されてる。一つだけ、ふと気になっただけなのに…。

会話って、こうやって始まるんだな。

『そうなのか…。』

プリマは俺の話を聞いてまた少し不思議そうな目をした後、フッと緩んだ。

『美味そうだ。食べてみたいな、いつか。』

俺には、笑ってる風に見えたんだけど……でも、プリマの表情は語らないから。

本当に食べてみたいなら、いつかなんて言わずに直ぐに行けば良いのに。

『……今度、一緒に来れば良いよ。』

『…えっ!?』

今まで聞いたプリマの声の中で、一番大きな声だったかも知れない。

語らぬ筈のプリマの目は丸く見張り、口元は放ち、はっきりと不意を突かれてる。

『……ルクス。私は、子供で…酒が飲めない。済まない…。』

また直ぐに表情は影を潜めるけど、目を伏せるポーズでシュンと沈む様子が伝わる。

『俺も飲めないけど、2回も飯を食わせてくれた。今度、プリマを連れて行っても良いか聞いてみるよ。ダンダリアンが良いって言ったら、来れるだろ?』

酒場って、面倒臭いな。酒飲みの為の場所だっていう事情は分かったけど、酒飲みじゃないのに贔屓の酒場が出来てしまった時はどう立ち回ったら良いんだ?

『ん…?ん…そうか………うん。じゃあ、それならば…。』

プリマは俯き、ゆっくりと間を溜めてから…顔を上げ、決意を固めた。

その顔にも声にも表情は無い。でも、何がと聞かれたら答えが見付かんないが…何かが、弾んでる気がするんだ。

我ながら、変な話をしてしまった。プリマと、ダンダリアンの酒場に行く約束になってしまった。何で、そんなことを言ってしまったんだろう…?

そんな必要、無い筈なのに…プリマは弾んで、俺も何だか悪くない気分なのは何故なんだ?

悪くない、とか偉そうに。

素直に、良い気分だって言えば良いのにさ…

『ルクス。』

プリマは忘れてたと言うように近付いてきて、自分の弁当箱と俺の弁当箱を纏め出した。そして序でに上目を寄越して

『楽しみにしてる。』

口を開きながらだったからか、今度は少し口角が上がってたようにも見えたけど…どうだろうか。

『弁当箱を、返してくる。』

『あ…。』

油断した。プリマがそのまま弁当箱を手に、蒼い扉を押す。闇の中にはまだ、雨の雫がランプの灯りに鈍く煌めいてる。

プリマは何も厭わず無言で雨の中に飛び込んだ。そう言えばプリマがあの雨除けのコートを着てるところを見たことが無いし、そもそもこの部屋にそんな物は見当たらない。俺がこの町に来て初めて雨に触れたあの日からいつも、プリマは雨に当たってた。

変な話を始めて、変な約束をさせて、弁当の片付けまでさせて…何だか俺、格好悪くないか?

取り敢えず…残り4日の内の何処かでダンダリアンの酒場に寄って、プリマを連れて行っても良いかを聞いてみるか。駄目なら其処で終わりだし…ダンダリアンなら、断ったりしなさそうな気もするな…。

家の外に出掛けて、家に居る時とは違うことをしよう。そんな約束をしたら、まるで本当の家族に一歩近付けたような気がした。何故なんだろう。

プリマは『楽しみにしてる』と言った。俺自身は…楽しみなのかよく分かんない。何が起こるか、どんな気持ちにさせられるか、想像がまるで付かなくて…

プリマが戻るまでの間、俺には修理を手伝うことなど出来ないし、プリマを考えれば考える程膝を抱えてじっとするしか無くて不甲斐無い。

せめて、何でもやるしか無いか。何でも屋の仕事を。

何でも屋の仕事がきっかけでダンダリアンと出会い魚の蒸し焼きを食べさせてもらってプリマにこの話ができたように、またどんな話がどんな話題に繋がって…プリマと家族に近付けるようになるか、分かんないから。

そんな絆……必要無い癖に。

何故、どんな相手でも…例え、敵でも。それでも、同じ屋根の中に押し込められたら、家族に成らなきゃ気が済まないのは何故なんだ?

こんなことを考えるのは何故なんだ?俺は前にも、同じ思いをしたことが有るのか?まるで、同じ思いをしたことが有るみたいじゃないか。

こんな場所いつか必ず出て行くのに、こんな絆必要無い。でも一つ屋根の下に押し込められた家族は、もっと関係の無い話をして、下らないことに笑いたい筈なんだ。

だって家族なんて、現実逃避なんだから。

関係の無い幸せ嗜んで、また明日それぞれが関係の無い仕事に向き合うために……

ありがとう、プリマ。今日…家族で居てくれて。


この町の雨は常に穏やかで

いつの間に静かに始まって、直ぐに静かに終わってる。

空には薄い雲が蓋をしてる。でも光は透けて柔らかく降り注ぎ、昨日町中に置き去りにされた雨粒たちは煌めき、たったそれだけなのに理由無く神々しいから釈然としない。

『いってらっしゃい、ルクス。』

プリマは、今日は雨が上がれば昨日出来なかったマミム小屋の修理をしに行くと言ってた。マミム牧場ではなく、第6階層で個人が趣味で飼ってるマミムの為の、かなり派手で癖の有る小屋。

『…行ってくる。』

右脇にゴードルンに返す雨外套を抱えて、左手で扉を閉めようとするとプリマがその勢いを奪う。何と無く昨日雨空に奪われた弁当箱を思い出して、そのままプリマに大きな扉を明け渡して前に歩き始めた。

町の中にはまだ人出は疎だ。空が明るくなったとて、軒先や葉の裏に滴る雫も晴れなければ何処か億劫な気がするのは何と無く分かる。階段の手摺りも、濡れてては意味が無いのだ。

チェスタとビスカには特に挨拶して行く必要は無いだろう。最短距離で、第15階層へ。

あの大運搬の前までは想像も出来なくて少し恐ろしくすら在った第12階層の向こうまで、いとも気軽に越えられるようになった。道のりは縮められないから、近所とまでは言えないけれど…気分的には、ダンダリアンもゴードルンも、レストラだって、会おうと思えば直ぐに会えるつもりだ。

大丈夫か?確かに行動範囲は広がったが…本当に脱出への道に繋がってるんだろうか?考えても仕方が無いのは分かってる。ゴールの方向を知らないんだから『本当に?』なんて問答の全ては無意味なんだ。

ネガティブになって立ち止まったらお終いだ。でもだからと言って、ポジティブになって歩き出してしまっても戻れなくなりそうで怖いんだよ。嘆くことを忘れるのと、満足して文句を言わなくなるのって、何が違うんだ?

入り組む街を一人で歩くとつい、考えなくても良いことが頭の中に浮かんできて、忘れてはならないことを忘れそうになる。そういう時は頭を振るえば雑念は払えて、前だけ見れば大切なことを忘れずに済む筈だ。

今日も上へ上る程に地は遠退き、緑は減り、家は犇めき…その癖太陽は、ちっとも近付いた気がしない。何と無く不遜で、気に食わない。ミズルみたいな気もする。

ミズルミズルって、皆が感謝したり、乾杯したりするもんだから…まるでミズルって、そんな奴がこの町の何処かに存在するみたいだ。まるで、この町の…王?否……神、か?

神って、何だったっけ?

ちっとも出て来ない。凄く大切な物だった気がするけど、思い出せないからどうでも良いような気もするな……まぁ、今はそんなことより、ミズルだ。

道が少し広くなり、一つひとつの家が少し大きくなり、煙突と緑が少し増えた。第11階層だ。直ぐ側の白い階段を見上げれば、大きな黄色い門。

もしもこの町の何処かにミズルと言う者が存在して、人々が捧げた感謝を受け、人々が捧げた杯を受けてるんだとしたら……上まで上って、町中を探して、ぶん殴ってやるのも悪くないな。

そうして反省させて呪いを消させれば脱出も出来るようになるんじゃないか?一石二鳥だ………馬鹿馬鹿しい。

呪いが人として存在して、ぶん殴ったら反省するなんて、そんな楽な話が有る訳無いだろ。

さぁ、仕事だ。兎にも角にも仕事をするんだ。仕事をしなければ、生きてゆけないのだから。

ミズルを殴って脱出するにしても、この町でプリマの家族として何でも屋として暮らすにしても…生きなければ、命は繋がなければ終わってしまうのだから。

グダグダと考える内に、赤く塗られた木の階段の下の、縦に長いゴードルンの家が見えてくる。下らないことに想いを馳せる行為は、まるで時間を縮める魔法のようだ。きっとこの先も、その魔法に頼ることになる。


『おはようルクス!今日も来てくれて嬉しいよ……コートも、受け取るよ。役に立って良かった。』

縦に長い家をノックして出てきたゴードルンは髪を下ろしてた。後ろで団子状に結んでた時は男らしい勇ましい髪型だと思ったが、下ろすとこれはこれで野生的で雄々しく見える。戦士っぽいかも知れない。

『俺も今から出掛けようと思っていたんだ。何かあったらそっちに寄るよ。お互い、今日も一日仕事を頑張ろう。』

頷いて、外に出る。赤い階段の上の空色の家。屋根のように咲く花たちには雨上がりの柔らかな光が降り注ぎ、葉や花びらから零れる雨露が煌めいて神秘的だ。あんな空間、俺はこの町で他に見たことが無い。不思議な場所だ…。

相変わらず大袈裟な鳴き声で軋む扉を開ければ、其処には当然誰も居ない。俺は敷物の奥に、扉を見詰めるように腰を下ろした。

さて、何もすることが無いぞ…患者がやって来ない限りは。下らないことでも考えるか…?

ロラサンは、この退屈な部屋で何をしながら、何を思いながら患者を待ち続けてたんだろうか。

病気も怪我も滅多に無いのに、医者は必要だから…医者は大変だよな。暇なのに続けなくちゃいけなくて。

どんなに皆が健康だとしても、医者が居なければ安心して生活することはできない。生活する為には、医者は必要不可欠だ。

ミズルって、自分の勝手で世界中から人々を飛ばしてくるんだよな。だったら飛ばす者を選んで、医者を優先的に第15階層に飛ばしてくれれば良いのにな。チェスタも、都合良く医者の記憶を持った被害者が飛ばされて来ればって言ってたし。

……またミズルを擬人化してしまった。呪いが意思を持って人を選ぶだなんて、何の為に?馬鹿みたいだ。

俺は心を殺してひたすら待った。暇ほど辛い仕事は無いと知った。道具箱の中を引っ掻き回すなんて、昨日で既に飽きてる。

『あ〜ん、すみません!…あ、あなたが新しいお医者さん?一昨日からずっと助けて欲しかったのよ!ゴードルンさんにロラサンおじいちゃんの代わりの人が来たって聞いて!今すぐうちにきて欲しいのよっ!うちって言うのも少しだけ歩くんですけど、この階層で…』

は…?扉の唸りも聞き逃す程唐突に女が入ってきた!…と言うより、戸が軋むより先に話し出してなかったか?声量は人並みだが、情報量が多くて煩く感じる!

でも、ずっと待ってた客だ。昨日始める前まではあんなに医者ごっこが嫌だったのに、最早誰か来るだけで嬉しいぞ。

『あぁ、わたくしメルタンと申します〜。この階で水場屋をやっておりまして…水場屋って、他の階層でも同じ呼び方なのかしら?トイレやお風呂などを管理する仕事なの。自慢ですけど、わたくしが管理しているこの近辺の水場はとても綺麗だと評判なんですよ。特に17階に窓が大きく特別眺めが綺麗なお風呂がありまして、わざわざ他階層からも』

『おい待て、待ってくれ!自己紹介は分かったよ!…お前、何か医者が入り用で来たんじゃないのかよ?』

『…はっ!』

両手を突き出して制止のポーズを取ると、メルタンは我に帰ったと言うように息を呑んだ。

多分真っ直ぐにしたらもう少し長いと思うんだけど、大胆にくるんと毛先が丸まった髪は丁度肩までのサイズに纏まってる。年は…レストラより少し上くらいかな。この異常な口数さえ知らないままなら、とても普通の女に見える。

『ちょっと聞いてよお医者さん!一昨日からずっと困ってたのよ!わたくしの愛しの旦那さま…トレーンっていって、これが中々のイケメンなんですけど…管理屋という、町中の施設を管理するとても立派な仕事をやっていて、水回りに関してはわたしたちは相棒とも言うべきね!出会いも仕事からだったんですけど…』

『おい。トレーンがどうしたんだよ。』

『はっ!そのトレーンが一昨日から熱を出しまして…3日経った今も熱が引かないのよ!何か大変な病気なんじゃないかとも思って…お医者さんに診てほしかったの!だから早く来て!』

早く来て欲しいなら、必要な話だけをもっと簡潔に話せよ…まぁ良いか。どうやら少し大変そうだ。

『分かったよ。トレーンの所まで案内してくれ。』

そう言って、腰を上げて…序でに、小さな道具箱を取った。医者が置いてった道具箱なんだ。病気を診るのに、きっと必要な筈だ。

『こっちよ〜。この道を真っ直ぐ行って、プラナタスの家を左に曲がるの。プラナタスって実はわたしの元カレだからちょっと気まずいの…でも結構イケメンで』

本当によく喋る女だ…面倒臭いから、目的地に着くまでは無視しておこう。

見上げたら雲は晴れてきて太陽が覗いてたが、意外にもまだ頂点には達してなかった。俺の辛抱の無さが明らかになる。

しかし熱か…熱ってもしかして、結構病気っぽいんじゃないか?良い加減なことは出来ないぞ……しかもこいつ『新しいお医者さん』とか言って、俺のことをちゃんとした医者だとか思ってないか?

少し憂鬱且つ不安なままメルタンに付いて行く。この町では大きな病気は無くて、この町に限ってもしものことなんか起こらないって言う住民たちのことを信じるしか無い。

……何でそんなこと、当たり前のように言えるんだよ?到底、信じられる訳が無いだろ…。


赤い屋根、黄色い壁の家。2人分の寝床を確保して、まだ少し余りは有りそうだ。

『この屋根と壁は幼馴染のバッサーに塗ってもらって…女だてらに塗装屋をやる、中々根性のある子なのよ!でも10年前にとある男を取り合ったことがあって…』

メルタンは道中ずっと1人で話してて、俺は全く聞いてなかった。よく話題が途切れないものだ。此処まで来ると尊敬出来る。

『トレーン、ただいまっ!お医者さんを連れて来たわよ!大丈夫…?』

中に入ると、横に長い部屋にベッドが2つ、奥へと並んでて…これ、奥のベッドへはどうやって行くんだ?手前のベッドを乗り越えて行くのか…?しかもトレーンは、手前のベッドに寝てる。

『お……おが…おか……り…げほっ!…いとし…の、メルタ…ン………医者……など……わざ…わざ……。』

メルタンと同じくらいの年だろうか。イケメンって奴なんだろうか?何せ…苦しそうで全然分かんない。

顔は赤く汗を掻き、ゼェゼェと息が心許なく、かなり辛そうだ。まさか本当に重大な病気だったりしないよな?

『ねぇ。診察をして、ただの風邪なのか診て下さらない?ただの風邪だったなら安心して看病に専念できるけど…もしも大変な病気だったら、不安でどうしたら良いか分からないわ!』

風邪って…何処かで聞いた気がするな。何かの病気だったっけか?でも風邪だったら安心ってことは大した病気じゃないみたいだ。

嗚呼、否……風邪って、俺も罹ったことが有ったかも知れない。そうだ。確か、その時は…布団に入って、温かくして寝てた。隣にずっと、誰かが居て……あれは、誰だったんだろう。もしかして、俺の家族だったんだろうか…?

……否、そうだったか?風邪を引いても、誰も助けてくれなかったんじゃないか?体調を崩して、使えなくなって、一人でやり過ごして治して、そうしたらまた働かなくちゃならないんだ。

何故?誰の為に?

きっとそうだ。その筈だ。温かいベッドで、誰かが隣になんて…幻想だ。きっと憧れて、夢を見てた。

『……お医者さぁん。大丈夫…?』

『……あ。』

忘れてた。取り敢えず目の前の患者に対応しなくては……トレーンは良いよな。愛しのメルタンに、こんなに心配して貰えて。

しかしどう手を付けたら良いか全く分かんない。先ずは道具箱を開けてみることにした。病気などと言う見えない物を見分けるには、きっと何か道具が必要な筈だ。

『あら!体温計があるじゃない。ぜひ体温を測ってくださいな!』

メルタンが、目盛りの付いた小さな棒を手に取った。真ん中に通る細い線に…何か入ってる。赤い液体が、途中まで。

『…何、これ。』

『えぇえっ!?』

俺の無知にメルタンは高い声を上げ明ら様に喫驚した。医者じゃない奴も知ってるくらい、当たり前のことなのか?

『体温計も知らないの?あなた、本当にお医者さん…?ちょっと借りるわね…トレーン、脇に挟めるかしら?どれくらい待てば良いのかしら……知らないわよね。』

トレーンは無理を押して少しだけ起き上がり、服を捲り左脇に体温計を挟んだ。これで体温を測れるのか?

『俺、只の代わりであの診療所に居るだけで…医者でも何でもないんだ。と言うかそもそも重症で…風邪がどういう物なのかもあんまり覚えてない。』

『は…えぇえっ!?そんな…!ゴードルンさんの嘘吐きィイっ!どうしましょ〜!お医者さんさえ来ればなんとかなると思ったのに…でも、ロラサンおじいちゃんだったとしても、もう外に出て往診する体力なんて残ってなかったのかしら?そもそもおじいちゃんってばお医者さんのくせにちょっと薄情なところがあったから……』

こいつ、嘆く時までべらべらと!本当に凄いな…。

『なぁ、何でお前は体温計の使い方を知ってるんだ?他に使い方が分かる道具は無いか?』

自分が役立たずなのは分かってるけど、目の前に倒れてる奴が居て放ってはおけない。せめてやることだけはやって帰る。

『えぇ…そうねぇ…実は昔、わたくしの母が熱を出した時もロラサンおじいちゃんに診ていただいたの。あの時はすぐに良くなったんだけれども、熱が出た初日はお母さんってば死ぬかもしれないなんて抜かしちゃって…』

『おい。前はロラサンはどの道具を使ってたんだ?』

『はっ!えぇと…とても覚えているのは体温計と…これを使っていたわ。何て言う道具なのかは知りませんけど。』

メルタンは、丸い錘と二股に分かれた金属が管で繋がれた道具を手に取った。この中で、俺が一番用途の想像が付かなかった物だ。これの使い方が分かるなら、是非知りたいところだ。

『これ、耳にはめるのよ。』

メルタンに、二股に分かれた金属を一本ずつ、左右の耳に嵌められる。不思議とスッポリフィットする。

『それでね〜…確か、こんな感じだったわ。』

メルタンはトレーンの服を捲り、左の胸に錘の平らな部分をぺたぺたと当ててみせた。

『あ、捲ったついでに体温計を見てみましょ…あとはよろしく!』

トレーンの脇から体温計を奪い、錘は俺に寄越すメルタン。真似して、左胸の辺りに錘を当ててみる。

『体温は…37.8度…?高いのか低いのか分からないわ…でもお母さんの時は、もう少し高かったかしら?もう覚えてないわ。大体お母さんってば身体はとても熱いのに泣き叫ぶ元気だけはあって、そのくせ』

メルタンは無視だ。それにしても不思議だ。錘の平らな部分を胸に密着させると、耳に嵌めた細い金属の管から音が聞こえる。メルタンが捲し立てる隣に於いても、はっきりと、規則正しく、トクトクと。

これは…心臓の音だ。だって此処には、左胸には心臓が在る。人の命を司る、極めて重要な機関の癖に、身体中に音を響かせ、己を知らしめてる。

だけどその癖こいつは骨に守られてるんだ。心臓を突き刺そうとしたって、一撃で仕留めることは難しい。骨の間を正確に縫うことでも出来ない限りは。一撃で仕留めるならば、突きよりも、心臓よりも……

…何で俺はこんなどうでも良いことをつらつらと思い出せるんだ?まるで、常にそんなことを考えて行動してたみたいだ。

まさか俺って…人を殺したことが有ったりはしないよな?

……そんな恐ろしいこと、考えたくも無いから…無視だ。

『…はっ!あら?お医者さんの代わりさん、大丈夫…?』

嗚呼、そんなことを考えたって仕方が無い!そんなことより、今はトレーンだ…!

『心臓の音が聞こえる…規則正しく、綺麗に。何処か悪いところが有るとは思えない…。』

何とも言えないけど…普段と何も変わりさえ無ければ、何か酷いことが起こることも無いだろう。

『そうなの…?安心なのかしら…?でも、こんなに苦しそうなのよ…咳もして。震えているし…なんとかなりませんこと…?』

『はぁ…?そんなこと言われても…。』

病気なんて形の無い物、治りを待つ以外に何かやりようが有るのか?それとも、病気って形が有る物なのか…?

『喉が痛いんだよな?口を開けろ。』

『え、えぇ…?げほっ!』

『ちょっと…トレーンに乱暴しないでちょうだいね!』

咳ってことは、喉だ。もし喉がどうにかなってるなら、それをどうすれば良いか考えれば良い。

開けさせてみたものの、舌が邪魔して奥は見えそうで見えない。もどかしくて後ろ手に道具箱を漁ってみて、適当に一つ引き寄せた。それは、小さな鏡が付いた棒……これ、もしかして使えそうか?

トレーンの喉に突っ込んで、平たい鏡で舌を押さえてみる。

『うごっ!?』

トレーンが声にならない声で嘔吐く。胸の奥がチリっと疼く。俺は夢中で、恐ろしいことをしている事実に全く気付いてない。

『ちょっと!ひどいことしないでってば〜!』

『ちょっと待てよ!もうちょっとで……あ。』

奥がちょっと見えた。何だ…分かり辛いな……赤いけど、どれ程赤ければ問題なのか分かんない。でも少し…痛そうだ。喉奥の左右。腫れてるのか?分かんない…!

『ちょっと!お願いもうやめてよっ!トレーンの美しい顔が苦痛に歪んでるわっ!』

『わっ!』

夢中で居たらメルタンに引き剥がされる。もう少しよく見たい気もしたけど…ちょっと分かった気もするぞ。喉は、良くない。きっと風邪だ。

『もういいわ!心臓が大丈夫なら、きっと大丈夫!…よね?やっぱり心配だわ…3日も熱が下がらないなんて可哀想に…管理屋の仕事も滞ってしまうわ!水回りはわたしがやるとして…その点に関しては、わたしたちは相棒だもの!ウフ…愛するトレーンのために頑張らなくちゃ』

『おいっ。喉が腫れてるから、それが治ればきっと良くなる。きっと、身体の外側の腫れみたいに…塗り薬みたいな物が良いと思うんだ。』

『喉に…塗り薬ィ?』

塗り薬って、ベタベタして…それが傷を守るし、ちょっと楽になる気もするんだよな。だから、ベタベタした粘度の有る…食べ物?飲み物でも良いか。

蜜だ。蜜。

『蜂蜜だ。』

口を衝いて出てきた言葉だけど、きっと確かに存在する食べ物の筈だ。

偶に食べてた筈だ。本当に、偶に。甘くて、幸せになる…

『はち…みつ…?』

メルタンはぽかんと呆けた。知らないのか?

『蜂蜜を知らないのか…?蜂の蜜だ!多分、蜂が作る蜜…。』

俺も余り自信が無いけど…蜂って多分虫だ。蜜が採れるけど、良くないところが有った気もする。毒でも有ったのかな…?

『ハチって何…?動物なの?それとも虫?蜜を作る虫なんて…聞いたことが無いわ〜。』

そうなのか…蜂蜜って、何だか世界に広く出回ってる当たり前の食べ物のような気がしたんだが…違うのか?でも、俺もそんなに頻繁には食べてなかったような気がする。この閉鎖的な町で、蜂が居ないということも普通なのかも知れない…のか?

『ねぇ、そのハチミツというものが薬になるとでもいうの?どうしたら手に入るのかしら…?』

『蜂が居なけりゃ無理だろ…なぁ、蜂蜜が無いならこの町では何を使って甘くするんだ?蜂蜜みたいな、トロッとした濃い蜜が良いと思うんだけど。』

『え?甘ーい味は…木や花の蜜を使っているんじゃないかしら〜?木の蜜なら、トロッとしてると思いますわ。お菓子屋に頼んで譲っていただこうかしら?そのままだと飲み込めないから、白湯屋にお湯を貰って溶かしてあげましょう。お湯を飲めば身体も温かくなるし…』

菓子屋は兎も角…白湯屋?そんな仕事まで有るのか。各家は本当に寝る為だけの棲家で、台所も何も備わってないからそんな職業に頼らないとならないんだ。面倒な町だ…。

『なぁ、きっと心臓が大丈夫だから大した病気じゃないと思うし、喉も大事にしたらきっと治まる。他に何か心配なことは無いか?』

何と無く、やることはやった気がする。

本当は…道具箱の下の段に遺された薬たちを使えたら良いのにって思ったけど。でもどれが何の薬なのか分かりようが無いから、下手なことは出来ない。

本物の医者が来たら、活かすことも出来るのだろうか…?

『えぇ…?あなた、急に頼もしくなっちゃって…なんだか少しだけイカしてるわよ!そうね…なんだかさっきより安心しましたわ。どうもありがとう!』

メルタンはニコッと笑顔を見せた。何だか何かが報われた。誰かに感謝をされるのは、いつだって悪くない。

医者って、知識と技術さえ有れば…悪くない仕事なのかも。

『じゃあ…片付けて行くよ。熱で暑いかも知れないが、布団を被って温かくして寝ろよ。あと、白湯だけじゃなくて飲み水も沢山用意しといた方が良いかも。汗を掻くし、喉が渇くだろ?』

『あら…確かにそうね。あなた本当に、急に冴え出してるわぁ〜…。』

メルタンは軽くだけど、呆気に取られてる。

確かに急にすらすらと口を衝いて、自分でも驚いた。もしかして少しずつ、思い出せてきてるか…?

『あとは、食事は体力を使うから…スープみたいな奴が良い。栄養の有る野菜を、細かく刻んだりして…。』

『スープ…?それは難しいわ…スープなんて、食事処ぐらいでしか食べたことが無いわね。第12階層も遠いし…お湯にお米を入れたら、お粥になるかしら?』

本当に不便な町だ。楽だけど、不自由だ。

『それで良いならそうしてくれ。行っても良いか?』

道具を仕舞って、扉の方へ逸りながら、メルタンを振り返った。メルタンはすっかり不安を落ち着けてそうだし、ベッドの上のトレーンも、微かに片手を俺に向け、礼としてくれてるみたいだ。

『ありがとう、お医者さん!これで安心して看病できる…きっとトレーンは良くなるわ。苦しむトレーンの顔なんてもう見たくないもの。確かに美しい顔が苦痛に歪む様も…少しなら良いわ。でもやっぱり3日も続くと、愛する人が苦しむ様なんて見続けたくないから』

メルタンは、代わりではなく俺を医者と呼んだ。

医者ってこんなもので良いのか。もっと、魔法みたいなことをしなくちゃいけない物だと思ってた。

苦しむ人を救うなんて、魔法でもなければ出来ない。

『だから出会った頃のトレーンって今よりもなんかこぉ〜…甘い感じのイケメンだったんですけど、結婚してからは少し逞しくなってこれはこれで』

メルタンを無視して外に出た。太陽はやっと頂点を超えてた。

少し、この仕事をした甲斐が有ったかも知れない。どんなに小さなことでも、思い出せたことが有ったし。

多分、プライドの器に温かい何かが少し注がれた。これは、この奮闘が無駄に終わらず、何かの為になれたという安堵。

来た路を戻って、プラナタスの家を曲がって、ひたすら真っ直ぐ。この辺の地理なんて全然明るくないけど、簡単な順路で助かった。

居ない間に誰か患者が来てたらどうしよう。どうせ大丈夫かな?昨日もあんなに暇だったんだし、この町には……どうせ、もしものことなんて起きないんだろ。


空色の小さな家が見えてきて…扉の前には、誰かがしゃがんでる。もしかして待ってたのか?昨日ゴードルンが、忙しくなると踏んでたのを思い出す。

本当に、医者が必要な奴が増えてきてるのか?

『おい。』

声を掛けると、男の目は輝き出す。

真っ白な髪。でも、年寄りの白髪とは違う…くすみの無い、透き通るような白。ツンツン跳ねてる。俺が出会った中だと…ビエッタに近いかな。若いと大人の間。でも雰囲気はあいつ…ピズーリに似てる。眠そうな目で、その癖勢いで生きてそう…適当そうだ。

『あーっ!もしかして、医者…?助かったー!ロラサンの代わりが来たって本当だったんだなー!』

声がでかくて…見た感じ、医者が必要そうには見えないが…?

『婆ちゃんがまたボケてんだよっ!』

は?

ボケたって……もしかして、只、馬鹿になっただけか…?

医者って馬鹿も治すのか?馬鹿が治せるなんて、そんな話そのものが馬鹿だ。苦労をしない。

『ちょっと前からひどくなり出してロラサンに相談してたんだが…ロラサンが居なくなってから、家族みんなで見張って頑張ってたんだよーっ!でも、ロラサンの代わりが来たんだから診せに行こうと思ってたらー…隙を突かれたーっ!今、家族で近所を探してるんだけど、婆ちゃんを診てはくれないかっ!?』

男はさも緊迫した事態かのように声を上げる。本当に大変なのか、声がでかくて大袈裟に聞こえるだけか判別が付かない。

『なぁ……俺は何をしたら良いんだ?』

『あ…?まずは、婆ちゃんを探さねーとっ!』

確かに、本人が現れなけりゃ診察しようが無い…でも、何かおかしくはないか?

『もしかして…俺も探しに行くのか…?』

『もちろんっ!』

男は、分かり切った答えを発表するようにはっきりと発声した。

『あっちの方は今俺の家族が探してんだー!だからそっちの方を中心に頼むっ!弱ってるからそんな遠くには行かないと思うんだが…もしも見つけたら俺の名を…ユトピと呼んでくれ!俺はちょっと、自分の菓子屋の様子を見てからまた探すから…代わりに任せたっ!』

『あ…!』

ユトピは返事を待たずに反対方向へ駆け出してしまった。

しかし、ユトピは菓子屋なのか…恐らく、少し時間が掛かるな。あのメルタンの話を回避出来なければ…。

馬鹿になった婆さんを探すのは面倒だけど、仕方無いからやるか…他に患者も来ないみたいだし。

取り敢えずユトピが言った方向へ歩き出した。少し探して、見付からなかったら戻ってみよう。ユトピの家族が見付けるかも知れないし。

心配し過ぎなんじゃないか。多分だけど、年を取ったら馬鹿になるなんて、当たり前のことじゃないか?

人が生まれた時の無知はやがて成長する程に生きる力を身に付け、そして老いる程に今度は壊れてゆく。

人間は馬鹿として生まれて、馬鹿として死ぬんだ。

だから馬鹿になる前に死ねたら一番良い。

それとも、馬鹿な内に死ねた方がよっぽど幸せか?

若しくはずっと無垢なまま、馬鹿なままで生きることが出来るのならば。

第15階層は小さな家ばかりで、植木や花壇は下の階や第16階層に比べて少ない気がする。だからこそロラサンの家の上の小さな花畑は、小さいながらも存在感を放つのかも知れない。

建物が多いから死角が多くて苦労しそうだ。息を吐いて気合いを入れ直して、歩き出した。今日は終わった後に寄りたい場所が有るのに、そんな気力を残して置けるのだろうか…?


歩き回って程無く、不審な婆さんを見付けた。

メルタンの家とは反対側の通路を行って幾つか適当に曲がった一画。小さな家と小さな家の間の細い隙間を、座り込んでずっと見詰めてるのだ。馬鹿っぽい…否、壊れてる。

『婆さん…お前もしかして、ユトピの婆さんか?』

話し掛けても、返事は無い。こちらを向かない。微動だにしない。

『おい!返事だけでもしてくれ!言葉も忘れたのかっ?』

かなり強めに言ってしまった。しかし動じる様子は無く……ゆっくりと、姿勢を崩さぬままこちらを振り向く。

『…………あら…ぁ。あら…?此処は、何処かしらァ。此処は、おうち…?そろそろ…夕飯かしら?』

思ったより馬鹿だ。爺さん婆さんってこんな感じだよな…多分、殆ど会ったこと無いけど。自分の家も覚えてないのかよ。まだ日も頭の上で、全然夕飯なんて考える時間じゃないのに…。

『なぁ…多分此処はお前の家じゃない。俺と一緒にユトピを探して、家に帰れよ。』

腕を掴んで、立ち上がらせようとすると

『ユトピ…ユトピ!お前こんな所で何をしてるんだい!紫の子供たちが……お菓子を……』

何で俺がユトピなんだよ!しかも訳の分かんないことを言って…これも、馬鹿になってる所為か?こんなの、老い…かも知れないけど…病気かも知れないけど

誰かに似てる。

……まぁ、違うかも。こんな馬鹿を、何処かで見たことが有る…。

それにしても婆さんの腕って、こんなに細いんだな…小枝みたいだ。今にも消えそうで、怖い。

『おい。俺はユトピじゃない。ユトピを探しに歩こう。』

『え………あなた……だれ…!?助けて!乱暴しないでぇええ!ユトピ!ユトピぃいい!』

『はっ!?』

何でそうなるんだ!確かにちょっと声を張ったり腕を掴んだりしたが、乱暴とまで言われる筋合いは…さっさと此処を見付けて、助けろユトピ!

『おーっ!婆ちゃんっ!医者っち!遅くなってすまねぇーっ!』

声がして背後を振り返ると、いつの間にかユトピが駆けて来てる。心で呼び掛けた途端にすぐ来てくれるとは…感動的だ。

『いやーちょっと客さんが来ててなぁっ!ありがとう、医者っち。婆ちゃん何やってんだよっ。なぁ…婆ちゃんとは話したか?』

ユトピは何だか小慣れてる。この壊れ掛けた婆さんを、暫くずっと世話してたんだ…だからだ。壊れ掛けが、少しずつ確実に壊れていった。

『話したけど…俺はどうしたら良いんだよ。こいつは病気じゃない。壊れてるだけだ。』

ユトピは婆さんの肩を抱きながら、先ずは軽く眉を歪める。

『何だそれ…失礼なこと言うなよ。婆ちゃんは元気だ!ただ…ちょっと変になっちゃっただけだよ。だから病気だ。元気なやつが、変になるのは病気のせいだ。だからロラサンも相談を聞いてくれたんだよ。』

筋肉痛の対処も良い加減だったロラサンのやることなんて信じられるか。時間も相手も判別出来ないくらい壊れた奴なんて

壊れた物なんて、壊れることしか出来ないだろ。

元に戻らないんだから、壊れるしか無い…。

『病気じゃなくて老いだろ。俺には時は戻せないし…お前だって、時を止めることは出来ないだろ。居なくなったら探したりとか…そういう、俺に出来ることだったらするよ。でも、やり方を知らないんじゃなくて…不可能なだけだ。どうしようも無いんだ。』

婆さんはユトピにくっ付いて、また何もかもが見えず聞こえないかのように呆け出した。何処を見てるのか定かではないし、身体が石になったかのように動かない。

『何で……そんな酷いこと言うんだよ…。』

気付けばユトピは、どんどん語尾が頼りなくなり声は萎れてゆくような感じだ。目を伏せ俺の顔には目をくれないけど、別に欲しいとは思わない。

『お前って…もしかして医者じゃないの?』

何で今そんなことを言われるんだ?本当のことだから、別に良いけど。良いけど……

あの兄弟やメルタンにも感じたこの憤り…お前らが勝手に勘違いしただけだろ?落胆される筋合いなど無い。

『俺は医者じゃない。ロラサンが居なくなったから連れて来られてるだけで…医術どころか、自分の記憶も無い、重症なんだ。』

『はぁあっ…!?さ…最悪だ…!』

目を丸くし、口は塞がらないまま…まるで俺が悪いことをしたような表情と言葉で。こっちだって不穏な気分が徐々に高まる。メルタンの家を出た頃の悪くない気持ちは小さな泡のように順番に、知らない内に弾けてく。

しかも、続け様にこんなこと言われたらさ…

『お前…自分がボケてんだぁ…。』

『は…?』

何だ…こいつ?俺がボケてる?

俺が壊れてるって、そう言ってるのか…?

『そうか…そうなんだな…悪かったよ……かわいそうに。』

そうだ。俺は可哀想なんだ。唐突に理不尽に巻き込まれて、有無も言わせて貰えない。

でも、この『かわいそう』は…何でこんなに納得が行かないんだ?

『お前には医者が出来ないんだな…しょーがねーけど、なんとか他を当たるよ。医者が出来ないなら、もっと最初からこんなこと始めない方が良いぞ…ゴードルンだって、そこまで強引な訳じゃない…。』

ユトピは目を細めて…さっきまでは俺に助けて欲しいって縋ってきてた癖に、今度は俺を憐れみ始めてる。

勝手に話を進めるな。一緒にするなよ。俺は何もかもが分かんなくなった訳じゃないし…俺は壊れてない!失くしただけなんだ…!

俺の記憶は、必ず戻る!

『出来ないけど………何だよ……お前に、何が………』

いつの間にか、俺の頭も俯き出して。

出来無くても、俺は昨日も今日も、出来ることはやってきたんだって。

訴えたかった訳じゃない…只、勝手に口から漏れ出てたんだ。

でもユトピは、そんな俺の言葉にわざわざ答えをくれた。

『だって話を、聞いてくれないじゃねーか…。』

フッと空気を感じて見上げると、ユトピも俺に向き直ってこっちの目を捉えてくる。婆さんは太陽へ向けて顔を上げたままユトピの腕の中で完全に寝てる。

『医者は話を聞く仕事だって、ロラサンは言ってたさ……婆ちゃんのでたらめに相槌打ちながらさ。』

ユトピは優しく婆さんを撫で、揺すった。

『婆ちゃん、待たせたなー。帰ろうよ。豆を使った菓子を作ってあるからな。今日は何色の子供にあげるんだ?昨日は緑だったから、今日はー…そろそろ紫か…?』

ユトピが婆さんに語り掛け続けると、徐々に身体に力が篭り、瞼が開き出し…そして、いつの間にかユトピが差し出した手を握り返してた。

『じゃあな。婆ちゃん見つけてくれてありがとう。』

婆さんは握り返した手に引かれてそのままヨタヨタと歩き出した。信じられない程歩幅が小さい。人間って終いには此処まで衰える物なんだな。ユトピは前は向きながら婆さんに合わせてゆっくり進んで…じゃあとか言った癖に、全然去らない。

何と無く2人のことをずっと目で追い続けてしまった。このままじゃ角を曲がる前に日が暮れるんじゃないかとか思ったが、2つの背中は確実に小さくなって…何処かの家の隙間に吸い込まれていった。

嵐のように巻き込まれあっと言う間に見限られた。頗る後味が悪い。あいつが悪いのか、自分が悪いのかすら見当が付かないんだ。

昨日だって、さっきトレーンを診た時だって、医者で居られた自信なんて無い。でも、医者を求めて来た奴らは満足してるように見えた。

確かに俺はユトピの求めることは叶えられないけど、だからって話を聞いたら何が変わるんだよ。やっぱりロラサンはおかしな医者だ。

立ったままでは仕様が無いので、とぼとぼと来た道へ歩き出す。歩きながら考える。もう壊れてゆくだけの壊れかけの時間を戻すことも、緩めることも、どう考えても出来ないし…許されることでも無い筈だ。

ユトピが何故怒るのかも、何にがっかりしてるのかも、何を求めてるのかも一つも理解出来ない。

ユトピが言ったことへの言い訳みたいなものはぽつぽつと浮かんでくるけど、それでもどうやら整理は付かない。この後また誰かの病気の面倒を見るのは、今日はもう嫌だな…。

この町にはどうせもしものことなんて起きない。人は皆、時が来たら死ぬだけだ。またそうやって自分を励ました。都合の良い時に、都合の良い言葉だけ信じて…そう言えばそうやって、やり過ごして生きて行くのが人生だったような気もする。


『ありがっとぉ!じゃあっねぇ〜!』

『ばいばぁい!』

セウスが笑顔で立ち上がると、フリウスも笑顔になって2人して駆けて行く。こっちの返事なんか待たないで、自分たちの目的が達せた瞬間に早々と…。

嫌な気分でロラサンの診療所に戻ったら今度こそ誰も居なくて、久し振りに落ち着けたような気分だったんだけど…その後も少し人が来たんだ。

どいつもこいつも下らなかったな。今去って行った黒髪兄弟は、また歩き回って膝を擦りむいたから処置してくれって言って、まだ医療っぽい行為をさせてくれたけど。

フリウスに右手の代わりをして貰いながらだが、結構上手に包帯を巻けたと思うんだよな。きっと俺は何度もやったことが有る行為なんだと思うんだ。

変な奴も居たな…第16階層の女教師、スマス。毎晩毎夜眠れないとか。別に眠くないのなら、寝なければ良いだけなのに。

言えることだけ言ったけど…風呂にゆっくり入ってから寝ると気持ち良いとか、夜中星を眺めてぼーっとしてたらいつの間にか眠くなってるんじゃないかとか、眠くないなら無理に寝ようとせずに天井でも眺めてれば良いとか…あんまり泣き付くから思い付いた順に言って、こんなの意見でも何でも無いけど。まぁ、本人は何と無く納得してくれたんだから別に良い。

あとこいつは煩かった。第15階層の建具屋パック。扉に足の小指をぶつけて、痛いから骨が折れたかも知れないって、おっさんの癖に泣き出して。

触ったら大丈夫そうだったし、そもそも此処まで歩いて来れる時点で問題無いんじゃないかって思ったし、そんなに心配ならって一応包帯をきつく巻いて固定してやったし…そうこうしてる内に、痛くなくなってきたとか言いやがって、笑顔で帰って行ったけど。

どんなに下らなくても、何とかなる話なんだったら聞いたり答えたりすることは出来る。

思えば俺はこの町に来てから今まで、何とかなる話にしか出会ったことが無かったんだ。この町に来てから、崩壊とか死とか無常とか、そんな物と対峙したことが無かった。時の流れに挑んだことがまだ無い。

戦う対象じゃない。そんな物、相手じゃない。只の道理だ。条理だ。

…戦うべきは不条理だ。ミズルだ。

壊れた物は直らない。でも、奪われた物は取り戻せるんだ。

だから俺は正しいし、ボケてなんかない。

『ルクス…お、お疲れ。その様子だと、今日も医者として皆の話を聞いてくれたみたいだな。』

窓が光源として役に立たなくなってきて、そろそろゴードルンが来るんじゃないかって思ってた。ホッとするけど…『医者として』『話を聞いて』って、ユトピの顔が思い出されて気に食わない。ゴードルンが悪い訳じゃないんだけど。

『帰りに偶然パックに出会して、ルクスのお陰で折れた骨が治ったって言ってたんだよ。何のことだか的を得なかったが、やるじゃないか…流石、何でも屋だな!』

良い加減なことを言い触らすなよ!良い加減な奴だったもんな…ユトピがゴードルンに出会したなら、俺が医者を出来ないって言い触らしたりするんだろうか。

『俺は今日も見回りをし、余った時間は第12階層で医者の求人を広めながら情報収集をして…やはり収穫は今日も無しだ。第12階層以下では望みは無いのだろうな……チェスタの成果がどうかは分からんが、それも期待しては悪いだろう。明日は早起きをして出掛け、より上層の階へ足を伸ばしてみようかな。』

ゴードルンは憂えながら扉を放ち、先導した。今日もやっと解放される。

外では夕焼けと夕闇が鬩ぎ合う。この町の空は、基本的には小さい。見えない場所も有る。常に上に家が重なってるからだ。でも、だからこそ…其処から覗く空は美しい。救いだからだ。

『ありがとう、ルクス。今日はゆっくり休んでくれ。明日もきっと、患者は来るだろうからな。』

赤い階段を2人で踏み鳴らしながらゴードルンは笑う。俺は笑顔を返すのは下手だから代わりに大きく頷いて…細長い家の前で、もう一度『また明日』とお互い手を挙げて別れたんだ。

気付いてしまった。怖いのは俺だけか?『明日もきっと患者は来る』って、どうしてそんなことが分かるんだ?どうしてそんな言い方が出来るんだよ?

そんな言い方をされて気付いたんだ。昨日と比べて、いきなり色々来過ぎじゃないか?

昨日は黒髪兄弟の筋肉痛だけだったけど…今日は風邪、ボケ、不眠、ぶつけた足、擦り傷…5件も。

たまたまか?でも……

ロラサンが死んでから、医者に頼りたい奴が増えてるって…確かゴードルンは、初めて会った時にそう言ってたんだ。

……でもどうせ、この町で…もしものことなんて、起こる筈が無いんだろ?

何とかしなくちゃ。

ゴードルンが。チェスタが。俺が…危機に気付ける奴が。危機感を持てる奴がなんとかしてやらないと。

危機感を持てない無垢な子供みたいな奴らに、もしものことが起こる前に。

騒めきが徐々に確かになって、活気溢れる中の小さな桃色の門が見えて、はっと気付いてモヤモヤとした思考が吹き飛ぶ。

すっかり忘れてた。ダンダリアンの酒場に寄ろうと思ってたんだ。混んでるかな…?でも、一つ質問が出来れば良いんだ。寄るだけ寄ってみよう。


『……ルクス。』

滑らかな扉を開いて先ず俺に気付いたのは、折れ曲がった手前の席に座るビエッタだった。この席はまるでこいつの定位置みたいだ。

『ルクス…?どうしたんだ?良く来たな。』

ビエッタの声に振り向いて、ダンダリアンも直ぐに気付いてくれる。手前には葡萄酒を携えたビエッタ、ダンダリアンの前には盛り上がる知らないおっさん達。おっさん達が大きく笑う度に何かが臭くて…あの、酒の感覚が呼び起こされるな。やっぱり俺って、此処に来る資格が無いのかな。

『丁度奥に一席空いて居るから、其処に座ってくれ。』

ダンダリアンは手元の鍋の火加減を見ながら、目の前の客に瓶を出しながら声を飛ばしてくれる。やっぱり忙しそうだ。

『否…ちょっと聞きたいことが有って寄っただけなんだ。だから…』

『そうか。では、立ち話も何だから其処で聞くよ。お前達、少し後ろを引いて通してやってくれ。』

言われて3人のおっさんたちは揃って前に身を寄せ、心許無い通路が広がる。ダンダリアンは優しくて狡い。また俺を甘えさせる気なんだ。

『…ありがとう。』

おっさん達の後ろを通り様に礼を囁いて奥に座ると、いつの間にかダンダリアンが橙ジュースを出してくれてた。

『旦那ァ!いつからこんな可愛らしい客が来るようになったんだよ!ははは!』

隣に来ると一層声がでかい。これって酒の所為なのか?元々のこいつらのことは知らないが…カストルはこんな風に煩く笑ってたし、でもビエッタは大人しく澄まして飲んでるし…酒に強くなったら、ビエッタみたいになれるのか?でも、大声で笑えた方が楽しいんじゃないのか…?

『ルクス、もしやゴードルンと共に仕事をして来たのか?お疲れ。良かったら、お前もスープを食うか?全員分だから、多めに作ってるんだよ。遠慮をするな。』

大きな鍋の蓋が開かれると湯気は下から下りるカーテンのようにダンダリアンを隠し、熱気とハーブの香りが広がる。そしてそれらは直ぐに引いて、現れたダンダリアンはもう…おたまで、器にスープを注ぎ始めてる。

『ほら。温まるぞ。』

順番に椀が出されて最後に俺の元に渡る頃にはビエッタはもう口を付けてる。あいつが食事をしてる様子を初めて見ることが出来た。スープを啜る時にまで澄ましてやがる。

俺もスプーンで掬って、一口啜った。先ず温かさが支配して、その後旨みが広がる。きっと肉の…マミムの出汁だ。でもトマトが入ってて、力強いのに爽やかだ。そして幾つかの草が散らされて…ハーブの香りが混ざって攻めて来る。美味いという方向へ、脳を操作されてるみたいだ。あの、魚や肉を焼いた時のハーブと、同じような違うような…?

『ルクス、用件は何だ?ゴードルンの所で、何か有ったか…?』

ダンダリアンは琥珀色の酒を一口含んでから、心配そうに俺の顔を覗いた。もうレストラのジュースは無くなったかな?一人で飲むにしても少なかったし、日持ちもしないって言ってたからな。

『否…まぁ色々有るけど、それは関係無い。聞きたかったのは…今度、俺の家族をこの酒場に連れて来たいんだ。ダンダリアンのハーブで焼いた、あの魚を食べさせてやりたくて。でも…そいつも子供だから、酒が飲めないんだよ…。』

こんな自分本意の我儘なんて聞く筋合いは無いだろうなと思いながらも、ダンダリアンは優しいからそんなことぐらいなんて言ってくれそうな期待も隠してる。そう言えばダンダリアンが自分以外の誰かを否定してるところを、まだ一度も見たことが無い。

『何だ、そんな事。聞かずともいつでも来れば良いじゃないか。』

やっぱり。ダンダリアンは笑い飛ばして、何故か釣られて隣の席のおっさん達も笑い出した。酒場とはやけに和やかで煩いから、温かい場所だ。

『だが…そうだな。気になるならば、成るべく早い時間か遅い時間に来ると良い。今くらいの頃が丁度一番混むんだよ。大体昼が終わってから準備を始めて…日が落ちる少し前から賑わい出すな。遅くなるとまた空くが、そんな時間に子供が低層階から上って来る事は現実的では無いだろう。陽が傾く頃にでも来れば、ゆっくり饗す事が出来るんじゃないか……予め言ってくれたら、其の日は早めに支度をしておこうか?予約って奴だ。』

本当の優しさって、こういうことなのか…?投げた言葉だけじゃなくて、心の中から様子を窺ってる分まで全部見通して包み込んでくれてるみたいだ。俺達が変に気を遣わずに済むように、ダンダリアンも考えて提案してくれてる。

『ありがとう…じゃあ確認して、また予約しに来る。』

気恥ずかしさを持て余してスープを身体に流すと温かさがじんわり沁みてきて、結局真心に当てられてるみたいだ。ダンダリアンは洗った皿を拭きながら、何故か不思議そうに薄笑う。

『しかし…そうなんだな。お前には家族が居るのか。良かった…それは、楽しみだ…。』

そう言えばダンダリアンにプリマのことを話したことは無かったな。別に話す必要なんか無いけど。だから、何処かが擽ったいのかも知れない。

おっさん達は3人で、恐らく他愛も無い話をして馬鹿笑いしてる。その向こうのビエッタはワインを口に含みながら…恐らくダンダリアンの手元を見詰めてる。一人でも皆でも、知ってる奴も知らない奴も、話を聞いてたり聞いてなかったり…孤独なのに、孤独じゃない。それが酒場なんだな。何と無く分かってきた。癖になりそうな居心地なのに…酒が飲めないといけないだなんて、本当に勿体無い。

『ようビエッタ!今日も美しい花飾りだ…おや?満席か…!』

声が通るとどちらが早いか、目の覚める隙間風が背中を抜ける。

『おや…フェイクか。久し振り!悪いな、丁度今し方満席になった所で…』

これは居た堪れない。音も無く開いた扉の外には、薄汚れた色の布を首にたっぷり巻いた小さなおっさんが残念そうに立ってる。如何にも、酒を飲みそうだ。

『そうか…!そりゃ残念だ…じゃあ次は何処へ行こうかな』

『ちょ、ちょっと待ってくれ!』

言いながらスープを流し込むから咽せそうになって、今度は慌ててジュースで飲み下す。温まった身体の中心に、冷や水が流れる感覚が直に響いて堪らない。

『俺、もう行くよ……ありがとう。』

怒涛の寒暖差に頭を一振りして、立ち上がる。椀とグラスを纏めて前に突き出すと、ダンダリアンは思わず突き返して心配そうに

『おいおいルクス、こういう時は気を遣わずとも…』

『否。もう食べ終わったし、聞きたいことも聞けたから帰る…おっさん!此処に座ってくれ。』

『そうかぁ…?』

おっさんは呆けながらも身をずらして、音の無い扉を押さえながら小さな入り口を放ってくれる。皆が隙間風に凍えないように、急いで立ち上がらなくては。

『ルクス…有難うな。また…。』

ダンダリアンは困ったように、申し訳無さそうに身を乗り出して送ってくれる。こんな顔をさせるなんて…帰るなどと言うのは逆に迷惑だったのだろうか?でも聞きたいことを聞けてスープも食えて目的は達成出来たし、何より居た堪れないなんてどうにも遣り切れない。

『あぁ、また………あ。』

身を寄せたおっさんトリオの後ろを通ってビエッタの隣まで辿り着いたところで気付く。

『ん?』

聞き忘れてた。と言うより、序でに聞いといてやるかって気分だったんだ。思い出したから、やっぱり聞いといてやるか。

『なぁ…チェスタとビスカも、また来ても良いか?』

ダンダリアンはキョトンと間を持った後、まるで苛立ちを解放するかのようにふっと笑った。

『ルクス!もう二度、そんな面倒臭い事は聞いて来るなよ。お前はもう俺の得意さんなんだから、お前の友を追い返す理由等何処に有ると言うんだ。良いからいつでも来て、来たら必ず、此の料理とは呼べぬ料理を食べて帰るんだぞ。良いな!』

ダンダリアンはシッシッと追い返すように手を払う。初めてダンダリアンに意地悪をされたような気がして、楽しい。

『そうか。ビスカと言う奴に、遂に会う事が出来るのか…。』

ぼそりとビエッタが呟くのが不思議で耳に残った。この前皆で来た時に、ビエッタも居たじゃないか。ん?この前は、あいつらは誰もビエッタに名乗ってはなかったんだっけか…?

『有難うよ、坊主。次に会えたら今度は一緒に飲もうぜ…!』

入れ違い様に薄汚れたおっさんに肩を叩かれ礼を言われたので、その手に軽く触れ返しながら頷いて部屋を出た。蒼い扉は音も無く滑り閉じ、外には先程より一層多くの人々が行き交ってる。

確かに腹具合も高揚感も中途半端で、この浮かれた人混みは何と無く恨めしい。でも別に良いや。今日は疲れたし俺は少食だからスープ一杯でも朝まで保ちそうな気がする…それに、次はプリマと来られるんだから。

だから真っ直ぐに黄色い門へ。きっとプリマももうシブリーの弁当を食べてる。折角だから今夜はさっさと支度をして床に就き明日に備えよう。明日もきっと、患者は来るんだから。

階段を一つひとつ下りる毎に家に近付いて、明日に近付く。期限も近付く。

楽しみなことも残酷なことも時は平等に運んで来るんだから、こちらも平等に受け止める準備をしなくてはならない。ダンダリアンの酒場にはいつ行ったって良いんだし、医者が見つからなければ第15階層の人々には自分達でどうにかして貰う他無いんだ。

俺は出来ることをするだけだ。出来ることをするしか出来ない。出来ないことは誰にも出来ない。

言い訳をして自分を慰めて、眠って朝になって目が覚めて、そうすれば幾分か気は晴れて、また真っ当な人間の振りをして歩ける。

俺は何も間違っては居ない。

宵街を少し歩くともう、スープに温められた身体は冷やされて身震いすら起こる。この町の空気は昼間はとても暖かくて、夜は少し涼しい。だから眠気を誘う。正確な時計みたいだ。子供をあやすリズムみたいだ。

ミズルにあやされて、決められた通りに眠って、そして仕事に精を出そう…そうするしか無いみたいだ。外の世界ではどうだったか覚えてない。でも少なくとも、この町の中では。

ミズルを引き摺り出して、ぶん殴って、反省でもさせない限りは…この町の人々はミズルの庇護の下、危機感を取り上げられて、止まった時の中に揃って過ごすことしか出来ない。


昨日は別に良いやと思って朝同様に無視して帰ってしまったが、そう言えばこれ以降チェスタ達がどう動くのかは聞いてないし、成果も共有しておくべきだと反省した。だから少し早めに出掛けて、先ずは石壁の家に寄る。

おたまは取れて無くなってしまったから、無い腕に直接取り付けられた重い土台のような物を打つける。ガンッ!と鈍い音が大きく響く。

『………ルクス。おはよう。お疲れ…あのさ……』

扉が開いて出て来たのはビスカだ。2日振りだけど、変わりは無さそうだ…でも眉を歪め宙に助けを求め、何かに参ってる。

『チェスタは昨日はこの辺の階層中を歩き回ってすごい疲れてて……ルクスの顔は、今は見たくないって。悪いな。』

何で俺こそが諸悪の根源みたいな言い方をされなきゃならないんだよ。確かに顔も出して来ないけど…本当に昨日一日仕事をしてくれたのか?チェスタはどうやら悪人じゃないが貧弱でその上意地悪で狡賢いし、俺への疑心と警戒を常に微かに秘めてる。だから俺も信用出来ない。

『つまりさ…成果は全然無かったよ。やっぱり下層階には医者は余ってない。そもそも下層階って、医者を必要としてる奴があんまり居ないんだよな。だから第2階層のドミトルだって第6階層のパストだって、代々細々と家族ぐるみで医者を続けてるだけで……そのロラサンって医者は、何で弟子を取ってなかったんだろうな。』

ビスカは遠い目のまま溜息を吐く。弟子って、何だっけ?

でも確かにロラサンがドミトル家やパスト家みたいに子孫でも作ったりしてくれてればこんな苦労は無かったし、下層階で暮らしてる中で医者を必要としてる者を見たことは殆ど無い。俺も医者に頼らず30何日もやって来られたから、こんな仕事をやらされるまでは医療の必要性なんて全く思い出すことが無かった。

『とりあえず今日はみんなに頼まれた仕事を出来るだけ片付けて…きっとそれで終わりだ。チェスタは使い物にならないだろうし。今日なるべく明日の分まで片付けて、明日俺とチェスタの2人で出掛けて、今日の分まで手分けして上の階を当たってみようかって話してたんだ。あと3日とは言え、やれることは尽くさないとな。』

『あぁ…。』

確かに、あと3日だ。解決してもしなくても、あと3日で終わる。せめて手を尽くして、第15階層近辺の呑気な奴らの危機感を呼び起こさせるくらいのことはしてやらなきゃ。

『……ん?』

ビスカが不意に振り返る。後ろでモゾモゾと声が聞こえる。

『何だ、チェスタ……うん?あぁ、うん……はぁ。ルクス…さっさと働けってさ。』

顔だけ家の中に引っ込め直ぐに戻ったビスカは、恐らく草を編んだ床に横にでもなってるんだろうチェスタからの突っ慳貪な言伝を持って来てくれた。

言われなくても行くよ。俺は何でも屋の何でも担当だ。

そう言おうと思ったところで、もう一つの大事な相談と、其処まで大事でもない序での情報を思い出す。

『ビスカ。チェスタに聞きたいことが有るんだけど。』

『えぇ…?』

遂にはビスカまで訝しそうに眉を顰める。こいつにまでこんな顔を向けられるのは傷付くな…2人して俺のことを、面倒事を持ち込む厄介な奴だと思ってやがるんだ。思えばこいつらに取ったら、俺はこの町に飛ばされた時からずっとそういう存在なのか。

『この医者探しが終わって、3日後は…何でも屋の仕事を早上がりさせてくれないか?』

『…はぁ?』

此処できっとチェスタならば、ムッと口を横に結ぶかギュッと眉を寄せるかして、不快感を見せ付けて来るんだろう。ビスカはそんなわざとらしいことはしない代わりに、やっぱりと言う代わりに、溜息を吐く代わりに…ゆっくりと一つ、瞬きをした。

『何でだよ…この件が終わったって、低層階の奴らの依頼は変わらず続くんだぞ。』

ビスカは諭すように言ってくれるが、俺はこいつらが大方許してくれるって何と無く分かってたんだ。

『プリマと第12階層に行くんだ。』

『は…!?』

ビスカは虚を突かれたと言ったように目を見張る。まさか唐突にプリマの名が飛び出すとは思わなかった筈だ。しかもプリマが、シブリーが有るのにわざわざ食事処になんて…とか。

『混み出す前に出掛けたいから、何でも屋の仕事は早めに切り上げて、修理屋の仕事を手伝って終わらせて、それから行きたいんだ。プリマは人混みに慣れてないだろうし、気を遣うだろうから。』

昨夜プリマと話して、この仕事が落ち着いたらダンダリアンの酒場へ一緒に赴く約束を取り付けた。つまり、あと3日後だ。プリマは1人では日が落ちる前に修理屋の仕事を終わらせられるか自信が無いと言ってた。ならば手に負えない仕事を助けるのも、何でも屋の仕事だ。

『プリマが12階層に…マジで?あ、待ってろ…おいチェスタ……!』

ビスカは今度は身体ごと奥へ引っ込んで、恐らくまたチェスタの御意見を窺ってる。暫く置き去りにされて、ほんの少しの後

『ルクス、お前は本当にずるいってさ。』

許してくれるとは踏んでたけど、そこまで言われるとは流石に思わなかったぞ。しかも…

『俺もちょっとそう思うぞ…。』

ビスカまでこんなこと言って、呆れたようにジトリと目を細めながら、口元はへの字に曲げて本当に呆れてる。

こいつらは、プリマに甘い。

まだ共に過ごした時間は短いけど、そうだろう。恐らく皆が…プリマの幸福を願ってる。

『…だから俺たちもプリマに美味い飯を食べて欲しいけど、仕事次第だから返事はもうちょっと待ってくれってさ。こんなもんで良いか?そろそろ上に行った方が良いんじゃないか?』

言われてみれば、穏やかに確実に太陽の熱の威力を感じられるようになってきた。朝っぱらから筋肉痛だの眠れないだの言いに来るとは思えないが、大体の人間はもう仕事を始める頃だろう。

『あぁ、じゃあ……あっ。』

一歩踏み出そうと身を返しながら、自分の口から間抜けな声が飛び出す。

『…まだあるのか?』

ビスカはもう呆れ果ててさっさと奥に戻ろうとした筈なのに、惰性に預けた扉を再び押さえ付けもう一度俺を見下ろしてくれた。

言い忘れてた。と言うより只、序でに聞いておいたことの伝言だ。

『チェスタに言っといてくれ。ダンダリアンはチェスタもビスカも、多分カストルも、いつでも来て良いってさ。俺の友達だから、追い返さないって。』

『は…?』

言いながら不本意な事態に気付いた。ダンダリアンはチェスタ達のことを俺の友だと思ってやがる。まるで俺達が心を許し合ってるみたいじゃないか。

『ビエッタがビスカに会うのを楽しみにしてたぞ。じゃ、また。』

咄嗟に許し難くて、吐き捨て様に立ち去ってしまった。

『……何だそれ!』

ビスカはいつもチェスタに揶揄われた時に上げる当惑したような声をしてたから、きっと丁度うんざりした筈だ。そのまま解放してやる。

ほんの少し玄関先で立ち話をしただけなのに、振り返って見たら家を出た時には静まってた町に、燥ぐ子供達や仕事道具を携える大人がのんびり歩いてる。油断をすれば直ぐに、一日は始まってる。

俺も15階へ行って、仕事を始めなきゃ。

今の俺の仕事は、医者だ。

医者の仕事のことを考えたら、一瞬だけ昨日の何かの感覚が思い起こされて大変な憂鬱に見舞われた。

でもやらなくちゃ…出来ることは、やるさ。

雨雲は完全に消え去り、今日はすっかり晴れて眩しい。朝からビスカの時間を奪って悪かったが、今から洗濯を始めても十分過ぎる程良く乾くと思う。

今日と言う日に、何が起こるかはまだ分かんないけど…きっと何かは起こって、出来ることをやって、文句を言われたり感謝されたりして。きっとそうやって、今日も何かを思い出せる筈だから。

勘違いするなよ。仕事なんて誰かの為にする物じゃない。自分が得をする為に…報酬を得る為にする物なんだ。報われる苦労以上のことをするもんか。

何度でも言う。皆が皆の為に…そんなことを宣ってやがるから、この町はキリが無くて、危機感が無くて、頭がおかしいんだ。


どの仕事だって大体同じ気分なんだと思う。午前中ってのんびりだ。

日が昇り切らなくて光は柔らかく気温も穏やか。何より始まったばかりで気持ちの余裕が違う。急かされること無く、じっくり事に当たれるんだ。

『見て下さいよ…!だから、かっゆいから掻いたらぼろぼろぼろぼろ粉を吹いて肌が白くなって…病気でしょ!これ!』

だからこんなどうでも良い話が目の前に来たって、冷静に諭してやることが出来る。

『どう考えたって乾燥してるんだろ。水分が足りないから肌が粉になるんだ。』

言ってる間にも、目の前の男…第13階層の計算屋リンスはぼりぼりと腕や首を掻き毟り落ち着きがまるで無い。少し向きがズレると分かるが、顔は眼鏡に沿って薄く日焼けをしてる。知らないけど計算屋って、家の中で集中してやる仕事なんじゃないのか…?

『えっ…?何でそんな話になるんですか?皆と同じ空気の中で暮らしてるって言うのに、何故僕の周りだけ乾燥するの?』

しかもリンスは理解が悪い。知らないけど計算屋って、賢い奴がやる仕事なんじゃないのか?

『否、空気じゃなくてお前の身体が乾燥してるんだよ。栄養でも摂って、あとは…身体に油でも塗っておけ!』

『ええっ!油…!?』

この町の奴らって、自分の身体の仕組みのことを知らな過ぎるんじゃないか?コップに入れた水だって放って置いたらいつか無くなるんだから、肌の水分だって何もしなきゃ蒸発する。肌には油が有るからそれを防ぐんだ。だから肌が乾燥するなら内側から栄養を摂って、外側から油で蓋をする…知らなくても何と無く想像が付くだろ?

『油って言っても、薄く塗れば良いんだ。塗った後、軽く拭いても良いから。風呂上がりに塗って、痒くなったらまた塗れ。試すくらい良いだろ?』

『へぇ…気持ち悪……仕方無い。11階の油屋まで行って分けてもらうか…。』

リンスは心底嫌そうに立ち上がり、扉の軋みは小さな溜息と重なる。別に良いけど、礼を言うことを忘れてはないか。

『…駄目だったら、また来ますからね。』

リンスのジトリとした眼差しは勢い良く引かれた扉に遮られ、ギッ!バタン!と障る音が嫌な挨拶代わりに耳に残った。

午前中とは言っても、程無く終わりを迎えるだろう。此処に来るのに少しだけ遅くなってしまったし、もうこれで3人もの患者を見送った…やっぱり、人々が医者を求める頻度は確実に増えてる。

しかも痛いとか苦しいとか、病気とか怪我みたいな…医者って言われたら真っ先に思い浮かべるような深刻な相談事じゃなくて、今のリンスみたいな、どうでも良い話ばっかりだ。そりゃあ身体が痒いなんて気になって困るだろうけど、別に死ぬ訳じゃないし何が原因かも自分を振り返れば分かるんじゃないか?

他の2人も、朝起きたら首を寝違えてた奴と、最近やたらと抜け毛が酷い奴。

寝違えなんて一日我慢すればすっかり無くなってそれ以上何も起こらないのに、14階の農家ピリンは『今までもそうだったけど、これからもそうとは限らないし、折角医者が居るなら診て貰った方が安心じゃないか。』とか訳の分かんないことを抜かして煤け色の扉の前に立って俺の出勤を待ち伏せしてやがった。

抜け毛なんて…弥々どうしようも無いじゃないか。只の老化だ。ボケと同じだ。『まだ33才なのにこんなに抜けるなんておかしいだろ!』とか言って自分の毛を鷲掴んで見せてくれて、確かに有り得ない量の毛が拳の中に捕まってたけど…33才なんてもう良い年だし、老化が始まってて当然なんじゃないか?しかもこの男、11階の肉屋で在るイストリの何がムカつくって…

『11階のモネミは12階の患者を診るのに忙しいから、気軽に話せそうな医者を探してたんだよ!』

だって…。

リンスもピリンもイストリも…否、昨日のスマスやパックだって、本当に医者が必要な奴だって言えるのかよ?これじゃまるで…ユトピが、ロラサンが言うことに一理有るみたいだ。

俺はこの3日間医者の振りをしながらも、殆ど…話を聞いて、少し答えてるだけだ。

癪だ。納得が行かない……患者に依って笑顔で帰る奴、渋々言うことを聞く奴…その結末の一つひとつが、まるで俺のことを医者だと認め出してるみたいで釈然としない。俺は病気や怪我を治した訳じゃない。魔法を使った訳じゃないのに。

苦しみから人を救うことが医者の仕事なのかと思ってたのに、俺は別に救わなくても結果が変わらない奴らの話を聞いて返事を返しただけなんだ。

『はぁー……。』

大きく一つ溜息を吐いてみたら、何処からか物寂しさが湧いて来た。やはりもう昼に違い無い。

朝の道程に立ち寄った第7階層のドルードの所で貰った弁当に手を掛ける。ドルードの弁当は2回しか食べたことが無い。少し遠いし、プリマはシブリーしか食べないし、チェスタもビスカも結局皆シブリーが大好きだから。でもドルードが悪い訳では決して無くて、こっちはこっちの良さが有る。シブリーよりも凝った、複雑で濃い味付けをしてるんだ。だから久し振りでちょっと楽しみだ。

剥き出しのまま渡された箱の、蓋を開けようとしたら

『コンコン!』

耳を疑った。ノックの音じゃない。ノックの声がする。ノックを真似した無邪気な声。扉が喋ったのかと思って咄嗟に寒気さえ過ってしまう。

『コンコン!コンコンッ!』

返事を求めてるのか、只々向こうからは狐のような鳴き声が投げ掛けられるのみ……狐って何だったか。確か、獣。

『…入って良いよ。』

そう言うと

『おっせーよっ!』

子供のような無邪気な所業から一転、乱暴に吐き捨てられた随分な挨拶を通しながら扉は開く。雑な開扉に蝶番は太く短い悲鳴を上げる。

大きな影は女だった。キラキラ光る薄桃色の髪がやたら眩しくて派手に見えるけど、逆光をよく見ると顔は少し老けてる気がする。俺が知ってる女の中で一番年が近いのは、多分第1階層の材木屋のイズリンガルだな。プラツェよりは下だし、レストラなんかよりは比べるまでも無く上だ。

『はぁああ〜……おぇっ。あ、アンタが医者ァあ…?信じらんな……おぇっ!』

下品な女だ。真っ先にそう思った。喧嘩腰の言葉に、食って掛かるような顔付きに、汚い仕草で小さな部屋に雪崩れ込んで来る……苦しそうだけど、不思議と余り可哀想ではない。

そんなことより恐ろしい。こいつ、何回も嘔吐いて…もしかして、吐きそうなんじゃないか?こんな狭い部屋で、医療行為をするかも知れない部屋で吐かれたら堪ったもんじゃない…!

『おい、やっぱり外に出よう。』

『なっ……いだっ!なんでヨォオオ〜!入って良いってオエッ!うぅう……この床冷たくて、きもちイのにィイ〜…………おッ!お、え……!』

女はビクッと身震いして頭を押さえた後、ゆっくりと手のひらを滑らせ口元に運ぶ。俺は…

『馬鹿……やめろっ!!』

余りの恐怖に、女の足に引っ掛かって半開きだった扉を掴むと、同時に跪く女の頭に足を掛けて

思いっ切り、外へ蹴り飛ばした。

女の頭はボールみたいに日差しの中へ飛び込む。頭がボールなんだから、体は放物線に沿って付いて行く。

その上に虹が掛かる。輝く吐瀉物。

煤けた扉と赤い階段の間に倒れる人間と汚物。最悪だ。否、最悪の事態は回避したか…?

記憶を失ってから初めて、嘔吐を見た。そうか、生物は苦しむと嘔吐をする物だ。これは生体の防衛システム。異物を排除する為に、無くては成らない……

だから、恐ろしい。嘔吐とは異常事態のサイレンだ。

嘔吐が表れるということは、もう戦争は始まってるんだ。異物との戦争が。一度異物を受け入れてしまったら、制圧するか追い出すかしか生き残る道は無い。だから俺は、異物を恐れ、避けて生きてきた。

……異物って、何のことだ?

『ぐァああああ〜っ!』

女が目を覚ました。よくよく見たら、汚物と言っても大したことは無い。中身は無くほぼ液体で、同じ線を描いて飛んで来た女の身体に綺麗に掛かってる。白いシャツは例えようの無い汚い色に染まってる。

『くっせぇ!何すンだョおォ…!アタシゃ患者様だっつの…っぐ!』

肘を突き、苦しそうにやっと半分だけ上体を起こす女。しかし嘔吐きは治まってるみたいだ。やはり異物を追い出せば、一先ず戦争は終わる。でも、この女の異物とは何だ?液体か…?

『何すんだはお前の方だろ…吐きそうな奴がいきなり狭い部屋に入ってくるな!お前、何を診て欲しくて来たんだよ…?』

チッ!

と、女は豪快な舌打ちで勢いを付けながら起き上がった。そして汚いシャツで汚い顔をゴシゴシ拭いて、臭い顔をこちらに向ける。やっぱり、決して若くはない。女らしくもなくて、美しくもない。でも真っ直ぐ力強い眼差しが有無を言わせないから、油断するとこれが格好良いような気がしてきてしまう……臭くて汚いけど。

『何って、見りゃ〜分かンでしょ?二日酔いだよ二日酔い……まさか、酒も飲めない程のクソガキが医者やってるってワケぇ?』

何とも横柄な態度だ。吐瀉物を浴びて道に倒れる女が、何を根拠に此処まで偉そうに振る舞えるのか。

二日酔いって何だ?酒と関係が有るのか?酔いって、酔うって、確か…

『……まさか、ホントに分からんとか?』

何も言えずに呆ける俺に、女の顔が引き攣った。どうやら二日酔いとは、医者なら治せて当たり前の歴とした病らしい……本当か?どうせ今までの奴らみたいに、一人でもどうとでもなるような下らない相談を持ち込んで来たんじゃないのか?

『はぁ〜…もォいいわァ〜、薬よこせよ!いつもロラサンがくれた薬…ホラッ!』

『は……ひっ!』

女の手がこちらに伸びて…臭い!

酸っぱくて、眩暈がして…不潔さとかは最早どうでも良い。反射的に避けてしまった。女が再び小さな診療所に進入する。まずい。

『おい!入るなってば』

『るっさいな!…あ、あったあった!おい、その箱寄越しな!』

『はっ…?』

女は俺がドルードの弁当箱の傍らに仲良く並べてた、ロラサンの細やかな道具箱を指差した。そう言えば…下の段には、正体不明の薬達が詰め込まれてた。

『…持って来るから、此処からは出てってくれ。』

チッ!と湿った音が響いて、女は身を引き、俺は恐る恐る箱を手繰り寄せる。女はその…二日酔いの、薬の正体を知ってるのか?もし一つでもあの薬達の正体が分かるのならば、話を聞いてやるのも悪くないかも知れない。

『早く寄越しな!下の段の、玉みたいな薬だよ。きったない色の…』

『おい…勝手に触るなよ!』

戻るや否や、女は道具箱を引ったくり、上段を外して手慣れたように小さな袋達を漁り出す。図々しい。紛う事無き強盗だ。

『コレじゃない…コレでもない。』

『おい、お前は本当にロラサンにその薬を貰ったことが有って、知ってるんだよな?』

『だからそう言ってるだろ……イッタ!…アンタ本当にロラサンの代わりなのかい?子供だし、何も知らなそうだし……チッ!』

女は度々頭を押さえて顔を苦痛に歪めてる。刺すような頭痛も、二日酔いの症状の一つなのかも知れない。

『代わりでは在るけど、知らないことの方が多い…でも話を聞きながら何とかしてはこられたんだ。だから二日酔いのことも、ちゃんと話を聞かせてくれたら考えるから…』

言いながら、迂闊に話を聞くという言葉を使ってしまったことに気付いてまた悔しい。

やっぱり医者は、話を聞かないことには始まらないんだ…それは分かる。でも、話を聞くことが目的では無い。治療という目的の為に、話を聞く筈なんだ。なのにユトピは…

『あっ、めっけ!』

急に女の声が弾んで手元に注目すると、小袋から赤茶色の菓子みたいな丸薬を手の平に広げて嬉々としてる。あれが二日酔いの薬…本当に合ってるのか?しかも豪快に全部ばら撒いて…少し地面に溢れてるし

『助かった〜。』

ぱくっと、纏めて笑顔で口に放り込んだ。

こいつは何処まで雑で勝手で向こう見ずに振る舞えば気が済むんだ?

『おいっ、水は…!』

粒は小さい。例えるなら服を装飾するビーズ玉くらいの…でも2、30粒一気に口に運んで、無事に飲み下せるのか?用量も、合ってるのか?たかだか二日酔いにその量は、多くはないか?

『ん…んぐっ……んごっ!げっ、ぐぐっ…!』

案の定ビクッと顔色を切り替え、悶え始める。お互いに、去ったばかりのトラウマが蘇ってる筈だ。また、吐くぞ。

この辺では何処で水が汲めるんだ?3日も来ておいて、そんなことも確認してなかった。上層階には井戸が無い。各所に水屋が在る筈だ。ポロップみたいな水を作る水屋じゃなくて、其処から水を貰って各家庭に配る水屋が。ロラサンが此処を選んで診療所を構えたなら、そう遠くない場所に在る筈…

『…ぐヴォッ!!』

『ひっ…!』

やっぱり駄目だ、手遅れだ!嘔吐の際の声って、化け物みたいだ。人間じゃない。どんなに信頼してた奴だって、何か汚い物を吐きながら一瞬で化け物に変わって…吐いて、憑き物が落ち元に戻って優しく謝られたり感謝されたりしたところで、もう付いて行けない。

『………ごっくん!』

は……?

女の口の中は戻って来た何かで満たされて、頬は膨らみ一杯になった……それをそのまま、飲み下した。

今は無表情。石像のように、固く、なのに虚に時が止まってから…

『はぁ〜…スッキリ。さんきゅー。』

憑き物が落ちて、穏やかに綻ぶ。

そのまま散らかした箱の中身を片付け出す。嫌に丁寧に、薬の袋をサイズ毎に揃えて、鼻歌まで刻みながら。何だこいつ…?

気持ち悪い……!

何故だ?俺は毒も異物も何も口にしてない。弁当すら手を付ける前だったんだ。なのに…吐きそうだ!

この一連の様子を見て…胸の奥の何かが呼び起こされる…!

『うっし。じゃあ行くね。』

女の細長い指先は直ぐに箱を片付け終えた。散らかる前よりも綺麗に詰めて、蓋を閉め、扉の前に置いて。

『否、待てよ!本当に大丈夫なのかよ?さっきまであんなに苦しそうだったし…今の薬も本当に合ってるのか?』

俺が口を挟んでも、女は先程のように顔を歪めたり睨みを飛ばしたりはせず、きょとんと、無感情に見直る。

『合ってるよ。何回も貰ってたし、間違い無い。コレ飲んだらすぐ良くなるから……っ痛!…頭痛はあんま良くなんないんだけどさ…吐き気さえ治れば、仕事は出来るからね。』

さっきまでの騒ぎぶりとは別人みたいに淡々と語りやがって。立ち上がって、尻に付いた砂を払って、俺よりでかいその女は最後になってこう締めた。

『アタシは第16階層の酒呑み、グレコ。またよろしく、ドクター。』

のたりと身を翻し、来た方の道へ帰る。ブーツの底がやけに分厚くて、パコパコと音が鳴る。その音が何だか間抜けで…何故だか格好良い。臭くて汚い筈なのに。

嵐みたいだ。こういうのを、何て言うんだったか?こんな遣り口が、戦争に存在した筈だ。何の宣言も無く無慈悲にやって来て、蹂躙して、全てをぶち壊すような戦い方。

改めて周りを確認してみる。散らかされた薬箱はグレコ本人がきっちり残さず収めてくれてる。吐瀉された雫も殆ど、グレコの身体の上からは溢れなかったみたいだ。冷静に見渡してみたら、何もすることなど思い付かない程に、状況は変わってない。

だからこそ思う。この時間は何だったんだ…?

俺は何をしてたんだ…?否、何もしてない。あいつは本当に医者が必要な患者だったのか…?確かに、酷く苦しそうだったけど……

二日酔いって何なのか。聞いたことが有るような無いような……『酔う』って多分、酒に酔うことだ。

思い出した。酒って酔う物だ。酔うとどうなるのか…酔ったことが無いから分かんない。でも、焼き付いた印象として覚えてる。

酒を飲んだら、強くなれる。

きっと、酒を飲んで強くなった奴を何人も見てきたんだ。

…でも、酒を飲みたいと思ったことは一度も無かった。何故だろうか。強くなれた方が、良いに決まってるのに。

それにしても二日酔いって意味が分かんないな。一回飲んだら、2日続けて酔うことが出来るのか?それって得してるんじゃないか?何が病気なんだ…?察するにあの嘔吐や頭痛が二日酔いの症状なんだろうけど、あれが酒と何の関係が有るんだ?関係有るなら、まるで…毒みたいじゃないか。毒だから、戦争が始まる。

…まぁ、どんな食べ物だって食べ過ぎたら吐くし、其処までおかしなことでも無いか。二日酔いって、どれくらい飲んだらああなるんだろうか…?

ギィイイ……。

嫌な音だ。疲れた後はより一層切なく耳に残る気がする、蝶番の泣き声。

小さな道具箱を元の場所に戻そうとして、其処で待つもう一つの小さな箱を思い出した……でも悪いけどもう、お前に向き合うには暫く時間が必要そうだ。

楽しみにしてた筈なのに……ドルードの弁当。

今、思い浮かべようとすると…胸が焼けそうだ。

医者ならばこの程度の混乱も茶飯事なんだろうか?医者として過ごし続ければ、何とも感じなくなるのだろうか?

だとしたら、やっぱり医者は医者がやるべきだ。

人が人を救う為には、不潔さも醜さも不条理も直視出来なければ始まらないんだろうな…。


『ありがっとぉさん!まったねぇ〜。』

『ばいばぁい!』

セウスがフリウスの手を引き立ち上がる。フリウスも引っ張られて立ち上がり、2人で夕空に駆け出す。こっちの目も見ずに、自分たちの目的が達せた瞬間に早々と…。

今日はフリウスが転んで肘を擦りむいた。こいつらはこんな海も森も無い中途半端な階層で歩き回って、何をしてるんだろうか?探検とか言ってたけど…あいつらに聞いたら実はミズルの居場所を知ってるとか脱出方法を見つけたとか、そんなことが有れば良いのに。

午前中は散々だったけど、午後は其処まで人は続かなくて…それでも、黒髪兄弟を入れて3組。鼻から血が出た第13階層の研師マークン、第17階層の馬鹿な伝達屋ナナツ。

鼻から血が出る理由なんて、大体大したこと無い筈で、程無く収まる筈だ。マークンの奴はその場でじっとしてれば良いものを血を見て慌てて、しかも11階のモネミの所へ行こうと階段を降りようとしたら下を向いて血が溢れると思ったから、上を向いて15階までやって来たらしい。上を向いて血が喉に流れ込む方が良くないと思うけど。

二つも階段を上ってやって来て、やることなんて取り乱すマークンを宥めながら小鼻を押さえて止血するだけだったんだ。一人でも済んだことなのに…結局俺が居て変わったことなんて、少し言葉を掛けてやっただけ。

ナナツなんて、ユトピの婆さんよりも酷い。人に連絡を伝えに行くことが仕事の伝達屋なのに、最近移動の間に伝達の内容や誰に伝えに行くのかを忘れてしまうことが偶に有ると言う。こんなの只の馬鹿じゃないか。

不思議な表現をしてた。『まるで一度死んで、生まれ変わったかのようで。記憶が抜け落ちたのではなくて、私はその時間生きていなかったの。』とか何とか。

俺に言えたことは一つだけだ。『メモを取れ』って。忘れたくないことは何もかも、全て遺す準備をしてから死ねって。

『ルクス。』

窓の表情を見れば外はまだ明るい世界に踏み止まってるって察しが付く。でもゴードルンが扉を開放すると黒い影の後ろには鮮やかな夕焼けが佇んでて、そろそろその世界もお終いだって教えてくれるんだ。

『お疲れさん。今日もありがとうな……其処で、セウスとフリウスに会ったよ。すっかり医者も板に付いてきているじゃないか。』

『やめてくれよ…。』

冗談なのか本気が混じってるのか、測り切れない冗談だ。少し思ってた。もしも俺に医者の素質が有れば、何でも屋を辞めて第15階層で医者になれば全てが丸く収まるのかなって。医者の不在は解消されて、チェスタとビスカの邪魔をすることも無くなって……無理なことは、出来ないけど。こんなふざけた腕の奴が、一つも記憶の無い奴が、医者として暮らして行ける訳が無いし、どうせ俺はいずれこの町から抜け出す。

『俺は今日も見回りをして……時間を作って第20階層に少し行ってみたんだがな…やはり新たな医者など余ってはいないみたいだ。もはや未経験でも良いとも言ってみたんだがな…ルクスだって、こんなに立派にやってくれているのだから。しかし人が多く職もより自由な20階層以上だと、わざわざ下層へ下りて医者などという大変な仕事に身を投じようとは…少し呼び掛けたくらいでは、そんな気はとても起こらんな。まあ、上階の連中と危機を共有することが出来ただけでも、本日の成果だ。』

自由って、薄情なんだな…そりゃやらなくて済むなら、自身の豊かな暮らしが確保されてるならば、こんな無理と文句だらけの仕事の為に家を移るなんて、只階段を下りるだけなんだとしてもそうそう御免被りたい。

第20階層とは、どんな場所なんだろうか。言うなればこの町は同じ建物で、第1階層から第16階層までだって、街並みは徐々に変わっても文化の違いなんて殆ど感じなかった。でもこれまでのゴードルンの話の端々からは、まるで第20階層を境目に街も人々もすっかり先進的で自由と活気に支配されてるんじゃないかって…多分、期待をし過ぎてる。今まで俺が見てきた生気の無い町とは、一味も二味も違うんじゃないかって。

『…明日はチェスタとビスカも上って来て、上の階を回るって言ってた。』

5日の内の4日目…明日は勝負だ。明日糸口が見つからなかったら…明後日は、その後はどうするんだろう?只不毛に5日間延命の振りをしただけで終わってしまうんだろうか?

『ビスカ…?』

ゴードルンが首を傾げる。そう言えばゴードルンはビスカに会ったことも無ければ、俺達にどんな仲間が居るかって話もしたことが無かった気がする。

『ビスカはチェスタの……俺達の、仲間だ。』

チェスタの恋人、と言おうとして何と無く止めてみた。今朝のビスカの呆れた顔が過ったら、何故だか言わない方が良い予感がしたんだ。何故だろうか。

『…そうか。ではビスカもきっと心優しい、気の良いやつなんだろうな。明日、挨拶をさせてくれ。』

『あぁ…。』

今日は昨日よりも少し早い。栄華を極める真っ赤な夕焼けに覗かれながら赤い階段を降りて…細長い家の前で、ゴードルンと別れた。

夜に向かって流れる空気は冷たくて、いつだって爽やかだ。焼き付けられた心の傷はようやく薄れてきた。あの汚さと臭さと恐ろしさが醒めて、腹が減った。

毎朝毎晩階段を上って下りて、怠くて仕方無い。寄りもしないのに夕時の第12階層を過ぎるのは気が重い。人混みに足を取られて面倒だし、浮かれる人々が何だか妬ましいから。

でも今日は弁当だ。4階まで下りて、少しだけ回り道をして、育て屋兼弁当屋。

『シブリー。』

扉を開けると靄々と芳しい蒸気の直撃を受けて、顔がしっとりと濡れる。この香りは肉だ。蒸した鳥の肉だな。

『ルクス…少し早いな。今出来上がる所だ。今日は2つか?3つか?』

『プリマは、来たか?』

丁度鍋の蓋を持ち上げてたシブリーは、俺がそう聞くと察したように足下から弁当箱を2つ取り出した。シブリーは冷静で頭が切れて、相手がどうして欲しいかを察しながら、常に必要最低限で動く。

『まだ来てないよ。出来上がってないからな。』

確かに、まだ夕飯には少し早いかも知れない。出来立てのシブリーの弁当…惜しいな。

『じゃあ…今日はひとつ。』

『……は?』

丸くしたシブリーの目には、俺の片手に収まるドルードの弁当箱は覚られてなかったみたいだ。

きっとプリマの目にも奇妙に映ることだろう。家族が2人揃って別々の弁当を食べるなんてきっと変だ。別に良いけど。

一緒に居るのに別の物を食べるのは、自分だけ冷たい料理を食べるのは、何処か寂しいことのような気がするけど…誰かと一緒に食事が出来るのに、そんな気になるのは贅沢だ。

一人でした食事の記憶は思い出せない。無いことは無い気はする。でもだから…一人は怖い、そんな気がするんだ。

気がするだけだ。でも、孤独は闇に似てる。漠然と、静かな恐ろしさが横たわってるんだ。

だから今日も俺は、二つの弁当箱を抱えて帰る。約束した訳でも無いのに、プリマが待ってくれてるって勝手に期待して、縋ってるんだ。

…爺さんが死んでから、俺が来るまでずっと一人でシブリーを食べ続けてたプリマは、どう思ってるんだろうか。

(長くなったので、続きます)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ