無知な人間は食い物か?
「私は人が頑張っている姿を見るのが好きだ」
暗闇の中、ぽつんと設置された異国の雰囲気漂う屋台の中で、折り目がきっちりとついたスーツを着た男はそう呟いた。その屋台にはその男とせっせとラーメンの湯きりをしている大将しかいない。大将にしか話しかける相手はいないのだが、男は誰に対して言葉を投げかけたつもりもなかった。
人通りの少ない場所でひっそりと営業している屋台は、お世辞にも繁盛しているとはいえない。ただ、この男は仕事が終わると毎日のようにこの屋台を訪れた。ラーメンを楽しみにしているわけではなく、大将と話をする時間が好きなのだ。
「……お客さん。長い付き合いだから言うけど、嘘はよくないぜ」
「嘘ではない。本当に頑張っている姿を見るのは好きだ。今日も今日とて、意欲の塊のような人間が続々と私の元を訪れてくれた。ああいう姿を見ているのは、とても気持ちがいい」
大将はその言葉は嘘であるか、裏があるかのどちらかだと思っていた。なぜなら、ここにいる誠実で仕事ができそうな男は、そこまでの人格者ではないからだ。ラーメン屋の大将とその客、こういった関係性でなければ、間違いなく交流を持とうとしないだろう。そう断言できるだけの欠陥を抱えた人間であることを大将は知っている。
「じゃあ今日は最高にいい日だったんだな」
「ああ、間違いない。ああいう人間がこの世界を変えていくんだ。それを間近で見れるのはこの仕事の特権だな。大将、ビールをくれないか」
「珍しいな」
「たまにはいいさ。それくらい今日は気分がいいんだ」
男は普段、酒を飲まない。別にアルコールが嫌いなわけではないが、次の日にアルコールが残った感覚になるのは嫌だった。また、仕事に影響がでないとも限らない。
男は銀行で働いていた。男の仕事は融資を求める人間の相手をすること。事業計画を見たり、なぜお金が必要なのかを聞いたりする。大金を欲する人間の多くは、何かしらの夢を見ている。夢を見ている人間の姿を見るのが、男はたまらなく好きだった。だから、自分の仕事は天職だ思っているし、その仕事に影響がでそうなことは何一つしたくなかった。酒もその一つである。
だが、今日という日は男にとって特別だった。夢を追う人間の他に、別の種類の人間が現れたからである。
「ほらよ、ビールだ」
「ありがとう。やはり、たまに持つこのジョッキの冷たさは非常に心地よいな。酒に飲まれる人間の気持ちがよくわかるよ」
「グダグダ言ってないでさっさと飲みな。ぬるくなるぞ」
大将に言われるがままに男はビールを勢いよく喉に流し込んだ。しかし、あまり飲み慣れていないため、ジョッキの三分の一も飲むことができない。
「威勢がいい割には飲みっぷりは最悪だな」
「ははは、日頃から飲み慣れていないとこんなものなんだな。お恥ずかしい限りだ」
大将は再度、ラーメンの準備を始める。湯ぎりが終わったラーメンを器に盛り付け、メンマにチャーシュー、ネギといったありふれた具材を乗せていく。ごく普通のラーメンだ。大将自身も、自分のラーメンが他より美味いと思ったことがない。ただ、屋台として営業をしていると店を構えるよりコストがかからない。それに今はほとんどなくなったこういう屋台は、それだけで人を集める力がある。ラーメンの味は二の次、三の次。屋台として営業することに意義があると大将は思っていた。
「はい、ラーメン一丁」
「ありがとう。やはりいつ見てもいい色をしている」
「……そうかい」
大将はその言葉すらも嘘だと思った。どれだけ美味しいラーメンでも、毎日のように食べていたら飽きるものだ。ましてや、いい色と感じるはずがない。けど、その男は毎日のように同じラーメンと食べて、同じ台詞を吐いた。そもそも、大将は特別な見た目のラーメンを提供しているつもりはない。いつだって濁った茶色の醤油スープのラーメンを作っている。このラーメンがいい色をしているのなら、ほとんどのラーメンがいい色だろう。
「いただきます」
大将は少し、不気味に思っていた。けど、この客がこの店に落としてくれているお金は多い。いわゆる太客というやつだ。商売人として、客を逃す気にはなれなかった。
「ああ、うまい。いつ食べても本当にうまいよ」
「そりゃよかったな」
大将の対応はそっけない。しかし、男は気にする様子もなかった。男が何も気にしないのを知っているから、大将も堂々とそっけない対応をする。別の客が来たときは、もう少し丁寧な対応をしているのだが。
「大将、なぜ私が頑張っている人間を見るのが好きかを知っているか?」
「知らねぇよ。そもそも、頑張っている人間が嫌いな人間の方が少ないだろ」
「確かにそうかもしれない。ただ、普通の人間は他人の人生にさほど興味がない。頑張っていようが、いまいがどうだっていいんだ。けど、私にとっては違う」
「……話したそうだから聞いてやるよ。なんでだ?」
男はビールを二分の一くらいまで飲んだ。口の中の油を流し、話しやすくする。
「それは頑張っている人間でないと失敗しないからだ。失敗した人間の姿というのはとてもいい。自分の努力が無駄だと悟った時の顔は、たまらなく興奮する」
大将は一瞬、男が酔っている可能性を考えた。けど、すぐにそうではないと察した。なぜなら、この男がそういう人間だと知っていたからだ。
最初にこの屋台を訪れたとき、その男は会社の先輩の彼女を奪ったという話をしていた。別にその女が特別好きなのではなく、先輩の悲痛な顔が見たかったという理由でだ。
その後、その女は先輩とよりを戻したらしい。そのエピソードも嬉々として話していた。自分が抱いた女の耳元で、愛を囁く先輩の姿を想像するとなんとも言えない感覚に襲われるみたいだ。
大将はその男の考えが理解できなかった。理解しようとも思わなかった。ただ、時代遅れの屋台ラーメンに繰り返し通ってくれる客などそう多くはない。大将は男の心象を損ねないように、程よく相槌をうつことしかできない。
「今日もとある若者が金を借りにきた。どんな事業をするのか、将来性はあるのか、需要はあるのか、そういったことを嬉しそうに話してくれたよ。目はキラキラ輝いていて、この先の未来に少しの不安も感じていなかった」
「……有望な若者じゃねぇか」
「そうだろう。だから私は『絶対に成功するよ。頑張ってね』と伝えた。そのときの喜びの表情といったら、本当に最高だったよ」
男は目元を下げてうっとりとしている。
「大将、この世の仕組みを知っているか?」
「随分と抽象的な質問だな。長くなりそうか?」
「ああ、多少は長くなるかもしれない。よかったら好きにビールを飲んでくれ。もちろん、私の奢りだ。タバコも吸っていい。今日は私しか客もいないしな」
「……そうかよ」
男の言葉に甘えて、大将はタバコを吸い始めた。調理場でタバコを吸うなんざ言語道断だろう。しかも、当たり前のように路上喫煙禁止である。ただ、おまわりさんも暇じゃない。屋台でこっそりとタバコを吸っている男を見つけられるほど、この国のおまわりさんは充実していない。どうせ、今日はこの男以外客も来やしない。大将は半分店じまいのつもりで、タバコを吸い始めた。
「どうやら、今は個人が仕事を作り出す時代のようだ。私もそういった啓発本を見たことがある。それに影響されてか、自分で事業を始めようとする若者は非常に多い。おかげ様で私の仕事も大忙しだ」
「いいことじゃねぇか。俺みたいに暇になってみろ。生きがいすら感じなくなるぞ」
大将は少々皮肉を交えながら返した。
「私は頑張っている人間を見るのが好きだ。私の元に来る人間の多くは、もれなく頑張っている。ただ、世界の仕組みをこれっぽっちもわかっていない」
「自分で事業を起こそうと考えてるんだから、それなりに勉強してるんじゃないのか?」
「勉強はしているさ。そして勘違いするんだ。自分は自分の意思で目標に向かっているとね」
男はビールを飲みきると、無言で大将に突き出した。大将はジョッキを受け取り、黙って二杯目を注ぐ。酒を飲むのすら珍しいのに、今日はやけにペースが早い。
「大将、事業を起こす上で必要なものは何かわかるか?」
「知らねぇよ。俺は学ねぇんだ」
「答えは人間だ。大将みたいに自分一人でラーメンを作って商売ができるような人間は、かなり希少だ。事業家を目指すほとんどの人間は、自分にスキルがないことを自覚している。だから、スキルのある人間を操る立場に立とうとするんだ。それがいわゆる事業家ってやつだ」
「へぇ……」
大将は返事をしているもののあまり興味がない様子だ。話の内容三割、タバコ七割といったところか。
「さて、ここで素朴な疑問が生じる。事業家を目指す人たちは、もれなく他の事業家を参考にしている。なぜなら、ゼロから物事を考える力を持ち合わせていないからだ」
「事業家ってやつはもっと頭がいいと思ってたがな」
「その認識は間違っていない。彼らは非常に聡明だ。この社会において先のことを見据えて行動できる力を有している。私のように会社に努めている人間と比べると、非常に価値があると思う。ただ、彼らのデータベースはあくまでも人にある。誰かの意見を自分の意見と混同しているんだ」
「人間なんてそんなものだろ」
「そうだ。人はみな、誰かの意見や考えを頭に入れて行動をする。それが当たり前だ。だから、自分が操られていることに気づかないんだ」
偏差値が低めの高校を卒業してから、伝票をとるとき以外はほとんどペンを持たない大将には、なかなか難しい話だった。それでも大将は、店に立つ者として男の対応をし続ける。
「事業家は人を操ることに長けた人種だ。若者は社会経験が少ない反面、行動力はある。そんな人間を操ることなんて、造作もないとは思わないかい?」
「……自分の意思で事業家を目指しているんじゃなくて、誰かに操られているってことかよ。それってなんの得があるんだ?」
「あるさ。事業家の集まりと称したセミナー、ビジネス本の販促、若者を操ることで成立するビジネスはいくらでもある。これらのビジネスを成功させるためには、若者の行動力が欠かせない。だからこそ、事業家たちはこぞって若者を扇動するんだ。甘い言葉をかけてな」
大将は男の話を聞いて、自分がなぜラーメン屋を目指したのかを思い返した。ガキの頃、近所の寂れたラーメン屋のおじさんが引退するとかででっかいスープ用の鍋をくれたんだ。それがきっかけな気はする。
そのおじさんは数年後に死んだ。もちろん、俺に鍋を渡しておじさんが得をすることは一つもない。だが、社会はそうではないらしい。
「もちろん、こんな一面はインターネットを利用しても出てこない。なぜなら、誰も得をしないからだ。損をしない若者を作ったところで、社会のためにはならない。経済を回すためには、若者の人生はある程度犠牲になるべきなんだろう」
「善人は一定数いるんじゃないのか?」
「綺麗事に誰が耳を貸すと思う? ネットが普及した今、耳障りのいい言葉に価値なんてないんだよ。たとえ、それが真実だとしてもね」
銀行に勤めて二十年以上になる男は、社会がどういった構造になっているのかを深く理解していた。そして、それが言葉では説明できないことも知っていた。
「私はそういった何もわかっていない若者に優しく言葉をかけてあげるの好きだ。応援されると若者はすぐにいい気持ちになる。自分の夢に向かって歩き出しているつもりになる。それがどういった結末を産むのかを知らずにね」
「成功するかもしれないだろ?」
「もちろんさ。だからどんどん挑戦してほしい。挑戦する人間が増えれば、失敗する人間も増える。この世の塵となる人間が増えれば、私は非常にそそられるんだ」
「……変態かよ」
大将は男に対して始めて悪態をついた。なるべく悪い言葉を使わないようにしていたが、それも限界だ。
「法律という規制がなければ、きっと私はとんでもない大悪人だったろう。法律がある今、私にできることは努力している人間を応援してあげることだけさ」
男はラーメンを器ごと持って、スープをすすり始めた。こんな性格なのに、ラーメンを少しも残さない。スープは残しても当然という考えが蔓延っている中、男のような人間は希少だ。
「ご馳走様。お釣りはいらないよ。今日の私はとてもいい気分なんだ」
一万円札をテーブルに置くと、男は去っていった。ああいう人間を見ていると、誰からも干渉されない自分のような人間が立派に思えてくる。もし子供ができたのなら、自分で価値を想像できる仕事を進めよう。独身の大将は、たった一人屋台の中でそう思った。