どうしようもない、人?
腹が、減っていた。
どこかの名もない路地。
ここ数週間にわたって盗みを働いたり、残飯をあさったりとして繋いできたが限界が来たようだ。
雨をしのげる僅かな隙間に体を押し込めて、息を殺していること数時間。指先の感覚がなくなってきたこともそうであるが、何より目がかすんでまともに視覚が働かない。体温など冷え切って久しいというのに、逆に頭に熱が溜まってきているように感じる。
どれもこれも、自分の体の機能は悉く正常じゃない。
ただ一つ、この耐え難い空腹感を除いては。
(おなかがいたい・・・・)
空腹というものが、これほど苦しい感覚であるとは知らなかった。
(いたくて・・・穴があいてそう)
じわじわと痛みの範囲が広がっていくように感じ、意識が次第に曖昧になっていく。
元々、自分の輪郭さえも分からなくなってきているのだ。それは半ば実体験のような生々しさで脳内に投影された。
<濁った血色の臓器がうごめきあって、苦しんでいる>
それはきっと今の自分と同じ苦しみの中にあるのだと直感で分かった。
<中でもとりわけ貧相に縮みこんでいるものが限界を迎えたと言わんばかりに震えて、本来なら存在しない大口を開けた>
きっとそうしなければ耐えられなかったのだ。
<手当たり次第にかぶりついていく。血管を引きちぎり、臓物特有のゴムのような触感を存在しないはずの歯裏に感じ取り咀嚼する>
たとえ自殺と変わらない、愚かな行為であったとしても。
<噛み口から溢れる粘液でさえもしゃぶりついては飲み干していく>
それは終わりなく。また一つ、また一つと食べていく。
そんな絶対にあり得ない幻覚を、口に広がる血の味すらも想像して見せて自分の欲望がどこにあるのか、正確に知ってしまった。
(あぁ、それはとっても気持ちがよくて)
この空腹から解放され腹いっぱいになって死ねるなんて―――。
(この世で一番、幸せな死に方だ)
自分でも狂っていると思う。
でも、この時は本気で思っていたのだ。
飢えを満たせたのなら、死んでしまっても構わない、と。
だからこそ、オレはそいつの目に留まったのだろう。
「大丈夫・・・?」
全身を黒衣で覆った女。
服のせいで肌の白さはより際立っており、何より霞んだ目でもしっかりと確認できる赤い髪。
その整った顔一杯に同情を塗りたくった救いがたい、そして忘れがたい女。
この瞬間をオレは心より後悔する。
まさにこの時をもって、人間として死ぬ選択を永遠に放棄することになるのだから。
▽▽▽
『―――最も難しく根本的な問題は私たちが魂とするエネルギーの特定である。これまで数々の諸先生方が理論的にかつ実践的に証明しようと試みて、それを詳らかにできていない。これまで行われてきた実験は小型から中型の動物に対してのものが多く人間を使ったものが圧倒的に少ないのが現状で、それもまた証明できていない要因の一つである。しかし、そうした学術的な堆積が十分でないこと以上に、この命題を困難にしている問題が魂の還元方法が全く分かっていないという点にある。それを証明しようとした実験の一つに、生命が誕生し魂を付与された瞬間から息絶え体内から消滅する時まで、その一切を観測したとするものがある。対象となる生物を番と共にマナを遮断する壁に閉じ込め、その後生まれてくる子が何らかの要因で死亡するまでを一巡とし、これを繰り返す。時間の掛かる単純な実験であるが、壁の内側の状況が逐一確認できるとうい点で生死の機構を明らかにできるのではないかと期待されていた。しかし、熱量の増減やそれ以外の物理現象は確認されても、発生されるはずのマナ的現象は一切確認されなかったのである。同例の実験は動植物関係なく行われているが、稀にある種の発光現象が報告されている程度で殆どは先記の通りだ。前提が間違っていたのか、方法論そのものに欠陥があったのか。今それを論じた所で実験数自体が根本的に不足しているため意味はないのだが、本誌における魂の定義は天付論を継続して使用していく。また、本誌は数々の実験例を踏まえたうえで、生きた生物から魂魄を摘出し観測、または原理を究明することを目的とし実験を行った。今回採用したのはホーソン・ケルン師の「シャルパ式呪層室内における魂と肉体の分離実験」である。手法はシャルパ式の呪爪を施した壁を四重に重ねて十メートル四方の部屋を作成し、そこで同実験で用意られた分化式を用いて肉体と魂の分解を図る。その際、呪層部屋内の状態は逐一記録する。観測する事象の縮尺条件としては原子飽和密度と等倍の現象を最小数として―――が――――で――が――――んfdじゃddkp・・・・・』
―――どごっ
「・・・・・っっっ!!!」
春眠暁をなんたらかんたら。
いや、そこまで出たのなら最後の一文字くらい思い出したらいいものだが。
こと大昔の偉人が残した言葉だというくらいの知識しかない上に、意味すら曖昧なのだから仕方がない。
それでも威厳を保つために意味を言うのであれば、確か―――春の温かさは誰しも瞼を重くし、いくら麗かな芽吹きの中であっても抗えるものではない、とか。
当たらずとも遠からずといったところではあるだろうが。いや―――しかしまぁ、かつての偉人たとは実に深遠な言葉を後世に残したものだ。
と、言ったところで。
仰向けになって本を読んでいるなどという横着をした挙句、眠気で気が緩んだ拍子で鼻先を強打した事故は、春の責任にはならないのではあるのだが。
「~~~~っっ!!」
左へ右へと転がって、声にならないうめきが小さな部屋に響き渡る。
両手で持つのにもこれ重いなぁ、なんて考えていた矢先に何の恨みであるだろうか。これほどまでに効果的で、かつ狙いすましたかのようなタイミングで加えられた衝撃は、いい大人がみっともなくもがき苦しむのに十分な威力を秘めていた。
「はなっ、鼻がぁぁぁぁぁ」
ぐももおもももももも―――
更に左へ右へ。近くに塚を築いていた本の山が崩れようがお構いなしである。
六畳ほどの部屋では、今まさに見るも無残な惨劇が講演されている最中だが、外の世界はと言えば、そんなこと知ったことではないと春らしい風が吹いている。
冬季の凍えるような寒さはどこへやら、枯れ木のように弱々しさを纏っていた木々は目を焼くほどの生命力にあふれ、青々とした葉を上へ上へと伸ばす。花もまた咲き乱れ、甘い香りを優しく運んでくる。
陽かな心地は際限なく柔らかさを増して、平等にその恩恵を分け与えていく。それはさながら、永遠にも思われた冬季の厳しさを生き残った者たちへの祝福のようでもあった。
「――――――――――――。」
しかし、本当に残念なことに。
痛みを耐え抜き、虚無へと陥っている愚か者は、そのありがたさを砂の一粒ほども実感していないのであった。
「・・・・・・・・ふはぁ」
溜息と一緒に力を抜く。
だらしなさなど気にせず、床の上ですっかり脱力して手足を伸ばす様はどこぞの愛玩動物を髣髴とさせる。しかし、その実成人した男性がやったとしても可愛がられるはずもなく。
控え目かつ穏便な表現に抑えたとしても『見るに堪えない』と評する他無いのであった。
そして、長い苦悶の時から解放された男は、
「・・・・・・・・マルクス・レヴィアン。 名前覚えたからなぁ・・・!」
全身洗礼で、顔も知らない著者に対して呪を放っているのであった。
転げまわったせいで珍しいとされる黒髪を埃で真っ白にし、しわだらけのシャツを更にくしゃくしゃにしてしまった挙句、みっともなく呪詛を垂れ流す。
その姿は実に哀れで、どうしようもなく救いがないのであった。
「・・・・・・・・!」
ぐぐぐぐ、と無駄に力一杯本をにらみつける。
そんな痴態を、誰も見ていないという免罪符でもって慣行すること十分ほど。
「何してんだろ、オレ・・・・・・・・・」
自身を客観視できる程度には冷静さを取り戻して、独り言ちるようにして呟く。
「我ながらなんという愚かしさ・・・・・・・・・・・」
そも眼力で呪などが発揮されるもんでもないのだし、と胸中の整理しきれない感情を溜息と一緒に空気中へと吐き出す。普段よりも何倍も重い息が肺から抜けていくのを感じながら、手に持った本を手短に残った本塚へと乗せる。
そして、だ。
「・・・・・・・・・・・・どうしたものかな」
眼前。男は自室の惨状を見て途方に暮れるのであった。
部屋の大きさは左程広くも狭くもないといった程度、その両脇にはうず高くそびえる四台の本棚がある。
年代を気にせず突っ込んであるだけの本は豪奢な装丁がされているものもあれば、裸の紙束がまとめてあるだけのものもある。そのどれもが端々から破れてきていて、日光による日焼けが侵食していた。その逆側は一転して、瓶詰めになった植物や茸が並んでいる。栓をしているコルクには小さなラベルが引っ付いており整頓されている―――かのように錯覚させるがやはりどれも雑然と収納されているだけであった。
ところで。部屋の主たるこの男は職業柄・・・と表現するのが適格かは疑問ではあるが、その生きがいには大量に蔵書を抱える必要がある。
ついては本棚は既に限界量を超過して詰め込んでしまっている訳で。
だから、床一杯に本の塚が築かれているのは不可抗力という訳で。
加えて、先ほど転げ回ってあらかたを倒壊に追い込んでしまった訳で。
「・・・・・・・・・・・・・・・うわぁ」
呻くような声を出して惨状を眺める。
埃は自由気ままに空気中を踊りまくっており、床は踏み場がないほどに大量の残骸と化している本が転がっている。
閉じたまま横たわっているのなんかは可愛げのある部類だ。羽ばたいている鳥よろしく適当なページが開いて仰向け、うつ伏せは許せる範囲だ。傷ついて装飾が剥がれ落ちている、一部ページがおり曲がってしまっているまでは妥協できる。
だが、装丁が吹っ飛んで紙吹雪になっているものは、どうすればいいのだろうか?
「・・・・・・・。」
元々、清掃が行き届いているとは言えなない室内環境ではあったのだ。そこに今回もう修復は見込めない残骸がばらまかれ、より一層退廃的な様相となって廃墟と呼ばれてもおかしくはない状態へとなってしまった。
勿論、どこの誰が原因かなんて考えるまでもない。
再三にわたる忠告も、己に課していた豆粒より小さく柔い義務感も。全て無視して惨状へと堕ちたのは、紛れもない自分自身の怠慢の結果だ。
どう論理的な判断を仰いだところで反論の余地なく自分の失態であって、他の何に責任を擦り付けた所で意味はなく、全くのお門違いの子供っぽい言い訳でしかなく言うだけみっともない事この上ない恥ずべき行為であって
「・・・・・・・・・・本格的に呪詛を編んだ方がいいかな?」
全力で責任とやら諸々を送り付けてやろうか、と。
自分で理論的に制止しようと試みたのを踏みにじっては一言を紡ぎあげてしまうのであった。
「・・・・・・・・・・はぁ」
なにやら重苦しい溜息を一つ。
戯言でお茶らけてみたが、当然のことながら状況は好転なんてしない。
現実逃避もそこそこに、再び凄惨たる自室の有様を見つめた。
「・・・・ほんとに、どうしたのもかなぁ」
片付ければいいんでないですか、と誰かが言った、気がした。
「これを? ・・・・・冗談だろ」
とても半日じゃ終わらないよなぁ、とのんびりとした調子で誰かが返した、気がした。
「それに一人でとか・・・」
自分の責任であるのに誰かに肩代わりしてもらおうと?、と強い口調が聞こえた、気がした。
「・・・・・・・効率の問題だ」
でも誰が手を貸してくれるっていうの?、と笑いを堪えた声が耳を翳めた、気がした。
「・・・・・・いや、だからって・・・」
それにレイラに見つかったら大変だよ?、と懐かしい声は郷愁を思い起こさせた、気がした。
「・・・・・・・・・。」
それだけは回避しないとね? 棺は一つで十分だよ、と実に勝手なことを期待された、気がした。
「・・・・・・・・・あぁ、もう・・・」
思わず頭を抱えそうになってしまう。
これは幻聴であり、気の迷いだ。
形のない、この世に生まれたこともない誰とも言えないような幽霊以下の何かだ。
だから、これらを無視してしまったとしても一切良心は痛まない。
痛まない、のだが。
「・・・・・・・・・・・分かったよ・・」
こうして抵抗を諦めて、自室の整頓を試みることになったのであった。
まぁ、本音を言ってしまえば見て見ぬ振りでもして寝てしまいたかった。何せ『面倒』は避けるに越したことがないし、ごく一部の特殊な人格を有する者であれば死因と成りうる因子だからだ。
(・・・それも戯言なんだけどね)
溜息をもう一つ。
部屋の掃除など怠っていて久しい。記憶の彼方にある整頓の手順を頭で思い浮かべながら、非常にゆっくりとしたやる気のない動作で清掃に取り掛かっていく。
手始めとして、身近に転がっている本を回収することにした。
『特殊環境下での魔法行使の支障』 『改編式の矛盾が起こす現象の規則性』 『欽事災害に――』
「・・・・・なつかしい」
ぽつりと呟いては腕に乗せていく。随分と前に読んだ書籍たちの題名を追って、頭の片隅で内容を再確認する。それはもう半分無意識の癖みたいなものだ。
どさっと。一先ずある程度の高さの本塚を作る。
「・・・・・・・・・・・・ふぅ」
なんだか壮大な一仕事でも終えたような疲労感を覚えてしまった。
これをあと一体、何度繰り替えさなければならないのか。始めたばかりだというに眩暈がしそうだ。
「これ・・・どうにかならないかな?」
どうにもならないものである。
しかし、そんな彼の願いが聞き届けられたのか。
異音と共に、最悪な解決策が告げられる。
―――ぎ、ぎ、ぎ、ぎ、ぎ
話は最初に戻るのだが。
今は遠き偉人たちは実に深遠な言葉たちを残されたものだ。
「え?」
部屋はそこまで新しくはない。暴れればそれ相応の結果となって降りかかってくる。
つまりは―――
「う、嘘・・・ですよね?」
―――どがしゃぁぁん
弱り目に祟り目。
愉快に痛快に、頭上へと落ちてきた本棚を見て悟るのであった。
「ぎょぶっふ」
かくして汚部屋の主は下敷きに。
レノ・クラフト。
魔法使いを名乗っていた男は、今日も救いがたく哀れなのであった。
もそもそと書いてきます。
追記。
今更ですが初投稿です。
至らないところばかりですが何かとよろしくお願いします。
感想などもお待ちしております。
・・・ネット内でも人見知りを発揮して絶望しそう。