第四話
さてさて今の所pippinとWhiteBerryしか出てきてないですねぇ。
他の端末が活躍する日は来るんでしょうか。
来なかったら困るんですけどね。
実は、俺のスマホと財布は一定距離離れるとけたたましい警報が両者から発せられるように仕組んである。残念ながら、昨日みたいに両方同時にスられるとなると意味を成さないが、無いよりはマシというやつだ。申し訳無いが、俺とてまだイナリを100%信じ切っているわけではない。ここの倉庫は確かに生活感あふれるが、こういった拠点をいくつか持っていても不思議ではない。
というわけで、スマートフォンはストラップを巻いて寝ている俺のポケットの中に、財布は例の警報システムの充電も兼ねてあえてパソコンの上に置いてあった。もちろん警報システムは非接点充電規格に対応しているのでイナリにバレる心配も少ないだろう。
財布の中には一万円と少し。正直盗られると困るのだ。
だが、目の前にはちゃんと財布もスマホもある。イナリも横で健やかな寝顔を見せている。異世界で、しかも治安の「ち」の字もないような地区にしては長閑すぎる朝だった。
さて、ここに来てからずっと抱いていた違和感の正体がやっとわかった。そもそも違和感なんか気のせいだろうと気に留めていなかったが、その微量の違和感は実際に存在する、常識との差異によるものだったのだ。
ここには何故か水道もガスも電気も来ている。イナリ曰く、原型をとどめていない廃屋から引っ張ってきたんだそうだ。実際に壁に空いた穴からそれらしきパイプやホースを見かけたので本当なのだろう。
故にキッチンにはマイコン式とはいえ炊飯器があったり、ガスコンロや電子レンジなんかがあったりと一通り揃っているのだ。そんな中、ひときわ目立つデカイ家電である冷蔵庫が無いのだ。それに、よく見てみれば炊飯器だってうっすらとホコリが被っている。ゴミ袋に詰め込まれているのはインスタント食品のパッケージぐらい。ガスコンロもどうやら電池が少ないのか、バッテリー減マークが点灯している。
これから導き出される答えは、イナリは最近まともな食事を摂っていないこと。流石に俺が「雇用」しているうちに倒れられたら困る。とりあえず、預かったスペアキーを使って戸締まりをし、近所のスーパーを探す。
*
町並みは現代でも文化は中世っぽさがあるな、と俺はつぶやいてみる。コンクリートに囲まれた街を歩くには少し不釣り合いなバカでかい太刀を背負った屈強な男が歩道を堂々と歩いていたりする。服装もちょっと中世西洋を意識しているのかなめし革の装飾品がついていたりと若干アニメの世界に入り込んだ気がする。まあ秋葉原に行けば「ギルド」なるものがあるらしいし楽しそうだ。それこそ、買い物終わりにビニール袋を携えてこっそりスマホで地図を見る引っ越ししたての新妻みたいなことやってる自分が不釣り合いだと思うぐらいには。
帰るとイナリは起き抜けなのか放心状態だった。ぼーっとしながらパジャマを脱ぐ姿は同じ男なのに艶めかしさを感じさせる。つややかな毛並みもさることながら、しなやかな骨格もなかなか。多分人間はパッと見で雌雄の判別がつかなかったらたとえ雄にでも欲情できるんじゃなかろうか。特に少年ともなれば中性的なんだろう。…だって俺ら素人からしたら狐の雄雌なんてパッと見じゃ絶対わかんないし。
「んぁ…おはよう」
「おはよう、まだ7時だけど。朝早いんだね」
「や…なんか侵入者の気配を感じたんだけど…気の所為だったみたい」
「あー、俺かも知らん。今24時間スーパー行ってきてたから」
「んぅ…」
船を漕ぎ始めるイナリ。まあ朝ごはん作る間ぐらい寝かせておいても良いんじゃないかな、と毛布をかけ直してやる。
スーパーで買ってきた物を取り出して簡単に下処理をする。流石に味の保証ができるほど料理がうまいわけではないが、自炊が嫌いな質ではないのでこういうイレギュラーには強い。
不安に思って小さい調味料も買ってきていたがこれは正解だった模様。フライパンはあっても油がないあたり、レトルトの湯煎にしか使われてなさそうだ。炊飯器の釜も洗っていて不思議なぐらいに使用感がない。
「…初期投資…うぅーん…」
思ったより長くなったレシートを横目で見ながら唸る。食料品も元の世界のものよりだいぶ高価になっている。暮らせて2日、その他必要なものを買うとなったらまあ一日持てば万々歳。…カードさえ使えればもうちょっと金あったんだがなぁ。
軽く油を敷いたフライパンに買ってきた食材をブチ込む。基本的にこだわらないのであれば安売りの野菜と肉を一緒に炒めて塩コショウだけで何とか食えるもんが出来上がるんだから世界は不思議だ。改めて言うが味の保証だけはできない。不味くはないと思うんだが…。
早炊きモードで炊いていたご飯も出来上がり、ひっそり作っていた目玉焼きと、さっき作った野菜炒めと共に用意してイナリを起こしに行く。
「おはよう。8時だよ」
「…おはよう…くぁ…」
大きなあくびを一つ。のそのそと洗面台へ向かうのを眺めながら食卓へ向かう。
「…これ、勇太が作ったの?」
食卓の上の朝ごはんを見てイナリがポツリ。なんでそんな驚きの眼差しで僕を見るんですが?
「おう、流石にカップ麺とかだけだと体壊すぞ?」
因みに安売りのものを適当にブチ込んだとはいえ、一応は狐獣人の禁忌は調べてあったりする。そういったドキュメントがネットの海に転がっているのは非常にありがたい。
「んじゃ食うぞ」
「「いただきます」」
いい感じにハモったところで朝ごはんを食べ始める。あ、今日のは割とうまい。一応卵は半熟だし黄身とか解いて絡めたら…あー良いわこれ。昨晩なにも食べてなかったのもあるけど今日はやっぱり塩加減うまいわ。
なんて熱い自画自賛を注いでいるとイナリの手が止まっているのに気がつく。お、味偏ってたのか?それとも…なんか禁忌見逃したか?
「うおぃ…どうした?」
流石に泣き出してしまうのだからこちらもおっかなびっくりにならざるを得ない。
「朝ごはん作ってくれるのなんて…もう何年も無くて…」
「あー、なるほど」
いや何がなるほどなのかは分からんけども。むしろこの状況下でなるほどって割と最低なんだけども。
でも。
「その、何だ。俺はこの世界について全然知らないけどさ、それにイナリが今まで何やってたかなんて全く分かんないけどさ。今は俺が居てやるよ。だから安心しろって」
はい、自分でも驚きのビックマウス。なんて言うかこう相手が衰弱してんのいい事にクッソカッコつけてて客観的に見るとバカダサいんですけど。はは、こんな時どうすればいいか分からんなんて笑えねぇ。
「ぐすっ…ありがと…」
はーこの母性を呼び覚ますサムシング。もういいやこの一万円は彼に全額投資ですよこの野郎。
「ま、泣いてくれんのは嬉しいけど多分冷めると不味くなるからとっとと食べてくれ。ちゃんと昼も作ってやるよ」
初めて俺に見せる年相応の振る舞いに驚きながらもどこか安心しつつ、イナリを宥めることに成功する。寝間着の袖で涙と鼻水を拭って、美味しそうにご飯をかきこんでくれるなら何も言うことはない。それに調理器具類を勝手に使った事もお咎めは無さそうだ。
食事を終え、ごちそうさまを済ませると、イナリは食器を洗い始める。手伝ってやろうかと声を掛けたが、「そもそも立場上は僕の仕事だから。それに、こんな所で油売ってないでとっとと秋葉原に行こ?」と追い出されてしまったので今素直に液晶とにらめっこをしている。
…結局、にらめっこをしていても実機テストが出来ない事には上手く動作してくれるか何て分からないのだが。だからといって近所の自販機にテストでインストールしたとして、その実行ログが残ったとしたら、通常版yOSではワンデイはおろか修正済みのバグなのだから、組み込み向けのアップデートを促す結果にしかならない。
「どーしたもんかね」
朝ごはんよりは安価に済ませたお昼ご飯の時間も過ぎ、床に直置きしたPCの目の前で寝転ぶ。イナリはその横でずっと俺の事を眺めてた。
「…yPadがあればいいの?」
「別にyPadに拘らなくても、yPhoneでもyPod touchでも良いけどさ。脆弱性を突いたプログラムなんだから仮想マシンじゃ多分正しい動作はしないだろうし」
相変わらず唸りながら俺は答える。相変わらずっていう言葉を自分に使っちゃう辺りやる気の無さが滲み出ている。
「…これ、ゴミ捨て場に落ちてた」
は?という言葉と共にイナリの方を向く。イナリの腕には、新品とは程遠いとはいえまだまだ現役のyPadが抱かれていた。
「ゴミ捨て場ってお前…バッテリーも残ってるしそもそもデータ消えてないし…。これ本当にゴミ捨て場にあった奴か?」
ロックは掛かっていないようだが明らかに不自然だ。まず普通の人はデータの残ったyPadをゴミ捨て場に放置したりはしないはず。そもそも市区町村の指示に従ってバッテリーだったりを外しておかないと回収されないんじゃ…?
「近所のゴミ捨て場…じゃなかったけど…」
怪しい。何故視線を逸らすのか。
「嘘は良くないな。これ、どっから持ってきた?」
場合によっては今すぐ戻しに行けばまだ何とかなるかもしれない。盗んでくるのは辞めるように言ったはずだったんだがなぁ。
「…だって、お前がコレ無いと秋葉原に行けないって言うからッ…」
涙を湛えてイナリは言い訳に走る。
「泣いたって駄目だろ。犯罪は犯罪。今まではそれが日常だったかも知んないけど俺が雇ってる間は盗みも何もしないって約束だったろ?」
「そう…だけど…」
「戻してこい。どっから盗ってきたコレ」
嗚咽を噛み殺す声が聞こえる。だけど、物を盗まれたときの絶望感は感じた事のある者にしか分からない。窃盗を容認するわけにはいかないんだ。
「……った」
「何て?」
「…スッた…だから…誰の…とか…知らない…」
「…」
おいどーすんだコレ。悪いけど、ウチの者がスッてきちゃったんでこれ預かってもらえます?なんて交番に駆け込んだ日にゃ即日お縄だぞ。
「…何で駄目なんだよ…そもそも僕達がこんなに苦しんでんのはマカーのせいだろ…」
「いや知らんけど。純粋に昔からyPad使ってたんでそのまま継続してますって可能性もあるだろうし、やべー奴らって一部なんだろ?」
「こんなもん持ち歩いてる時点で同罪だ…そんな奴らからモノ盗って何が悪い」
「盗む行為そのものだよ。あいつは気に食わないから殺す、そんな考え方でいいと思う?」
「それをやってきたのがマカーじゃんか」
「じゃあお前はそのマカーと同類、同レベルだな」
「…」
イナリは俺からyPadを奪い取るとどこかへ走っていってしまった。キツく言い過ぎたか…いやいやでも窃盗は全力で止めるのが側にいる奴の義務だろうし…。えー…どうしようかな…。
…仕方ねぇ、ちょっと出掛けてくるか。
*
まずはイナリを探す。とは言え地の利がゼロなこちらが街中を探すのは得策とは言えないだろう。ならばどうするか。答えは簡単、この街中に張り巡らされている"目”を使えばいいのだ。
適当なインターネット喫茶に立ち寄る。店員に「PC使いたいです」って言ったら不思議な目で見られたがちゃんと最新のWindsが入ってるPCを使わせて貰えた。
浅草橋周辺のカメラ情報は蔵前警察署が持ってる筈。もちろん警察が機能しない現在ならそこへのセキュリティもガバガバになってるだろう。
前に自宅サーバーのセキュリティチェックの為に簡単に組み上げたクラッキングツールがある。何を思ったか携帯に保存しておいたバックアップがあるのでこちらで流用させて貰おう。
「お」
ウェブブラウザを通して数多の監視カメラの映像が流れてくる。黙々と映像の中からイナリを探すが、思った以上にこの街には獣人が多い。ドームカメラであるのも災いし、確認が追いつく気配がない。というか素人が組んだツールで開いちゃうとかもうアウトでしょ。
「不味いな」
1時間で借りたのにも関わらず終わる気配がない。延長を頼むか考えていたその時、4分割画面のうち一つにに見覚えのある獣人が走っているのが見えた。
…OK、あとはアクセス権限をこちらのスマホに移して、今回使用したキャッシュ領域を抹消して…完璧。
インターネット喫茶で配布していた防犯マップとスマホの映像を照らし合わせて街に飛び出す。まだイナリの手元にあるyPadの無事を確認して。
そうしてイナリを見つけるまでに、結局俺はインターネット喫茶から出てなお1時間以上見慣れない街を駆けずり回る羽目になったのだった。
「ハァッ…ハァッ…おまえ…何も言わずどっか行く事ねぇじゃねぇか…」
「…そっちだってまるでこっちの居場所が分かるかのように向かってきたじゃん…」
頑なに目を合わせようとしない。…流石にちょっと強く言い過ぎたか…。やってる事がやってる事だけにあんまり肯定したくないが、この世界じゃ当たり前なのかもしれない。現に今ここでも耳を澄ませば「アイツだ、追えッ」と言うような怒声が何処からか響き渡ってくるのだから。
「ほら、こんな事してると夜ご飯作れなくなるから。つーか既にピンチなんだから」
そう言い、イナリに手を差し伸べる。
「…どうしろってんだよ」
やさぐれ気味の狐を横目に、近くの交番へ向かう。
*
狐獣人と言うだけあって、イナリの体毛は前腕の辺りから黒色に変色している。足も同様で、ふくらはぎの辺りから色が変わる。だから何だと言われれば特に深い意味はないのだが、やはり洗い物をする時にぶっきらぼうながら「僕も手伝う」なんて言われた日には拒否る理由も見つからない。ふと、人間よりよっぽど太く大きいイナリの指を見ていたら気になったのだ。
「…どうかした?」
「いや、別に。ただ何となく綺麗な毛並みだなって」
褒めてやったにも拘わらず、本人は照れる素振りすら見せずに作業に戻った。多分ツンデレ好きの女子とかだったらイチコロなんじゃ無かろうか。まぁイヌ科の性なのか、尻尾が控えめながらゆらゆらと揺れているのでギャップ萌えも同時に狙っていく。うーん、ショタコンのおねぇさんとかに捕まっても知らないからな。
「一応気を遣ってるからね」
濡れた手の甲の毛を肉球がなぞる。肉球…これまたちょっと興味の出る一品。だって某国民的乱闘ゲームに出てくる雇われ遊撃隊の狐は肉球もなければ全身濃い茶褐色。そもそも乱闘キャラをそんな詳しく見たことはないけどさ。でもあの3Dモデルの出来は素晴らしいと思うしあれで肉球がついてたらそろそろ全国の少年少女の性癖を歪めにかかる兵器と化すんじゃないかな。すでに子会社から出てるポケットに収まるサイズのボールにモンスターを捕まえるゲームで数多の特殊性癖者が生まれたと聞くのに。
「…まさか落とし物って言ってyPadを交番に擦り付けるとは思わなかったよ」
「仕方なかったじゃん。それにジャンク品店からボロボロだけど動くyPadも買ったし」
そう、あの後俺らは交番へ向かった。というのも、合流したあとに録画データを確認すると、流石イナリと言うべきか犯行現場はどこのカメラにも映っていなかった。ならば被害届が出される前に交番に届けとけば落とし物として処理されるんじゃないかという希望的観測の元、匿名で押し付けた。最高に白々しく「公園のベンチに置いてありました、盗まれると困るので」と言い放ち交番を去った。…まあ行政が形骸化してるのは明らかなのだが。一応、気分の問題である。
そして偶然にも「非合法ジャンク屋」を発見する。pippinの製品はどうやら認可を受けた取扱店でのみ販売が可能らしい。それが法律として制定されているあたり世紀末を感じる。いやもうガッツリ世紀末ですけど。
皿を網の棚に乗せて乾かす。物資が乏しいここでは皿拭きごときにタオルを使ってると回転が間に合わなくなってしまう。
イナリは手を振って水気を飛ばす。布団のある区域には水が届かないにしろ、もうちょっと野性味を抑えた脱水の仕方なかったのか。
「さっきからどうしたの?ボーッとしてるけど」
「マジで?」
流石に水を飛ばす姿を凝視してましたとは言えない。ま、こんなことしてる暇があるならとっとと壁のセキュリティシステムを無効化するソフトを作れって話なんだけどね。
溜め息とともにPCに向かう。今までいろんなサイトで読んだ異世界転生の主人公たちは皆アホみたいな才能を開花させたりして、なんなら立ちはだかる強敵に怖気づくことなく立ち向かえるというのに。現実はこれだ。黙々とブルーライトを浴びながらリファレンスの単語を写すだけ。
「…なんで再起動までは上手くいくのにそっからループしねぇんだよ…」
アプリケーションをバックグラウンドで起動するための登録は上手く行ってるはずなのに…。
「それ、ちゃんとレジストリに起動するよう書き込んだ?」
「なんだよレジストリって…XIUにレジストリの概念なんて無いだろうが」
苛立ちがそのまま声に出てしまう。良くない癖だ。
「ああ、Windsのレジストリとはだいぶ違うし、そもそもだいぶ前から存在はしたけどほとんど使われることもなかった試用機能なんだけどね」
「…俺の知ってるyOSじゃねぇ…」
「そもそも管理者権限で自動起動はできるけど、素のyOSで一介のアプリケーションがデフォルト起動の設定のパーミッションなんて与えるはずがないから」
「…バックグラウンドで動いてるアプリなんていっぱいあるじゃないか。メッセンジャーアプリとか」
「そもそも勇太の世界のyOSとはそもそもの仕様が違うんでしょ?ならそんな先入観に囚われちゃ駄目だよ」
本当に一部互換性のある別物って考えたほうが良さそうだ。他のスマホ類はほぼ完璧な互換性を保ってるっていうのになんでyOSだけこんなに俺の生まれた世界のと仕様が違うんだよ…。
「レジストリ…ホントだ、こんなところにちっちゃく解説が載ってる…」
なんか、ベータ機能だとか使用は推奨しないとか書かれてるけど今の所これしか方法がなさそうだ。じゃあ安定版で配信するときにyOS本体から削れよ。
コンパイル、ビルドを済ませてWhiteberryに送る。今作ったアプリをAirTake規格準拠のアドホック通信でyPadに送ってやると、yPadはシャットダウン処理を始め、再起動が起きる。ロック画面を表示したその時、本来表示されてはならないAirTakeのウィンドウが表示され、近所の住民の端末にアプリケーションを送り始める。
「あ」
ふと隣の家の電気が消える。今の情けない声は俺のもの。
「あ」
道を挟んで向こう側の民家から、「なんで急に電源切れるのよ」と不機嫌そうな女性の声がする。イナリも状況を把握し声を上げる。
何が起きたか分かったイナリと俺は互いに顔を見合わせる。
「…」
早急に電源を切るスプリクトをコメントアウトしたアップデートパッチを送る。試用段階ということでまだ組み込み向けのyOSは送信の対象外にしている為、近所の自販機とかに組み込まれたデバイスにログが残る失態は避けられたが…。準備も整っていないのにpippinを刺激する結果になってしまったのはいただけない。
コメントアウトした部分を解除し、送信対象をすべてのyOSデバイスに置き換える。
保存ボタンを押す。流石に今ビルドすることは出来ないが…これが俺らの最終兵器となるのかどうか…。
「やったんじゃねコレ」
今使用したyPadを叩き壊す。コレで元凶の端末は物理的に消失したので俺らに繋がる情報はなくなったはず。しかしレジストリなんてものがあるとは思わなかった。
「ま、これで何とか明日には侵入できそうだな。ここに戻ってこれないかもしれないし、貴重品とか持ってくもん整理…お?」
イナリは何も言わずにマズルを胸に押し付ける。あの、一昨日からその服洗ってないんであんま衛生的じゃないっすよ…。
「まさか…本当にこんな所から抜け出せるなんて思ってなくて…」
また泣いた。やっぱまだ感情が不安定…いや感受性豊かと言うべきか。年相応の振る舞いだと思うしこれが自然だと思う。
「まだ下準備が成功したに過ぎないからな…。明日、ちゃんとシステムが無効化されるかなんてのはやってみないとわからないさ」
頭を撫でてやる。幾分か落ち着いたか、「準備しないとな」と目を腫らしながら笑っている。…少し痛々しく感じる。多感な時期に頼れる人が居なかったんだから当然といえば当然かも知れないが。強がってないと生きていくことすら難しい。
結局興奮しているイナリを宥める形で布団に潜ったが、寝付くのにいつもより相当時間がかかった。
yPsd…というか市販のタブレット端末を叩き壊せる腕力は間違いなく「異世界転生モノ主人公」に与えられた特権です。板状は保っているもののチップはちゃんと割れてます。