双りの契り
逃げ出したい思いと、ここにいなければならない現実が衝突した。
結局どちらにも従うことはできず、中途半端に椅子から立ち上がっただけで停止した。
あいつはずっとここにいなければならないのか。
あたしが、生きている限り。
別れまでは一瞬だった。
あたしが生まれて、あいつが生まれた。
一卵性双生児。
千に一つという双生児の出生率から、更にありえないとさえ言われるほどの確率で生を受けたあたしたちだったけど、同じ腹の中で、同じ様に成長して、同じ顔をして、ほぼ同じ時刻に生まれてきた弟は名前さえないうちに息絶えた。
母親はそれを聞かされたとき、あまりのショックに分娩台の上でそのまま気を失い、
代わりに生まれて初めてあたしを抱き上げたのは父親だった。
そのせいだろうか。
父親はあたしを異常なほど溺愛するようになったし、
母親は死んだ弟のことばかりをあたしに話して聞かせることになった。
決して、思い出があるわけじゃない。
ただ同じ顔をしていた弟の姿をあたしに重ねて感傷に浸る。
それだけだ。
ランドセルを背負って出かけるだとか、新しい服を着て買い物に行くだとか
思い出を捏造してまで生きているという想像に逃避する母親。
そのために弟の分のランドセルを買ったり、あたしの部屋に二つベッドを置いたり、
制服も男子用のものを一着、仕立てたりもした。
二つ並んだ新品の靴とカバン、性別の違う制服が不気味に思えて仕方なかった。
だが、母親が想像する弟の隣にあたしの姿が存在することはない。
そんなふうに自分の影しか見てもらえなかったあたしは無意識に大きな影響を受けていた。
小学校にあがる少し前から突然、弟の影を自分の中に見るようになったのだ。
あの女が見ているバカバカしい夢幻なんかとは違う。
一番最初は鏡の中に映る自分が普段とは違っていたというだけの話だった。
顔を洗ったばかりでまだ水滴の滴る自分はまさに違和感そのものだった。
異質なものが鏡の中で、笑っている。
あたしは自分であるはずの鏡の中にいるその人が浮かべている表情に眉をしかめてすらいるというのに。
その違和感はしばらく見つめているうちに消えてしまった。
次に気がついたのは食事の最中だった。
口の中に膜を張って食べているみたいにぼんやりとした味覚。
箸を取り落としてしまいそうなほどにしか触覚は機能していない。
五感そのものを別の何かに明け渡したみたいに何もかもが鈍くなる。
母親の目があたしを見つめながら弟の姿を見ているときより気味が悪く感じた。
繰り返し訪れるその感覚の頻度は増し、違和感はその都度強くなっていった。
ついにあたしはその正体を知ることになった。
「……ちゃん。」
広い家で微かに聞こえた声。
最初は気にするほどの音ではなく、街の騒音が風に乗ってきたのだと思うほどだった。
だが、それは段々とはっきり聞き取れるようになり、
「お姉ちゃん。」
ついにあたしを呼んだ。
昼のリビングでテレビから目を逸らし、呼ばれた方向へ振り返った視線の先には
あたしと同じ目をした、声をした
あたしの、弟が立っていた。
その頃から、異常なほど伸びていた身長はピタリと止まり、あたしは中学生で早くも成長期を終えた。
とはいえ、急激な成長をしていただけで、大人の中に混ざれば平均的な日本人の身長だった。
弟はあたしと違い、丸みを帯びた体ではなかったがそれでも基本的なところは同じだった。
例えば、色素の薄いところ。
髪は一度脱色して黒に染め直したような茶色だし、肌は何度日に焼けても黒くならないあたしと同じ色をしていた。
水に映ったみたいに不安定な虚像。
まだ半透明状態の弟は、母親と父親には見えないらしい。
そして弟は、あたし以外の人間を必要としていなかった。
もしかしたら、あたし以外の人間が見えていないだけなのかも知れない。
でも、それを確かめることはまさに影が薄い存在のその人を自分の弟だと認めるに等しい。
何だか怖くて、聞けなかった。
「姉ちゃん。」
あたしの背後から話しかけてくるあいつは、あたしの苦悩なんか知らずに笑ってる。
「何?」
ソファで新聞を読んでいる父親に聞こえないように、なるべく低い声で応えた。
すると弟は、照れたように呟いた。
「ボクも、学校に行きたい。」
困る、という思いと疑問が頭の中で弾けた。
「外に……出られるの?」
広がった二つの思考から、疑問が溢れてこぼれた。
あたしが不意に放った質問に弟は残念そうな顔をして首を振った。
横に。もちろん、否定の意味で。
「そう……なの。」
本音は姿のはっきりしない弟を学校に連れていく羽目にならなくて安心した。
それでも、残念そうな顔をしているように全力で努めた。
あいつが外に出られたのは、あたしの中で守られていたときだけだ。
二つに分かれてしまった今では、半透明のあいつは外に出られないんだと思う。
これも、確かめたことなんかない。
ただの憶測だ。
ずっとあたしの中にいたかどうかなんて、聞けるはずもない。
それでも弟は、母親がいつのまにか揃えた男子用の制服に着替えたり、
学校の行事を細かいことまで根掘り葉掘り聞いて、まるで実体験をしたみたいに楽しんでいた。
あたしのやる宿題に、わかりもしないのに横槍を入れてみたり、
テレビでやってる番組についていろいろ話しているうちに、あたしたちは思考までも同じになろうとしていることに気付いた。
そして、この家では誰も家族のことに興味などないのだと感じた。
あたしが一人で笑っていても、考えていても誰にも気付かれないことがそれを示している。
最近では弟と話すのに声をひそめることさえしていないっていうのに。
だから二人が同化しようと思うのは自然なことなんだと思う。
あたしたちはお互いだけを理解して、それに依存して暮らすのだ。
例え、死んだはずの人間、存在しない弟が相手だったとしても。
弟がここにいることに全く疑問がなかったわけじゃない。
だけどそこで存在していることが当然のような思いも確かにあった。
弟はここにいるべきだからこの家から離れることができない。
だとしたら、誰のため?
その結論に行き着いたのは、母親の言葉がきっかけだった。
「タンスにしまってあるあの子用の制服がね、ときどきあったかいの。
まるで、誰かが着てたみたいに。」
あいつが着ているからだとは言えないし、そう答えるのが正しいのかどうかわからなかった。
そしてあたしは中途半端に相槌を打った。
いつものように、神妙な顔をしてやり過ごせばいい。
だが、母親はそんなあたしの反応が気に入らなかったのか、突然怒声をあげた。
「何よ!あなたもお父さんみたいに、私の頭がおかしいとでも思っているんでしょう?」
「母さん……」
「私ねぇ、感じるのよ。あの子がここで私たちを見ていて、自分の存在がこの家にないことを悲しいって言ってるの。」
「そんなことない……」
「聞こえるんだから!ボクはここにいる、って……」
それから母親は泣きじゃくり、話もできなかった。
あいつは、叫びながら涙を流す母親の傍らに立ち、泣きそうな顔をしてあたしを見ていた。
このかわいそうな女をどうにかしろと責めているような目で。
あたしにどうしろっていうのよ。
この人にはあたしじゃなくてあんたが必要なのに、どうしてあんたは何もしてやらないの?
あたしは立ち上がって、何も言わずに自分の部屋に飛び込んだ。
鏡に映ったあたしの顔が、あいつと同じ顔をしていた。
無力なあたしを責める、あたしの目。
触れた鏡の向こうに弟がいた。
「あたしがこんな顔してたから……悲しい顔をしてたっていうの…?」
背後に立っているあいつに問い掛ける。
「この家で姉ちゃんが一番かわいそうだ。一人ぼっちで、誰にも心を開けない。」
痛い。
どこかわからない、体の奥がジクジクと痛んだ。
昔の傷が開いたみたいに、塞がりかかっていた古傷を抉られたみたいに。
「あんたが……一人にしたんでしょう?ずっと一緒だったのに。いつも二人だって言ったのに!」
痛みが広がっていく。
これが古傷だっていうのなら、あたしはいつ傷つけられたんだろう。
弟しか見ようとしない母親?
それともあたしを愛するばかりで母親から庇うこともしない父親?
違う。もっと前。
あたしの記憶のもっとも古いところ。
「姉ちゃんが傷ついたのに誰も癒してくれないから、誰にもわかってもらえなかったから」
「そう……」
「ボクはどこにも行けなかったんだ。」
「あなたをこの家に引き止めたのは……あたし。」
弟とあたしは、手を繋いで生まれてきた。
母親の体の切れ目から、手を繋いで生まれた。
でも、あの眩しい光を見たのはあたしだけだった。
一緒だった弟は産声ひとつあげることなく、名前さえないまま死んだ。
あの手は約束だった。
ずっと一緒だよ。いつも二人でいようね。
なのにあたしは裏切られた。
その手を引き剥がされたときには死ぬほどの痛みが全身を貫いた。
イタイ、イヤ、イたい、痛い。あたしを殺してよ。
あたしたちが二人じゃないのなら、一人もいないのと同じなの。
どうして一緒に殺してくれないの?
深く深く傷ついたあたしは、知らないうちに二つ目の約束をした。
ドコニモ、イカナイデ。
「姉ちゃん。」
「いなくなるのは、いや……」
「わかってる。約束だもんね。」
今まで触れてきたことなどなかった弟の手があたしを包んだ。
十年以上前に切り離された手が、あたしの手を握った。
「ボクは姉ちゃんとの約束を守るよ。」
あったかい。
生きて、存在する人みたいに。
「だから姉ちゃんもボクと約束して。」
「……何?」
弟の声が直接あたしの体に響いて頭がくらくらする。
あいつはあたしの体をしばらく抱きしめたあと
熱が出たみたいにぼんやりするあたしの思考に囁いた。
「姉さんの中にいさせて。ボクを……殺さないで。」
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