16. 神の力と懐かしき手のひら
なぜ、この方がここに居るのでしょうか?
まさか、私を助けに来たというのですか?
青年の腕に抱きしめられながら、私は未だに混乱しております。
いったい何が起きたのか把握出来ません。ただ、私の腕を掴んでいた魔に染まった者は、なぜか壁に激突し気絶しておりました。
その時の記憶は、物語のように凛々しい青年に思わず見惚れていたのでよくは覚えていないのですが、特に青年が何かしたようには見えませんでしたわ。
そっと私を抱きしめる青年を見上げれば、雨にひどく打たれたのか、金糸のような髪からはぽたぽたと清水のように光を帯びる雫が落ち、その秀麗な顔立ちも相まって、なんと言いますか、こんな場面でなければじっくりと堪能したいほどに艶っぽい、ですわ。
水の滴る何とかやら、ですわね。
その麗しさに思わず息を呑むほどです。
同じ雨粒でも、魔に染まった者は不気味に見え、青年の方は、なぜかその雨の雫さえ、青年を際立たせる宝石の一つのように見えるのが不思議です。
一度、偶然に出会っただけですのに、どうしてここに来られたのでしょうか? 私には、彼に助けてもらう理由などありませんのに……。
「大丈夫か? イリアーナ嬢」
「は…はい、大丈夫ですわ」
「本当に? 奴に何もされていないか? 怪我は? 私は…間に合ったのか?」
顔を歪ませ、私の無事を確かめるように何度も何度も問いかける青年は、私がゆっくりと顔を縦に振るのを見ると、その表情に安堵の笑みを浮かべました。
「間に合って…良かった」
小さく呟くようにそう告げる青年は、愛おしむようにそっと私を引き寄せ、胸の中に閉じ込めるかのように抱きしめてきました。
あっ……。
再び動悸が激しくなります。
止まない鼓動は、青年に抱きしめられているから? それとも、家族以外の殿方に抱きしめられるのが初めてだから、なのでしょうか?
「君が無事で本当に良かった……。君を守るために私はいたというのに、みすみす敵の手に渡してしまうなど情けないにも程がある! イリアーナ嬢、君はこんな私を軽蔑するか?」
け…軽蔑? なぜ急にそんなことをおっしゃるのでしょうか? 返答に困ります! そもそも、私を守るって…なに?
「……軽蔑する以前に、どうして貴方が私を守るのですか?」
守るためにいた、というなら、兄上様たちに依頼された護衛の方々という可能性もありますが、なぜなのでしょう? この方は、単なる護衛には見えないのです。
私を抱きしめる腕の中から僅かに顔を上げて青年を見れば、青年は困惑するその表情を隠すかのように、私の耳元に顔を寄せてきました。
「理由を、訊きたい? …イリアーナ嬢」
な…なんという声を出しているのですか!
耳朶に響く青年の艶やかな甘さを秘めた囁き声。
瞬時に頬が紅潮するのが分かります。もしかして、揶揄われている? といいますか、なぜ理由を訊ねただけなのにこうも甘い雰囲気を出しているのですか? この方はっ!
これは、訊かない方が良かった…とか?
鳴り止まなくなった動悸と火照る頬に、なぜか、その先を聞いてはいけない、と思ってしまった私は悪くない!
「あ…あの、理由はやはり後日、という事で……」
「どうして? ここで告げられるのは、いや?」
「つ…告げるというのは、助ける理由、ですよね?」
「そうだよ。それ以外何がある?」
「あの…でしたら、少し離れて下さると…」
「却下。離れたら、君は逃げるだろう?」
に…逃げます! さっきから、青年が話すたびに吐息がかかり、あまつさえ青年の唇が私の耳に微かに触れているのです! 動悸が苦しくて、心臓が持ちません!
「あ…あの逃げませんから、少し―――」
「アーク様、何してるんですか? 今は口説いている場合じゃないですよ」
「チッ!」
突然響いた声にアーク様と呼ばれた青年は、僅かに舌打ちすると戸口に視線を移しました。
いつの間にいたのか、そこには三人の殿方がこちらに背を向けたまま外にいた魔に染まった者のお仲間らしき人たちと対峙しております。
「いちゃつきたい気持ちも分かるけど、あまり時間がありませんよ。そこに転がってる巨体もそのままじゃいけないでしょう?」
「言われずとも分かっているランド。ゲルツ、バード、二人は外にいる奴らを掃討! 決して中に入れるな」
「「御意!」」
「ランド、カイレムと騎士団がすぐ近くまで来ているはずだ、急ぎ誘導せよ!」
「了解しました。待っててね、カイレムの妹ちゃん」
「ランド!」
「すぐ連れてきま~す!」
えっと…後姿でしたけど、今の方たちに見覚えがありますわ。たしか、この方――アーク様と一緒に食事をとられていた方々ですわよね? でも、いまカイレム……て言いましたか? カイレムの妹ちゃん……!
「―――って、二の兄上様が来るのですか? ここに? それって、一の兄上様もこのことを知っているってことですわよね! ゼンは? ルキトは? 近くに居るのですか?」
「心配するな、イリアーナ嬢。皆すぐに来る」
思わず外に駆け出しそうになった私を引き留めるように、アーク様が苦笑交じりに告げてきます。
「…本当に?」
アーク様の言葉を信じていないわけではありません。ただ、確信が欲しくて問いかけた私に、アーク様は、目元を綻ばせ頷いてくださいました。
「本当だ。彼らとは別行動をとっていたが、これがここにあるんだ。すぐに来るだろう」
アーク様は、まるで私の後を付いて回るようにふわふわと頭上に浮かぶ雷光に目を遣りました。
「それにな、君の事をずっと見守っていた奴らが大勢いたんだよ」
「見守る……?」
「代表が今回の事を目論んだ稀に見る美人な男」
「……それって、一の兄上様、ですか?」
暈して言ってらっしゃるのでしょうけど、美人って、それ、一の兄上様には禁句ですわよ、アーク様。
アーク様の冗談とも取れるその言葉で、先ほどまで引っ切り無しにうるさかった動悸が収まりつつあります。
それにしても―――
一の兄上様の企みにはなんとなく気がついておりましたが、まさか、皆で私の街探索を見ていたとは思いませんでしたわ。これはあれですか? 絶対に面白そうだから、という理由ですか!?
「そ、シャリアンの事。だから、今回の件はあいつにも責があるからね。君が叱責されることは無いよ」
「え? 私の不注意でこんな誘拐騒ぎを起こしているのに、兄上様に叱られないのですか?」
「むしろ、私の方が叱責されそうだ」
どこか腑に落ちずキョトンとする私を見つめながら、アーク様は苦笑交じりにそう言いました。
先ほどからアーク様は兄上様たちを呼び捨てになさっておられますので、兄上様たちのご友人、なのでしょうか? だとしたら、相当親しい間柄、なのでしょうね。だって、一の兄上様に叱責されるとおっしゃる割には、とても楽しそうに話しておられますもの。
でもこれで一つ納得しました。
アーク様は、きっと兄上様たちに頼まれて私を守っていた…と。
それに、目の前で気絶している『魔に染まった者』の脅威は未だ消えてはおりませんが、なぜか安心できるのです。
何があってもアーク様が守って下さる。
理由などありませんが―――ただ、そう思うのです。
いつか兄上様たちに紹介して頂いて、きちんとお礼を申し上げなければいけませんわね。
胸の内に感謝の言葉を秘めて、私はそっとアーク様に微笑みかけました。
☆
「呑気だね、お姉ちゃん」
「…ユコ?」
どこかため息交じりの声は、じっと私たちの様子を窺っていた少年――ユコのもの。壁に凭れながら私たちの様子を見ていたらしく、その表情には呆れの色が浮かんでおりました。
「本当にそのままでいいの? もうじき目を覚ますよ」
目で指し示すのは、隅で気絶している魔に染まった者。
ユコの言葉は彼らの仲間とすれば妙に不釣り合いなものに聞こえます。ユコはいったい何を目的として動いているのでしょうか?
「魔に染まった者を捕えるには特殊な拘束具がいる。すぐに騎士団が持ってくるだろうが、それまで目を覚まさない事を願おう」
「それまでこのままにするの? 兄ちゃんも呑気だね」
アーク様が、魔に染まった者を警戒しながらユコに答えておりました。でも、アーク様の今の口調、敵に対するものには聞こえませんわよね……?
それに――――
私は、アーク様から離れるとユコに視線を向けました。
「なに、お姉ちゃん?」
先ほどユコは私の手を引いて魔に染まった者から引き離してくれた。そして、魔に染まった者を気絶させたのも―――おそらく。
「…なぜあなたは私を助けましたの? それに、あなた……ですわよね? この男を吹き飛ばしたのは……」
半ば確信を持った私の問いかけ。
ユコは困ったようにちらっとアーク様を見遣ると、私の問いには何も答えないままゆっくりと魔に染まった者へと近づいて行ったのです。
「油断したね、お頭」
何食わぬ顔をして魔に染まった者を見下ろし、どこか笑いを含んだ声で小さく問いかけるユコの口調は、とても仲間である魔に染まった者を案じる声には聞こえなくて…むしろ嘲るようにさえ聞こえます。
先ほどまでの行動と相まって、本当にユコは敵なのでしょうか? それとも、味方? その真意が測りかねます。
「…ん…ユコ…か?」
まさにその時です。
魔に染まった者が、ユコの声に揺り起こされたかのようにその巨体を動かしたのです!
「気がついたんだね、お頭!」
白々しい程に喜色を浮かべて魔に染まった者を支えるユコは、合図を送るかようにアーク様に目配せをしました。
それを受けてアーク様は、
「目を閉じて、イリアーナ嬢」
素早く私を片手で抱きしめ、大きな掌で私の目を塞いでこられたのです。
それと同時に、
「…やってくれるじゃねえか、兄さんよ。ただですむとは思っていないよなあ~」
魔に染まった者の怒りに満ちた声が聞こえてきたのです。
でもなぜなのでしょう? 先ほどまではあれほど恐ろしいと思っていた相手なのに、今はそれほど怖いとは思わないのです。
目を塞がれている所為なのでしょうか? それとも―――
そっとアーク様の腕に添える私の手に、アーク様は大丈夫、とでも言いたげに手を重ねてこられました。
アーク様が側にいるから?
「ただですむ、ねえ。まだ、吠える気概はあるみたいだな。さすがは『魔に染まった者』」
アーク様の嘲笑を含んだ声が聞こえます。
魔に染まった者を挑発して大丈夫なのでしょうか?
「ほざけ! ユコ、力を使え!」
「なんだ、貴様が相手をするのではないのか?」
「う…煩い! 何をしている、ユコ! さっさとやれ!」
「…やりたいのはやまやまなんだけど、残念。もう時間切れだ」
「ご苦労だったね、ユコ」
どこか笑い交じりのユコの声の後に聞こえたのは―――え?
聞き覚えのある声に思わず目を開ければ、
嘘……?
どうして貴方がそこにいるのですか?
―――魔法師様!!
そこには白銀の髪と漆黒の瞳を持つ魔法師様が、背後にまるで雪でも降らせているのではないかと言うほどの冷やかさを纏って『魔に染まった者』を見据えておりました。
☆
「任務完了です、お師様!」
嬉しそうに少年が抱き付くのは、魔法師様。
いったい、なにがどうなっているの?
「遊び過ぎだユコ。イリアーナ様、詳しい説明は後でいたします。今はその方に守られていなさい」
魔法師様は、挑むような視線でアーク様を見た後、ふわふわ浮いていた雷光を小さく分断させました。
特に何をしたという訳ではありません。指を軽く十字を切るように動かしただけで、雷光が小さな光の粒に変わっていたのです。
「なんだ、貴様! ユコ! てめえ、裏切ったのか!」
激昂を上げる魔に染まった者の怒りに呼応するかのように、神の力が男に纏わりつき始めます。それは、漆黒の煙が、渦を巻いて男を包んでいくようにも見えました。
神聖なる神の力なのに、どうしてこうも禍々しく感じるのでしょう? それに――
あの煙に触れたら危険、ですわね?
ただの直感でしかありませんが、あの黒い煙からは、暗く……重い―――まるで悪夢に支配された目覚めのない眠りに落ちてしまいそうな、そんな怖さを感じますわ。
「闇神、のお力ですか…嘆かわしい。かの御方の、清廉なる安らぎ満ちた眠りを齎すお力を、このような悪しきものに変じるなど、許せるものではありませんね」
闇神――夜の闇を支配し、そのお力は、深い眠りと安らぎを齎すもの、でしたわよね。
眠り……?
まさか―――!
「お気が付かれましたか、イリアーナ様? 貴女様が身に付けておられた魔法具は、かの神のお力を込めた法具だったのですよ」
愕然としました。
まさか、私をずっと守って下さった魔法具に込められた神の力が、目の前の魔に染まった者が具現する禍々しい力と同一なんて、信じられません!
「我が師グランも憤っておられます。神の嘆きを知らず悪しき力を奮う貴様を、私は決して許さない!」
「ほお、許さないならどうする神殿の飼い犬のお坊ちゃんよぉ? 貴様に俺が止められるのかぁ?」
「愚かしい……。その汚らしい口を閉じろ」
言うが早いか、魔法師様は掌の上でふわふわと浮いていた小さな雷光の粒のひとつを、問答無用とばかりに魔に染まった者にぶつけました!
次いで襲ったのは、目を開けていられない程の閃光。
「う…ウゲッ! なんだ、こ……」
魔に染まった者が発した声は途中で途切れ、光が弱まったころには、ピクリとも動かない巨体が床に転がっておりました。
「死んでるの? お師様?」
「命を奪うのは神殿の掟に反することですよ、ユコ。手加減はしましたので気絶しているだけです。ま、当分は目を覚まさないだろうから、後は騎士団に任せましょう」
これは…この雷光は、魔法師様のお力、だったのですか? それにしても、あまりにもあっけない終わり、でしたわね。
呆然と見入る私の耳に、妙にはしゃぐユコの声が遠くで聞こえます。
「やっぱりすごいですね、お師様! 僕もこんなふうに力を使えるようになるかな? 楽しみだな!」
「はしゃぎ過ぎです、ユコ」
「だって、本当にすごいんだもん!」
人懐っこい笑みを浮かべ魔法師様に抱き付くユコは―――え? お師様? って、ユコって、魔法師様の弟子? 嘘~~~!
もう、何が何やら分からない事ばかりです!
どうしてユコが魔法師様の弟子? いやいやそうじゃなくって、どうしてユコが私を攫うの? どうして敵のふりをしているの? というより、どうしてここに魔法師様がいらっしゃるのですか!?
「アーク様、外の奴らは全てとらえております。これから如何いたしましょう?」
事の展開に付いていけず呆然とする私の目に、アーク様のお仲間の一人が戻ってこられるのが映りました。
「直に騎士団が来る、引き渡せ」
「了解です」
そして、それから遅れる事僅かで、
「アーク様、連れてきましたよ! ってあれ? もう終わってる? あちゃ~、遅かったか」
どこか拍子抜けするような声を上げながら入ってくるのは、
「ランド、煩い!」
「ひどいなぁ~アーク様。あ、カイレムの妹ちゃん、お兄ちゃん連れて来たよ! っイテッ!」
にこやかに告げるランドさんがなぜか後頭部を抑えて蹲っておられます。
「誰がお兄ちゃんだ、誰が!」
「あ…二の兄上様!」
ランドさんの背後から顔を覗かせるのは、二の兄上様。そのすぐ側には、ゼンとルキトの姿も見えます。
みんな、来て下さったのですね!
ずっと探していただろうことはその姿で分かります。みなさん、雨にひどく濡れておられますもの。
それでも、私を助ける為に奔走して下さった事が嬉しくて、嬉しくて、駆け寄って抱き付きたいのに―――どうしてなのでしょう? 身体が思うよう動かないのです。
「イリアーナ?」
私の様子を訝しんだ二の兄上様が駆け寄ってこられます。
ゼンとルキトは兄上様がいらっしゃるからなのか、心配そうに私を見ておられますが、入口より中には入ってきませんでした。
「どうした? イリアーナ」
次第に強くなる足の震え。
「…イリアーナ嬢!」
立っていられなくて、縋る様にアーク様の服を掴むと、とたんに意識が遠のいて行きました。
「イリアーナ、しっかりしろ!」
二の兄上様の必死な声が聞こえます。強く抱き止める腕は、アーク様、なのでしょうか?
「キアノス殿、イリアーナは?」
「……眠りに落ちています。おそらくはカイレム様がいらっしゃったことで安心したのでしょう」
「大事は無いのか?」
「ええ…アーク殿。眠っているだけですので、しばらくはこのままで……」
貴方の腕に預けるのは大変不本意ですが、と続ける魔法師様の声にアーク様の腕に力がこもります。
「……お姉ちゃん、弱みを見せないようにって、すっごく頑張っていたんだよ」
「そうか……。イリアーナ、よく一人で頑張ったね」
二の兄上様なのでしょうか?
頭を優しくなでる手がとても心地いいです。
「もう君を傷付ける者はいない…安心して、ゆっくりお休み」
アーク様のやさしく囁くような声が耳元に届きます。
愛おしそうに頬を撫でる手のひらが―――どこか懐かしさを伴って私を眠りの淵に誘いました。
☆
「それで、黒幕は? ユコ」
「うん、メイグリム伯爵だよ、お師様」
――――メイグリム伯爵?
夢うつつで聞いたその名は―――――まさかのヒロインが引き取られるはずの家名でした。
ありがとうございました。




