檸檬
支離滅裂な小説が好きな方へ捧げます。
檸檬を見つめていたら、檸檬の貌が三椏渚男の顔になった。三椏渚男は私の恋人友永結衣をヴァレンタイン・デーの日に略奪して行ったかつての親友である。悔しいので齧り倒してやろうと大きな口を開けたら、「やめて!」と小さな声がした。
よく見ると私の手に持っていたのは、檸檬ではなく野球の硬球であった。そしていつの間にか左手にはグラブをしていた。周りを見回すとそこは甲子園球場で、私はマウンドの上に立っていた。キャッチャーが近寄ってきてこう言った。
「杉野、気にすることはない。俺のミットへ向かって思いっきり投げろ。お前の剛速球なら絶対打たれないさ」。
私は杉野なんて名前ではないと言おうとしたら、キャッチャーはマスクを被って戻ってしまった。塁はすべて走者で埋まっており、アウトカウントは2アウトだった。打者は阿部慎之助だった。私が高々と振りかぶって投げようとすると、「やめて!」と小さな声がした。
よく見ると私の手に持っていたのは、野球の硬球ではなく檸檬だった。私はすんでのところで投げるのを止めた。目の前のベッドに裸の女がいたから、「君は誰だ」と訊くと、女は応えずに私を一発殴った。そこはホテルの一室だった。刑事が入ってきて、私は手錠をかけられた。どうやら私は裸の女をレイプしてしまったらしい。檸檬を持ったまま私は連行された。ところが着いたところは寄席であって、刑事はどこへ行ったのか判らなかった。席に着くとおもむろに登場したのが立川談志であった。
私は談志の喋り出すのを待っていたが、彼は一向に口を開かない。そして懐からゴールデンバットを取り出して喫いはじめた。観客はそれを一心に見ている。私は手に汗をかきながら檸檬を握りしめていた。
隣で笑い声がするので見ると、それはあの三椏渚男と友永結衣であった。結衣は渚男に膝枕をして、彼の耳掃除をしている。そして「私、濡れやすいから」と卑猥なことを言いはじめたので、「やめろ!」と私は叫んだ。
するとそこは富士山の山頂であった。まだ四月だったので、凄まじい吹雪が吹き荒れていた。上空を戦時中の日本陸軍の一式攻撃機がロッキードP38の編隊に追われて逃げ惑っていた。「ああ、これは撃墜されるな」と思ったから、ひやひやしながら見守っていたが、助太刀をしようと、手に持っていた檸檬を投げようとすると、「やめて!」という声がした。
気がつくと、そこは日本家屋の奥座敷であった。私の前には結衣がいて、「お父さんを紹介するわ」と言った。けれどもそこに坐っていたのは、山本五十六だった。傍らには日本刀が置いてある。私は言った。
「結衣、私たちは別れたはずじゃ……」
すると結衣は言う。
「いいの。だって渚男のやつ、変態なんだもの」と、また卑猥なことを言い出しそうになるから、山本五十六に斬られやしないかと見ていたが、彼は黙ったままであった。それで私は一大決心をして言った。
「お父さん、お嬢さんを私にください」
だが、彼は私を見つめたまま応えない。私は目の前のお茶を啜った。
「私、ちょっと席を外すけれどいい?」と言って、結衣はどこかへ行ってしまい、奥座敷には、私と山本五十六の二人きりになった。
途方に暮れた末、「ほんとうに素晴らしいお嬢さんです」と、心にもないことを言ってみた。しかし、それでも返答がない。まったく話しかけてくれないばかりか、瞬き一つしない。私は思いきって、でたらめなことを言ってみようと思った。
「茄子の茶わん焼」。
普通の父親ならこんな場でおちゃらけたことを言ったら、激怒するのは当然である。私は祈るように思った。何か言ってください。
反応を辛抱強く待った。何分経っただろう。何か反応があるだろうと思ったが、まったくリアクションがない。それどころか身動ぎ一つしない。私は思いきって、「失礼」と断った上で、目の前で手をちらちらさせてみた。無礼討ちに斬られることを百も承知でやったのである。けれども反応がない。
いくらなんでもこれは変だと思ったから、近くに寄ってみると、彼はマダム・タッソーの臘人形であった。
「そんな馬鹿な」と叫ぶと、そこは檸檬の風呂の中であった。私は後ろから結衣を抱いて湯舟の中にいた。
「どうしてもわからないことがある」と、私は言った。
「何故私の身の周りには檸檬ばかりあるんだ」
結衣は応えなかった。応えずに私の手を自分の胸へ導いた。私が戸惑っていると、
「夫婦なんだもの、いいの」と言った。
何だって? 私と結衣はいつから夫婦になったのだろう。
うとうとして気がつくと、そこは信州上田城だった。大手門の前で私は火縄銃を持っていた。しかし、弾の込め方も撃ち方もわからない。途方に暮れていると、大手門は閉ざされていたが、徳川の第一陣が城門前に迫ってくる物音がした。そう思うや否や、いきなり城門が開いた。私は他の鉄砲隊にまぎれて銃を構えるふりをした。鉄砲隊の銃が一斉に火を噴いた。私は銃を構えてはいたが、実のところ怖くてたまらなかった。
「ばかもん、撃て。撃て。撃ちまくれ。何をやっとる」
そこにいたのは真田昌幸であった。銃を撃とうとしない私を昌幸は軍配で殴った。
すると私は土俵の上にいた。仕切り線に手をつくと、行司の軍配が返った。
「はっけよい、のこった、のこった」
場内から「雷電!」の掛け声が起こった。対戦相手が雷電なのだろうか。それにしては小さいが。そう思って私が試しに鉄砲の諸手突きを試みると、相手力士はこの一撃で簡単に土俵の外へ吹っ飛んだ。場内は大歓声に包まれた。勝ち名乗りを受けたが、「雷電!」という行事の声に、
「違う! 私は雷電じゃない」と叫ぶと、そこは日比谷公会堂の壇上だった。舞台わきに「日本社会党委員長浅沼稲次郎」の文字をちらっと見たような気がした。
「では浅沼さん、お願いいたします」と司会に促された。会場は満席であった。
だが、私は何をしゃべればいいのか判らなかった。
「あの、演題は何ですか」
司会はそれを聞くと狐につままれたような顔になった。
「えっ、ご存じないのですか」
私は途方に暮れた。私が浅沼稲次郎だとしたら、あと数分で右翼の青年に刺殺されるはずだ。
開口一番、私はこう言った。
「右翼は怖いです」
場内から「浅沼さん、どうした」の声がかかった。
「私はまだ死にたくないです」
そう言うや否や、会場は騒然となった。
「浅沼ーっ、怖気づいたか」
「ひっこめーっ」
「腰抜けーっ」という罵声が飛び交った。
私はやけくそになって叫び返した。
「うるせーっ、私は政治なんか大っ嫌いだーっ」
すると、私は結衣と鹿児島の海岸にいた。夫婦だと思っていたのは間違いで、結局私たちは間もなく結婚することになったらしい。結婚式の日取りを決めたり、披露宴の宴会場の予約をしたり、二人で相談したのち、息抜きにドライブしようと車を飛ばしてここに来たのだった。海は眩しく、そして凪いでいた。結衣の表情は輝いていて、いつになくきれいだった。波打ち際で遊んだ。浜辺を駈けたりもした。そうして遊び疲れた私たちは、波打ち際から少し離れた松のところで、静かに語りあった。結衣はとても優しかった。
覚えていたのはそこまでだった。私たちは船の一室に閉じこめられていた。両手両足を縛られ、猿ぐつわをされていた。部屋の外でハングルの言葉らしき声がした。あとはまったくわからない。猿ぐつわを解かれると、目の前のコップの水を飲むよう強要され、それを飲むと急に眠くなった。
もうどこからも「やめて!」という声はしなかった。気がつくと私は両手に闇米をぶら下げて歩いていた。その先の石造りの巨大な建物に県庁のお役人が並んで出迎えてくれた。
「奈良先生、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」。
私は地元の産業の発展に貢献している実力者であった。慈善事業をしているのではない。私は表向きの肩書が建設会社の社長、影で「首領」と呼ばれていたが、この影の商売、黙っていても金が唸るほど這入ってくるのだ。
私はこの町に別邸を持ち結衣を囲っていた。邸でひと風呂浴び、縁側に足の爪を切っていると、結衣は傍らで林檎を剝いてくれる。
「今夜は泊っていって下さるの?」
「ああ」
庭の金木犀が香っている。町の外れに近い邸で、柴犬の愛犬を連れて、散歩がてらしばらく南へ歩くと松原の向うに海が見えてくる。海は気持ちがいい。まるで檸檬の匂いを嗅いでいるように清々しい。
散歩から帰ると、朝日をくゆらせながら、新聞を読む。膝に猫が乗ってくるから、撫でてやると、結衣が這入ってきて、
「あなた、今夜は何になさいます」
「そうさな、牛鍋にしてくれ」
「かしこまりました」
巷では闇米を食べなかった裁判所判事の餓死が話題になっていたが、私には闇米は権力の道具である。判事は気の毒だが私の知ったことではない。
玄関に人の気配がした。
「ごめんください。奈良玄昭氏は御在宅か」
「あなた、お客様です」
「ふむ、どなたかね」
私が行ってみると、ハンチング帽を被った男が立っていた。
「あなたが奈良氏か」
「いかにも」
「おのれ、市民の敵!」
男は匕首を抜いて飛びかかってきた。
「やめて!」
結衣が叫んだが、時すでに遅かった。私は声もなくその場に倒れ込んだ。夥しい血が玄関の上がり端から三和土へ滴りおちた。男は匕首を三和土に取り落とすと、音もなく立ち去った。
「結衣……、あ、れは、三椏の手の者か」
三椏渚男は対立する派閥の黒幕で、県西部の闇市を取り仕切っていた。血の気の多いチンピラどもを使って、裏で汚いことをやっているともっぱらの評判であった。おのれ、三椏め、謀りおったな。
「あなた、あなた。誰か、誰か来て!」
遠くなってゆく意識の中で、私は真田信繁の手勢に加わり家康の本陣へ斬り込んでいた。もう少しのところで、家康を手にかけるところであったが、背後から数発の銃声がして、私は足許から崩れ落ちるように力尽きたのだった。信繁殿、後を頼む。そして私の視界から光が消えていった。かすかに檸檬の香りが辺りに漂っているのがわかったが、それは結衣の湯上がりの匂いに似ていた。