表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ニンファの涙  作者: 文月
であいの形
6/6

 翌日、午前中どうしても菓子を作る気分にはなれなくて、店は休みにしてしまった。

 昨夜ふいに人垣のすき間から見えた巨大な塊。あれは間違いなく餓狼の死骸だった。それが目に焼き付いてしまって離れない。ずっと脳裏にチラついて夜も眠りが浅く、何度も目が覚めてしまった。

 昨晩、あのあと両親から電話がかかってきたけれど、それはモミジが出てくれた。妹は餓狼の状態を、運良く見ていなかったそうだ。

 モミジが言うには、両親は午前中は実家を離れられないので、午後になる頃に母がすぐにこちらへ来てくれるらしかった。そういえば、役所に被害情報が届くと、被害者宅とその周辺には電話があるはずだ。十八歳以下が別居している場合、親の元にも連絡が行く。大抵は午前に行われるから、多分それだろう。今朝にも役所からの電話に妹がきちんと応答してくれていた。今回はわたしたちに被害はなかったけれど、餓狼がここまで来たということもあって役所まで連絡がいったようだった。

「お母さん来たらさ、ダリアさんたちのところにお見舞い行こうよ。姉さん、無理だったら最悪あたしだけでも行ってくるけど……」

 どうする、と妹に聞かれ、わたしは布団のなかで頷く。

「行く」

「ほんと? 大丈夫?」

「……行かないわけにも行かないでしょお」

「それもそうだけどさぁ」

 恩があるというのに、行かないわけには……。本音はもう少し気分を落ち着かせることに集中したいけど、それじゃいけない。そう思って、重たい体を叱咤して起こした。

「気分は?」

「少しだけ良くなった」

「……ミルクティー淹れてくるね。顔色悪いよ」

 そう言って、モミジはリビングへと走って行く。妹の指摘に、ドレッサーの鏡を覗き込むと確かに気色が悪いような気がした。かすかに息を吐いて、それから窓を開けていないことに気が付いた。薄手のカーテンは閉めたままに、窓だけ開放して新鮮な空気を吸う。それから身支度を整えている間にモミジがホットミルクティーを運んできてくれたので、ありがたくいただくことにした。

 ほっと息を吐いたところで、階下から裏口の扉を開閉する音がした。自分たちの名を呼ぶ声に母が来たのだと知って、時計を見ると十一時半を迎えようとしていた。階段を駆け上がる音に寝室から出て行くと、赤毛を乱し母が姿を現した。

「カエデ、モミジ! 遅くなってごめんねえ。昨日は怖かったでしょう」

 眉尻を下げる母親の姿。電話越しじゃなく、久々にちゃんと聞いた親の声。落ち着きのある、優しいそれ。母は慰めるように肩をさすってくれた。それでようやく安心できた気がして、涙腺が緩んだ。そうしたら、お母さんは頭をなでてくれた。

「……モミジがね、姉さんが気分悪くなっちゃったんだって、電話で教えてくれたのよ。ろくにご飯も食べてないっていうから、甘いものなら食べられるんじゃないかと思って、お母さん二人にお菓子持ってきたの。食べてくれる?」

 目尻を乱暴に擦って、妹と一緒に頷いた。

「モミジもありがとう、カエデの分まで頑張ってくれたんでしょう。偉かったね」

「んーん、いいの。あたしは大したことしてないよ」

 妹に手を引かれ、母と三人でリビングへ向かう。さっきまで使っていたマグカップは、モミジが運んでくれた。


 両親が作ってくれたケーキを紅茶と一緒にいただいて一息吐いたところで、三人で病院へ向かった。

 受付の女性に聞いた病室へ行くと、確かに昨日出会った三人の傭兵がベッドの上で休んでいた。清潔な白い部屋、病院特有の匂いが漂う空間。奥には窓が組み込まれていた。一部が開放されているから、新鮮な空気が満ちていた。部屋には六人分のベッドが置かれており、その半分が使用されている。狐の獣人に、ローズピンクの髪の女性。それから、紺色の髪の男のひとだ。三人とも半身は起こしているあたり、寝ていなくてもいいらしかった。カーテンも開けられているから、部屋には昼過ぎの光が差し込んでいた。わたしたちの来訪に、ダリアさんとライラプスさんは顔を綻ばせる。

「おー、見舞いに来てくれたのかあ」

「ありがとうございます」

 いえ、とごく短く首を振る。「こちらこそ、助けてくれて、ありがとうございます」

 二人の反応に、もう一人の傭兵——ヨタカ、って呼ばれてたっけ。彼がきょとんとした表情を浮かべた。ライラプスさんが「昨日話した子たちですよ。ほら、……お菓子の……」と説明すると、彼は納得してみせた。それから、自身をヨタカと名乗った。

「わざわざ足を運んでくれたのか。ありがとう」

 その言葉に軽く笑い返して、ダリアさんが廊下側のベッドにいたこともあって、彼女のベッドの脇に近付いた。それから三人の傭兵には母を、母には三人をそれぞれを紹介する。と、母がお辞儀をした。

「初めまして、わたし、この子たちの母でツツジと申します。この度は街を守ってくださって、本当にありがとうございます」

 それに、ダリアさんの隣のライラプスさんがやんわりと返す。

「誰かが困っていれば助けるのがワクシたちの役目です。どうぞ、お気になさらず」

「あたしたちも、昨日仲間をここへ連れてくるのに手助けしてもらいましたから。お互い様です」

 母は二人の言葉にもう一度礼を返して調子を問うと、ダリアさんとライラプスさんは軽傷で済んだので、夕方には退院できるのだという。そもそも入院をしていたのは大きな怪我を負っていたからではなく、検査をしていたことが理由なのだそうだ。一方でヨタカさんは見た目ほどの大怪我ではないものの、中等傷を負ったため五日の入院を要するらしい。特に足首の捻挫が酷く、一人での歩行が困難なのだとヨタカさんは言った。

「そういえば……」

 ダリアさんが椅子を勧めてくれたので、一言断ってから腰を下ろす。と、ヨタカさんが、ふと思いついたように口を開いた。その時にやっと彼の目をしっかりと見返して、思わず息を呑んだ。さっきちらと視線を向けた時は綺麗な目のひとだなとわずかに思っただけだったけれど、彼はまるで宝石のような瞳の色をしていた。いつか本で見た——そう、パライバ・トルマリンのような。ダリアさんの、突き抜ける空を映したかのようなライトブルーの色の瞳とは対照的に、澄んだ美しい湖の水底を見るみたいだ。淀みのない、真っ直ぐな瞳のひとだと思った。

「昨日、ダリアたちがあんたたちのところで買った菓子が美味うまいって話してたな。俺は食えなかったけど」

「……えっ」

 不満そうにも語ったその姿がなんだか子どものようで、ちょっとおかしかった。と同時に、思いがけず聞けた感想。丹精込めて作ったものを褒めてもらえて、じんわりと胸に暖かいものが広がっていく。……“美味おいしい”って! 良かったわねえ、と顔を綻ばせる母に頷く。

「ありがとうございます、嬉しい……」

 多分締まりのないものだとは思うけど、それでも笑みは消せなかった。

「ダリアは大食いでさ。男向けに作った料理でも二人前は平気で食うな。聞いた話じゃ菓子も当然のように一番食ってたらしいぞ」

「……こんな細いのに?」

「お前すぐいらんこと言うよな」

 思わず聞き返したモミジの前で、ダリアさんが正面にいるヨタカさんへ顔をしかめて見せた。一方で、ライラプスさんが呆れた風にため息混じりに発する。

「アナタが言えたことではないと思いますよ……。——彼女、平均的な量しか食べないように見えるでしょう。でも、気がつくと何かしら食してるんですよ」

「まー、色気はないってよく言われるけどな」

「へえ……」

「でも、たくさん食べられるって羨ましいです」

 ダリアさんは女のわたしから見ても痩せている。服越しに見た姿も、全身が引き締まっているのがわかった。筋肉質なのも、たくさんの栄養も、仕事の性質上どうしても必要と納得できるけれど、そんなに食べるようには外見からはとても見えなかった。

 ダリアさんが母へ視線へ向けて軽く笑う。

「カエデたちの売るお菓子、バターの風味も甘さも香りも、バランスが良くて美味しかったです」

 師は、と問いかけた彼女に、母は「私と夫なんです」と恥ずかしそうにした。「師と呼べるほどのものではありませんよ」

「いえ……あれだけ美味しい味を出せるんですから、ツツジさんたちが美味しいものを作ってきた証拠だと思いますよ。きっと、きちんと教えてきたんでしょう」

「ええ……まあ、料理も菓子も、せっかく多様な食材があって、調味料も風味もいろんな種類がありますから。悪い意味の適当でなく、いい意味で適当な印象を持ってほしかったんです」

 過去を振り返るように少し遠い目をした。……そういえば前にも、一口に食材といっても、多種多様な種類があって楽しいと話してくれたことを思い出した。色も味も香りも、一つだけじゃないと。

「いいご両親をもったな」

 そうわたしたちに語りかけたダリアさんに思わずはにかむ。菓子を褒められて、両親を良く言ってもらえるのは素直に嬉しかった。

 ふとモミジが閃いたように「あっ」ともらして、わたしに耳打ちをした。——“ねえ、あとでダリアさんたちにも贈らない? ヨタカさんには、今度退院した時に”。

 妹の提案に頷くと、モミジは嬉しそうにして傭兵の三人を見返した。

「あの、良かったらヨタカさんが退院したらお菓子を贈らせてください。ダリアさんたちは、あとでもし時間があるようでしたらもう一度うちへ来ませんか」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ