5
餓狼は、夜行性。夕方ごろから活発になる。ダリアさんたちの教えもあって、普段よりも二時間半早い午後三時半に店じまいをした。店のドアには、一応事情を書き留めた貼り紙をしておいた。掃除やら何やらをしているうちに夜を迎えた。
時計が六時を示した頃には街の門はきっちりと閉ざされた。それからさらに一時間経とうとする頃、街はしんと静まり返っていた。音が消え去ったようで別世界に迷い込んだ気分になるけれど、時折外からひそかな話し声や足音が聞こえてきて、それで感覚が現実に引き戻される。ふとした時、ダリアさんたちが戻ってきたんじゃないかと思えて、つい耳を傾ける。あるいは、巨大な獣が疾走してきたんじゃないか。高い塀があっても、傭兵が餓狼の討伐にきていると知っていても、根底の恐怖心は消し去れない。知らぬうちに街に入り込んできてるのでは? もしも門を蹴破って侵入してきたら? たとえば塀に脆くなった場所があって、もしそこを壊されたら? そんな疑心暗鬼が心中に湧いて出てきて恐ろしくなってしまう。
リビングの椅子に座り、窓からのぞく夜空を見て、昼間出会った傭兵の二人の姿を思い浮かべる。ダリアさんたちはもう餓狼討伐を始めているのだろうか。それとも、とっくに終わってる? 大丈夫かな、怪我はしてないかな。昼間見た、あのうっすらと残った傷痕。一瞬の判断が生死を分けたことも多かったはずだ。わずかに開けた窓から冷たい夜風が入り込む。
——彼らは、仲間の死を目の当たりにした経験もあるのかもしれない。そんな想像をして、ぞっとした。
安否を心配していると、外からは足音が聞こえてきた。慌ただしく走る音だ。不安がよぎって、わずかに腰を上げた。耳をそばだてる。よくよく注意して聞いてみれば、石畳を靴で走り回る音とは別の音がある。犬が走る時のそれとよく似ていて、爪が石畳を叩く乾いた音がした。けれど、その足が石畳に触れた瞬間のそれは、犬よりもずっと重いものだ。その正体が一体なんなのか直感して、さっと血の気が引いた。体が強張る。静寂のなかに響く獣特有の息遣い。荒く、それでいてくぐもっていて、ちょっと湿ったような音だ。それが、すぐそばまで。
——入り込んできた。街まで。口のなかで、酸っぱいような、変な味がした。じゃあ、ダリアさんとライラプスさんは? 他に被害は? もし、近所やここに侵入してきたら? 両親は無事……?
恐怖心で震えた。信じがたい気配に悲鳴は出なかったが、思わずリビングを飛び出した。瞬間、廊下でモミジと鉢合わせする。思わずすがるように妹の手を握った。
「ね、姉さん……、外……っ!」
ぎゅっと手を握り返した妹も震えていた。大丈夫なのかな、と呟いた瞬間、大きな音が一帯に響き渡って、反射的に短い悲鳴をあげた。ひどく近い。考えずとも、この家のすぐ脇だと直感した。なにか重いものが倒れ、刹那に遅れて軽いものが落ちて転がっていく音だった。あれは多分、ゴミ箱だ。生ゴミを入れたそれが倒れたのだ。
息を殺して、体を縮こまらせる。それでなにが変わるわけでもないけれど、そうしていなければならないような気分になった。動いてはいけない。これ以上声を出してはいけない。そんな気がした。
外から聞こえる、地の底から湧き上がってきたような狼の唸り声、男と双方の荒い息遣いや短い悲鳴。体が壁に打ち付けられる音に、物を踏む音、空気を切り裂く音。実際の戦況を見られないだけに、どちらが優勢なのか把握できないから余計に恐ろしい。
どれほどの時間が経ったかは分からない。十分にも満たなかったのか、あるいは倍以上かかったのか。いずれにせよ、しばらく争ったあとに、最後に悲鳴にも似た、犬のような甲高い鳴き声がした。刹那の間を置いてどっという何か重いものが落ちる音がして、あたりは再び静寂に満ちた。緊張や恐怖から重い空気が溢れて、息苦しい。一帯は様子をうかがっているかのような空気感で、今度こそ時間が止まったかのようだった。
「……どうなったの? 倒したの?」
我知らず座り込んでいたことに気がついて、モミジと繋いでいた手を離し腰をあげる。引き止めるように妹がわたしの服の裾を引っ張ったけど、気をつけるからと声をひそめて言った。そろそろと足を忍ばせて、廊下の突き当たりにある窓に近づく。二階だから、窓を開けない限り、脇道の様子はうかがえない。それでもなにか分からないだろうかと壁に背中を預け外を見るが、隣家の壁が一面に広がるばかり、影が映るわけでもなく、もうなんの音も聞こえてこない。本当に争いがあったのか疑問に思えてしまうほどに、なんの気配も感じられなかった。
「……どう、姉さん」
恐る恐る、わずかに屈むような姿勢で近づいてきた妹。しゃがみ込んで、「分かんない」とだけ答えると、モミジは眉尻を下げた。そうしているうち、外からは密かに話し声が聞こえてきた。どうやら、わたしたちと同じように状況を危惧していたひとたちが、様子を見にきたらしかった。
「餓狼だ! 死んでるぞ!」
誰か野太い声のひとが叫んで、おおっという歓声があがる。つられてわたしたちも安心してモミジと顔を見合わせると、ほんの少しだけ、緊張が解けたのが自分でも分かった。と次の瞬間、続いて男のひとの焦った声を発した。
「あ、お……おいっ。あんちゃん大丈夫か!? おい!」
「——ヨタカ!」
男性の声からあまり時間を置かずざわめきの中であがった、一際よく通る低めの声にハッとする。張りのある、凛とした若い女のひとのそれは、間違いなくダリアさんのものだった。続いて、呆れたように愚痴っている声が聞こえる。「ああ、もう。また無茶しやがって……。大丈夫、命に別状なさそうだよ。おじさん、気遣いありがとう」
——ああ、良かった。ダリアさんは無事だった。戦ってくれたひとも、生きてはいる。思わず安堵の息をもらす。
ダリアさんの様子に警戒心がなく戦闘態勢にも入っていないと判断して、わたしはモミジと一緒に階段を駆け下りる。店の勝手口をそっと開けると、すぐ目の前に人だかりがあった。少し首をひねると、右手の街灯のすぐ下、光のなかに見覚えのあるピンクを見つける。隣家の壁に向かってしゃがみ込んでいた。昼間と違い、髪は後ろで一つにまとめられていたが、あの後ろ姿は間違いなくダリアさんだ。黒い服に、筋肉のついた肩や腕。腕には赤い線が引かれ、傷を負っているのだと分かった。彼女の影にはわずかにひとのシルエットが見えて、それが先ほどまで戦っていた傭兵なのだろうと推測する。
ふいに、左手からダリアさんに人影が近づいた。獣特有の顔立ち、ふかふかとした薄い茶褐色の尾っぽ。しかし人間のように衣服をまとい、同じ言葉を使用し、二足歩行する種族。ライラプスさんだ! 無事だったんだ。ダリアさんに何か伝え、それから視線に気がついたか、彼が先にこちらへ顔を向けた。ライラプスさんがダリアさんに声をかけると、何か作業していたダリアさんが振り返った。ライラプスさんと二人の視線がぶつかる。
「カエデ! モミジも。良かった、怪我人がいるんだ。討伐も終わったから、電話貸してくれるか」
ダリアさんの言葉に頷くと、まるで前もって役割を決めていたかのようにライラプスさんが駆け寄ってきた。「ありがとう。失礼します」と口早に言って、わずかに会釈をすると横切っていく。一拍遅れて彼を追うようにして流れた空気の匂いに、わたしは顔を強張らせる。背後に控えていたモミジが「案内します」と彼を引き連れて行った。多分、妹はまだすぐには気付かないだろうと思った。
彼のまとう空気には、血の匂いが混じっていた。あの、特有な鉄の。声だけでも恐ろしかった魔物と、彼もまた戦ってきたんだ。常に死と隣り合わせ。
嫌な思考を振り払うように頭を振る。ドアを閉めてダリアさんのもとへ寄ると、彼女の目の前には壁にもたれかかり、荒い呼吸をする男のひとの姿があった。思っていたよりもずっと若い。十七か、十八か。ロメリアさんとさほど年は離れていないように見えた。胸や肩などに当てていたらしい鎧は外され、脇に置かれている。あらわになった衣服は血まみれで、あらゆる部分に破れがあった。覗く肌の傷が痛々しい。
ダリアさんは慣れた手つきで傷の手当てをしていた。開いたウエストポーチからは応急処置に使うらしい医療品と、折りたたみ式の武器が収納されていて、必要な物が必要な分だけあるのだと判断できた。腰には昼間も差していた剣を装備していたから、折りたたみ式の武器は予備なのだろうと思う。
「……あの、何かお手伝いできませんか……?」
何もできないのは分かっていたけれど、ただ立っているだけなのも落ち着かなくて、ダリアさんに問いかけた。彼女はちょっと考える素振りを見せてから、手を止めずに「髪、直してくれるか? ヘアゴムが外れそうで邪魔なんだ。簡単にまとめてくれると助かる」
「は、はい! もしキツかったりしたら言ってくださいね、わたし、髪はあまり縛ったことないので多分上手くは……」
ダリアさんの斜め後ろに膝をつく。そういえば、覚えている限りでは一年ほど前にモミジの髪をいじって、それきりだ。
「へえ、意外だな。モミジがよく頼んでそうだけど」
「むしろ苦手なんです……。わたしがやると、下手だしキツいから嫌だって言われちゃうんです。だから、いまだに加減がいまいちよく分からなくて。髪をいじるのは、妹のほうが得意なんです」
「はは。じゃ、人選間違えたかな」
「そ、そんなこと言わないでくださいっ、わたしだってその気になればいい感じのまとめ方が……っ」
「なんだそりゃ」
ダリアさんの髪をまとめながらそんなやりとりをする。彼女の髪質は思いの外柔らかく、やはり女性なのだと思い知らされた。筋肉質でも、言葉遣いが男性のようでも、女性であることに変わりはない。
ふいにライラプスさんが左のほう——大通りのほうから姿を見せたのを思い出して、視線をずらす。倒れたゴミ箱の向こう、そこに人垣ができてその半数ほどがこちらに背を向けていた。視線が下がったこともあり、ひとの行き交う足ばかりでその向こうの風景はちらついてよく見えない。しかしふと、すき間から覗いた塊。嫌な予感がしてすぐに目をそらしたが、胸がざわついた。
「……被害はどれくらいでしたか」
街に餓狼が入ってきたということは、少なからず被害があったということ。怖いけれど、ちゃんと知っておきたいとも思う。少しの沈黙のあと、ダリアさんは答えた。
「塀を補強してある場所、あらかじめ聞いておいたんだけどな。脆いところ、崩れてるところ……全部は把握できてなかったみたいだ。一匹逃げて、何人か怪我を」
「怪我……、それだけで済んだんですか?」
「嘘はつかない主義なんだ」
思いがけず突っぱねるような、苛立ちを含んだ物言いに、思わず黙り込んだところで、妹と狐の傭兵さんが戻ってきた。いくらか言葉を交わして十五分ほど待ったころ、医療具を持った医者とその助手によって、疲弊しきっていた青年は救急馬車に乗せられた。
怪我人ということで、ダリアさんもライラプスさんも搬送された。去り際ダリアさんは一度振り返って、「電話、ありがとな。髪結うの、上手くなっといてくれよ」
餓狼の駆除は終わった。けれど、大怪我をしたひとが出てしまった。
離れていく馬車を、妹と二人で呆然と見送った。