恩人装置
警告ほどではないのですが、いささか忍びないので、若干の残酷な描写あり。と、ここに記しておきます。
「これは、恩人装置です」
◆◆◆
世の中は理不尽だ、とは思った。けれども強固な絶望を伴ってそう思ったわけではない。
確かに、世の中は理不尽でないと言い張るには難しい。不条理が歩いて交差点を行き交い、私たち人間は衝突を避けることで手一杯だ。謂われも無いのに疎まれ恨まれ、果ては親切をしたのに憎まれ口を叩かれる。
「アリガタメ-ワク」だとか、「ヨケーナコト」、だとか。
非を認めたくない誇り高き強がり現代人達は、口々にそんなことを言って虚勢を張る。
どうかしていると思う。
しかし、思うだけでそれを現代批判として吹聴したいわけではないし、そもそも夕飯時になればその時の店屋物に上書きされるような、頼りない意思に過ぎない。
気まぐれに悲観的な感情を抱くことは珍しくないだろう。取り分け私は3Bの鉛筆より芯の脆い男で、これといったポリシーやプライドは持ち合わせていなかった。従って戯れ言的にネガティブに陥る時があるのも、平々凡々たる私みたいな人間なら無理からぬ話だ。
「そこの男の方」
背後から女性らしき声が聞こえた。
いつもならこういう呼び掛けには聞こえなかったふりでもして面倒事を避けている。なんせ場面は街中、どこに悪徳商法で金を巻き上げてくる輩がいるとも分からない。疑り深いことに越したことはないだろう。
しかし思案に耽っていたからか、不意の呼び掛けに、反射的に「んっ」と振り返ってしまった。
「見たところ世の中に不満をお持ちのようですね、心中お察しします」
見れば落ち着いた服を華麗に着こなす、華奢で背の低い女性が同情するような目で私の顔を下から覗き込んでいた。
「人の心は酷く荒んでしまいました。昔は江戸しぐさなんかが常識的に行われていましたのに、今では見る影もない。嘆かわしい話です、全くもって嘆かわしいです」
「……はあ」
彼女は服装から見れる大人びた様相とは裏腹に調子が良さそうな口調で唐突に話題を展開してきた。私があからさまに怪訝そうな表情を呈しても彼女は話を一向にやめようとしない。
「貴方なら共感してくださるはず。私には分かります。同族の人間にはめっぽう敏感なのです。貴方は今まさに世の理不尽を嘆いていますね」
私が口を挟もうとしても、彼女はその余地すら与えることもなく、その後しばらく「現代人のこういうところが云々」「このままでは社会が云々」「そもそも人間同士が共存するためには云々」といった話を延々と聞かされた。
私はその話を適当に聞き流していた。というのも、私は始終、状況の把握に余念がなかったからだ。彼女が何者で、何を感じて私に声をかけ、何を意図して話をしているのかが、私には皆目分からなかった。キャッチセールスの類だと疑って然るべきなのだろうけれど、どうも彼女から悪意が感じられないのが不自然に思う。
私がそう考えをよぎらせている間も、彼女は何やら一人で盛り上がったり盛り下がったりしながら怒涛の私論を列挙させていたが、やがて一段落したようで、嘆息してから私に一歩近寄って手を差し出した。
「どうですか、ご一緒に」
「いや、あの、どういう」
「これをご覧ください」
「取り付く島は流されたか……」
彼女の手の平にちょこんと乗っかっていたのは、親指の爪より少し大きいくらいの、小ぢんまりしたスイッチらしきものだった。相も変わらず私がしかめっ面で首を傾げていると、彼女は鷹のような、視認出来ない程の素早さでもう一方の手を使い、私の腕を力強く掴んだ。
「さあ、一緒に愛されましょう!」
返答することは出来なかった。答えようとした直前にカチリ、と軽快な音が鳴ったからだ。手元のスイッチは凹んでいた。
「……よし」
「よし、じゃないですよ」
遊び仲間が増えたことを喜ぶ子どものように嬉々として喜ぶ彼女を制して、私は怪訝だった顔を少し厳つくすると、そこでようやく彼女は「はい?」と聞き耳を立ててくれた。
「半ば、というか、ほぼ完全に強引な交渉が成された気が、というか、全体的に君の行動は不可解極まりない、というか」
「まとめてから訊いてくださいよ」
「……まあ、とにかく」私は人差し指で彼女を捉えた。「あなた誰です?」
「名乗るのも憚られる、ただのしがない銀行員です」
「……では、その謎めいたスイッチは?」
私が腑に落ちない思いのまま、人差し指を彼女の手の平までスライドさせて訊くと、彼女は何となく自慢気に鼻を鳴らした。
「これは、恩人装置です」
「……はぁ」
そう訝しげに相槌を打つのが私の精一杯だった。
◆◆◆
彼女には言葉では伝えられないくらいに感謝している。
すれ違う人に道を譲ればキリスト様だと見紛われ、会社で期日より若干早く書類を提出しただけで上司の手回しで給料が跳ね上がり、スーパーで端数の釣り銭が出ないように支払えば逆に店員さんが全額要りませんと断固拒否してきた。果ては風邪気味の友人に心配の旨を揶揄しながら書き並べたメールを送っただけで、完治した後すぐに金一封を返してきた。
『恩人装置』とは、つまりそういうものらしかった。
あのスイッチを押した者が、その先の如何に小さい『恩』を売っても、相手はまるで命を助けられたかのような感謝の念を抱くという。
つまり、些細な恩をも最大級の恩にまで増幅させるスイッチだったらしい。
そのような胡散臭い説明を受けた当初は、もちろん疑って信じなかった。あまりにも非現実的である上に信憑性は皆無、社会に生きる身として当たり前のスタンスだったといえる。
しかしどうだろう、現状を見返してみれば、まさに彼女の言う通りだ。もはや疑う余地は無い。
彼女と恩人装置を包む謎は未だに分からない。けれどもそれらの謎を解明しようという気もない。
私を無償で幸福の園へ招いてくれた彼女の素性を、どうしてまだ探る必要があるだろう。無礼極まる愚行を彼女に犯すわけにはいかない。
彼女は私を幸せにしてくれた。知るべきことはそれだけで構わない。そして私は彼女に果てしない感謝を抱いている。この恩を返す使命だけを胸に、私は楽園となった日常を反芻していた。
「どうにか、また彼女に会えないのか」
そればかり考えていた。出会った時に彼女は何か手掛かりとなるような情報を漏らしていたような気がするのだけれど、スイッチの話の印象が強すぎて、その手前の話はほとんど覚えていないのだった。
◆◆◆
最寄りの銀行が移設準備のためにシャッターが降りていたので、私は仕方なく、少し距離の離れた銀行へ行った。誰から貰ったのかもう覚えていないけれど、恩返しとして貰ったスタイリッシュな自転車に乗って漕ぎだす。性能の良い自転車は、そのまま飛翔してしまいそうなほど軽快にスピードを上げて、すぐ目的地に着いてしまった。あの爽快感をもう少し楽しんでいたかった、と惜しんでから自転車を駐輪場に止め、銀行の不透明な自動ドアの前に立つ。
私が銀行内へ足を踏み入れると、途端に周りを喧騒が包んだ。何事かとすぐさま辺りを見渡すと、店内にいる人々は皆一様に両手を挙げて万歳の形を取っているのだった。
その中に一人だけ例外的に手を挙げていない男がいた。マスクにサングラス、黒いハンチングを被りその表情は窺い知れない。革の手袋を嵌めた右手には柄の長い小型のナイフが構えられていて、左手では女性を一人、首を絞めるように抱きかかえている。
銀行強盗だ、と一見して予想がついた。
最近の境遇から、このような不運には無縁になったものだと安心しきっていたけれど、得てして神は人に平等なのだろう。今までのツケかと現在の不遇を心の中で嘆いた。
「動くなよ、お前」
強盗もこちらに気づいたようで、般若のような剣幕を呈して、私にナイフを向けた。
思わず狼狽え、周りに合わせるように両手を挙げた。入ってきたばかりなので入口はすぐ後ろにある。踵を返せば脱出することも可能だったが、私はそれをしなかった。
人質に取られている女性が、件の彼女だということに気づいたのだ。
醸し出す大人びた雰囲気とは裏腹に無邪気な振る舞い、そして小さな体躯。それだけが記憶に残る彼女への印象だったが、それとは全く関係なく、目前に現れた女性を見て想起させたのは、紛れもなくあの日の彼女だった。私は彼女が銀行員を名乗っていたことも、子どものように無垢な喋り口調も同時に思い出した。
彼女は静かに嗚咽を漏らしながら私を虚ろに潤んだ目で私を見た。
彼女は私を視界に捉えて少し驚いたようだった。
そしてその後、なんとなく、安堵したように顔をほころばした。しかし大きな身動きを取ることも、満足に喋ることも許されない状況のようで、すぐに苦悶の表情に切り替えた。
すぐに彼女の口が動いた。「助けて」と。
それは「言った」と言い表すにはあまりにも微弱で、私の耳に届くことはなかった。けれど、言ったのだろう。
そう思った時にはもう、私は、反射的に、銀行強盗へと。
自転車よりも早かったかもしれない速度で銀行強盗の懐に入り込んでいた。
◆◆◆
日々を自分のために有用することで精一杯な私のこと、いつもなら事なかれ主義に徹し、目を瞑って身を翻したことだろう。目があった銀行強盗には一瞥も与えず踵を返し、半ば反射的に脱出。聞こえてくる叫喚には耳を傾けず、せいぜい帰りの道中に交番があれば、そこに報告をし、帰宅するのみだ。
いつもなら。
仕方がないだろう、人質が彼女だったんだから。
銀行強盗は死んだ。
向かってきた私を見るやいなや、銀行強盗は不測の事態に動揺した様子で、すぐさまナイフの矛先を私に向け直した。その瞬間銀行強盗の意識が逸れたのだろう、彼女が咄嗟に銀行強盗の手から逃れた。
ここまでは良かった。彼女が逃れたことで更に動揺した銀行強盗には大きく隙ができ、そこへ私が低姿勢での突進をかますことで銀行強盗がよろめいた。
そして、まずは刃物の奪取が優先だと思った私は銀行強盗の右腕を強固に掴んだ。
のが、まずかった。
銀行強盗は必死の抵抗を見せて一心不乱に、そして滅茶苦茶にナイフを振り回しだした。私も意地になって離そうとせず、しばらく銀行強盗の腕にぶらさがるようにして反抗した。
このままでは拉致が空かないと先に痺れを切らしたのは私だ。
ぐっ、と。
一気に力を強めて腕を下ろし、虚を突いたのを好機にナイフをふんだくる、つもりで引いた手が、思いの外、勢いよく降り下ろされた。
ナイフは、銀行強盗の下腹部に深く突き刺さった。
惨たらしいほどの量の吐血が降りかかり、私は顔を半分赤く染め、膝を折って倒れる目の前の銀行強盗をその血液で気持ち悪い感じに潤沢になった目を通して呆然と眺めた。
銀行強盗は死んだ。即死だった。
後で聞けば、銀行強盗は丁度下腹部に深刻な怪我を負っていて、その治療費を稼ぐために強盗を繰り返していたらしい。その患部にナイフが刺さり、すんでのところで留まっていた傷口が盛大に開いたそうだ。
私は立ち尽くした。
立ち尽くしていると、拍手喝采が沸き起こった。
周りの客、店員。皆一様に「ありがとう」と賛辞を述べてきた。
私が恐怖を帯びた焦燥に駆られて複雑な顔を浮かべていると、やがて警察もやってきた。
「あなたが、やったのですか?」
現場の状況からして否定するのも無理の思えたので、私は意を決して首肯した。
すると、やはり拍手を浴びた。手錠もピストルも放って、私に拍手を送るのだった。
警察の拍手でさらに店内の雰囲気には拍車がかかり、止みかけていた拍手の嵐が再度訪れる。
その中で、私に飛び込んで抱きついてきたのは件の彼女だ。
「ありがとう、本当にありがとうございます。この御恩は一生忘れません!」
私は首を傾げたが、彼女の純度が高い涙と屈託のない笑顔を見ると、私の疑問など甚だ馬鹿らしいものに思えた。
これでいいんだ。この笑顔は無類だろう。
恩人装置とは、つまりそういうものだ。
皆が素直に感謝し合い、手を差し伸べ合い、救われ合う。
恩人装置は、なによりも人を素直にさせる。妬み、悔しさ、誇り、悪意、偽善にも似た正義をも取っ払って、ただ純粋な感謝だけを、噛み締め合う。
恩を売れば倍の感謝が返ってくる。繰り返せば、無限大に。あるいは、それ以上に。
素晴らしい。とても。
一つの死体を足元に置きながら、そんなことを思って彼女を抱きしめた。
法律を上回る過剰な倫理でもってして、それを幸せとするかしないか、はたまた気付かぬままに許容してしまうのか。あるいは、してしまっているのか。
・・・わかんないんですけれどね。ともあれ、かつてないほど書いてて複雑な気持ちになったお話でした。今でもまだやるせないです。ありがとうございました。