行き止まりの教訓
鍾乳洞の入口は、森の奥の崖に口を開けていた。
前回、月光草を採取した帰りに見た場所だ。岩壁の爪痕はそのまま残っている。結晶片も、あの脈動するような光を放ったまま。
「やっぱ気持ち悪いね、あの光」
リーネが剣の柄に手を置いた。警戒している。前回は二人とも即座に「帰ろう」と判断した場所だ。今回はここに入る。
受付での交渉は思ったよりスムーズだった。月光草の採取実績やゴブリンの単独討伐の実績、そして鍾乳洞の異変を最初に報告した当事者であること。パネルの期待値67が示した通り、交渉の余地はあった。「ただし、深部での戦闘は推奨しません。調査と報告が目的です。危険を感じたら即座に撤退してください」と念を押された。
松明を灯して、入る。
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鍾乳洞の中は思ったより広かった。天井が高く、鍾乳石の柱が林のように立ち並んでいる。松明の光が石柱に反射して、奥行きが掴みにくい。足元は濡れていて、水の滴る音がどこからともなく響いている。
百メートルほど進んだところで、最初の分岐に出た。道が三方向に分かれている。
パネルが出た。
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A:左の通路 ……… 期待値 38
B:中央の通路 ……… 期待値 64
C:右の通路 ……… 期待値 72
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右が72。最高値。
「右から行くぞ」
「ふーん」
リーネの返事が曖昧だった。何か言いたそうだったが、ついてきた。
右の通路は広くて歩きやすかった。天井も高く、圧迫感がない。足元の水たまりも浅い。パネルの通り、安全なルートだ。
十五分ほど進む。魔獣の気配はない。壁に苔が光っていて、松明がなくても薄明るい。順調だ。
さらに十分。
——行き止まりだった。
鍾乳石の壁が通路を完全に塞いでいる。隙間もない。天然の壁だ。崩せるような薄さでもない。
「あれ」
パネルを見る。期待値72は——正しかった。正しかったが、72が示していたのは「この通路を安全に進める確率」であって、「この通路が目的地に繋がっている確率」ではなかった。
安全に進めた。行き止まりまで。安全に、行き止まりに着いた。
「……戻るぞ」
「だと思った」
リーネが壁に背中を預けて腕を組んでいた。
「お前、何か気づいてたのか」
「んー。なんとなく。こっちの道、空気が動いてなかったから」
「空気?」
「洞窟って、奥に繋がってる通路は空気が流れるんだよ。風がある。こっちは入った時から風がなかった。——あたしの勘だけどさ、行き止まりかなって」
五話で決めたルールを思い出す。「違う動きをしたくなったら一言叫べ」。
「……なぜ言わなかった」
「だってアンタが右って言ったし。前回は右って言って蛇のとき結果的にうまくいったし。今回もそうかなって」
前回うまくいったから今回も従った。それは信頼なのか、思考停止なのか。
「次からは言え。お前の勘の方が当たることもある」
「え、今のは怒ってる?」
「怒ってない。反省してる」
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分岐点に戻った。
左38、中央64、右72(行き止まり)。右は消えた。残りは左と中央。
中央が64で左が38。普通なら中央だ。
だがさっきの行き止まりが頭にある。72は「安全に進める確率」だった。安全に進めるかどうかと、その先に何があるかは別の話だ。パネルが出す数字は——何の期待値なのか。安全か。到達か。それを俺は選べるのか。
今はまだわからない。でも、一つだけわかったことがある。数字が高いから正解、とは限らない。
リーネを見た。
「お前はどう思う」
リーネが少し驚いた顔をした。俺が意見を聞いたことに、ではなく、聞き方に驚いたのかもしれない。
鼻をひくつかせた。目を閉じて、少し首を傾げた。
「左」
「理由は」
「左の方が風がある。あと、匂いがする。硫黄っぽい。生き物の匂い。——中央は乾いてる。たぶん行き止まりじゃないけど、何もない」
パネルは中央64を推している。だが右の72が行き止まりだった。期待値の高い道が「正解」とは限らない。安全率が高いだけかもしれない。安全な場所に何もないのは、当たり前だ。
——さっきの行き止まりで学んだ。安全に進めることと、目的を達成することは違う。
「左に行こう」
リーネが笑った。
「お、乗ってくれるんだ」
「お前の鼻を信じる。——ただし、危険を感じたら即撤退だ」
「了解っしょ」
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左の通路は狭かった。天井が低く、二人並んでは歩けない。リーネが先に立ち、俺が後ろから松明を掲げる。足元に水が流れている。靴が濡れる。
リーネの言った通り、風があった。微かだが確かに、奥から空気が流れてくる。そして硫黄の匂い。薄いが、進むにつれて濃くなっていく。
パネルが出た。
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進行継続 ……… 期待値 41
撤退 ……… 期待値 59
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41。低い。パネルは撤退を推している。
だが41は「進んだ場合の成功率」だ。何の成功か。安全に帰れる確率か。調査目的を達成する確率か。パネルは内訳を教えてくれない。
リーネが小さく声を出した。
「いる」
通路の先が開けていた。広い空間。天井から無数の鍾乳石が垂れ下がり、壁面が結晶で覆われている。前回見た結晶片と同じ光——脈動する、生きているような輝き。
そして、奥に——
何かが丸まっていた。巨大な影。鱗と結晶に覆われた体。ゆっくりと膨らんで縮む。呼吸している。眠っている。
パネルが点滅した。
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大型魔獣(結晶鱗竜)
………………………… 脅威度:判定不能
推奨行動:
即時撤退 ……… 期待値 73
観察を続ける ……… 期待値 31
攻撃 ……… 期待値 8
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脅威度、判定不能。攻撃の期待値8。ほぼ死ぬ。
リーネの手が俺の腕を掴んでいた。声を出さずに、首を振った。帰ろう、と。
同意だ。これは調査依頼だ。戦闘依頼じゃない。見つけた。確認した。帰って報告する。それが仕事だ。
音を立てずに後退する。一歩、二歩。結晶鱗竜は眠ったままだ。呼吸の音だけが空間に響いている。
通路に戻った。
二人で足早に歩く。走りたいが、走ると音が立つ。早歩きで、しかし着実に、入口に向かって進む。
分岐点を通過した。右の行き止まり。中央の何もない道。左の正解の道。
「ハルト」
リーネが小声で言った。
「あれ、怪我してたよ。左の前脚。引きずってた」
「寝てたのに見えたのか」
「丸まり方が変だった。左脚をかばうように体を折ってた。——あと、背中の結晶、何本か折れてなかった?」
暗くてよく見えなかった。だがリーネが言うなら、そうなのだろう。この少女は暗闇でも、パネルに映らないものを見る。
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鍾乳洞を出た。
外の空気が美味い。森の匂いがする。日の光が目に刺さる。二人で地面に座り込んだ。
「……でかかったね」
「ああ」
「あれ、銅ランク二人でどうにかなるやつじゃないっしょ」
「どうにもならない。期待値8だ」
「はち?」
「——いや、何でもない。とにかく、ギルドに報告する。あの規模の魔獣なら、銀か金のパーティが対応すべきだ」
リーネが膝を抱えた。
「でもさ」
「ん?」
「あいつ、怪我してた。弱ってた。……誰かがやるにしても、あいつがなんであそこにいるのかは気になるよね」
パネルは何も答えない。結晶鱗竜がなぜ鍾乳洞の深部にいるのか。なぜ怪我をしているのか。なぜ生態系が乱れているのか。全部、判定不能だ。
「帰ろう。報告が先だ」
「うん」
立ち上がる。帰路のパネルが出る。期待値78。高い。帰り道は安全だ。
安全な道が正解とは限らない。安全に進めることと、目的を果たすことは違う。同じ期待値でも、何を測っているかで意味が変わる。右の72は行き止まりで、左の38が正解だった。
そして、パネルが38を示した道を選ぶ決め手になったのは、リーネの鼻だった。
風の流れと硫黄の匂い。パネルには出ない情報。数字の外にあるもの。
ガレスの声が頭をよぎった。
——数字の外にあるもんを、たまには見たほうがいい。
見た。見た結果、結晶鱗竜を見つけた。見なきゃよかった、とは思わなかった。
……もしパネルに「何を測るか」を指定できたら。「安全」じゃなく「目的に近い道」の期待値を見れたら。左の38は、もっと高い数字になっていたかもしれない。
今の俺にはまだわからない。でも、考える価値はある。




