リーネの寄り道
依頼の幅が広がると、朝の過ごし方が変わる。
以前は掲示板の前に立って青い紙を三枚見比べるだけだった。今は白い紙が十枚以上並んでいる。パネルが依頼ごとに期待値を浮かべる。69、73、58、71、65……。目が数字を追う。頭の中で組み合わせを回す。
リーネが隣で欠伸をした。
「アンタ、いつも掲示板の前で固まるよね」
「考えてるんだ」
「考えすぎっしょ。面白そうなのを取ればいいじゃん」
面白そうなの。パネルは期待値を出す。目的を変えれば数字も変わることは覚えた。だが「面白いかどうか」を目的にしたことはない。そもそも、面白さの期待値って何だ。
「……これにする。森林地帯の魔獣駆除」
「またそれ系?」
「期待値が——条件がいい」
リーネは掲示板をちらっと見て、全然別の依頼を指した。「これも面白そうじゃない? 山の向こうの村のお祭りの警備だって。報酬安いけど、お祭りだよお祭り」
「……森林地帯の魔獣駆除にする」
「はいはい」
リーネは「ふうん」と言って、もう一度欠伸をした。
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街道を歩く。森林地帯の依頼先までは半日ほどかかる。朝のカラトを出て、北門から街道に入り、丘を越えて森に向かう。
天気がいい。風がぬるくて、道端に黄色い花が咲いている。リーネが花を横目で見たが、今日は足を止めなかった。代わりに道端の石を蹴りながら歩いている。
「ねえ、ハルト」
「ん」
「アンタってさ、休みの日とか何してるの?」
「休みの日?」
「依頼がない日。あるっしょ、たまには」
考えた。依頼がない日。パネルで翌日の依頼の下調べをしたり、装備の手入れをしたり、ギルドの掲示板を確認したり。
「……準備をしてる」
「準備」
「次の依頼の」
「それ休みって言わないっしょ」
リーネが呆れた顔をした。
「あたしはね、休みの日は街をぶらぶらする。市場で果物買って食べたり、猫探したり。この前、路地裏で子猫見つけてさ——」
猫の話が始まった。路地裏の子猫が三匹いて、一匹だけ灰色で、その灰色の子が一番人懐っこくて、でも触ろうとすると逃げる、という話。リーネは猫の話になると声が高くなる。本人は気づいていない。
「——で、次の日また行ったらさ、灰色のやつだけまだいて。あたしの顔覚えてたのか、逃げなかったの。ちょっとだけ撫でさせてくれた」
「よかったな」
「うん。——ハルトも今度一緒に来なよ。猫、いいよ」
「猫の期待値は56だった。フラれたんだが」
「あはは、何それ」
リーネが声を出して笑った。何がそんなにおかしいのかわからないが、笑っている。こいつの笑い方は、いつも突然で、全力だ。
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二時間ほど歩いたところで、街道の脇に煙が見えた。
小さな焚き火。その横に、一人の少年が座っていた。
十四、五歳くらい。麻の服に革のブーツ。装備は粗末で、腰にあるのはナイフとも言えないような小刀だけ。膝の上に広げた布に、摘みかけの薬草が数本置いてある。銘板が首から下がっていた。銅。
パネルが出た。
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少年を手伝う ……… 期待値 23
依頼に向かう ……… 期待値 81
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23と81。
面倒だな、と思った。
一瞬だけ。本当に一瞬だけだが、最初に浮かんだ感情がそれだった。
81を選ぶ。当然だ。俺たちには自分の依頼がある。
——足が止まった。
リーネが、もう歩き出していた。
「ちょっと見てくるね」
少年の方に向かって歩いている。振り返らない。俺に許可を求めていない。ただ歩いている。
さっきまで猫の話をしていた足が、そのまま少年の方に向いている。切り替えるとか、決断するとか、そういう重さがない。ただ、困っている人間が目に入ったから歩いていった。それだけ。
リーネの背中が遠くなる。赤銅色の髪が日差しに光っている。
——まあいい。少し遅れたところで、81が80になる程度だ。
付いていった。
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「何採ってるの?」
リーネが少年の横にしゃがみ込んだ。少年はびくりと顔を上げた。人見知りなのか、目が泳いでいる。
「あ、えっと……薬草、です。アゼリア草の採取依頼を——」
「アゼリア? あー、あの青っぽいやつ。どれだけ採るの?」
「二十束なんですけど、まだ七束しか……」
布の上の薬草を見た。七束。確かに少ない。ただ、数は少ないが一本一本は丁寧に摘んである。
「あたしも昔、薬草採取やったなー。コツがあるんだよね。根元から引くんじゃなくて、土ごと指で掘り起こす感じ」
「あ、はい……でもあたし——僕は、祖母に教わったやり方しか知らなくて」
「どんなやり方?」
少年が教わった方法を話し始めた。祖母が山で薬草を摘んでいたこと。葉の裏を見て鮮度を確かめること。朝露が乾く前に採った方が長持ちすること。
リーネは黙って聞いていた。「へえ」とか「そうなんだ」とか相槌を打ちながら、本当に感心している顔をしている。作り笑いではない。少年の祖母のやり方に、本気で興味を持っている。
俺は二人の少し後ろに立って、黙って聞いていた。
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結局、三人で薬草を採った。
少年の祖母のやり方は、効率は悪いが丁寧だった。土ごと掘り起こして、根を傷つけないようにそっと持ち上げる。時間はかかるが、茎が潰れない。
リーネがそのやり方を真似していた。不器用な手つきで土を掘りながら「難しいね、これ」と笑う。少年が「ここを持つといいですよ」と教える。さっきまで目が泳いでいた少年が、教える側になった瞬間、声がしっかりした。
リーネはそれに気づいている。わざと下手にやっているわけじゃない。本当に不器用なのだ。剣を振るう手は正確なのに、薬草を掘る手は不器用。でもその不器用さが、少年の得意を引き出している。
一時間ほどで二十束が揃った。
少年は何度も頭を下げた。
「あの、本当にありがとうございます。僕一人じゃ、たぶん明日までかかってて——」
「いいっていいって。ねえ、あんた一人で冒険者やってるの?」
「はい。パーティの募集もしたんですけど、なかなか……」
そうだろうな、と思った。装備は粗末で、動きも遅い。パネルで見なくても——
……まあ、いい。
「祖母ちゃんの薬草の話、すごいね。あたし知らないことばっかだった」
リーネが少年に笑いかけた。少年が少し顔を赤くして「祖母に教わっただけなので」と小さく言った。
「教わったことって、自分の力っしょ。大事にしなよ」
リーネの声は軽い。説教でも激励でもない。思ったことをそのまま言っただけ。でも少年の目が少し変わった。うつむいていた顔が、少しだけ上を向いた。
俺はその会話を聞きながら、何も言わなかった。
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少年が「ありがとうございました」と走っていった。小さな背中が街道の向こうに消えていく。
「いい子だったね」
「ああ」
「薬草の話、面白かったっしょ? 朝露が乾く前に採るとかさ、あたし知らなかった」
「俺もだ」
「今度薬草の依頼受けたら、試してみよっと。朝早起きしなきゃだけど」
「お前、朝弱いだろ」
「うるさいな。やる気の問題っしょ」
歩き出す。森林地帯の依頼先に向かう。リーネが前を歩いている。さっきまでの寄り道が嘘のようにテンポが戻る。
リーネは歩きながら、さっきの少年の薬草の持ち方を手で真似していた。「こう? 違うな、こうかな」と指を動かしている。誰に見せるわけでもなく。
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森林地帯の魔獣駆除は、手際よく片付けた。パネルで最適な侵入ルートを選び、魔獣の巣を特定し、リーネとの連携で掃討。いつも通りのテンポだ。見る。選ぶ。当たる。
帰路、日が傾いていた。予定より一時間遅くなった。寄り道の分だ。
だが依頼は完了している。報酬は満額出る。一時間の遅れは、結果には影響しなかった。
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夜。銀の鋤亭。
ベッドに横になって、天井を見る。
今日の少年のことを考える。あの子がこの先どうなるかは分からない。パーティが見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。薬草採取を続けるかもしれないし、冒険者を辞めるかもしれない。
俺にできることは何もない。今日手伝ったのは、リーネが歩き出したから付いていっただけだ。
リーネは、ああいう人間なんだろう。期待値が23でも、目の前に困っている人間がいたら歩いていく。「教わったことは自分の力」と、会ったばかりの少年に自然に言える。少年の不器用な知識を「すごいね」と本気で面白がれる。あいつにとってはそれが普通で、特別なことだとも思っていない。
パネルが視界の端にちらつく。明日の依頼の選択肢が並んでいる。73か。68か。
明日もまた、数字を見て選ぶ。そういう一日が始まる。




