6生 ep.6
「エヴァ様! ありがとうございます!」
工場の片隅、薄暗い影の中で、少年たちが一斉に頭を下げた。
エンヴァが指先からこぼすようにばら撒く銅貨。それは、かつて彼らが彼女から奪おうとした「小銭」であり、今は彼女への忠誠と引き換えに与えられる「恩寵」だった。
いつの間にか、彼らの口から漏れる彼女の名には、自然と「様」という尊称が刻まれるようになっていた。
彼らが彼女に跪くのは、与えられる小銭のためだけではない。
その背後にある、目に見えない「巨大な鎌」への恐怖こそが、彼らの魂を縛り付けていた。
「……ねぇ、今日も主任と街へ行くけれど。何か、私に報告しておくことはあるかしら?」
エンヴァの何気ない問いかけに、少年たちの背筋に冷たい戦慄が走る。
彼らは知っている。彼女が工場主任と頻繁に街へ出かけ、密談を重ねていることを。
もしそこで、自分たちの不手際や悪口を一つでも吹き込まれれば、明日の居場所は「安全な工場」ではなくなる。
煤にまみれて肺を焼く煙突掃除。
あるいは、いつ崩落してもおかしくない漆黒の炭鉱。 少年たちの命が、塵のように使い捨てられる「死の双璧」へ。
(逆らえない……。もしエヴァ様の機嫌を損ねたら、俺たちは本当におしまいだ……!)
彼らにとって、エンヴァはもはや同じ女工ではなかった。
自分たちの生殺与奪を握る、慈悲深くも冷酷な「小さな女王」。
少年たちは、彼女の影を踏むことさえ恐れるように、ただ深く、より深く頭を垂れるしかなかった。
工場がメンテナンスのために沈黙した、ある一日。
煤煙と機械油の臭いが消えた街の空気は、いつもより少しだけ澄んでいるように感じられた。
「ねえねえ! 今日はどこに行くの?」
クラリッサが、エンヴァの手を握りしめ、弾むような声で問いかけた。
彼女の瞳は、工場の灰色ではない街の景色に、きらきらと輝いている。
その後ろには、高級な燕尾服に身を包んだ工場主任が、まるで高貴な令嬢を守る執事のように、恭しく付き従っていた。
「……今まで、一緒にいてくれてありがとうクラリッサ。今日は、あなたとの約束を果たそうと思って」
エンヴァは、クラリッサを見つめ、微かに唇を綻ばせた。
その声音には、いつもの冷徹さはなく、どこか温かい響きが混ざっている。
クラリッサは、あの日の約束が本当になるとは思っていなかった。
少年たちから巻き上げた小銭程度では、彼女が夢見ていた、ふんわりとしたドレスなど買えるはずもない。
(もしかしたら、街で一番美味しいケーキを食べさせてくれるのかな!)
程度に考えていた彼女の予想は、良い意味で、木っ端微塵に打ち砕かれることになる。
エンヴァがクラリッサを伴って向かったのは、街で一番高級な仕立て屋だった。
重厚な扉を開くと、そこにはベルベットのソファと、きらびやかなシャンデリア、そして見たこともないほど美しい生地が並んでいる。
「はい、クラリッサの分」
エンヴァが指差したのは、以前から密かに頼んでおいた、目が覚めるようなティファニーブルーのドレスだった。
上質なシルクが波打ち、繊細なレースが施されたそのドレスは、まるで空の欠片を切り取ったかのような美しさだ。
「ええ……! まさか、本当なの……!?」
クラリッサは、驚きと喜びのあまり、その場にへたり込みそうになった。夢にまで見たドレスが、今、自分の目の前にある。
二人は、店内の奥にある試着室へと消えた。
主任は、エンヴァの忠実な僕(下僕)として、ソファに静かに座り、主たちが現れるのを待つ。
やがて、試着室の幕が開いた。
そこに現れたのは、煤まみれの女工などではなかった。
まばゆいばかりの金髪を輝かせ、ティファニーブルーのドレスを纏ったクラリッサ。
そして、月光のような銀髪をなびかせ、真紅のベルベットのドレスを纏ったエンヴァ。
どこの舞踏会に出しても恥ずかしくない、否、世界中の王族さえも魅了するであろう、二人の美しいプリンセスが、灰色の街に、奇跡のように舞い降りたのだ。
「夢みたい! 私、本当にお姫様になったみたい!」
鏡の前で何度もくるりと回るクラリッサ。
シルクがふわりと広がり、店内のガス灯の光を弾いてきらめく。
その瞳は、工場の煤に曇らされていたとは思えないほど、純粋な歓喜に濡れていた。
「ねえ、エヴァ! これ、本当に脱がなくていいの? 明日の朝、目が覚めたらまたあの硬いベッドの上で、お腹を空かせてるなんてこと、ないわよね?」
震える手でドレスの裾を握りしめるクラリッサ。
あまりに良すぎる現実は、時として恐怖に近い。
エンヴァは隣に立ち、真紅のベルベットに包まれた自分の姿を冷淡に一瞥してから、鏡越しに彼女の目を見据えた。
「夢じゃないわ。触れてみて。その生地の柔らかさも、あなたの肌の白さも、すべて本物よ。……これは、あなたが私の隣にいてくれたことへの、正当な対価」
「対価だなんて、そんな難しいこと言わないで! ……でも、本当に嬉しい。エヴァ、あなたこそ、まるでお城から抜け出してきた本物の王女様みたいよ」
クラリッサは我慢できずに、軽やかな衣擦れの音を響かせてステップを踏む。工場の石炭まみれの床では決して許されなかった、自由な動き。
「王女様……。そうね、あなたがそう言うなら、そうなのかもしれないわね」
エンヴァは微かに目を細めた。かつて戴いた王冠の重みを思い出すように。
「ねえ、エヴァ! この格好のまま、あのお城みたいなレストランに行って、一番高いケーキを食べてもいいの? 誰かに怒られちゃうかしら?」
不安げに、けれど期待に満ちた上目遣い。
エンヴァは、ソファで縮こまっている主任を顎でしゃくると、断固とした口調で告げた。
「誰が怒るというの。……今日は、この街のすべてが私たちのものよ。行きましょう、クラリッサ」
「ええ……! 行きましょう、エヴァ様!」
冗談めかして「様」をつけたクラリッサの手を、エンヴァは強く握り返した。
工場の煤も、少年の怒号も、今は遠い世界の出来事。
二人の少女は、光り輝く街の真ん中へと、堂々と足を踏み出していった。
街で一番の高級レストラン。
天井から吊るされた巨大なクリスタルが、二人のドレスを宝石のように照らしていた。テーブルに運ばれてきたのは、クラリッサが夢にまで見た「三段重ねの苺のケーキ」。
「……信じられない。こんなにたくさん、本当に全部食べていいの?」
クラリッサの震えるフォークが、雪のように白いクリームに沈み込む。
甘酸っぱい苺の香りが鼻腔をくすぐり、口に運べば、とろけるような甘さが脳を痺れさせた。
工場の不味い粥とは対極にある、贅沢の極致。
「いいから食べなさい。お腹いっぱいになるまでね」
エンヴァは優雅に紅茶のカップを傾け、満足げに頬を膨らませるクラリッサを眺めていた。
彼女自身は数口で満足したようだが、クラリッサが歓喜の声を上げるたび、その瞳には微かな安らぎが宿る。
食事が終わり、テーブルに置かれたのは、工場の数ヶ月分の運営費にも相当する請求書。
「……支払っておいて」
エンヴァが短く告げると、背後に控えていた工場主任が、恭しく一歩前に出た。
彼の手にあるのは、事前にエンヴァから預かっていた「小銭入れ」――といっても、中にはぎっしりと金貨が詰まった、重厚な革袋だ。
「工場主任様……?」
クラリッサが、困惑した表情で彼を見つめる。
工場のノルマに厳しく、遅刻した少年を容赦なく怒鳴りつけるあの「支配者」が、なぜこれほどまでにエンヴァに、そして自分に尽くすのか。
「ははは、そんなに不思議そうな顔をしないでくれ、クラリッサ。私はね、エヴァも……そして、彼女が大切にする君のことも、大好きなんだよ」
主任は余裕たっぷりの微笑みを浮かべ、スマートに支払いを済ませた。
その表情には、かつての厳格な管理職の面影はなく、まるで高貴な主に仕えることを至上の喜びとする、老練な執事のような気品さえ漂っていた。
クラリッサは、クリームの付いた口元を拭いながら、改めて目の前の二人の「異様さ」を実感していた。
煌びやかなティファニーブルーと真紅のドレスを仕立屋の奥へ預け、二人は再び「女工」という名の皮殻を被った。
石畳を叩く馬車の音は遠ざかり、代わりに聞こえてくるのは工場の巨大な心臓が刻む、絶え間ない重低音。
門をくぐれば、そこは色を失った灰色の世界だった。
主任と別れ、二人が戻ったのは二十人の女工が雑魚寝をする大部屋だった。
湿った空気と油の匂い、そして隣室から聞こえる労働者のいびき。
並んだ二十のベッドは、どれも節くれだった硬い木で作られ、使い古された薄い毛布が、ただ寒さを凌ぐためだけに横たわっている。
だが、今夜のエンヴァにとって、その粗末なシーツは不思議と冷たく感じられなかった。
粗末な肌着一枚になり、冷えた毛布にくるまる。その狭いエンヴァのベッドへ、滑り込むようにして温かい体温が潜り込んできた。
「エヴァ、だーいすき! ……今日は、本当にありがとう!」
クラリッサだ。彼女は子供のようにエンヴァの首筋に顔を埋め、ぎゅっと抱き着いて離れない。
苺の甘い香りが、ほんのりと彼女の髪から漂ってくる。
(……この温もりだけは、金貨では買えないものね)
エンヴァは慕ってくるこの少女を、細い腕で優しく抱き返した。
魔法で編み上げた結界よりも、この脆い人間の体温の方が、今はよほど強固な安らぎを彼女に与えていた。
「ええ……。また行きましょうね。何度でも」
「約束だよ、エヴァ様。……ううん、エヴァ」
小さな囁きを最後に、クラリッサは満足げな寝息を立て始めた。
明日になれば、また十六時間の過酷な労働が始まる。
指先は荒れ、煤で顔は汚れ、少年たちの卑屈な視線に晒される日々だ。
けれど、二人で抱き合って眠るこの狭いベッドの上だけは、この街の誰の手も届かない、至高の聖域だった。




