6生 ep.5
あの日、ドッグレース場で莫大な富を手にしながら、少女は依然として「底辺」に留まり続けていた。
一日16時間の重労働、喉を焼く煤煙、そして胃を逆なでするような薄い粥。
傍から見れば地獄のような光景だが、魔女にとってそれは、世界を観察するための「特等席」に過ぎない。
「エヴァ、少し話があるんだ」
油の臭いが染み付いた工場の一室。
主任は、周囲を気にするように扉を閉めると、目の前に立つ小さな女工に、すがるような視線を向けた。
「君はもう、自由になれるだけの金を持っている。」
主任は話し出す。
「僕から工場長に話をすれば、君は君自身を買い取ることだってできるんだよ? ……こんな場所で働く必要なんて、どこにもないはずだ」
それは、大人としての精一杯の慈悲だった。
だが、エンヴァは煤で汚れた顔に、わずかな感情の揺れも見せず、淡々と答える。
「そんなことは知っているわ。好きでやっているのだから、放っておいてちょうだい」
「好きで……? 冗談だろう、エヴァ」
主任は絶句した。
飢えと疲労が支配するこの場所を「好き」だという狂気。
だが、彼女の黄金の瞳に宿る知性が、それが単なる強がりではないことを雄弁に物語っている。
「……何なら、エヴァ。」
「何?」
「君を僕の養女として迎えてもいい。妻には僕から話をしておく。だから、もう一度考えてみてくれないかな?」
主任の本音は、彼女との「縁」――すなわち、自分に富をもたらす「黄金の糸」を繋ぎ止めておきたいという焦燥だった。
養女という檻に入れれば、この得体の知れない幸運を、自分の管理下に置けると考えたのだ。
「……考えておくわ。とりあえずあと二〜三回は同じことをやるつもりだから、別の何か賭けられる場所を探しておいてもちょうだい」
エンヴァの言葉は、提案というよりは命令に近かった。
だが、その背後に透けて見える莫大な利益に、主任の目は眩んだ。
二〜三回。それが成功すれば、自分が小さな工場を持つ事すらできるかもしれない。
「わかったよ、エヴァ。……それから、私から君にプレゼントをさせて貰えればと思う。数日、待っていてくれないか」
数日後。
鉄錆と油の臭いが充満する工場の事務所に、場違いなほど高級な香りを纏った仕立て屋が訪れた。
届けられたのは、糊のきいた真っ白なシャツに漆黒の燕尾服。
そして、エンヴァの背丈に完璧に合わせられた、深紅のベルベットのドレス。
「……まぁ、悪い考えではないわね」
鏡の前でドレスを合わせるエンヴァの瞳に、わずかな満足の色が浮かぶ。
これならば、どこの賭場へ乗り込み大金を積み上げたとしても、周囲は
「退屈したブルジョワの火遊び」
だと勝手に解釈してくれるだろう。
「だろう? エヴァ、だから今後ともよろしく頼むよ」
工場の煤を洗い流し、極上の衣装を纏った二人は、もはや雇い主と労働者ではない。
欲望という名の運命共同体――共犯者としての歩みを、本格的に踏み出し始めた。
(そういえば、セトと出会ったのも賭け事の場だったわね)
バカラの台の前でエンヴァは思い出す。
主任の膝にちょこんと座り、数字を子供が適当に選んでいるように見せてはいるが、エンヴァは自分が賭ける時とそうでない時を使い分け煙幕としていた。
主任が賭けると大抵負けるので、周囲の目には勝ったり負けたりに見えたが結果的に無邪気に大賭けした数字でエンヴァが勝ってしまうので結果は持ってきた銀貨の約10倍程に膨らんでいた。
一週間という時間は、エンヴァが手にする「通貨の色」を塗り替えるのに十分な期間だった。
煤けた銀から、鈍く重厚に光る黄金へ。
彼女の周囲を流れる資本の桁は、もはや工場の帳簿をはるかに超越していた。
「……こんな場所、来たことがないよ」
正装に身を包んだ主任が、場違いなまでの豪華さに圧倒されて呟いた。
そこは、選ばれたブルジョワジーだけが入ることを許される秘密の社交場。壁には金箔が施され、シャンデリアの光が、男たちの欲望と女たちの虚栄を照らし出している。
「どちら様ですか?」と道を塞ぐガードの前にエンヴァがパッパと手のひらをかざすと
「……どうぞ、こちらへ」
と中へと案内される。
「まぁ! なんて可愛らしいお嬢様だこと!」
中では香水の匂いを振りまく、でっぷりと太った貴婦人がエンヴァを見つけ、その頬を緩ませた。
すると、エンヴァはそれまでの冷徹な瞳を一瞬で消し去り、春の陽だまりのような無垢な笑顔を浮かべて見せた。
「おばさま! 今日は初めて、お父様と遊びに来ました!」
(エヴァ……あんな顔、できるのか)
傍らに立つ主任は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「お父様」と呼ばれたことへの戸惑いよりも、彼女が演じる「完璧な子供」という演技の底知れなさに戦慄したのだ。
「そうなの。お嬢ちゃんにはちょっと早いかもしれないけれど、楽しんで行ってね」
貴婦人が去り、勝負の火蓋が切って落とされた後の記憶を、主任はほとんど持っていない。
ただ、視界の端でエンヴァが楽しげにチップを積み上げ、周囲の大人たちが顔を真っ青にして崩れ落ちていく光景が、断片的な悪夢のように蘇るだけだ。
気が付いたとき。 二人の間のテーブルには、新しく工場が一つ建ってしまうほどの金貨が、うず高く積み上がっていた。
カジノの重厚な扉が開いたとき、主任は自分が「新興ブルジョワの成金」として周囲の目に映っていることを切に願った。
冷や汗を拭い、虚勢を張って馬車に乗り込む。
だが、現実は彼の想像をはるかに超えていた。
バカラ、サイコロ、カード、そして複雑なボードゲーム。
そのすべてにおいて、エンヴァは「ビギナーズラック」という言葉すら生ぬるいほどの爆発的な勝利を連ねた。あまりのバカ勝ちに対して胴元はイカサマを仕掛けようとディーラーを変更してきたが、「薄い霧」の魔術でその気配を察知すると
「パパ!なんだか眠くなってきちゃった!」
とそのテーブルを離れる。
そして賭場が用意した特製の革鞄5つ。
そこに金貨を詰め込めるだけ詰め込んでも、テーブルの上にはまだ、気が遠くなるほどの黄金が溢れ返っている。
結局、その莫大な資産を運ぶために、彼らは特別仕立ての馬車を呼び出し、賭場に高い手数料を払ってまで武装護衛を付けざるを得なかった。
たどり着いたのは、街で最も信頼の厚い金細工師の工房。
文字通り「山」となって積まれた金貨を前に、老練な金細工師は眼鏡をずらし、絶句した。
「……これほど大量の金貨、一体どうしたんだい、お嬢ちゃん?」
その問いに、エンヴァは無邪気な子供の仮面を完璧に被り直し、弾むような声で答えた。
「運が良かったの! だからパパが、私の口座を作ってくれるって!」
彼女が「パパ」と呼ぶ隣の男――生きた心地のしていない工場主任を一瞥し、金細工師は納得したように頷いた。
成金の親が、幸運な娘のために資産を分ける。
この街では珍しくもない光景として、その「異常事態」は処理された。
こうして、煤まみれの女工だったはずの少女「エヴァ」の名で、街の経済を揺るがしかねない莫大な個人口座が開設された。




