6生 ep.1
幾度目かの生。
ある時は、魔女としての自覚を得る前に飢えに消え。
ある時は、草原の風に吹かれながら十四人の子を慈しみ、野党によってすべてを奪われた後に数十年の孤独を「飽き」と共に自らに死を与える。
かつて帝国の興亡を操ったその強大な力は、今や彼女の内で深く静かに眠っている。
エンヴァはもはや、世界に介入することを望まなかった。
不老という呪いじみた祝福を背負いながら、ただの女として、名もなき村の片隅で静かに土をいじり、夫を迎え、子を産んだ。
周囲の視線が「老いない彼女」への不信を宿し始める頃、彼女は決まって姿を消す。
「……さて、次はどこへ行くのかしらね」
自ら生を終え、新たな肉体へと魂を移す。
ある生ではその美しさから両親に売られ、娼婦として生きていたが体中に斑点ができる病を貰い、娼館から追い出されると数日後に路上で息を引き取った。
その生の繰り返しは、彼女にとって退屈ですらあった。
――そして。
あの誇り高きイブン帝国も、十数代の代替わりを経て歴史の砂に埋もれた。
セトやミーナと分かち合った、あの「愛」に満ちた記憶さえ、今や古びた伝承の中にしか残っていない。
目覚めると、世界は一変していた。
肺を刺すのは冷たい森の空気ではなく、脂ぎった石炭の匂いと黒い煤煙。
馬のいななきの代わりに、鉄の歯車が噛み合い、蒸気が咆哮を上げる。
「産業革命」
人々が神や魔法ではなく、「機械」という新たな力を信じ始めた喧騒の時代。
銀髪の少女は、煤けた赤煉瓦の街角に立ち、黒煙を吐き出す巨大な煙突を見上げて、かすかに目を細めた。
シュシュッ、ガチャン。シュシュッ、ガチャン。
耳を刺す蒸気の排気音と、絶え間なく繰り返される機械の旋律。
十歳になったばかりのエンヴァは、油と煤にまみれた細い指で、機織り機の糸を操っていた。
彼女がこの都市部の工場へ連れてこられたのは、わずか数ヶ月前のことだ。
名もなき貧困な農村に生まれた彼女の値段は、「豚三頭と、小麦袋二つ」。
それが、かつて帝国を滅ぼし、英雄たちの師であった魂に付けられた、今世の正当な対価だった。
「……ふふ、安いものね」
誰に聞かせるでもなく、エンヴァは自嘲気味に呟いた。
南方の旧帝国領では、民衆議会が王や貴族を追い出し、自由と平等を叫んでいる。だが、その足元では、王の権威を金で買い叩く「ブルジョワ」たちが、かつての奴隷制よりも効率的に、子供たちの命を機械の潤滑油として消費していた。
かつての魔法のような奇跡は、ここにはない。
あるのは、石炭の焦げる臭いと、肺を病ませる綿埃だけだ。
夜明け前。太陽が地平線を這い出すよりも早く、工場の鐘が容赦なく鼓膜を叩く。
石造りの冷たい床に並べられた薄い布団を畳み、エンヴァ――今は「エヴァ」と呼ばれる少女は、無機質な動作で立ち上がった。
一分の遅れは、一食の欠落を意味する。
かつて帝国の興亡を操った彼女にとって、空腹などという生理現象は瑣末なことだ。
だが、この「エヴァ」と呼ばれる十歳の肉体を生かし続けるためには、決められたルールに従うのが最も効率的だった。
「おはよう! エヴァ! 相変わらず早いのね!」
背後から飛んできた弾むような声。
振り返ると、乱れたブロンドの髪を雑に束ねながら、クラリッサが駆け寄ってくるところだった。
「……おはよう、クラリッサ。また時間ギリギリじゃない。食事を抜かれたら、今日のノルマはこなせないわよ」
「へーきへーき! 私、エヴァの顔を見ると元気が出るんだもん」
クラリッサは、工場内に作られた、二十人が詰め込まれた湿った地下の大部屋で、唯一エンヴァに無邪気な笑顔を向ける少女だった。
同じ十歳。同じ「売られてきた身」。
彼女もまた、親の手によって数枚の銀貨や家畜と引き換えに、この蒸気と油の地獄へ放り込まれた犠牲者の一人だ。
エンヴァは、自分よりもずっと幼く見えるクラリッサの、整った、けれど煤で汚れた横顔を見つめる。
魔法を知らず、歴史を知らず、ただ「今日を生きる」ことに懸命な彼女のような存在こそが、今のエンヴァにとっては、唯一この退屈な日々を繋ぎ止める「観察対象」となっていた。
「ほら、行くわよ。機械が回り始めるわ」
「はーい! エヴァ、あとでお昼のパン、半分こしようね!」
屈託のないクラリッサの提案に、エンヴァは感情の起伏を一切見せず、突き放すような正論を返した。
「……どうして半分にしなければいけないの? 私のものは、私のものよ」
「ええーっ! ケチー!」
笑いながら駆けていくクラリッサの背中を見つめ、エンヴァはわずかに目を細める。 情けをかければ、それが「依存」に変わることを彼女は知っている。
今のこの場所において、生存に必要な栄養を分け合うなど、合理性の欠片もない行為だ。
一日、十六時間労働。
休憩は、ただ死なない程度に身体を休ませるための、最短の猶予に過ぎない。
家畜と同じ値段で買われた子供たちは、肺に綿埃を溜め込み、指先を油で汚しながら、ひたすら布を織り続ける。
深夜。
地下の大部屋に戻ると、誰一人として口を開く者はいない。 隣のベッドに倒れ込むように戻った子供たちは、娯楽も、自由も、教育も、そして「明日への希望」さえも奪われたまま、ただ明日また十六時間働くための体力を回復するためだけに、泥のような眠りに沈んでいく。
「……ずいぶんとまぁ、退屈な時代ね」
カビ臭い大部屋の隅で、エンヴァは呆れたように独り言をこぼした。
工場の煤けた窓から見える空には、もはや翼を広げるドラゴンの影はない。
かつて森の奥に潜んでいたゴブリンも、財宝を守っていた古龍も、この数百年の間に人間たちの執拗な「狩り」によって、根絶やしにされた。
今の子供たちにとって、モンスターとは絵本の挿絵の中にのみ存在する「お伽話の残骸」に過ぎない。
戦場の風景も一変した。
誇り高き騎士の突撃も、空を覆う矢の雨も、もはや過去の遺物だ。
泥にまみれた歩兵たちが等間隔に並び、無機質な動作で引き金を引き、見えない距離から命を削り合う。
そこには、かつての戦場にあった「個の武勇」も「英雄の煌めき」もなく、ただ効率的に肉を削ぐ、冷徹な数字の交換だけが残されていた。
モンスターを駆逐し、人間は自らの手で「予測可能な世界」を作り上げた。 だが、その代償として得たのは、十六時間の労働と、煤煙に曇る退屈な日常。
かつての私は魔法で天変地異を起こし、一国の命運を弄んだ。
だが、この「近代」という怪物は、神秘を否定する代わりに、人間から「物語」を奪い、単なる歯車の一片へと作り替えてしまった。
この静かな地獄において、魔女の魂はかつてないほどの退屈に苛まれていた。




