5生 ep.47~
帝都の血の湖が乾き、二十一カ国連合軍という巨大な怪物がその役割を終えてから三か月。
世界は「破壊」の季節を終え、いびつながらも「構築」の季節へと足を踏み出していた。
帝都の玉座を巡る血塗られた狂騒は、新たな秩序によって上書きされた。
諸王たちの思惑と、十五年の歳月が流した血の重みを天秤にかけ、三人は一つの合意に達した。
新皇帝、イブン。
かつての戸惑える王子は、旧帝国の版図を治める新たな太陽として、その重責を担うこととなった。
そしてヌビアには、女王として返り咲いたミーナ。
彼女はもはや誰の所有物でもない、砂漠の真珠の真の主として、海風の吹く故郷へと戻った。
セトは、旧ゲルド王国とレオ王国を合わせた広大な領域――かつてのディルガム統一王朝の栄華をその手で再現するべく、覇王としての統治を開始した。
だが。
そんな歴史の教科書が特筆するであろう激動の裏側で、時が止まったままの場所があった。
かつてセトとリナ、イブン、そしてセトの母と共に、泥にまみれて畑を耕したあの館。 そこには、十五年前と何一つ変わらぬ姿で、鍬を振るう銀髪の少女の姿があった。
「……リナ、腰が入っていないわよ。レオ、余計な草まで抜かないで」
エンヴァは、レオとリナ――亡き王たちの名を受け継いだ子供たちを見守りながら、静かに土をいじっていた。
戦争の喧騒も、ここには届かない。
彼女は、帝国の支配権にも、黄金の椅子にも興味を示さなかった。
三人の弟子たちが世界を切り分け、支配者へと上り詰めるのを横目に、彼女はただ、かつて「家族」と呼べるかもしれない者たちと過ごした、あのささやかな日常を再演している。
「よくできました、ですって?バカにして」
「お姉さま」の伝言に関して彼女が口にしたのはこれだけだ。
「次」についてはエンヴァは何を問われても口を開かなかった。
黄金色に輝く麦の穂。
土の匂い。
そして、無邪気に笑う「レオ」と「リナ」。
エンヴァの瞳は、未来を見据えているのか、それとも失われた過去を繋ぎ止めているのか。
その口角は、あの日と同じように、かすかに、そして怪しく上向いていた。
イブン帝国。
その新体制は、諸王の揺るぎない忠誠と、イブン皇帝の慈悲深き統治によって、かつての腐敗を洗い流すように安定していた。
その影で、レオとリナは成長を遂げる。魔女エンヴァから直接授けられた帝王学、そして「生きるために必要なすべて」を血肉とした二人は、もはや次代を担うに相応しい、凛烈たる輝きを放っていた。
そして、運命の日は訪れる。
セト王とミーナ女王。
大陸の覇者となった二人は、自らの息子たちをイブン皇帝の養子として差し出した。それは、血脈を一つに束ね、帝国の礎を盤石なものにするための、王としての「最後の大仕事」だった。
「……準備はいい、ミーナ」
「ええ、お兄様。……もう、十分でしょう?」
数日後。
セトとミーナ、そして彼女たちを導いた魔女エンヴァの姿は、忽然と歴史の表舞台から消え失せた。
玉座にも、かつての館にも、彼らの気配は欠片も残されていない。
ある者は、魔女が二人を連れて「次の世界」へ旅立ったのだと囁き、ある者は、役目を終えた三人がただの静かな農夫に戻り、世界のどこかで土を耕しているのだと信じた。
後に残されたのは、若きレオとリナ。
二人は、消えた「親」であり「師」であった者たちの穴を埋めるべく、若き双璧として帝国を支え始める。
その統治は、後に歴史家たちが「黄金の二百年」と特筆する、イブン帝国の永きにわたる繁栄の礎となった。
帝国の興亡も、二百年続く礎の騒がしさも、ここには届かない。
ただ、爆ぜる薪の音と、深く湿った森の呼吸だけが、物語の最期を包み込んでいた。
それから、何十年の歳月が流れたのだろう。
帝国で最も深いと謳われた森。
その最奥にある小さな庵で、かつて世界を揺るがした三人の時間は、静かに、そして黄金色に輝く「愛」に満たされていた。
立ち昇る炎。
エンヴァは、その揺らめきの中に横たわる、老いたミーナの穏やかな死に顔を見つめていた。
数十年前。 覇道も、復讐も、王座もすべてを捨て去った彼らが選んだのは、共に生きる「家族」としての時間だった。
かつての覇王セトは、川で無邪気に魚を突き。
かつての女王ミーナは、腰を屈めて乾燥豆の収穫に精を出す
そこには、支配者としての仮面はなく、ただエンヴァを慕い、愛し、彼女に生かされることを悦びとした二人の、剥き出しの魂があった。
二人はエンヴァを狂おしいほどに愛し。
そして、魔女エンヴァもまた、二人を心の底から愛していたのだ。
時が過ぎ、老いたセトは、かつてのリナ王妃と同じように、エンヴァの膝の上でその命の灯火を燃やし尽くした。
「……ありがとうございます、エンヴァ様。……愛しています」
最期まで、その感謝と愛を、祈りのように唱えながら彼は逝った。
そして、彼を追うように。
昨日、セトと同じように、溢れる涙と共にエンヴァへの愛を囁き続けたミーナも、その波乱に満ちた生涯を閉じた。
パチ、と爆ぜる火の粉。
ミーナを包む炎を、エンヴァは一滴の涙も流さず、けれど慈愛に満ちた瞳で見守り、一言だけ、空に溶かすように呟いた。
「……私も、あなたたちを愛していたわ」
それは、世界で最も孤独だった魔女が、初めて自分自身に許した「真実」だった。
エンヴァは、傍らに置いていた古びた鎌を手に取った。
かつて、二人と一緒に豆の収穫に使った、泥と錆の染みついた道具。
それを自らの内に当て、彼女は遠い空――あるいは、自分をこの運命へ導いた「先輩」へと微笑みかける。
「愛……。確かに、悪くなかったわね……先輩」
独り言は、風に消えた。
魔女エンヴァは、満足げに、そして何より幸福そうに、今世という永い生涯の幕を自らの手で静かに下ろした。
森の奥。 三人の亡霊たちが歩んだ奇跡のような時間は、深い緑の静寂へと還っていった。
――
「オギャア! オギャア!」
どこにでもある、名もなき民家。
夜明けの静寂を切り裂くように、力強い赤子の産声が響き渡った。
産床に横たわる母親は、命を削り出した反動か、あるいは何者かに魂を乗っ取られたかのように、その瞳から焦点を失っていた。
虚空を見つめ、何かに導かれるように、震える唇がその「名」を紡ぎ出す。
「……エンヴァ。……お前の、名前は……エンヴァ……」
その名が口にされた瞬間、赤子の泣き声が一瞬だけ止まった。
窓から光が差し込む。
「エンヴァ……」
母親は、その名を遺言のように遺すと、満足げに、そして吸い込まれるように深い眠りへと落ちていった。
揺りかごの中で、産まれたばかりの赤子が、ゆっくりとその瞼を持ち上げる。
まだ色の定まらぬその瞳の奥には、かつての覇王の感謝も、女王の涙も、そして「愛」を知った魔女の記憶も、すべてを飲み込んだ深淵が揺らめいていた。
世界は変わった。
だが、その中心に君臨する「名」は変わらない。
新しい空の下、新しい「エンヴァ」が、再びこの世界を耕し始める。




