5生 ep.46
気が付けば、十五年。
かつて魔女の足元で震えていた子供たちは、今や歴史家たちが「英雄」として、あるいは「災厄」として特筆せざるを得ない、戦場の王と王妃へと完成されていた。
セト、18歳から33歳へ。 ミーナ、16歳から31歳へ。 そして、離れた戦場で獅子の誇りを守り続けるイブン。
彼らが流した血と、魔女が与えた「レオ」と「リナ」の名を持つ二人の赤子。
物語は、ついに帝国という名の巨大な死体を解体する、最終局面へと突入する。
「……いよいよ、ね。お兄様」
帝都を一望する丘の上。
ミーナは、風に翻る白薔薇の旗印の下で熱を帯びた声で呟いた。
その視線の先には、かつては世界の中心と謳われた巨大な帝都が、二十万という絶望的な数の軍勢に幾重にも包囲され、沈みゆく太陽の下で震えている。
「ああ。……最後の戦いだ、ミーナ」
傍らに立つセトの横顔には、数多の戦場を潜り抜けてきた「蛇」の冷徹さと、一国を背負う「王」の風格が刻まれている。
彼らはこの十五年、帝国各地の諸王を時に口説き、時に脅し、時に根絶やしにして、十八の王をその傘下に収めてきた。
滅ぼした国は六つ。その屍の上に築かれた二十一カ国連合軍は、もはや帝国を飲み込む巨大な津波そのものだった。
「……絶対に逃がさないわ、皇帝」
ミーナの瞳には暗い情念が渦巻いている。
帝都の反対側には、イブンが率いる三万の別動隊が既に配置を完了し、ネズミ一匹逃げ出す隙間もない。
「……それじゃ、私は自分の陣に戻るわ。夜明けに会いましょう」
「ああ。攻撃は夜明けと共に。……すべてを終わらせるぞ」
二人の元奴隷――兄と妹は、短く言葉を交わすと、それぞれの戦陣へと背を向けた。
決戦前夜。
死地へと向かう恐怖など、彼らには微塵もなかった。
胸にあるのは、十五年という永い年月をかけて温め続けてきた、侵略の完遂への凄まじい高揚感だけだった。
「――全軍、突撃ッ!」
ミーナの鋭い下知が、南方の空を切り裂いた。
それと呼応するように、北方の陣から地響きのような地鳴りが巻き起こる。
セトが率いる「蛇」の軍勢、そしてミーナが操る「白薔薇」の精鋭たちが、帝都の巨大な城門を目指して雪崩れ込んだ。
「ジハード――ッ!!」
セトの喉から放たれたその叫びは、戦場全土を震撼させるほどの威圧を孕んでいた。
それは、かつて魔女エンヴァが、前世でその命を奪い、塵へと帰した「過去のイブン王」が、放った開戦の合図と酷似していた。
セト自身は、その過去を知る由もない。
ドォォォォォン!!
物理的な質量と、十五年分の憎悪を込めた破城槌が、帝都の第一城門を粉砕した。
鉄の破片が礫となって飛び散り、悲鳴を上げる帝国守備隊を蹂虙していく。
セトとミーナ、二人の「元奴隷」は、もはや止まることのない災厄そのものだった。
「開いたわ……。皇帝陛下、お迎えにあがったわよ」
ミーナは返り血を浴びた頬を歪め、恍惚とした笑みを浮かべる。
城門を突き破った二十万の鉄蹄は、石畳を火花で散らしながら、帝国の心臓部――皇帝の座す宮殿へと突き進む。
かつて自分たちを「ゴミ」のように扱った世界。
その中心が、今、自分たちの叫びと共に、瓦礫へと変わっていく。
重厚な玉座の間の扉を蹴破り、セトとミーナが踏み込む。
だが、そこにいたのは、狂気に震える皇帝ではない。
静寂の中、優雅にワインをくゆらせる一人の若い女――エンヴァがかつて語っていた「お姉さま」だった。
その膝には、「妹」が、人形のように静かに抱かれている。
「やっと来たのね。若き魔女の子供たち」
「黙れ! 大人しく縄につけ、賊め!」
セトの背後に控えていた兵士たちが、槍を構えて突き進む。
だが、その刃が彼女に届く直前――。
肉塊が弾ける音と共に、兵士たちの身体が内側から「裏返った」。
骨が露出し、内臓がぶちまけられる。物理法則を無視したその光景に、歴戦の英雄であるセトとミーナさえも息を呑んだ。
「別に、戦おうなんて気はサラサラないわ。……エンヴァちゃんに一つ、伝言を願えるかしら?」
「……何だと!」
ミーナが剣を構え、叫ぶ。
だが「お姉さま」は、まるでお茶会に誘うような軽い調子で、膝の上の「妹」の心臓に鋭いナイフを突き立てた。
「よくできました。……また、どこかで会いましょうって」
「貴様! 何を……!」
「何を? 次に行くだけよ。エンヴァちゃんなら、この意味を解ってくれると思うけれど」
光を失う「妹」の瞳。
そして、返り血を浴びた「お姉さま」は、間髪入れずにそのナイフを自らの細い首へと当てた。
「ちゃんと、あの子を……愛してあげてね。あなたたち」
それが、帝国を裏から操り、あるいはこの帝国そのものを創り出した偉大な魔女の、最期の言葉だった。
噴き出した鮮血が、白磁の床を赤く染め上げる。 物言わぬ骸となった彼女たちの身体は、自らが生み出した「血の湖」の中へと沈んでいった。
二十万の喊声は、分厚い城壁を突き破り、ついには帝国の心臓部へと到達した。
だが、その最深部で待ち受けていたのは、待ち望んでいた「独裁者の命乞い」でも「帝国の降伏文書」でもなかった。
静寂が、耳鳴りのように痛い。
先ほどまで兵士たちの断末魔と剣戟が支配していた宮殿は、今や墓場のような沈黙に包まれていた。
セトとミーナは、抜いたままの剣を手に、玉座の前で立ち尽くしていた。
足元には「血の湖」が広がっている。
そこには、自らの首を断った「お姉さま」と、その道連れとなった「妹」の、物言わぬ骸が横たわっていた。
「……終わった、のか。これで」
セトの声は、掠れて低く、勝利の確信とは程遠い響きを帯びていた。
十五年。 ただこの日のために、蛇のように地を這い、獅子のように敵を屠り、二十一カ国の王を平伏させてきた。
だが、その到達点にいたのは、戦う意志すら持たず、まるでお茶会の終わりのように「次に行く」と言い残して消えた魔女の残骸だった。
「……ねえ、お兄様。私たちは、本当に勝ったの?」
ミーナが、震える指で返り血を浴びた頬を拭う。
彼女が夢にまで見たのは、狂った皇帝を追い詰め、その誇りを足蹴にすることだったはずだ。
しかし、皇帝はすでに自らの親衛隊に殺されたのかその影すらも見当たらない。
目の前にあるのは、自分たちの理解を遥かに超えた「魔女たちの遊戯」の、あまりにも無機質な終幕だった。
「裏返った」兵士たちの肉塊が、鏡のような血の湖に反射している。
の血溜まりの中に映る自分たちの姿は、十五年前、魔女エンヴァに拾われたあの日の「無力な奴隷」と、一体何が違うというのか。
「……『よくできました』、だと?」
セトが、吐き捨てるように呟いた。
自分たちが流した血も、レオ王やリナ王妃の死も、二十万の軍勢が積み上げた屍の山も。
あの魔女にとっては、エンヴァへの単なる「伝言」のための、彩りに過ぎなかったのか。
二人は、豪華絢爛な玉座を見上げた。 誰もいない、主を失った椅子。
世界を手に入れたはずの二人の胸に去来したのは、かつてないほどの虚無感と、そして――。
(ちゃんと、あの子を、愛してあげてね)
最期に遺されたその呪いのような言葉だけが、冷たい風に乗って、二人の魂を縛り付けていた。




