5生 ep.45
ミーナが撒いた「甘い毒」は、帝国の血管を通って心臓部まで達していた。
経済的な依存と疑心暗鬼が、巨大な帝国を内側から食い破り始めた。
「……ふふ。思ったより早かったわね。自ら首を絞め始めるなんて」
ヌビアの玉座で、ミーナ王妃は帝都からの凶報を記した紙片を、弄ぶように火に投げ入れた。
帝国内部に蔓延した「ヌビア派」や「穏健派」への大規模な弾圧。
かつてミーナの放った商人と通じ、利権を貪った将校や貴族たちは、今や「売国奴」として次々と断頭台へ送られている。
その妻たちの悲鳴さえ、皇帝の耳には届かない。
ミーナの放った毒は、更に皇帝の寵愛を一身に受けていた愛人、そしてあろうことか「第二皇女」にまで届いていた。
第二皇女――。
それは、かつて帝国から追放されたエンヴァにとって、同じ血を分けた腹違いの姉。
だが、疑心暗鬼に囚われた皇帝にとって、もはや血の繋がりなどどうでもよい事だった。
かつて帝都の華と謳われた者たちが、泥に塗れ、鉄の鎖に繋がれる。
皇帝の狂気は、もはや誰にも止められない。
それは「統治」ではなく、ただの「解体」へと成り果てていた。
「嫌! 嫌ぁ! 離して、助けてッ!」
「皇女殿下、お静かに。貴女様には、明白なる反逆の疑いがかけられております!」
深夜の宮殿に、無機質な鎧の擦れる音と、少女の悲鳴が響き渡る。
昨日まで跪き、その手を求めていたはずの親衛隊たちは、今や血も涙もない捕縛者へと成り下がっていた。
「宮女も残らず捕らえよ! 一人も逃すな!」
怒号と共に引きずり出されてきたのは、皇帝の寵愛を一身に受け、女としての頂点に君臨していた愛人――
第二皇女の母。
その、芸術品のように美しかった肌は兵士の荒い手によって赤く腫れ、後ろ手に縛られたまま冷たい地面に這いつくばらされていた。
「……両名の処刑は、明朝。これは陛下の直筆による命令書だ」
地下牢の冷たい格子が、重い音を立てて閉ざされる。
同じ檻の中に放り込まれた母娘は、震える肩を寄せ合い、ただ絶望の闇を見つめることしかできなかった。
「どうして、こんなことに……。私、反逆なんて、一度だって考えてないわ!」
「……気を確かに持つのよ。今、お父様が陛下にとりなしてくださっているはず。侯爵家の力があれば、きっと、誤解は解けるわ……」
縋るような、一縷の希望。
だが、その淡い祈りは、翌朝の処刑場で無惨にも粉砕されることになる。
朝日が昇り、断頭台へと引き立てられた二人の目に飛び込んできたのは、無残に縄を打たれ、誇りを奪われた老齢の父――侯爵の姿だった。
一国の重鎮であり、皇帝の義父でもあった男。
その地位も、名誉も、長年の忠義も。
狂った皇帝の一言によって「謀反人」へと書き換えられた。
希望が、絶望へと反転する。
冬の帝都の冷気さえ、処刑場を埋め尽くした民衆の異常な熱気には勝てなかった。
かつては敬愛の対象だった「花のような皇女様」が、今や残酷な見世物の主役として、断頭台へと引き立てられている。
罪状が読み上げられる。
皇帝の名のもとに、実の娘へ下された「謀反」という名の死刑宣告。
処刑台の上に座すのは、冷徹な首切り斧を構えた処刑人。
その白光が、皇女の瞳に最期の絶望を映し出した。
「嫌! 嫌ぁぁ! 助けて! 誰か、誰かぁぁ!!!」
細い身体を身じろぎさせ、必死の抵抗を試みる。
だが、親衛隊の兵士たちに取り押さえられたその身体は、びくともしない。
かつては世界を統べる王者の血を引く身体が、今はただの「謀反人」として組み伏せられていた。
あまりの恐怖に、彼女のドレスの裾が濡れる。
失禁。
その無様な姿を見た兵士の一人が、下卑た笑いを喰らわせた。
「……こうなったら皇女様も、そこらの普通の女と変わりねえな」
「これより謀反人の処刑を行う!」
処刑人の宣言が、広場に響き渡る。
見物人たちの興奮は、頂点に達していた。
敬愛していた「高貴な存在」が、恐怖に怯え、失禁し、泥にまみれ、これから死ぬ。
その残酷なコントラストこそが、彼らが求めていた最高のエントロピーだった。
すすり泣く第二皇女の、白く細い首に――。
処刑人の斧が、躊躇なく振り下ろされ、食い込んだ。
ドサ。
鈍い音と共に、皇女の首が「首桶」へと落ちる。
切られたばかりの胴体は、失われた頭を探すかのように、冷たい石畳の上でまだ痙攣を続けていた。
処刑人が、自らの血にまみれ恐怖に歪んだ皇女の首を髪を掴んで高々と掲げる。
その瞬間、民衆の興奮は最高潮へと達し、怒涛のような歓声が帝都の空を切り裂いた。
見物人の中に、深くフードを被った銀髪の少女が一人。
彼女は、第二皇女の母(愛人)とその父(侯爵)の処刑も、ただ冷徹に、その瞳の奥に焼き付けていた。
かつて自分を「出来損ない」「ひきこもり」と蔑んだ帝国。
その帝国が、自らの血を、自らの美を、自らの誇りを、自らの手で粉々に砕き、民衆の歓声と共にドブ川へと流す様を、彼女は確かに見届けた。
銀髪の少女は、鎮魂歌を口ずさむこともなく、町の小さな路地へと、音もなく姿を消した。
民衆の叫び声が響き渡る中、かつての栄華を誇った一族は、一夜にして断頭台の露と消えた。
雪の降る帝都の広場は連日のように、処刑された貴族たちの鮮血で赤く染まり、民衆はその異常な光景に息を呑んだ。
この内乱こそが、三国連合軍による「帝国への宣戦布告」の幕開けとなった。
エンヴァは呟く。
「セト、準備はいい? 悪役はあちらが引き受けてくれたわ」
北方のモグス要塞を中心に結成された「反帝国連合軍」は、かつてないほど「人道的」な仮面を被っていた。
帝国内で自らの立場に不安を抱いた貴族達が次々と面と向かって帝国に敵対しているセト王国へと協力を申し出たのだ。
戦火に追われる民衆に物資を惜しみなく与え、逃げ場を失った難民を受け入れる。
その慈悲深い光景は、飢えた民の目に「真の救世主」として映った。
だが、追い詰められた帝国軍は、その禁忌に手をかける。
「救援部隊を撃て! 奴らは難民に紛れた工作員だ!」
帝国軍の弓矢が、セト王国の人道支援部隊を、そして彼らに縋る民衆を無慈悲に降り注ぐ。
炎に包まれる食糧馬車。
泣き叫ぶ子供たち。
その凄惨な光景を、要塞の頂から冷徹に見下ろしていたセトの瞳には、一切の動揺もなかった。
「……これでいい。帝国は自ら、その統治の正当性を灰にした」
白薔薇、蛇、そして獅子。
砂漠を埋め尽くした三つの旗印は永い年月をかけて、帝国の広大な版図をじわじわと侵食していった。
十五年。
少年は苛烈な軍神となり、少女は冷徹な支配者となった。
国力にして十倍を超える巨大帝国を相手に、三王国連合軍はいくつもの凄惨な決戦を乗り越え、ついに帝都の喉元にまでその切っ先を突き立てる。
だが、その栄光の影には、あまりにも重い「喪失」が積み重なっている。
かつて獅子の旗を掲げ、最前線で踏ん張り続けたレオ王は、帝国の狡猾な迂回攻撃からセトとミーナの本軍を守り抜き、その戦いの中で命を落とした。
その意志を継いだリナ王妃もまた、愛する兄の後を追うように二年の統治を経て病に倒れる。
「……お母様……。リナは、幸せでございました。兄のレオも……きっと……」
静まり返った寝所。
死の冷気が、寝所の隅々まで満ちていく。
かつてレオ王国の誇り高き王妃として、一時代を築いたリナ。
その命の灯火は、今や風前の灯火となっていた。
「……愛しています、お母さま……愛しています」
リナの震える声は、もはや掠れた風の音のようだった。
彼女をその膝に抱くエンヴァは、あの日から一分たりとも時が止まっているかのように美しく、そして残酷なまでに不変だった。
否定もせず、肯定もせず、ただ機械的な優しさでリナの髪を撫で続ける。
ふいに呼吸が荒くなる、医者が首を横に振る。
その魂が肉体を離れようとしたその刹那。
魔女の薄い唇から、これまでの十五年間、一度として紡がれたことのない言葉が零れた。
「……私も愛しているわ、愛しい娘リナ」
その一言が、死の淵にあったリナの意識を激しく揺さぶった。
混濁していた瞳が大きく見開かれる。それは驚きであり、歓喜であり、そして何より「救済」だった。
「嬉しい……あぃ……して……お……かぁ……様……」
リナの目から、大粒の涙が溢れ出した。
王妃としての威厳も、かつての策略も、すべてが涙と共に流れ落ちる。
彼女は今、王国を支える支配者ではなく、ただの幼い子供に戻っていた。
泣きじゃくり、縋り付き、最期の力を振り絞って、その愛を返し続ける。
「お……かぁ……さ……」
その言葉を最後に、リナの身体から力が抜けた。
満足げな、どこか幼い寝顔のような死に顔。
エンヴァは、冷たくなっていくリナを抱いたまま、しばらくその場を動かなかった。
彼女の指は依然としてリナの髪を撫でていたが、その瞳に宿る光が「哀悼」なのか、それとも「完璧な幕引きへの満足」なのか。
それは、静寂の中に溶け込んだ魔女にしかわからない秘密だった。
リナが息を引き取ったその時、東の戦場にはイブンの号砲が響き、北の荒野ではセトの蛇の旗が翻っていた。




