5生 ep.43
戦いは終わった。
だが、生き残った者たちにとっての地獄は、ここからが始まりだった。
敗北した連合軍の兵士、そして彼らが命懸けで守ろうとした家族たち。
その数千に及ぶ人間が、家畜のように数えられ、鎖に繋がれる。
「商品」として選別された彼らは、そのまま灼熱の砂漠を曳かれ、港湾都市ヌビアへと送り込まれた。
「急げ! 停泊中の商船を待たせるな!」
かつて沈黙していたヌビアの港は、今や狂乱の中にあった。
レオ王国が西方部族達から略奪した財宝と、供給し続ける数多の奴隷。
それらが市場に溢れるたび、引き換えに金貨と、最新の馬、ラクダ、そして精強な武器防具が王国軍へと流れ込む。
人々はこれを「ヌビアの特需」と呼び、未曾有の好景気に酔いしれた。
その黄金の輝きが、砂漠に流された数多の血と、少女王女が捨て去った「良心」の上に成り立っていることを、知る者はごく僅かであった。
独立都市ヌビア。
砂漠の均衡を巧みに渡り歩いてきた老獪な港湾都市の警戒心を解いたのは、剣でも魔法でもなく、風に乗って流された「毒」のような一言であった。
「……ふふ。嘘も、三度重ねれば真実に、百回語れば信仰になるわ」
レオ王宮の奥底、月明かりも届かぬ書庫で、ミーナは扇を揺らしながら呟いた。
彼女が砂漠に放ったのは、周到に計算された流言——
『レオ王国は帝国軍に目をつけられ、国家存亡の危機にある』という、あまりにもまことしやかな「弱音」であった。
「そんな嘘を……。もし本当に帝国が動いたら、どうするつもりなんだい、ミーナ」
傍らに立つイブン王子は、溢れ出る冷や汗を拭うことさえ忘れ、愛したはずの少女の横顔を見つめていた。
その瞳には、かつての無邪気な輝きはなく、ただ獲物を網に追い込む冷徹な狩人の光が宿っている。
「帝国? 来るなら来ればいいわ。……でも、その前に『憐れな犠牲者』を演じている私たちを助けようと、ヌビアの商いたちが勝手に道を開けてくれる。……いいえ、もう開けてしまったわ」
帝国という巨大な「外敵」を盾に使い、ヌビア側の『今のうちにレオから利益を吸い上げておこう』という強欲と、『共通の敵を持つ味方』という誤認を誘う。
イブンはその徹底した戦略に、もはや尊敬を通り越した空恐ろしさを感じていた。
彼女は、かつて自分が繋がれていた鎖の重さを、今は他国の首を絞めるための力に変えている。
「……さあ、これで準備は整ったわ。ヌビア。……次は、あなたの番よ」
肥大し、油断しきったヌビアの経済。
その心臓部に深く食い込んだ毒が回るのを、ミーナ王女は静かに、愉悦を孕んだ微笑と共に待っていた。
潮騒が遠く響くヌビア執行官館の一室。
そこは豪奢な調度品で飾られながらも、澱んだ「欲望」の臭いが立ち込めていた。
百戦錬磨の執行官と対峙するのは、可憐な少女の皮を被った、冷徹な戦略家。
「――大きな取引をしたいの」
ティーカップがソーサーに触れる微かな音。それが静寂を切り裂き、執行官の鼓動を一瞬だけ止めた。漆黒のドレスに身を包んだミーナは、その愛らしい唇に氷のような笑みを湛え、相手の瞳の奥を射抜くように見据える。
彼女の背後に控えるイブンは微動だにしない。
だが、その胸中には、変わり果てた少女への空恐ろしさが渦巻いていた。
「……ほう。レオ王国の王女が、わざわざ直々に。して、その中身は?」
執行官が、探るような、それでいて侮蔑の混じった視線を投げかける。
だが、次に紡がれた言葉が、その余裕を木端微塵に粉砕した。
「奴隷三千を売り渡します。……西方で大きな戦いがあったのは、既にご存じでしょう?」
「三千……!?」
執行官が、弾かれたように椅子から腰を浮かせた。
その顔が驚愕に歪む。 砂漠の歴史において、これほどの規模の「商品」が一挙に市場へ流れることなど、かつてあっただろうか。
「三千……だと? 正気ですか殿下。それほどの数を一度に捌くとなれば、この街の銀が尽きかねんぞ」
「あら、いい値段をつけてくださいましね? 西方は美人の多い土地。……商品価値としては、申し分ないはずよ」
およそ十三、四歳の少女の口から出る言葉とは思えない。
ミーナは、かつて自分たちの首を縛っていた鎖の重さを、今は金貨の重さに置き換えて計りにかけていた。
その瞳には、慈悲などという甘い感情は微塵も残っていない。
「……フフ。面白い。レオの『白薔薇』が、これほどまでに黒く染まっているとはな」
執行官の額に、一筋の冷や汗が流れる。 目の前にいるのは、救済を求める王女ではない。
自らの野心のために、砂漠のすべてを食い潰そうとする若き捕食者であった。
その背後に控えるイブンは、胃を握り潰されるような緊張感に耐えながら、流れるように商談を進めるミーナの横顔を、はらはらと見守るしかなかった。
かつて自分たちを縛っていた鎖を、今度は自分たちが他人の首にかける。
その業の深さを知りながらも、ミーナの瞳には一点の曇りもなかった。
ヌビアの執行官は、目の前の少女が差し出した「毒」を、極上の美酒と思い込んで飲み干そうとしていた。
三千の命を金貨に変える。その強欲が、老獪な商人の目を曇らせていたのである。
「……ふむ。三千の西方奴隷か。よかろう、我らヌビアの総力を挙げて捌いてみせましょう。これまでも何度も良い取引をさせて頂いた王女殿下の為にも、全力を尽くします」
執行官は恭しく頭を下げた。
彼にとってレオ王国は、危うい均衡の中で「金」を運んでくる最高のビジネスパートナーに過ぎなかった。
「……それでは、来月――」
契約の成立を告げる、最後の一言。
その瞬間。
ミーナの瞳が、獲物を捕らえた猛禽のように鋭く細められた。
そこにあるのは、商談の成立を喜ぶ王女の微笑みではない。獲物の急所を見定め、一撃で息の根を止めようとする「捕食者」の冷徹な輝きだった。
潮の香りに混じる、鉄の錆びた臭いと、数千人の啜り泣き。
独立都市ヌビアの巨大な城門は、自ら音を立てて開け放たれた。
「――もっと奥へ詰めろ! 馬車が入りきらん!」
「商品に傷をつけるなよ、値が下がるぞ!」
ヌビア兵たちの粗野な怒号が飛び交う中、三千人もの「商品」を乗せた馬車の列が、砂塵を巻き上げて街へと流れ込んでいく。
檻の中では、ボロを纏った奴隷たちが、自らの数奇な運命を嘆くように、あるいは絶望に耐えかねたように、低く、湿った声を上げて泣き伏していた。
その光景を、五百の騎馬隊に守られたミーナは、冷然たる眼差しで見下ろしていた。
「いやはや……壮観ですな。これほどの数を一度に拝めるとは」
出迎えに現れた執行官の顔には、隠しきれない下卑た欲望が張り付いている。
彼にとって、この泣き声は金貨が擦れ合う快音にしか聞こえていないのだ。
「ええ。良い値で買っていただき、感謝していますわ、執行官」
「ははは、こちらこそ! 事前に送っていただいた『サンプル』を拝見しましたが、確かに質が良い。あのような美人が揃うとは、西方の部族も捨てたものではない」
執行官の脳裏には、数日前に届けられた三人の「サンプル」が浮かんでいた。
若く、しなやかで、砂漠の毒草のような危うい美しさを秘めた女たち。
彼女達に添えられた手紙には一言、こう書いてあった。
「ーーお味見にどうぞ」
(確かに、極上の女達だった)
執行官はサンプルに満足していた。
「お気に召していただいて光栄ですわ。」
事もなげに呟くミーナの唇が、わずかに弧を描く。
「――確かに仰る通り、美人も多い。我々も、さすがにこの規模の取引は初めてでして……」
老獪な商人の感嘆は、喉の奥から絞り出された、最後の言葉となった。
彼が欲望に濡れた瞳で、可憐な王女へ一歩歩み寄った、その瞬間。
銀光が一閃。
ミーナの腰から引き抜かれた剣が、執行官の喉を、正確に、そして深く貫いていた。
「――今よ! すべてを奪いなさい!」
少女王女の、氷点下の叫び。
その一声を合図に、世界は一変した。
先ほどまで、己の運命を嘆き、檻の中で泣き崩れていた三千の奴隷たちが、一瞬にして涙を止めた。
「奴隷」を閉じ込めていた檻が、内側から次々と蹴り破られる。
檻の床底、二重底に隠されていた、研ぎ澄まされた鋼の武器が、躊躇なく振り下ろされた。
「美人」と称された女たち――そのボロを纏った下には、過酷な訓練に耐え抜いたレオ王国の精鋭女兵士たちの、引き締まった肉体が躍動していた。
「予定通り! 私たちは港を抑える! 抵抗する者は切り捨てよ!」
女性歩兵隊長の激が飛ぶ。
彼女たちの背後では、床下から取り出した弓を構え、城壁の上のヌビア兵を、一糸乱れぬ斉射で狙い打っている。
「商品」は一瞬にして「凶器」へと変貌した。
欲望に溺れ、油断しきったヌビア港は、瞬く間に鮮血で塗りつぶされ、レオ王国の蹂躙に晒されていく。
ヌビアの誇った鉄壁の門は、今や彼らを閉じ込める絶望の檻へと変貌していた。
怒号と金属音、そして一方的な蹂躙の音が、潮騒をかき消していく。
「門を死守せよ! 兵を入れろッ!」
奴隷のボロを纏ったままの歩兵長が、鋭い下知を飛ばす。
先ほどまで「商品」として扱われていた檻馬車は、訓練された兵士たちの手によって瞬く間に解体・再構築され、堅牢なバリケードへと姿を変えた。
「門を閉めさせんな! 突き出せッ!」 散発的に突撃してくるヌビア兵を、檻の隙間から突き出された槍が次々と冷酷に貫いていく。
すべては、ミーナが描き出した、計算尽くのチェス盤の上。
混乱の極みに陥ったヌビア守備隊の視界を塞ぐように、開け放たれたままの城門から、砂塵を巻き上げて本隊三千の歩兵が怒涛のごとく雪崩れ込んだ。
「分断せよ! 各個撃破! 慈悲はいらないわ」
ミーナの冷徹な指揮のもと、レオ王国軍は迷いなく動く。
あらかじめ軍官僚たちと共有していた要所を次々と制圧し、敵の連絡網を断ち切る。
分断されたヌビア防衛隊は、常に自分たちの二倍以上の兵力に包囲され、抵抗の術を奪われていった。
次々と組み伏せられ、無様に縛り上げられていくヌビアの男たち。
昨日まで「奴隷」を値踏みし、富を貪っていた者たちが、今度は自分たちの手首に食い込む縄の感触に絶望する。
それは、あまりにも残酷で、あまりにも美しい「裏返り」の光景であった。
自慢の自衛軍はその牙を剥く間もなく、圧倒的な数と奇襲、そして「信頼」という名の毒に侵されて霧散した。
難攻不落と謳われた港湾都市ヌビア。
それは、一人の少女が仕掛けた「悪魔の商談」によって、わずか刻限の間にレオ王国の領土へと塗り替えられたのである。




