5生 ep.40
帝国軍の脅威が霧散し、砂漠の空にはどこまでも突き抜けるような青が広がっていた。レオ王国の都は、歴史上類を見ないほどの熱狂と、色鮮やかな長旗に埋め尽くされている。
「イブン王子、ミーナ王女、万歳ッ!」
「砂漠に永遠の平和を! 魔女様に栄光を!」
地響きのような歓声が、王宮の厚い壁を抜けて微かに届いてくる。
都を挙げての「砂漠一の結婚式」。
その喧騒から離れた王宮の一室で、エンヴァは一人、上質なソファに身を預けていた。
漆黒のベネチアンマスクを傍らに置き、黄金の瞳を細めて窓の外を眺める。
そこには、民衆の祝福を一身に浴び、緊張しながらも幸せそうに歩むイブンと、完璧な王女の作法で微笑むミーナの姿があった。
「あーりーがーとーーーー!」
国民に向けてつま先立ちで思い切り手を振るミーナ。
「もう少し、奥ゆかしさが欲しい所ね。お作法の先生を追加しようかしら。」
エンヴァのその口元にはわずかな慈しみが浮かんでいた、その時。
「……あら。相変わらず、素直じゃないわね。」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
音もなく、光すら歪めて現れたのは、一人の女。 エンヴァと同じく、常人離れした美貌と、世界を俯瞰するような超然とした空気を纏った――「お姉さま」。
エンヴァは驚きを見せることなく、ただ静かに視線を向けた。
「……あなたが……そうなのね。何の用かしら?」
「お祝いに来たのよ。今日は特別でしょう?」
「お姉さま」は、窓の外で誓いの言葉を交わす二人を、愛おしそうに見つめた。
そして、エンヴァの肩にそっと手を置くと、耳元で鈴の鳴るような声を響かせる。
「あなたの『孫』の結婚に、至高の祝福を」
その言葉を残し、彼女の姿は一陣の涼やかな風となって掻き消えた。
後に残されたのは、窓から差し込む強烈な陽光と、ほんの少しだけ漂う、古い魔力の残り香だけ。
「……孫、ね。」
背筋に一筋の汗。
あの日、あの女に自分は首を落とされたのだ。
直感がそう告げた。
エンヴァは、「お姉さま」が消えた虚空を睨みつけると、再び窓の外へ目を向けた。
そこには、婚礼の儀を終え、新しい時代を切り拓こうとする二人の若者の、輝かしい未来が広がっていた。
レオ王国での祝祭を終え、セト王国に帰還したエンヴァ。その瞳に休息の色はなく、王宮の冷気の中で次なる盤面を指し示した。
「準備はいい、セト。遊びは終わりよ」
広げられた軍事地図の上、エンヴァの指先が一点に止まる。
帝国軍西方軍5千が駐留する、難攻不落の要衝「モグス要塞」。
そこは旧ゲルド王宮へと続く唯一の橋頭保であり、帝国が砂漠を越えて侵攻するための生命線だ。ここを落とせば、帝国軍の補給路は物理的に遮断され、砂漠の守りは鉄壁と化す。
「5千の敵に対し、一万の精鋭を貸してあげる。あなたの初陣よ。三か月の地獄が、ただの拷問じゃなかったことを証明して見せなさい」
エンヴァの冷徹な声が、セトの背筋を震わせる。
だが、それは恐怖ではなく、己を「王」として認められたことへの高揚感だった。
「……わかっている。僕は、あなたの選んだ王だ」
かつての奴隷の面影を完全に捨て去り、セトは鋭い眼差しで応えた。
一国の命運を背負う剣の重み。その覚悟を試すように、エンヴァは漆黒のベネチアンマスクを弄び、妖しく微笑む。
「いい返事ね。……そうそう、もし見事にここを落としたら。セト、あなたに『ご褒美』をあげるわ」
「えっ……ご、ご褒美……?」
耳元で囁かれた甘い声。
セトの脳裏が、一瞬で真っ白に染まった。 厳しい修行と罵倒、そして冷徹な命令の連続だった彼女からの、初めての誘惑。
単純にして最強の動機を手に入れた少年王の戦意は、一瞬にして限界を突破した。
「――全軍、出撃! モグス要塞を、我らが手に!」
砂塵を巻き上げ、精鋭一万が砂漠へと駆け出す。
その後ろ姿を見送りながら、エンヴァはどこか愉悦を孕んだ笑みを浮かべた。
帝国軍五千が守るモグス要塞は、砂漠にそびえ立つ天然の岩山を利用した難攻不落の要害。
通常、籠城戦を崩すには三倍の兵力がセオリーとされる中、セトが率いるのは一万の軍勢。
王国全軍二万を投入したとしても、長期戦は避けられないはずだった。
……だが、少年王の選んだ道は、定石を嘲笑うかのような「合理的な地獄」であった。
「敵が山城から出てこぬなら、こちらにもやりようがある」
包囲陣の最前線、セトは冷徹な眼差しで要塞を見上げた。
かつての奴隷の少年は、三か月の地獄の教育を経て、勝利のためなら「美徳」すらも切り捨てる王へと変貌を遂げていた。
彼が命じたのは、総攻撃ではない。
巨躯を誇る投石器が次々と運び込まれ、そこに装填されたのは岩石ではなく——「疫病で事切れた死体」であった。
折しも、周辺の村々では病が流行している。
死体の確保に事欠くことはない。
シュルル、グチャ
と風を切る不吉な音と共に、連日のように数百の死骸が城壁を越え、要塞内部へと降り注ぐ。
大量のネズミがその肉をかじり、生きた兵士にもかじりつく。
遺体が腐乱し虫が湧く、要塞の守備兵達はそれを城壁の外に捨て続けるしかないのだが遺体を動かすたびに
ウワアアアアン!
と虫の羽音が空気を切り裂く
一週間も経たぬうちに、要塞内には腐臭と病の影が蔓延し始めた。
帝国兵たちが発病し、恐怖に震え上がったその時、決定的な一撃が放たれた。
放たれた一体の死骸が、運命の悪戯か、要塞内にある唯一の飲用井戸の屋根を突き破り、そのまま水面へと吸い込まれたのだ。
遺体は井戸の中でバラバラになり、その腐った黒い血が井戸の水を染める。
「かきだせ!早く!死体を引き上げろ!」
いくら井戸の水をかきだしても、遺体を引き上げようとしても細切れのようにほぐれていく腐った疫病の肉に汚染されていくばかり。
「……なんて所に入りやがるんだ!」
要塞守備隊の悲鳴が上がる。
唯一の水源を「汚染」という形で失った瞬間、兵士たちの士気は底をついた。
その間にも次々と疫病で死んだ女、子供の遺体までがどんどん投石器によって投げ込まれてくる。
そこへ、セトの冷徹な宣告が響き渡る。
「投降せよ! 魔女エンヴァの力をその身で直接味わう前に!」
その名は、砂漠の民にとって絶対的な死の象徴。
強制的に徴兵されていた現地兵たちは、恐怖に耐えかねて次々と脱走を始めた。
喉を焼く渇きと病魔、そして魔女の影。
「かくなる上は、一点突破をはかる……! 全軍、東へ突撃せよッ!」
モグス要塞の東門が、ギギギギと悲鳴のような音を立てて開け放たれた。
疫病と渇きに正気を失った帝国兵たちが、死中に活を求めて全軍突撃を敢行する。
だが、その血路の先に待ち受けていたのは、砂漠の軍勢の常識を覆す「異形の軍」だった。
だが、砂塵の向こう側に現れたのは、砂漠地域の戦闘で最もポピュラーな機動力重視の軽装兵ではない。
鈍く光る鋼鉄の巨盾を隙間なく並べ、大地に深く根を張った三千の「守備偏重部隊」であった。
「……何だ、あの軍は。砂漠の民が、あんな重装備を……!」
帝国兵が驚愕に目を見開く。
熱砂の地では、機動力を殺す重装甲は死を意味するはずだった。
しかし、セトが別動隊として配置していたその部隊は、砂漠の常識を捨て、ただ「足止め」という一点のみに特化した鋼の壁と化していた。
ガキィィン! と、突撃の衝撃が鋼鉄の盾に跳ね返される。
三千の盾兵は、一歩も引かない。
帝国軍が焦燥に駆られ、その重圧に押し潰されそうになった瞬間、背後から地響きが轟いた。
「逃がさぬ。ここが貴様たちの、、。墓標だ」
城内から追いすがってきたセト率いる弓隊、歩兵、騎馬隊、本隊あわせて5千。
鋼の壁に阻まれ、行き場を失った帝国軍は、もはや逃げ場のない「袋のネズミ」であった。
前方は動かぬ鉄の絶壁、後方は魔女の「ご褒美」に燃える少年王の刃。
「全軍、挟撃!」
セトの冷徹な号令が飛ぶ。
精強を誇った帝国西方軍五千は、砂漠の真ん中で二つの軍勢に挟まれ、完膚なきまでに壊滅した。
モグス要塞を完封し、帝国軍を圧殺したセト。
返り血を浴びた鎧のまま、砂塵を裂いて帰還した若き王を待っていたのは、勝利の咆哮ではなく、静まり返った玉座の間の「闇」だった。
「……戻りました、エンヴァ様。要塞は陥落、敵軍五千は一兵残らず……砂に還しました」
重い鎧の音を響かせ、セトは玉座の前で膝をついた。
肩で息をするその姿には、戦場を支配した死神の冷徹さと、たった一人の女性の承認を渇望する少年の危うさが同居している。
玉座からゆっくりと立ち上がったエンヴァは、影を引くように歩み寄った。
彼女の黄金の瞳が、セトの頬にこびりついた乾いた返り血を冷ややかに見つめる。
「……随分と、汚れたわね。王を自称するなら、もう少し身なりを整えたらどう?」
突き放すような言葉。だが、その指先は優しくセトの顎を持ち上げた。
視線が絡み合う。セトの喉が、極限の緊張で小さく鳴った。
「戦術は合格。……けど、一人前の王とはまだ言えないわね」
エンヴァの言葉は鋭利な刃のようだった。
しかし、次の瞬間。
彼女の白く細い指が、セトの火照った頬にそっと添えられた。
「……でも、約束は約束。……よくやったわ、セト」
ふわり、と。
戦場の死臭をかき消すような、甘く、酷く冷たい魔女の香りが鼻腔を突く。
驚きに目を見開くセトの視界が、彼女の銀髪に覆い尽くされた。
柔らかな感触が、彼の唇に重なる。
それは祝福にしてはあまりに熱く、儀式にしてはあまりに背徳的な、魔女からの「口づけ」。
「……っ、エンヴァ、様……」
唇が離れた後、セトは言葉を失ったまま呆然と立ち尽くした。
頬に触れていた彼女の手の温度だけが、焼けるように熱く残っている。
「……今の、忘れないことね。次の戦果も期待しているわよ、私の可愛い『王様』」
漆黒のベネチアンマスクを指先で弄びながら、エンヴァは翻したマントの影に笑みを隠す。
それは、さらなる地獄へと少年を駆り立てる、最上の毒薬であり、呪いであった。




