5生 ep.39
セト王国から忽然と姿を消して一週間。
砂漠の魔女は、砂漠の静寂を切り裂き、単騎でレオ王国の王宮へと舞い戻っていた。
かつての己の「家」とも言える場所へ、影に紛れて。
「……しっ。静かに、ミーナ」
深夜の王宮、月明かりすら届かぬ隠し通路。
そこから染み出るように現れた銀髪の影に、ミーナは危うく悲鳴を上げそうになった。
「エンヴァ様! お一人でいらっしゃったのですか!?」
「……私は自分の部屋に戻るわ。レオとリナを呼んできて」
人差し指を唇に当てたエンヴァの、有無を言わせぬ威圧感。
かつて、前世のイブンが幾度となく訪れてきたエンヴァの部屋。
花を送ったり詩を読んだり、何とかエンヴァの気を引こうとしていた子供時代。
そんな事を思い出していると
かつてエンヴァが「魔女」として過ごした私室に、息を切らしたレオ王とリナ王妃が飛び込んできた。
「母上……! よくぞご無事で!」
「お母さま! お会いしとうございました!」
私室という事もあって、何も隠さずエンヴァの前で子供に戻る二人。
「……えっ?」
隣で控えていたミーナが、ポカンと口を開けて固まった。
三か月の地獄の猛勉強で、この国の王家と魔女の関係性は学んだはずだった。
だが、目の前で「王」と「王妃」という最高権力者が、十五歳の少女に縋り付かんばかりの勢いで『お母さま』と呼んでいる。
「お、お母さま……? エンヴァ様が、お二人の……?」
「……大人は色々複雑なのよ、忘れなさいミーナ」
「は、はい! 忘れましたっ!今!」
地獄の教育の賜物か、ミーナは思考停止の術を即座に発動させた。
そこへ、さらに騒ぎを聞きつけたイブン王子が部屋になだれ込んでくる。
「エンヴァ様! ……お戻りになられたのですね!」
「……なんだか騒がしいわね。レオ、明後日、国民の前に姿を見せるわ。公式にね」
エンヴァの宣言に、レオ王の瞳が歓喜に揺れた。
「おお! それは……! イブンとミーナの婚礼を祝う、これ以上ない贈り物になります! 砂漠の民は狂喜乱舞しましょう!」
「ありがとうございます! お母さま!」
イブンの満面の笑みを横目に、エンヴァはふと表情を和らげた……が、すぐにリナ王妃へと視線を移した。
「……リナ。一つ、お願いがあるのだけど」
エンヴァはリナの肩を引き寄せ、周囲に聞こえないほどの小声で耳打ちした。
黄金の瞳に宿る、冷徹で、けれどどこか祈るような光。
その密やかな「依頼」を聞いたリナの表情が、一瞬で引き締まった。
ブオーーーーブオーーーーー
レオ王宮の静寂を切り裂き、朗々と響き渡る角笛の音。
「見ろ! 城壁の上に……魔女様だ!」
「おおお! エンヴァ様だ! 真の魔女様が、お姿を現されたぞ!」
熱を帯びた絶叫が、地響きとなって都を揺らした。
高く聳え立つ城壁、バタバタと激しくはためく長旗の列。
その間を、一人の少女が悠然と歩んでいた。
銀髪を砂漠の陽光に輝かせ、その顔には――漆黒のベネチアンマスク。
瞳の奥の黄金色だけを覗かせるそのミステリアスな装いは、集まった群衆の想像力を瞬時に限界まで加速させた。
エンヴァが静かに両手を掲げる。
次の瞬間、大気が震えた。彼女の指先から溢れ出した魔力の波動が空気の密度を歪め、目に見えぬ「龍」となって空を駆ける。
ピタリと止んでいた風が、突如として猛烈な旋風へと変わり、色とりどりの長旗が一斉に、狂ったように空へとのけ反った。
「風を呼ばれた! 魔女様の祝福だ!」
「イブン王子のご結婚を、天が……いや、魔女様が認めてくださったのだ!」
本人にとっては、ただの大気の操作。
火種を熾すよりも他愛のない「手遊び」に過ぎない。
だが、奇跡を渇望する民衆にとって、それは絶対的な神意の顕現だった。
仮面の魔女が歩むたびに、歓喜の嵐が広がり、砂漠の都は「最強の守護者」への狂信に塗り替えられていく。
黒い仮面の下で、エンヴァは冷ややかに都を見下ろしていた。
この熱狂が、帝国軍の耳に届くまでに、そう時間はかからないだろう。
おそらくはこの中に間者の何人かはいるのであろう。
「ゲルドにいるはずの魔女が、レオで風を呼んでいる」。
その攪乱情報こそが、彼女がこのバルコニーで演じた「余興」の正体であった。
城壁の上での「神進劇」を終え、熱狂する民衆の絶叫を背に、エンヴァは王宮の奥深く、かつて己が過ごした私室へと引き上げた。
部屋に入るなり、エンヴァは漆黒のベネチアンマスクを外して無造作に机へと放り出した。
部屋には、リナ王妃が一人、張り詰めた空気の中で控えていた。
その手には、今エンヴァが外したものと寸分違わぬもう一つの「漆黒のベネチアンマスク」が握られている。
「……用意はできたわね、リナ」
「はい、母様(お母さま)。……彼女は、奥の間に」
リナの言葉に応えるように、天蓋付きのベッドの陰から、一人の人影が音もなく姿を現した。
銀髪のカツラを被り、背格好から立ち振る舞いまで、エンヴァと瓜二つに作り上げられた口の利けない侍女。
彼女は、主から下される呪いにも似た大役を前に、石像のように微動だにせず控えていた。
エンヴァは、リナから受け取ったもう一つの仮面を、その侍女の顔へと静かに装着させる。
「……完璧ね。声を出さず、ただ立っているだけでいい。……それだけで国民は『魔女がそこにいる』と信じ続けるわ」
これこそが、エンヴァがリナに耳打ちした「お願い」の正体。
たった一人の「虚像」を創り出し、それをレオ王国の象徴として宮廷に固定する。
ある時の魔女はレオ王国の都で民衆の前に立ち、その数時間後には、物理的に移動不可能なはずの数百キロ離れた国境付近で魔術を行使する。
「本物」と「たった一人の影武者」が、時間差で各地に現れることで、帝国軍は「魔女は複数いるのか?」あるいは「魔女は瞬間移動ができるのか?」という、底なしの疑心暗鬼へと叩き落とされるのだ。
黒い仮面の下で、本物の魔女は愉しげに微笑んだ。
「……馬鹿な。あり得ん。そんな報告、受理できるかッ!」
帝国軍司令官の怒号が、天幕の中に響き渡った。
机の上に叩きつけられた数枚の報告書。
そこには、これまでの戦略を真っ向から否定する「事実」が並んでいた。
「レオ王国の王宮で風を呼ぶ魔女が確認された……。だがその同日、二百キロ離れた北方の国境付近で、同じ仮面の魔女がモンスターの巣を灰にしただと!? やはり魔女は二人いるというのか!」
『魔女は旧ゲルドにいる』。 その当初の確信は、今や見る影もない。
今月末に帝都を出発し、砂漠を一気に蹂躙するはずだった南方軍。
その精鋭たちは、今や出撃を見合わせ、足止めを食らっていた。
魔女エンヴァの変幻自在な「入れ替え」が、帝国の眼を完全に潰したのだ。
キャラバンに扮した「影武者」をゲルドへ送り込み、その隙に本物のエンヴァ自身がレオ王国へと滑り込む。
さらには、エンヴァが放った「霧」の魔術で次々と帝国の間者をあぶりだす。
「……報告します。城門の外に……捨てられていたそうです」
「我が国の間者か?」
「はい。ですが……生きたまま『裏返し』にされていたと。……もはや人としての形を留めておりませんでした」
司令官の背筋に、氷を流し込まれたような戦慄が走った。
殺すのではない。ただ「恐怖」という名の生きたメッセージとして返してくる。そのあまりの残虐さと魔術的技量に、工作員たちは震え上がり、帝国の情報網は内側から崩壊した。
――結果、帝国軍の論理は死んだ。
本物がどこにいるのか、次の一手はどこから来るのか。
すべてが「霧」の中に消えた。
かくして、帝国軍による西方二国への軍事侵攻は、剣を交えることすら叶わず頓挫したのである。




