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転生の魔女  作者: RUSA
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5生 ep.38

帝都の冷徹な軍議とは対照的に、レオ王国の空はどこまでも高く、晴れ渡っていた。


今、この国を支配しているのは戦略でも恐怖でもなく、ただ純粋で、無邪気な「幸福」という名の熱狂。




「レオ王国万歳! イブン様、万歳ッ!」


「我らが魔女、エンヴァ様に栄光あれ!」


砂漠の都の目抜き通りは、色とりどりの花びらと、安ワインの芳醇な香りに包まれていた。




かつて帝国の影に怯え、砂を噛むような思いで日々を過ごしていた民衆にとって、王子イブンと、魔女の加護を受けし王女ミーナの婚約は、まさに「光」そのものだった。




広場では楽団が陽気なリズムを刻み、子供たちはエンヴァを模した銀髪の人形を掲げて走り回る。 酒場という酒場からは、政略や軍略など露ほども知らない男たちの野太い笑い声が溢れ出していた。




「聞いたか? あの帝国軍が、魔女様の影を見ただけで震え上がって撤退したらしいぜ!」


「ああ、これでもう戦争なんておさらばだ。これからは、レオ王国とセト王国の黄金時代よ!」


人々は信じて疑わなかった。




自分たちの国には、魔女がついている。


彼女がいれば、どんな災厄も、どんな軍勢も、指先一つで塵に帰してくれるのだと。


王宮のテラスからその喧騒を見下ろすレオ王とリナ王妃の顔にも、隠しきれない安堵の笑みが浮かんでいる。




「……ふぅ」


ミーナの小さな口から、白く細い溜息がこぼれた。




三か月。あの地獄のような猛勉強で、彼女は「王女としての知識」を完璧に叩き込まれた。




政略結婚とは、国土を繋ぐ鎖であること。


愛よりも利害、情熱よりも均衡。




百人の教師たちが異口同音に唱えたその「正解」を、彼女は白目を剥きながらも脳の深奥に刻みつけた。


(……イブンなら、いーよ。そう言ったのは、嘘じゃない。でも……)


ドレスの裾をぎゅっと握りしめる。




「王女」としての自分は、レオ王国との同盟という一世一代の仕事を完遂しようとしている。


けれど、その仮面の下にいる「元奴隷のミーナ」は、あまりの急展開に足が震えていた。




「ミーナさん、こんなところで何をしているんですか?」


聞き慣れた、少し低い声。 振り返ると、そこには豪華な正装に身を包んだイブンが立っていた。


商人の変装を解いた彼は、見違えるほど凛々しい「王子」の姿をしていた。




「あ、イブン……。ちょっと、夜風にあたりたくて」


「……顔が、少し青いですよ。幽霊でも出ましたか?」


イブンが冗談めかして笑う。




いつもなら「もう、不吉なこと言わないで!」と笑い飛ばせるところだった。


けれど、今夜のミーナは、ただ力なく首を振ることしかできない。




「ねえ、イブン。……私、ちゃんと『お妃様』になれるかな? 勉強したみたいに、完璧に……」


「ミーナさん……」


「この結婚は、セト王国とレオ王国のためのもの。それは分かってる。でも……私、たまに怖くなるの。もし私が王女じゃなくて、ただの奴隷の女の子のままだったら、あなたは私の隣にいてくれた?」




それは、どんな教科書にも載っていない、答えのない問いだった。




イブンは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに優しい、けれど決然とした足取りで彼女に歩み寄った。


「……僕も、教えられましたよ。王族の婚姻は義務だと。でもね、ミーナさん」


イブンが、震える彼女の手をそっと包み込む。


その掌は、猛勉強でペンを握りしめ続けたミーナの手と同じように、少しだけ固くて、温かかった。


「僕があなたに惹かれたのは、あなたが『王女』だからじゃない。……あの日、豆の畑で泥だらけで、それでも兄さんや私、何よりエンヴァ様を信じて笑っていたミーナさんだからだ」




「イブン……」


「あなたがもし、今でもただの女の子だったとしても……僕はきっと、キャラバンを率いてあなたを迎えに行ったはずです。これは、政治じゃなくて、僕の意志ですよ」




ミーナの瞳に、じわりと涙が浮かぶ。 百人の教師が教えた「戦略」よりも、たった一人の少年がくれた「言葉」の方が、ずっと彼女の心を強く、深く震わせた。




「……もう。イブンってば、たまに格好いいこと言うんだから」


ミーナは涙を拭い、照れ隠しに彼の胸に額を押し当てた。




砂漠の月だけが、少しだけ大人びた王女と、背伸びをした王子の、淡く切ない「乙女心」の決着を見守っていた。




「……ふぅ。これで一区切りね」


豪華な装飾が施されたバルコニー。


砂漠の風に銀髪をなびかせながら、エンヴァは満足げに独り言ちた。




その瞳は、はるか遠く、ミーナが向かったレオ王国の空を見据えている。


「エンヴァ様……?」


背後から声をかけたのは、セトだった。




王としての重厚なマントを羽織ってはいるが、その顔にはまだ、あるじを仰ぎ見る少年の面影が色濃く残っている。


「セト。……私、ちょっと留守にするわね」


唐突な言葉に、セトの心臓が跳ねた。




三か月の地獄のような猛勉強を経て、彼はあらゆる知識を手に入れた。


だが、その知識のすべてをもってしても、目の前の魔女が何を考え、どこへ向かおうとしているのかだけは読み解けない。




「留守、って……どこへ行くんですか? 帝国軍が動き出したという噂もあります。今、あなたがこの国を離れたら……」




「この国は、あなたに任せたわ。よろしく頼むわね」


エンヴァはセトの懸念を、まるで春風をあしらうかのように聞き流した。


口笛をならすとエンヴァが好んで乗馬する馬がバルコニーの下に現れる。




「じゃあね、頼んだわよ。私は部屋にいる事にしておいて頂戴」




後に残されたのは、十五歳の少年王と、彼を支える官僚と将軍たち。




「……命令、なんだろうな。これも」


セトは拳を握りしめ、主が消えた虚空を睨みつけた。

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