5生 ep.36
イブンがレオ王国へ帰還して三か月と少し。
旧ゲルド領、現「セト王国」の王宮に、風塵にまみれた一団が紛れ込んだ。
顔を隠し、キャラバンの商人に扮して秘密の通路を通り、息を切らして現れたのは、イブン王子その人であった。
「……誰だ、そこか!」
玉座の間の背後、隠し通路の扉が開く音に、セトが鋭く反応した。 姿を現したのは、砂埃にまみれた商人の装束に身を包み、深くフードを被った男。
彼が顔を覆っていた布を外した瞬間、セトは驚愕に目を見開いた。
「イブン王子……!? なぜ、そんな格好でここに!」
再会の喜びに駆け寄ろうとしたイブンだったが、セトの顔を間近で見た途端、その足が止まった。
「せ、先輩……!? どうしたって言うんですか、その顔! ミーナさんも……なんだか、抜け殻じゃないですか!」
そこにいたのは、精悍さをどこかへ置き去りにしてきたような、心身ともに削げ落ちたセト王。
そして、隣で虚空を見つめて微動だにしない、心ここにあらずといった風情のミーナ王女。
彼らの後遺症はまだ続いていた。
それに100人の教師はいなくなったわけではない。
「あ、ああ……。ちょっと、色々あってね」
「思い出し……ウェップ」
突然、口元を押さえて蹲るミーナ。
セトが手慣れた様子でその背中を優しくさする。
「大丈夫だ、ミーナ。もうあの先生たちはいない……。ああ、イブン王子、僕たちは何とか生きている。本当に、何とか、だけどね」
その惨状の背後で、優雅に扇子を揺らしながら「ククク……」と忍び笑いを漏らす影。
「相変わらずね、イブン。キャラバンに紛れてまでやってくるなんて、相当な急用かしら?」
エンヴァの問いに、イブンは居住まいを正した。
やつれた二人を案じつつも、懐から大切に保管されていた、レオ王国の封蝋が押された親書を取り出す。
「……父レオから、縁談の申し込みを預かって参りました。わたくしイブンと……ミーナ王女殿下の婚儀を」
「縁談? 突然ね」
エンヴァが眉を動かす。
差し出されたのは、かつて彼女が慈しんだレオ王とリナ王妃からの直筆の手紙。
セト王国とレオ王国。
この二つの王国が手を取り合うことこそが、砂漠の平和を繋ぎ止める唯一の鎖となる――。
戦略的に見れば、これ以上の手はない。
レオ王国は表向き帝国の臣下であり、もし彼らが敵に回れば、セト王国は東と南から挟み撃ちを食らう。
だが、この婚姻が成れば、砂漠は巨大な一つの意思として纏まる。
エンヴァは、レオとリナの国を戦火に巻き込みたくはなかった。
だが、手紙に込められた王と王妃の並々ならぬ決意と、キャラバンに紛れてまでやってきたイブンの真っ直ぐな瞳。
そして、地獄の教育を経て「戦う知恵」を身につけたセトとミーナを見つめ、決断した。
「……ミーナさえ良ければ、構わないわよ」
エンヴァの許しが出た瞬間、ミーナの虚ろだった瞳に、ほんの少しだけ生気が戻った。
「え? 私、結婚するの? ……イブンと?」
ミーナが呆然と呟いた。
その言葉の響きには、驚きと共に、この三か月間で叩き込まれた「知識」の重みが混じっていた。
「政略結婚」
――その四文字の残酷さを、ミーナは嫌というほど知っていた。
ある時は強大な部族長を繋ぎ止めるために娘が差し出され、またある時は、城を包囲する敵軍を退かせるために、王女が大量の金品と共に敵陣へと送られた歴史。
王家に生まれた女に、心を通わせる自由など存在しない。
それが、百人の教師たちが異口同音に語った「王道」の真理だった。
だが、その暗記させられた事例たちが、今、自分自身の現実として目の前に突きつけられている。
「……別に、お前が嫌なら断ったっていいんだぞ。ミーナ」
沈黙に耐えかねたように、セトが隣で声をかけた。
王としての顔を脱ぎ捨て、かつて妹を守り抜いた兄の顔で、彼は優しくミーナの背中を叩く。
数秒の沈黙がとても長く感じられた。
そしてミーナが口を開く。
「私は……。……イブンなら、いーよ!」
一瞬の逡巡の後、ミーナは弾けるような笑顔を見せた。
その細い腕で、商人の服を纏ったイブンに迷いなく抱きつく。
「わ、わわっ! ミーナさん……!」
「私はもう、ただ守られるだけの女の子じゃないもん。……イブンとなら、一緒に戦える気がするの!」
自分を「王女」としてではなく「ミーナ」として見てくれる青年。
知識としての政略結婚を、彼女は自らの意志で「希望」へと書き換えたのだ。
「……はは、まいったな。正式なプロポーズは後日、改めて。まずはこの承諾を、父さんと母さんに大急ぎで報告してくるよ」
顔を真っ赤にしながらも、イブンは力強くミーナを抱き返した。
そして、感極まった様子でセトの方を向き、深々と頭を下げる。
「これからもよろしくお願いします! お義兄さん!」
「お、お義兄さんって……気が早いよ、イブン王子」
照れくさそうに頬をかくセトと、幸せそうに笑うミーナ。
殺伐とした最前線に、一筋の温かな光が差し込んだ瞬間だった。




