5生 ep.34
二万の軍勢が沈黙し、五千の民が歓喜に沸く。
その狂熱の渦中で、セトとイブンはただ、放心状態で主の背中を見つめていた。昨日まで逃亡者だったはずの自分たちが、今、帝国の西方拠点の心臓部に立っている。
「……嘘だろ」
白亜の王宮、その静謐な玉座の間。
セトは己の薄汚れた格好と、目の前にある豪華絢爛な椅子の対比に眩暈を覚えた。
数刻前まで血を流す覚悟で剣を握っていた。
だが、主であるエンヴァは、剣を一度も抜くことなく、ただ「歩く」だけでこの国を塗り替えてしまったのだ。少なくとも、従った民衆たちの目にはそう見えた。
玉座の前に立ったエンヴァが、感情の読めない黄金の瞳で二人を振り返る。
「セト、あなたがここの王になりなさい」
「…………はい?」
思考が停止した。
今、この人はなんて言った?
「王」?
奴隷だった俺が?
帝国に追われているこの場所で?
混乱するセトを置き去りにし、エンヴァの視線は静かにイブンへと向けられる。
「あとイブン、あなたはそろそろレオ王国へお帰りなさい」
その言葉の響きに含まれた「温度」を、イブンは瞬時に悟った。
それは決別ではなく、慈悲だ。
「皇女による兄殺し」の共犯者として、レオ王国の王子がいつまでも自分の傍にいては、帝国の激昂は砂漠の王国へと向けられる。
彼女は、自分一人で泥を被り、イブンの故郷を戦火から遠ざけようとしているのだ。
「……畏まりました、エンヴァ様。私はこれより帰国し、我が王国の力を整えます。……そして、いずれはセト王の最強の後詰として、この地に馳せ参じましょう」
イブンは深く、騎士としての最敬礼を捧げた。
その瞳には、主への変わらぬ忠誠と、彼女の意図を汲み取った男の覚悟が宿っている。
「ちょっ、待ってください! イブンまで何を納得してるんだ!? エンヴァ様、俺が王なんて……どういう事ですか!」
慌てて詰め寄るセト。
だが、エンヴァは絶対的な拒絶を込めて言い放った。
「……どういう事も何もないわ。ただの命令よ」
「ぐ……っ」
その一言で、セトの口は縫い合わされたように塞がった。
「命令」。
それは、エンヴァに買われたあの日から、セトが最も抗えない、そして最も信頼している響き。
泥に汚れ、母を失い、それでも生き延びた少年。
十五歳の春、彼は主の「命令」によって、世界で最も危険な最前線の王へと祭り上げられた。
建国から一月。
かつて帝国の西方拠点だった場所は、今や「セト王国」という名の異端の地へと変貌を遂げていた。
少年王セトは、その身に余る豪華な法衣に包まれ、重厚な玉座で「命令」という名の公務に励んでいた。
「……報告は以上か?」
玉座に深く腰掛けたセトが、慣れぬ威厳を振り絞って声を出す。
傍らに立つのは、銀髪を揺らし、すべてを見透かすような瞳をした「魔女」エンヴァ。
彼女の影に守られ、セトは「お飾りの王」という大役を演じ続けていた。
この一月で起きた変化は、奇跡を通り越して「怪奇」ですらあった。
どこからともなく現れた、年老いた官僚たち。
彼らは驚くべきことに、エンヴァの「前世」——かつてこの地を統治していた時代の知識と、彼女への絶対的な忠誠を持ち合わせていたのだ。
あの時のエンヴァよりも若い、そんな事は彼らには関係無かった。
目の前にいる少女は誰が何と言おうと魔女エンヴァそのものだったからだ。
彼らの手腕により、混乱していた行政は瞬く間に正常化され、王国としての体裁が整えられていく。
残念ながら彼らの忠誠はセト王ではなくエンヴァそのものにしか無かったが。
軍事面でも、異変は続いていた。
駐留していた三万の帝国軍のうち、一万五千もの将兵が「魔女」への忠誠を誓って離反。
これは旧ディルガム王朝が帝国の和平を結ぶ時に軍を解散し、その多くが帝国軍に吸収された事に由来する。
あの時エンヴァと共に戦った多くの兵士は帝国軍相手に一歩も引かぬあの時の戦いを瞼に焼き付けていたのだ。
エンヴァに従う事を拒否した残りの半分を帝都へ送り返すという、エンヴァのあまりにも大胆な「温情」は、帝国本国に計り知れない衝撃を与えた。
「今のエンヴァ軍は、新たに加わった志願兵五千を合わせ、総勢二万。……帝国も、うかつには手を出せぬ」
「それに、レオ王国の様子も気になる。今の所服従の形は取っているが」
「一応イブン王子はエンヴァに誘拐されていたのだ、とレオ王から書状が届いている。エンヴァに黄金500枚と引き換えに人質交換をしたとの報告が上がっているが」
「体の良い軍資金提供ではないか、とぼけおって」
「しかし、こちらから強く出て離反されるのが最も厄介だ」
かつての大敗を知る帝国の将軍たちは、慎重派に転じていた。
「魔女エンヴァ」という名の災厄。
それを再び呼び覚ますことを、彼らの本能が拒絶しているのだ。
「セト、顔が硬いわよ。……もう少し、王らしく堂々となさい」
エンヴァの冷ややかな、けれどどこか楽しげな声が耳を打つ。
「……命令、ですよね?」
「ええ、そうよ」
セトは密かにため息をつき、再び重い冠の重みに耐えながら、窓の外に広がる「自分の国」を見渡した。




