5生 ep.33
旧ゲルド領。
かつて帝国に蹂躙され、今はその西方拠点として軍靴に踏みしだかれている地。
イブンは、三万の駐留軍をいかに欺き、いかに潜り抜けるかという「戦術」を必死に練っていた。
しかし、主が提示した「策」は、彼の軍学を根底から覆すものだった。
「ここから先がゲルド領です。街道沿いには二十ほどの集落がありますが、どう回避しましょうか……」
「馬を降りなさい」
「……へ?」
イブンの問いを、エンヴァの短い一言が断ち切った。
「歩くわよ。……ついてきなさい」
(正気か……?)
イブンの脳裏に絶望が過る。
これまでの強行軍で、一行の装備はボロボロだ。
エンヴァのローブは泥と埃で真っ黒に汚れ、髪も乱れている。
隠れるどころか、堂々と顔を晒して村々を通過するなど、自殺行為に他ならない。
しかし、いくら汚したとしてもエンヴァ自身の放つ「何か」は今も前世も全く衰えない。
最初の村に足を踏み入れた瞬間、空気は一変した。
「……あ、ああ……」
農具を握っていた老人の手が、がたがたと震えだす。
「エンヴァ様……! 魔女様が帰ってこられたぞ!!」
「魔女様だ!」
「エンヴァ様が戻られた!」
歓声は波紋のように広がり、瞬く間に集落を飲み込んだ。
汚れにまみれたローブは、隠遁していた神が降臨した証。
疲れの見え始めた三人の従者は、魔女に供奉する聖騎士に見えたのだろう。
村を守るはずの兵士たちまでもが、帝国への忠誠など忘れたように、黄金の瞳を持つ少女の前に膝を折った。
「どちらへいらっしゃるのですか、エンヴァ様!」
一人の若者が、血走った目で叫ぶ。
エンヴァは何も答えない。
ただ、泥に汚れた指先をスッ……と、遠くに見える「旧ゲルド王宮」へと向けた。
「――っ! お、俺も行くぞ! この国を帝国から取り戻すんだ!」
「武器を取れ! 魔女様が先頭にお立ちだぞ!」
そこからの展開は、軍略などという言葉では語れぬ「うねり」だった。
集落を抜けるたびに、農民が、商人が、挙句には脱走兵までもが列に加わる。
「魔女」はただ、無言で歩き続ける。
その後ろには、数時間前まで善良な帝国の市民だったはずの五千の民が、死をも恐れぬ狂熱を帯びて付き従っていた。
旧ゲルド王宮を背に、二万の帝国軍が完全武装で布陣していた。
その様子は、まるで鉄の壁だ。夕日を浴びて鈍く光る鎧と、無数に突き立てられた槍の穂先。
それは、この地に根付く「魔女信仰」を、物理的な暴力で圧し潰すための完璧な陣形だった。
「魔女……だと? あの、お飾りの第三皇女が、か?」
帝国軍の総大将を務める伯爵は、城壁の上から、眼下に集った五千の烏合の衆を冷ややかに見下ろした。
彼の視線の中心にいるのは、泥に汚れたローブを纏い、黄金の瞳を湛えた少女――エンヴァだ。
帝国中央からこの地へ赴任してきた伯爵にとって、旧ゲルド領に伝わる「魔女信仰」など、無知な民草が縋る胡散臭い迷信に過ぎない。
確かに、帝国の戦争記録には、かつてこの地で大半の兵を失う大敗を喫したという記述がある。
だが、伯爵はそれを、ただの「無能な前任者による敗戦」だと切り捨てていた。
「皆、怯えるな! 相手は、ただの女と、農具を持った暴徒に過ぎない! 我が帝国の鉄槌をもって、この地に巣食う妄想ごと粉砕してくれよう!」
伯爵の檄が飛ばされる。二万の兵士たちの士気が、一気に跳ね上がった。
(……うるさいわね)
エンヴァはただ、その喧騒を鬱陶しげに聞き流していた。
少女の唇が、冷酷な三日月を描いた。
二万の軍勢。
鉄の盾。
帝国の威信。
それら全ては、黄金の瞳を持つ少女の「散歩」を止めるにはあまりにも無力だった。
策も、叫びも、怒号も不要。
ただ歩むだけで、世界が彼女に道を譲り始めた。
「歩兵隊! 前へ! あの生意気な娘を捕らえよ!」
伯爵の怒声が響き、重厚なフルプレートアーマーに身を包んだ精鋭たちが、エンヴァを包囲するように盾を並べた。
鉄の壁。
それは本来、千の軍勢をも押し留めるはずの絶望的な質量。
「皇女殿下、大人しくこちらへ——」
一人の兵士が手を伸ばした、その瞬間。
ドサリ。
何の前触れもなく、彼は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
周囲が混乱に陥る中、隣の兵士が目撃したのは、この世の地獄だった。
鎧の隙間から溢れ出たのは、血ではなく、内側から「裏返った」肉。
エンヴァが、泥に汚れた右手をスッ……となぞる。
バタバタバタ、とドミノ倒しのように鋼鉄の塊が地面に沈んでいく。
悲鳴を上げる暇すらない。ただ、彼女の前方に立ちはだかったという「罪」だけで、強靭な兵士たちは物言わぬ肉塊へと変えられた。
「な……ッ!? 何をしておる、撃て! 弓隊、射殺せ!!」
城壁の上、矢を番えようとした弓兵たちが一斉に動きを止める。
見れば、白亜の壁はいつの間にか、禍々しい太さの「黒い茨」にびっしりと覆われていた。
「ア……ガ……ッ」
巨大な棘が石を砕き、兵士たちの手足を、胴を、容赦なく貫き固定する。
城壁はもはや防壁ではなく、兵士たちを串刺しにする巨大な処刑台へと変貌していた。
邪魔者は、もう誰もいない。
魔女の歩みを止めようとする兵士はバタバタと倒れて行く。
そして、そのうちエンヴァに近づこうとする兵士はいなくなった。
「軍が、割れた」
魔女の前に道を開いた帝国軍、その隙間をゆっくりと進んでいくエンヴァと5000の市民達。
そして、 エンヴァが悠然と辿り着いた城門。
それは内側から、かつての「主」を待っていたかのように重々しく開かれた。
「エンヴァ様……!」
「我らが魔女様が、お戻りになられたぞ!」
出迎えたのは、帝国に隠れて信仰を守り続けてきた旧ゲルド領の民たちの狂熱。
敗北を悟り、逃げ惑う伯爵は、すでに「魔女信仰」に魂を売った己の腹心たちによって拘束されていた。
十五歳の少女は、一人の犠牲も出すことなくただ「歩く」だけで一つの王国をその手に取り戻したのである。




