5生 ep.32
優しかった母の温もりを振り切るように、馬たちは荒野を駆ける。
背後に立ち上る砂塵は、帝国の執念そのものだった。
「帝国領を抜けるわ。西へ」
背後で、エンヴァが迷いのない声で告げた。
その声に、感傷や動揺は微塵もない。
「とりあえず、私の国へ参りましょう、エンヴァ様! レオ王国の盾があれば、帝国の兵とて容易には手出しできません!」
ミーナを背に乗せたイブンが、並走しながら叫ぶ。
エンヴァは風に銀髪をなびかせながら、その提案を吟味していた。
レオ王国へ身を寄せる。
それは確実な安全を意味するが、同時に帝国との早期の全面戦争の火種を撒くことと同義だ。
(……戦争は、もう飽きたのよ)
前世で流した血の海。
守りきれなかった責任。
同じ過ちを繰り返すことを、彼女の魂が拒んでいる。
いっそこのまま、イブンを国へ返し、セトとミーナだけを連れて深い森に隠遁すべきか。
それも彼女の望む「静寂」であった。
魔女は迷っていた。
「後方に砂塵! 騎馬隊、こちらの倍の速度で追っています!」
イブンの鋭い警告が響く。
感傷に浸る時間は終わった。 エンヴァは馬上で静かに指を編む。
彼女の意思に応えるように、街道の土中からどす黒い「茨」が音もなく這い出した。それは追っ手の馬の脚に絡みつき、狂ったように大地を穿つ。
「……追手の足が止まった!今のうちに距離を稼ぐ!」
セトが歓喜の声を上げる。
必死に前を見据える彼には、背後で何が起きたのか、主が何をしたのかなど見えてはいない。
だが、イブンは違った。
翻る銀髪、一切の詠唱もなく引き起こされた不可解な「偶然」。
(まさか……本当に、あのお方なのか?)
レオ王国、そしてかつてのディルガム王国に深く根付く「魔女エンヴァ信仰」。
砂漠を支配し、大地を操り、帝国の大軍を撃退したという伝説の魔女。
目の前にいる、自分よりも年若いはずの少女の背中が、イブンの記憶にある古の壁画と重なり始める。猜疑心は確信へと変わり、王子の背筋に未知の震えが走った。
「ブヒヒヒヒ……!」
酷使された馬たちが、泡を吹きながら力なく鳴いた。
「少し馬を休ませましょう。そこで息を整え、水を飲ませるべきです」
イブンの的確な判断により、一行は崩れかけた石壁の影に身を潜めた。
セトは手早く荷を解き、中から硬いパンと干し肉、それに乾燥豆を差し出す。
ーーいつ何が起こるか解らない。
セトの母がまとめておいた食料の詰まった革袋。
「少し休んだら出発しましょう。帝国の騎馬隊は途中で馬を代えます、その分足が早い」
イブンの焦燥をよそに、エンヴァは静かに廃城の入り口を見つめていた。
彼女達が通ってきた街道。
そこには本来、2頭の馬が激しく地面を穿った跡が残っているはずだった。
だが、追手の騎馬隊が分かれ道で立ち往生しているのは、ひとえに魔女の仕業だ。
かつて巨大な土を盛り上げ、数分にして城壁を築いた彼女にとって、街道の土を捏ね、足跡を消し去るなど、容易い。
「そうね……。少し休んだら、出発しましょうか」
落ち着き払ったエンヴァの態度に、イブンは耐えきれず問いかけた。
「どうなさいますか、エンヴァ様? このまま西へ逃げ続けるのか、それとも——」
パッキングを終え、いつでも駆け出せる準備を整えてこちらを見つめるセト。
その真っ直ぐな瞳をぼんやりと眺めながら、エンヴァは唇を薄く開いた。
「……旧ゲルド領へ行くわ。案内なさい」
その一言に、廃城の空気が凍りついた。
旧ゲルド領。
数年前にレオ王国へ向かう際に立ち寄った、帝国の西方拠点。
そこには今も、三万の精鋭が駐留している。
エンヴァが反逆者として追われているという報せは、すでに「鳥」によって届けられているはずだ。
「正気ですか、エンヴァ様! それでは死にに行くようなものです!」
イブンが声を荒らげる。
だが、セトは静かに剣の柄に手をかけた。
「……いいさ。エンヴァ様がそう決めたんなら、俺は地獄の底まで付き合うぜ」
「イブン。あなたはレオ王国へ帰ってもいいのよ?」
エンヴァの突き放すような言葉に、若き王子は膝を折った。
「私はあなたの従者です。離れるわけにはまいりません……!」
「……それならレオ王国はどうなるのかしら?」
「そんなもの、父上と母上がなんとかするでしょう。今の私はレオの王子ではなく、ただのあなたの従者です」
その献身的な答えに、エンヴァは……この旅で初めて、クスリと小さく、けれど美しく笑った。
「出るわよ」
古城を発つ2頭の馬の影。
それは逃亡の終わりではなく、帝国という巨大な怪物の喉元を食い破るための、逆襲の始まりだった。




