5生 ep.28
「ふぅ……ご馳走様でした」
かつての王宮での晩餐とは比べものにならないほど簡素な食事。
だが、労働で空っぽになった胃袋には、どんな山海の珍味よりも染み渡る。
イブンがようやく一息つこうとしたその時、隣からセトの仮赦ない声が飛んだ。
「洗い物と、明日の朝食の仕込みだ。まだ部屋に戻るんじゃないぞ」
「は、はい……先輩」
ガタガタと悲鳴を上げる身体を鞭打ち、イブンは立ち上がる。
台所では、主であるエンヴァ自らが包丁を握り、明日の準備に勤しんでいた。
漆黒のエプロンを締め、淡々と野菜を刻む主の姿。
従者である自分が先に泥のように眠ることなど、道理が許さなかった。
ようやく全ての家事を終え、自室のベッドに倒れ込んだ時、夜風と共にノックの音が響いた。
「……お疲れ。きつかったろ?」
現れたのは、セトだった。
手には、二つの大きなジョッキ。
「本当ですね、先輩。今まで戦場や修練で鍛えてきた身体とは、全く違う場所を使っている気がします……」
「農作業に必要なのは、瞬発的な力よりも終わりのない持久力だからな」
そう言ってセトがテーブルに置いたのは、濃厚な帝国産のエールだった。
イブンの瞳と同じ黄金の輝きを湛えた琥珀色の液体。
喉の奥が、熱い渇望に焼かれる。
「……エンヴァ様に」
「エンヴァ様に!」
二人の声が重なり、ジョッキが鈍い音を立ててぶつかり合う。
「プハーッ! ……美味しい。こんなに美味い酒は、生まれて初めてです、先輩!」
「だろ? 普通の王子様じゃ、この味には辿り着けないよな」
セトは悪戯っぽく笑い、一気にエールを煽った。
かつての奴隷と、王子。
境遇も血筋も、全てが違う。
だが、同じ主に魅せられ、同じ泥にまみれた二人の間には、理屈を超えた奇妙な戦友の絆が芽生え始めていた。
ジョッキが空になると、イブンは弾かれたように立ち上がった。
「次は僕が買ってきますよ、先輩!」
その足取りは軽く、一国の王子が元奴隷の「パシリ」をすることに微塵の躊躇もない。
セトはその背中を見送りながら、複雑な吐息をついた。王子の順応力への感心と、それ以上に、彼が放つ圧倒的な「光」への焦燥が胸を焼く。
「……それで、どうやって先輩はエンヴァ様と御縁を持ったのですか?」
二杯目のエールが喉を潤し、少しだけ熱を帯びた夜。
イブンの問いに、セトは遠い過去——といっても、それほど年月も経っていないはずのあの日を回想した。
「縁、なんて綺麗なもんじゃない。俺はただの、使い捨ての奴隷だった」
語られたのは、血と砂にまみれた決闘の記憶。
対戦相手は、筋骨隆々とした巨躯を誇る獣人。
対するセトは、あばら骨が浮き出るほど痩せこけた、ただの「人間」の子供。
誰もが獣人の勝利を確信し、端金を投じる中、セトを選んだ一人の少女だけが、金貨十枚をセトに賭けた。
「エンヴァ様は、俺に賭けたんだ。そして勝った。……その勝ち金の全てを、俺に投げてよこしたんだよ。」
自由を得るための金。
だが、セトにとってそれは「解放」ではなく「呪縛」に等しいまぶしすぎる救済だった。
金を手にして自分を奴隷商から買い取ったセトは、その足で王宮へと向かった。
帝国の象徴たる巨大な門の前で、喉が潰れるまで主の名を叫び続けた。
「……気づけば、目の前にあの人が立っていた。どこから現れたのかも分からない。ただ、俺を見てニッコリと笑って……俺を『所有』してくれたんだ」
セトの声には、震えるような熱量が宿っていた。
一国の王子として、あらゆるものが「与えられて当然」だったイブンにとって、それはあまりに荒唐無稽で、泥臭く、けれど同時に、魂を揺さぶられるほどに純粋な信仰の物語だった。
「……そんなことが、あったんですね」
イブンは沈黙した。
目の前に座る「元奴隷」が、なぜこれほどまでに必死に、泥にまみれてもなお主の隣に立とうとするのか。
その理由の一端に触れた王子は、知らず知らずのうちに、自分の持っていた「忠誠心」という言葉の軽さに、静かな衝撃を受けていた。




