5生 ep.25
「……行くわよ、セト」
馬車のステップに足をかけ、エンヴァは一度も振り返らずに告げた。
その背後には、旅装を整えたセトと、そしてもう一人。
今日から「従者」として加わることになったイブン王子が、眩いばかりの笑顔を湛えて立っている。
城門の前には、レオ王とリナ王妃が並び、その姿を焼き付けるように凝視していた。
一国の王と王妃が、公式な見送りという体裁を超え、まるで今生の別れを惜しむ子供のような、痛々しいほどに真剣な眼差しを皇女に向けている。
「母上……いえ、エンヴァ殿下。どうか、ご道中お気をつけて」
レオ王の声が微かに震える。
その脳裏には、自分と妹の間に生まれた「禁忌の子」であるイブンの姿と、かつて自分たちを導いた「不変の母」の姿が重なっていた。
婚約という形ではなく、従者——すなわち帝国の鎖に繋がれた人質として、息子を彼女に託す。
それはレオとリナにとって、過去の罪を彼女の慈悲に委ねる、唯一の救済だった。
「ええ。レオ王も、リナ王妃も、息災で。……この街を、大切になさい」
エンヴァの言葉は、どこまでも淡々としていた。
「よろしく頼みますよ、セト先輩! 帝国までの道のり、楽しみだなぁ」
「……ああ。足手まといにだけはならないでくれ、王子」
快活に笑いかけるイブンと、それに対してあからさまに不機嫌な生返事をするセト。 二人の少年のやり取りを横目に、エンヴァは静かに馬車の扉を閉めさせた。
「……出しなさい」
御者が鞭を振るい、車輪が砂を噛んで回り始める。 背後で遠ざかっていくレオ王国の城壁。そこには、昨日「不滅の魔女」を演じたあの城壁の面影はもうない。
レオ王国の門を抜け、一行は果てしなく続く砂漠の旅路へと足を踏み出した。 馬車を囲む護衛の列の中でも、ひときわ異彩を放つ影がある。セトよりも二歳年上で、一国の王子として最高峰の英才教育を受けてきたイブンだ。
「エンヴァ様、ご安心を。このイブン、命に代えても貴女をお守りいたします」
レオ王国きっての名馬に跨り、堂々と宣言するイブンの姿は、一幅の絵画のように完成されていた。
砂漠の強烈な太陽を跳ね返す、磨き抜かれた金属製の軽鎧。
その背には、帝国の精鋭騎馬隊すら凌駕する鋭利な長槍が鈍い光を放っている。
幼少期から騎馬、剣、槍と、武の粋を叩き込まれてきた王子の所作には、セトが喉から手が出るほど欲した「伝統と洗練」が宿っていた。
馬車の窓からその颯爽とした姿を忌々しげに睨みつけ、セトは膝の上で拳を握りしめる。
「……エンヴァ様。帝国へ戻りましたら、直ちに馬の訓練を始めます。それから武芸の稽古も、今までの倍に……」
絞り出すようなセトの言葉。
だが、隣に座る主の反応は、少年の焦燥をあざ笑うかのように冷ややかだった。
「あら、それだけかしら? あやつは文字が読めるだけでなく、麗しい詩も書くと聞いているわ。武に偏るばかりでは、教養ある王子には勝てませんわよ。せいぜい励むことね」
エンヴァは窓の外に視線を流したまま、意地悪く唇を吊り上げた。
「…………ッ」
その言葉は、元奴隷として「何も持たず」に育ったセトにとって、最も急所を突く一撃だった。
自分にあるのは、ただ彼女への狂信的な忠誠と、泥の中から這い上がった執念だけだ。
対してイブンは、生まれながらにして武も知も、そして血筋さえも手にしている。
(負けられない。たとえ何を捨ててでも……)
主からの「期待」という名の毒を重く受け止めながら、セトの胸中では、後輩でありながら圧倒的な格上であるイブンへの、暗く、熱いライバル心が業火となって燃え上がっていた。
砂漠の夜は、昼の酷暑が嘘のように凍てつく。
焚き火の爆ぜる音と、時折聞こえる馬のいななき。
静寂が支配する野営地の一角で、セトは「格差」という名の鋭い刃に、その心を切り刻まれていた。
「……風に舞う砂は、貴女の銀髪を焦がれ。沈まぬ太陽は、その黄金の瞳に跪く。ああ、我が愛しき主よ……」
天幕の傍らで、イブンが静かに独白するようにメモ帳へ羽根ペンを走らせていた。
それは、恋人に捧げるための甘美な詩。
王族としての教養に裏打ちされた流麗な言葉が、月の光に照らされた紙の上に、美しい文字となって刻まれていく。
その様子を、岩陰から盗み見ていたセトは、喉の奥からせり上がる苦い熱を必死に飲み下した。
(……読めない)
イブンの指先が紡ぎ出す文字が、何を意味しているのか。
どれほど目を凝らしても、元奴隷のセトには、それが不気味な虫の這い跡のようにしか見えないのだ。
イブンが詠み上げた言葉の意味は、耳から入って脳を焼く。
だが、それを「記録」し、永遠に留める術を、セトは持っていない。
(あいつは……あんなにも軽やかに、エンヴァ様への想いを形にできるのか)
自分にあるのは、ただ胸の中で荒れ狂う、言葉にならない執着だけ。
文字を持たぬ自分。
詩を知らぬ自分。
エンヴァが言った「あやつは詩も書く」という言葉が、呪詛となって頭の中で反響する。
セトは音もなくその場を離れると、野営地から少し離れた暗闇へと駆け込んだ。
抜いた剣が、月光を浴びて冷たく光る。
「……っ、あああああッ!」
声にならない叫び。
セトは、文字を書く代わりに、狂ったように剣を振るった。
流麗な詩を綴る羽根ペンに対抗するように、重い鉄塊で夜の闇を切り裂く。
一撃。
また一撃。
教養のない己への怒り。
何も持たぬ己への絶望。
目から溢れたのは、熱く、情けない涙だった。
「文字なんて……詩なんて……!」
涙を拭うことすら忘れ、セトは泥臭く、獣のように剣を振り回し続ける。
どれほど剣を磨こうと、この無学な手が、主の望む「詩」を綴ることは決してない。
それでも、この手に握った剣だけは、主の敵を屠ることだけはできるはずだ。
泥を噛むような屈辱の中で、セトの振るう剣閃だけが、夜の帳を凄惨に切り裂き続けていた。




